いつもいつもお世話になりっぱなしの蓉さまへ
総ちゃんのシアワセ 秋刀魚で憂鬱♪なの
総ちゃんは元気がありません。
何処が痛いとか、何処が切ないという訳では無いのですが、なんとはなしに身体が重く気だるいのです。
原因は土方さんです。
いつも土方さんが留守の時は一気にキモチが沈んでしまい、一度畳の上に身体を横たえると、もう起こす力すら無くなってしまうのです。
今日も仕事に出かける土方さんを見送り自室に戻ると、ぐったり柱に背をもたらせ座り込んでしまったきり動く事が出来ません。
その足元を、近藤先生のくれたぴよちゃんが、飼い主とは正反対にこまめに歩き回っています。
そんなぴよちゃんをぼんやりと見ながら、そう言えばお昼のご飯ですと、さっき誰かが呼びに来てくれたのを思い出しました。
独りでする食事など、これっぽっちも食べる気が起きませんでしたが、行かなければ呼びに来てくれた人に迷惑が掛かるでしょう。
遣る瀬無さに深い溜息をついた途端、今日のお昼は脂の乗った秋刀魚だと、これ又誰かが嬉しそうに言っていたのをふと思い出しました。
秋刀魚―――
魚とのお膳の上でのご対面は、一生縁を持ちたく無い総ちゃんには辛いお昼ご飯です。
おまけに脂がのっているとなると・・・
途端に胃の腑がもたれて来る感覚に、総ちゃんはぷるぷると頭を振りました。
「・・・猫の土方さんを探さなくっちゃ」
世の中には、役割分担というものがあります。
総ちゃんは猫の土方さんに秋刀魚を食べて貰おうと、重い身体を叱咤し立ち上がろうとしました。
と、その時。
「総司はいるのかい?」
障子に映った影の、厳(いかめ)しさとは似つかわない、穏やかな声が掛かりました。
「・・・あっ」
総ちゃんが慌てて其方を振り向くのと、近藤先生が部屋の畳を踏みしめて入って来るのが一緒でした。
「昼飯を、もう皆は疾うに食べてしまったよ。あとはお前だけだと賄い方が言っていたが」
近藤先生は少しだけ、怖い顔を向けました。
そうなのです。
小さな頃から自分が手塩に掛けて育てて来た総ちゃんは、それはそれは素直にすくすく育ってくれたのですが、その近藤先生の頭を今悩ませているのが、愛玩動物を見る目と、あとひとつは、これはもうずっと昔から頭痛の種なのですが、人並み外れて少ない食事の量にあったのです。
毎日人の半分の量のご飯を、人の倍の時を掛けて終え、それでも魚や猪肉が膳にある時は、項垂れたまま箸すらつけようとせず、皆が食べ終え誰も居なくなっても、ちんまりと寂しげに座る総ちゃんの薄い背を、近藤先生は幾度涙を堪えて見ぬ振りをしてきた事でしょう。
その姿を思い出すだに、胸掻き毟られるような辛さが蘇ります。
それでもこうして厳しい顔をして諭さなければ、総ちゃんはいつまでたっても、か細い脆弱な身体のままで、誰もが畏怖する自分のような屈強な漢(おとこ)には成り得ないのです。
近藤先生は目の奥を熱くするものを一度天井を仰いで堪えると、ともすれば情に流されそうになる自分を戒めました。
「今日は旨い秋刀魚だったぞ。旬のものだけあって、脂が乗った肉厚で、あれを食べればきっとお前も元気が出る。何しろ頭から尻尾までこの位の・・・」
「・・・あの・・」
近藤先生の身振り手振りの説明の途中で、小さな声がしました。
広げた手の幅で、秋刀魚の大きさを示そうとしていた近藤先生が、あまりに覇気の無い声に、訝しそうに総ちゃんを見ました。
「・・・ご飯、食べたくないのです」
つい出てしまった弱気は、父とも代わらぬ近藤先生への甘えでした。
「何を言う、飯を食べなければ気組みも萎えるぞ」
間髪を置かずに発せられた叱責に、俯いた総ちゃんの肩が縮こまります。
「・・・それとも、具合でも悪いのか?」
よく見ればあまりに元気の無い総ちゃんに、流石に近藤先生も尋常では無いと気付き覗き込みました。
「そう言えば顔の色が悪い」
元々蒼みがかった総ちゃんの白い頬ですが、今日は更に色が無いように思えます。
「何処か痛いのか?」
俄に声を落として案じる近藤先生に、総ちゃんは微かに首を振りました。
「何処も痛くは無いのです・・」
まさかこれから対面する秋刀魚の匂いや、少しだけ口に含んだ感触を思い出すだけで眩暈すらしますとは言えず、応える声も益々小さくなります。
けれどもくもくと立つ白い煙に咽びながら、七輪を扇ぐ手を休めず焼いてくれた賄い方さんの苦労を思うと、総ちゃんもあからさまに秋刀魚が苦手ですと言い切る事とはできません。
何と言い訳したら良いのか思いあぐねて唇は閉ざされ、俯いた姿は生気の欠片すらありません。
そんな様子を目の当たりにして、近藤先生も慌ててしまいました。
「いやいや、それ程辛いのならば何も無理に食べる事は無い。だがなまじ今日の膳の主役を飾っただけに、秋刀魚にも矜持と言うものもあるだろう。お前に一口も相手にされず、つれなくされたら、悔しさのあまり成仏できんかもしれない。ここはひとつ秋刀魚の顔を立て、賄い方に行って箸をつける真似だけでもしてやると云うのも、叉心遣いというものだ」
流石に人を束ねるのに相応しい懐の大きさを垣間見せ、近藤先生は、何れは天然理心流を譲るべき後継者の総ちゃんに、得々と人の道を諭します。
それに項垂れたまま、総ちゃんは諦めたように微かに頷きました。
「・・・お昼、・・食べてきます」
ぽつんと寂しそうに呟き、のろのろと立ち上がり、重い足を引き摺るようにして賄い方に向かう頼りない背を見送りながら、近藤先生の瞼の裏にはひとつの情景が浮かびます。
きっと総ちゃんは誰もいない広い座敷の片隅で、細い肩を落としてお膳と対面するのでしょう。
そんな姿を思うだに、こみ上げる切なさは、胸を張り裂く勢いで近藤先生を苦しめます。
が、これとていずれは上に立つ者の、乗り越えねばならない修行の道なのです。
それでも今から直面しなければならない辛苦に、煩悶の時を送るであろう愛弟子を思う目には俄かに滲むものがあります。
近藤先生は一度瞼を閉じ、溢れ出しそうになるそれを、ぐっと拳を握り締めて堪えました。
「・・・あんなぁ」
釣瓶落しの秋の日の、律儀にすとんと落ちる間際の茜色の陽が、米を研ぐ手を休め、溜息交じりで漏らした声の主の影を、長く長く勝手場の土間へと伸ばしています。
「仕方があらへんやろ」
井戸で洗った茄子を、両手で抱えねばとても持ちきれない大きな笊に一杯に乗せて、まだ何も言っていないのに即座に返った応えの声も、そうは嗜めたものの、やはり戸惑いを隠せません。
「けど、昼からずっとやで。あないにしょんぼりした姿見せられたら、もう夕飯なんですけど其処退(の)いてもらえまへんかぁ、なんて言えんわ・・・」
「そやなぁ・・。いっそ目ぇ瞑って、これは魚と違う、好物の饅頭や、そう思おて呑み込んだらどうですやろ・・・言うてもあかんやろなぁ」
「・・・秋刀魚が饅頭なぁ・・・。ちょっとしんどいと違うかぁ」
少しだけ声が低くなったのは、邪魔ですと、一応は自分達よりも上の者に言えぬ身の負い目です。
そして二人は、しょんぼりと座る薄っぺらの背を見て、心底困ったように深い深い溜息をつきました。
そうなのです。
昼餉の膳も大方片付き、誰も居なくなった頃漸くやって来た総ちゃんは、声をかけるのも躊躇ってしまう程憔悴しきった様子で膳の前に端座すると、皿の上の秋刀魚を見て更に項垂れ、もうそろそろ日も落ちそうだと云うのに、未だお箸も持とうとしないのです。
すでに賄い方では夕餉の仕度も佳境に入りつつあるのですが、何しろ昼から此方、お膳の秋刀魚に初っ端から絶大なる優勢を取られたきり、手も足も出せず動けない総ちゃんがいるので、それを差し置いて膳を並べ始める事はできません。
いえいえそれだけでは無く、更に困った問題は、もうひとつ別の方向にあったのです。
それは・・・・
賄い方の二人がちらりと視線を柱に移すと、其処には隠れているつもりなのでしょうが、陰を大きくはみ出して、膳を前にした総ちゃんを見守る姿がひとつ。
誰と名乗らなくとも、後から見ても分かる頑丈な顎は、近藤先生以外の何者でもありません。
「せめて局長だけでも去(い)んでくれたら・・」
泣き言と云うよりは、もう懇願に近い情け無い調子の呟きが、休めていた手を動かし米を研ぎ始めた賄い方さんから漏れました。
「それなんや・・・。そしたら、沖田はんには『今日の処はこの位にして、叉明日秋刀魚と勝負したらどうですやろ』言えるんやけど・・」
「明日になったら腐ってしまうがな」
「阿呆、それだからええんや。明日になったら『秋刀魚は昨夜(ゆんべ)の内に腐ってしまいました、ほんま無念な事ですやろうけど、勝負は来年の秋に持ち越したらどうですか』って言えるやろ?そしたら流石に諦めるやろ」
「そりゃええ思いつきやなぁ」
「そやろ?」
我が意を得たりと身を乗り出した途端、持っている笊が揺れ、奇麗に山になっていた茄子がひとつ転がり落ちました。
それに慌てて身を屈めて、
「せやから局長さえどっか行ってくれたら、うちら心置きのう夕飯の仕度ができるんや」
ころころと転がる茄子を追って拾いながら、賄い方の隊士さんは叶わぬ愚痴を漏らしました。
「けど・・・なんやそれが、いっとう難しい事のように思えるわ」
すっかり米を研ぐ事など忘れてしまい、もう一人の隊士さんはちらりと近藤先生に視線を送ると、今度は心底気落ちしたように力無く呟きました。
「なぁ・・・」
「なんや」
虚ろに掛けられた声に、やっと茄子を捕まえて、まだ屈んだままで応えた声がくぐもります。
「うちらこのまま今日の夕飯の仕度できなんだら、切腹やろか・・・」
これには驚いて振り向いた隊士さんの咽喉が、音も立てずに上下しました。
「・・・切腹?」
「せや。飯作らなんだら、士道不覚悟ちゅうことになるんとちゃうやろか。賄い方の仕事は飯作る事やろ?せやからそれが出来なんだら、やっぱり不覚悟と違うやろか・・・」
「茄子切らんで、腹切るんかいな・・・」
二人は其処に足を縫いとめられたように立ち竦んだまま、何の変哲もない日常の狭間に、思いもかけない闇の淵がぽっかりと口を開けて手招きしているこの世の恐ろしさをまざまざと知り、冷たい汗の吹き出る互いの顔を凝視してしまいました。
と、その時。
秋刀魚との果て無き戦いに挑む総ちゃんと、それを息すら殺すように柱の陰から見守る近藤先生と・・・
切腹か、はたまた総ちゃんを押しのけて夕飯の仕度かの選択で、際まで追い詰められた二人と・・・
そんな人間模様が織り成す、張り詰めた琴線のような静寂を破り、これまた遠慮という言葉の欠片も見つからない乱暴な足音が聞こえて来ました。
思わず土間に居た二人が其方の方角に視線を向けると、大きな影の主はずんずん此方に近づいて来ます。
やがて逆光で分かり辛かった顔かたちが視界の中ではっきりすると、二人はごくんと唾を呑み込みました。
それは―――
紛れも無く、原田佐之助その人の姿だったのです。
そして賄い方の二人は、今日の市中巡察の夜番は原田さんの十番隊で、その人数分だけ他よりも早くに夕餉の仕度をして置かなければならなかった事にはたと気付き、雷(いかずち)に頭のてっぺんからつま先まで貫かれた様に、一瞬にして硬直してしまいました。
何しろ十番隊の隊士さんたちは、原田さんを筆頭に、食べる事に寄せる関心が尋常では無いのです。
きっとそろそろ夕飯が出来上がる頃だろうと、それはそれは楽しみに原田さんはやって来たに相違ありません。
それが総ちゃんに気を取られていて、実は何の準備も出来てはいませんとは、口が裂けても言えない真実です。
と・・・廊下の先に視線を縫いとめたまま、動く事すらできず、どうにも止め用の無い背筋の震えが遂に二人の膝まで伝わった時―――
大きな足音は、その手前でつと止まりました。
「近藤さん、あんた何やってんだ?」
辺りを憚らない大きな声を、近藤先生は咄嗟に自分の手の平を原田さんの口に当てて塞ぎました。
突然我が身に起こった出来事が分からず、原田さんは暫し状況判断に時を費やしましたが、やがて視線をずらし、それがいつも近藤先生の口の中を出入りしている拳骨だと知るや、
「こなくそっ」
罵声と共に、怒涛の勢いで塞いでいる手を外しました。
「静かにせいっ」
その怒号を、これまた近藤先生の、腹の底から響くような太い声が断ちました。
「黙っていられるかっ、俺はあんたのその手を喰わされるところだったんだぞっ。俺にも堪忍というものがあるっ」
原田さんの怒りは収まるところを知りません。
確かに、一度は己の腹に直接刃を喰わせた事もある自分です。
げてもの喰いには自信すらあります。
それでも口にするものは選んでいると、自負する原田さんです。
幾らなんでも近藤先生の拳骨まで喰ったなどと噂になれば、悪食の矜持に係わる由々しき問題です。
「喰わせるのは自分の口の中だけで宜しくやってくれっ」
「大声で騒ぐなっ、総司が気づいてしまうだろうっ」
原田さんも思わず言葉を止める大音声が、賄いの二人のいる土間まで響き渡りました。
「・・・これで気付かん方が不思議や」
ぽつんと漏れた呟きが、茜色の空から聞こえる烏の鳴き声にかき消されました。
けれど・・・・
実はその不思議が、総ちゃんの身に現になっていたのは、まだ誰も知らない事だったのです。
「お前には秋刀魚を食おうと、ただただそれだけに必死の総司の心が分からんのかっ」
「秋刀魚って・・・あんた、あれは昼飯の話だろう?」
流石に先程までの憤りの勢いを削ぐ不可思議な話に、原田さんが怪訝に近藤先生を見ました。
「そうだ、昼飯だ。だが総司は未だ、秋刀魚と立ち合っているのだ」
近藤先生は長い戦いから戻らず、膳と対峙したままぴくりとも動かない後姿へと、視線を移す事で原田さんを促しました。
「総司は・・・総司は今、己の試練と戦っているのだ」
語尾が震えるのは、視界を滲ませ邪魔するものの所為です。
近藤先生はそれをぎりぎりの際で堪え、夕暮れに染まる寂しげな薄い背を眼に刻み込みました。
ところが―――
感傷に浸っているその隙を突いて、原田さんは近藤先生が止める間もなく、ずかずかと総ちゃんに歩み寄ったのです。
ですが総ちゃんは、大股で、堂々畳を踏み近づく気配にも振り向きません。
普段ならば考えられない状況に、原田さんも首を捻ります。
「総司っ」
すぐ脇に立って呼びかけてみても、反応がありません。
「おいっ」
流石に尋常ではないと気付いた原田さんが片膝つき、総ちゃんの肩を鷲掴んで揺すると、何と薄っぺらの身体はその反動をおもむろに受け、いとも容易く後ろに傾いでしまったのです。
「おいっ、総司っ」
寸での処で支えられ何とかそのまま倒れこむのだけは免れたのですが、総ちゃんは瞳を見開いたまま、原田さんの腕の中でぐったりと正体がありません。
「総司っ」
駆け寄った近藤先生も、慌てて呼びかけます。
屯所中に響き渡るような傍迷惑な大声の和音に、総ちゃんの瞳がぼんやりと覗き込んでいる二人の姿の方へと動きました。
「・・・さんま」
やがて微かに唇が動き、漏れた第一声は其れでした。
そうしてのろのろと支えてくれている腕から身体を起して端座しなおすと、今一度、秋刀魚に虚ろな視線を据えました。
両脇の二人などもう視界の内に無いような総ちゃんの様子に、原田さんと近藤先生は愕然と顔を見合わせました。
どうやら総ちゃんは秋刀魚との長い格闘のあまり精魂尽き果て、遂には正気まで逸してしまったようなのです。
「・・・総司」
呼びかけにも応えず、まだ魂だけは戦いの中にいる総ちゃんの壮絶な姿に、近藤先生の目尻にどうしようも無く溜まるものがあります。
ところが又もその近藤先生の心情など何処吹く風の原田さんが、あっと言う間にお膳から秋刀魚の乗った皿を取り上げてしまいました。
「・・・あっ」
今の今まで全神経を注いで対峙して来た敵が視界から不意に消え、その衝撃が魂を現に戻したようで、総ちゃんが小さな叫び声と共に、原田さんを見上げました。
「総司、この勝負俺が預かる」
片手の掌の上に皿を乗せ、原田さんは厳かに言い渡しました。
「駄目なのですっ」
ですが総ちゃんも必死にかぶりを振り、悲鳴に近い声でその申し出を拒みます。
確かに此処で原田さんに秋刀魚との勝負を預ければ、今自分が呻吟している修羅からは解き放たれます。
けれどそれでは鼻をつく匂いを必死に堪え、丸い白い目と視線が合えば気が遠くなりそうな感覚に冷たい汗を額に浮かべて耐え、此処まで秋刀魚と戦ってきた自分の頑張りはどうなるのでしょう?
そうなのです・・・・
総ちゃんにも矜持というものが、一応はあったのです。
そして負ける事を潔しとせず首を振りつづける愛弟子の成長した姿を見、近藤先生は滴るものをどうにも出来ません。
「だが総司、これ以上の勝負は卑怯だ」
「ひきょう・・・?」
総ちゃんが不思議そうに聞き返すと、原田さんは大きく頷きました。
「お前が秋刀魚とどうしても勝負をつけたい気持ちは分かる。秋刀魚とてそれは同じだろう。だがこいつは最早喰われるに最高の時を逸している」
「・・・でも」
「まず聞け」
原田さんは、食い下がろうとする総ちゃんを制しました。
「こいつも膳に上った時はまだ焼かれたばかりで、身から出た脂が、そりゃぁ旨そうに全身を光らせていた。焦げた部分なんざ香ばしいとさえ思わせたもんだ。それがこうしてお前と長い勝負の時を費やし・・・・」
原田さんはそこでつと、視線を左手にある皿の上に向けました。
「今じゃこんなに冷たくなりやがって、ふっくらと焼き上がり、昼飯の主役たる貫禄など見る影も無い。膳に乗って運ばれて来た時の、あの賞賛のどよめきを一身に浴びた姿が嘘のようだ・・・こいつはなぁ、散り際を逸したのよ」
語尾が不意に沈み、見れば秋刀魚を見つめる原田さんの眸にも光るものがあります。
「・・・そうさ。花すら自分で身を散らせるものを、てめぇの始末ひとつつけられねぇ秋刀魚の悔しさが、俺には分るのよ・・・」
静かに淡々と語る横顔が、一瞬だけ辛そうに歪みました。
そして次に原田さんは、呆然と聞き入る総ちゃんと近藤先生に、ゆっくりと視線を向けました。
「散り際を逸した秋刀魚の気持ちが、俺には切ないのさ」
それが切腹し損ねたお腹の傷の事を言っているのだとすぐに察せられ、総ちゃんは弾かれたように原田さんを見上げました。
その総ちゃんに穏やかな眼差しを向けながら、原田さんは続けます。
「総司、もし今お前がこいつを口にする事が出来ても、こいつはもう本来の味を持っちゃぁいねぇ。お前も苦しいだろうが、こいつはお前に喰われて負けた上に、更に不味いと烙印された悔しさに、成仏もできずに地団太を踏むことだろう。・・・死に損ねと、指差されるのは俺ひとりで十分だ・・・。なぁ、総司。ここはひとつ、俺に免じて勝負は引き分けと云う事にしてやっちゃくれめぇか、この通りだ」
そうして原田さんは、総ちゃんに向かって、秋刀魚の代わりにゆっくりと頭を下げました。
その頑強な厚い肩に、総ちゃんは慌ててにじり寄り触れました。
「原田さん、原田さん」
必死の呼びかけに、深く下げていた頭がほんの少し上がり、伏せた眸だけが動き、総ちゃんをちらりと覗き見しました。
「・・・あの・・秋刀魚を食べるの、やめます」
「本当か?」
今度は顔もくるりと回して、原田さんは確かめます。
声には先ほどまでの湿った調子は、もう何処を探してもありません。
けれど総ちゃんは、潤んだ瞳でこくこくと幾度も頷きました。
「あのね・・・、秋刀魚は、今度食べます・・」
漢(おとこ)原田佐之助の熱い情に触れ、応えた総ちゃんの頬に、ひとつ零れ落ちるものがありました。
「総司も秋刀魚の気持ちが分るようになったか・・」
後ろで近藤先生が、ぐすっと鼻をすする音が聞こえます。
「すまねぇな・・・」
視線を据え、しんみりと、染み入るような低い声音で今一度頭を下げる原田さんに、総ちゃんは手の甲で溢れるものを拭いながら、又ぷるぷるとかぶりを振りました。
「・・・こいつも、きっとあの世で喜んでいるぜ」
原田さんの秋刀魚を見る目には、この世とあの世ではあるけれど、共に散り際を逸してしまったものへの哀しい労りが籠められていました。
けれど秋刀魚は相変わらず世俗の事など知らぬ風に、口も目もぽっかり開けて皿の上に収まっています。
その姿をちょっとだけ見て、すぐに慌てて総ちゃんは堅く目を瞑りました。
そうしてできれば二度と秋刀魚とは立ち合いませんようにと、そんな風に弱気に思った自分の正直な心を一生懸命叱咤しました。
そしてこちらも叉―――
「・・・夕飯の仕度、間に合いそうやな」
一部始終を、固唾を呑んで土間から見ていた賄いの隊士さんが、安堵の呟きを漏らしました。
「うちら腹切らずに済んだんやなぁ・・・」
強くなった西日に目を細め、瀬戸際で此岸に踏みとどまる事が出来た僥倖が未だ信じられず、茄子の笊を持った隊士さんもぼんやりと応えました。
「お前等、新しい顔だな」
結局―――
昼を抜いてしまった代わりに馬頭饅頭を食べれば良いと云う近藤先生に連れられて、総ちゃんの薄っぺらの背が見えなくなると、原田さんはやおら勝手場まで来て、土間に立ち竦む二人に声を掛けました。
「へぇ、十日ほど前から賄いやってます」
茄子の笊を持った方が応えました。
「それじゃ知らんだろうが・・・、ひとつここでの絶対の決まりごとを教えておく」
原田さんはさももったいぶって、上がり框に座り込むと、手で此方に来い、という仕草をして二人を呼び寄せました。
「いいか、総司の膳にはこの先一切、魚、肉の類は乗せるな」
「・・・へぇ」
「お前達の前の賄い方は、夕飯の膳に魚を乗せた日、箸すらつけられずにちんまりと座り込んだあいつの膳だけが下げられず一晩付き合い、その翌日は朝飯の仕度が出来ずに、味噌汁用に買い置いてあったあさりを全部駄目にしてお役御免を願い出た」
ぼそぼそと低い声で、新撰組の極秘裏を打ち明ける原田さんの目には厳しい光があります。
ふたりは同時に、ごくりと生唾を呑み込みました。
「更にその前の賄い方は、近藤さんが貰ってきた河豚を刺身にした。なまじ近藤さんが調達して来たってんで、総司も必死に食おうとしたんだが、結局手も足も出せず、膳の前で一夜を明かした。挙句風邪を引いて熱を出しちまったと来た。作った奴は責任を感じ、その後一切総司の膳には生物は乗せないように気を遣ったんだが、これが中々難しく、材料を選びあぐねて、その内に何も作れなくなっちまった。・・・神経の方が先に参っいっちまったんだろうなぁ。流石に見かねた近藤さんがそっと裏口から逃したてやったが・・・」
その時を思い出したのか、原田さんの顔にも苦渋の色が宿ります。
「総司も決して悪気はねぇんだよ。素直な奴だからな。だがな、一度出されたもんは喰わないと作ったもんに悪いと思いこんでる。なまじそれがあいつの優しい心根から来ているだけに、周りが喰うのをやめろとも言えず、始末が悪いのよ。・・・おまけにあれで見かけによらず存外に頑固と来ている。そのたんびにこうして俺が総司を説得して場を収めるのが、今じゃ決まりのようになっちまっている。それでなきゃ、皆次の飯にありつけねぇからなぁ・・・」
困ったもんだと、ふりふりと頭を振りながら、溜息をついて語る原田さんを、二人の賄いさんはもう一歩も動けず凝視しています。
「おっと、手間取らせて悪かったな、夕飯の仕度に戻ってくれ」
はたと気付いたように、原田さんは強張った顔の二人に、まるで何事も無かったかのように快活に笑いかけました。
今日も―――
あの場を見事に仕切った己の裁量に満足し、懐手に機嫌良く去ってゆく原田さんの背を見ながら、賄い方の二人は体の一番芯から脱力したように大きな溜息を同時につきました。
「・・・沖田はんの膳に、魚や肉さえ乗せんかったらええんや」
「そやそや、それさえ気ぃつければ、うちら何も心配せずに飯の仕度ができるんや」
この先の苦労を案ずるよりも、とりあえず手近にぶら下がっている安堵を取って、ひとりは再び米を研ぎ始め、もうひとりは茄子の積まれた笊を抱え上げました。
そうしてさっきまであった事はきっと忘れた方が良いのだと、其処から災いを追い払うように軽く頭を振りました。
「あ、鍋そろそろええんと違うか?」
座敷に膳を用意する手をふと止めて、声が掛かりました。
「そやな、ほな持って来るわ」
ご飯の入ったおひつを手にしていた隊士さんがそれに応えました。
そうなのです。
今晩の夕食は嫁に食わせるなと云う程に美味しい秋茄子を焼いたものと、更に豪華に寄せ鍋だったのです。
「茸も仰山入れたし、今日の主役は誰が何と云うても鍋やな」
土間の竈の上から二人で運んできた大きな鍋を、汁を零さぬよう気をつけて座敷の真中に鎮座させると、ふたりは額に滲んだ汗を拭いました。
「けど鍋ってのは便利でええなぁ。何しろ残りもん入れたかてそれが出汁になるしなぁ、ほんま助かるわ」
「そやそや、残りもんかて・・・」
と言いかけた隊士さんの顔が、そのまま時を止めてしまったように、ふと動かなくなりました。
「どないしたん?」
もうひとりが不審に覗き込むと、血の色が一気に引いた蒼白な顔がゆっくりと振り向きました。
「・・・なぁ。昼に焼き切れずに残った秋刀魚、この鍋の中に入れんかったか?」
「あっ・・・」
問われた隊士さんは、悲鳴のような叫びを上げました。
「鍋に入れてしもうたら、秋刀魚の匂いや味が、茸やら白菜やら・・全部に染み渡るなぁ・・・」
語る声が、虚ろに木霊します。
「沖田はん、今夜は鍋の前で一晩過ごすんやろか・・・ほんでうち等も明日の味噌汁の蜆、駄目にするんやろか・・」
「秋刀魚との勝負、持ち越したばかりやしなぁ・・・二度目は譲らんやろ」
問う顔も、応える顔も、泣き笑いのようにくしゃりと歪みました。
凝り固まって動けず互いを凝視する二人に、夕餉の膳に向かう楽しそうな足音が幾つも幾つも聞えてきます。
それが容赦無く近づいて・・・
「おお、今日は鍋か」
賄い方の心得を、ついさっきとくと諭してくれた原田さんの大きな大きな声が、二人の耳に、まるで閻魔さまの裁きのように幾重にも和して響きました。
おあとがよろしいようで・・・とほほ
鍋に秋刀魚入れたら絶対生臭いです(−−;)
瑠璃の文庫
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