春  情




「堀部殿に抱いて頂きたいと、そう言うております」

春と呼ぶにはまだ遠く、凍てる冬の風は容赦無く肌に突き刺す。
十五歳という澱むことを知らぬ眸に映る自分は、一体どのような人間としてこの少年の脳裏にまで届いているのだろう。
そんな事を思いながら、堀部安兵衛は目の前で緊張のあまりひどく体を固くしている大石主税を見た。

「確かにそれがしは大石御家老様より主税殿の身柄を託された身。が、愚弄なさるおつもりならば、この堀部、ただ今よりこのお役目を降りさせて頂く所存」
堀部安兵衛の視線は鋭い。
が、それに怯む事無く、主税が更に一歩前に進み出た。
「愚弄するつもりなど、露程もありません。私は最後の願いとして堀部殿に・・・」
今一度抱いて欲しいと言葉にすることを、流石に少年は躊躇っているようだった。
先ほどの言葉が羞恥の限界だったと見えて、主税のまだ細い首筋から頬までが、みるみる朱の色に染まってゆく。

「主税殿は御自分の言っていることの意味をお分かりか」
少年の感情の起伏を宥めるように、堀部は幾分柔らかな言葉で語りかけた。
「存じております」
それに間髪をおかずに、主税が正面切って堀部を見上げて応えた。
「堀部殿にずっと懸想していた私を、貴方はどのように見られるのか、それだけが怖くて今まで言えずにいました。けれど三日前にこの身が殿の元へと参ると決まったとき、私はどのように侮られてもいい、堀部殿に一度だけ自分の気持ちを正直に伝えたかった」
主税は先走る感情のためか、ときおり詰まりそうになりながら、それでも息継ぐ間も惜しむように一気に語った。
その少年の真摯な眼差しを受けて、堀部は黙した。

 
思えば二十歳近くも歳の違うこの少年を、そのような対象としてみたことはなかった。
討ち入りのあと細川家と松平家に別々にお預けになる身を憂える少年の父、家老大石内蔵助に我が子の身を託されてからは、主税にはまだ羽ばたくに危うい雛鳥を慈しむような感情をもって今まで来た。
それが主税にとっては自分は色恋の対象として捉えられていたとは・・・堀部は内心驚愕の思いでいる。

決して憎い者ではない。
むしろ自分にとっては愛しい存在に近い。
抱けと云われれば、心が動かぬわけが無い。
が、堀部のなかで主税を抱くことは、どこか躊躇うものがあった。

討ち入りからこの三月、男ばかりの禁足のなかで、互いの欲求の捌け口を求めて、誰かと体を重ね合うことは幾たびかあった。
だが主税のように真っ直ぐに自分を求めて来られたのは初めてだった。
あと僅かで本懐成就を報告に、あの世の主君の元に逝くことができる。
それを思えば少年の身も魂も穢すことなく、このままでいさせてやりたい。
堀部の中にそんな似合わぬ感傷が生まれている。


「主税殿の身を穢せよとのお沙汰は堀部、御家老より受けてはおりませぬ。今の主税殿の言葉、それがしは聞かぬことと致そう」
「・・・私ではお気に召されぬかっ」
背をむける堀部の足を、後ろから主税の声が押し留めた。
それは最早悲鳴というのに近く、これまで十五年のささやかな生涯で培って来た、矜持も恥も、何もかもをかなぐりすてた主税の叫びだった。
ゆっくりと確かめるように振り向いた堀部の視界に、先ほど己の欲望を言葉にし、羞恥に頬を染めていた朱の色は既にどこにもなく、悲壮なまでに蒼い主税の顔があった。

「どうしてそれほどまでに、それがしに執着なさる」
「さきほど申し上げたとおり」
「信じぬと申したならば?」
「信じる信じないは、堀部殿のご勝手。もしも私の願いを戯言と笑われるのならばそれでも良いと思うております。けれど・・・」
「けれど?」
主税はひとつ息を呑んで、堀部を真っ向から見据えた。
「堀部殿にとって酔狂でも良いのです。ほんの一時の気紛れでも、それでも良いのです。私はこの世にあって堀部殿に抱いて頂きたい。大石主税は、生きて堀部殿を好いたのだと、その証が欲しいのです」

折から射し込む一条の陽射しの明るさは、来るべき春を十分予感させるに相応しい。
その力強さゆえか、或いは少年の曲がることを知らないひたむきな激しさゆえか、堀部は眩しげに目を細めた。


「あちらで御家老にお会いしたとき、主税殿にはその覚悟ができておありか」
「もとより」
無理やり作った笑い顔だった。
だがその中に、この少年の決して弛まぬ強い決意があった。
「主税は殿のお恨みを果たす前夜元服し、大人になりました。これは私がこの世に与えられた生涯で、後にも先にも一度切りと・・・そう初めて自分で決めたことです。父にも母にも絶えて後ろめたいことなどありませぬ」
ぎこちない笑みが、やがて潔いほどに、まだ幼さを残す頬に広がった。




この屋敷の裏手にある、日頃は庭の手入れに必要な器具を納めてある小屋の粗末な板塀は、隙間風と共に天道の陽を射し込ませる。

「・・・あっ」
脇に手を滑らせただけで、主税は固く目を瞑って、己のものとは違う温もりに小さな声を上げた。
身に着けていたものを、褥というにはささやかな敷物にして曝させた少年の伸びやかな裸体は、明るすぎる陽の元で些かの臆することもなく、光を跳ね返ししなやかにうねる。
それはむしろ闇の中で密やかに交わされる秘め事よりも、激しく猛る性の解放を堀部に迫る。

「主税殿・・目を開けなされ」
耳朶に囁かれて躊躇うように開いた切れ長の目にある眸が、堀部を捉えてよいものか、うつろに視線を彷徨わせた。
「辛い結果だけに終わるかもやしれぬ・・・それでも良いと言われるか」
共に修羅に堕ちる前の最後の問い掛けに、主税は言葉ではなく、堀部の眸を見据えるようにして頷いた。
「どのような結果に行き着こうと・・・すべては主税が選んだこと。後悔など如何程も・・・」
組み敷かれたまま、小さく笑った顔が痛々しかった。
その先を続けさせれる事無く、堀部のそれが主税の唇を奪った。
紡ぐ言葉も、織る声も・・・全ては堀部が摘み取った。


啄ばむような口付けを喉元から、まだ薄い肩へと繰り返し、繰り返し、やがて胸にある右の突起に堀部の唇が触れると、堪えきれぬように主税の身体が仰け反った。
「・・・あっ・・あぁ」
それを見止めて舌で丹念に攻めあげると、甘やかな吐息とともに、噛んだ手の甲の砦もむなしく時折切ない声が漏れる。
まだ唯一解かれてはいない其処に指を這わせると、無意識に上にある堀部を押し返そうとする。
それを許さず、堀部は己の胸で主税を押さえつけ、一気に下帯を剥いだ。
視界に現れた少年の化身は、丹念な愛撫によって、すでに隠し様の無い欲情の兆しを呈していた。
躊躇い無く触れると、主税の困惑は頂点に達したようで、今度こそ堀部の下から逃れようと身を捩った。
下肢を閉じようする抗いは功を成さず、堀部が素早く己の身を膝と膝の間に滑りこませると、それが主税の羞恥の限界らしかった。

「・・・堀部・・どの」
懇願するように見上げる眸に黙って首を振ると、更に堀部は露になった少年のそれを掌に包み込むように握った。
初めて自分以外の人間が支配する感触に、主税の頬が鮮やかな紅に染まった。
拘束され、自由を奪われ、しかし身体の中心から湧き上がる、かつて経験のした事の無い身悶えるような感覚は、主税の全ての思考を止めるに十分だった。
微かに触れるまどろこしい指の動きは、だが確実に主税の脳髄にまで達する震えをもたらす。
次第に堀部の手指を濡らし始めている己の浅ましさに、主税は今一度目を瞑った。
もう、堀部の顔をみることはできない。

「・・・あ」
絶え間なく追い詰めていた愛撫の手が、一瞬にして離れた。
我知らず声を漏らしたのは、それが解放からの安堵だったのか、貪欲に更なる悦びを求める不満だったのか、主税にはそれすら分からない。
だが次の瞬間に、主税は渾身の力で堀部から逃れようと身を捩った。
ざらりとした舌に嬲(なぶ)られる感触に、主税は抗う言葉も紡げずにただ喘いだ。
堀部の口に含まれたそれからは、先程とは比ではない刺激が、主税の身体の内を雷(いかずち)のように駆け抜けてゆく。

「・・堀部どの、・・堀部どのっ」
ただ首を振り、快楽からなのか羞恥からなのかどちらともつかぬ雫を眦から零れさせ、厚みの無い胸を仰け反らせて、主税は自分を蹂躙する男の名を呼び続ける。
ふいに腰が浮いた新たな感覚に慄(おのの)いたときに、更に後ろへの異なるものの侵入が主税を現(うつつ)に戻した。
「・・ひっ」
己の体内に始めて受け入れるものは、つい今しがたまで悦びだけを与えていた堀部の指だった。
が、それは今度は激しい痛みをもって主税を苛む。
堀部は指を締め付け拒む主税の其処を宥めるように、口に含んでいた少年を、今度は唇と舌先で愛撫し始めた。
吸われ這われ、その度に吐息し、少しずつ堀部を許す主税の肌が上気してゆく。
「あっ・・・あっ・・ああっ」
強く先端を吸い上げ、緩み始めた内の一箇所を激しく突いた刹那、身体中の肉といい骨といい流れる血といい、すべてをそこで固めてしまったような痙攣が主税の全身を襲った。
やがて迸る少年の青草のような欲情の証を、堀部は己の口腔で受け止めた。


脱力して胸を大きく上下させて荒い息を吐き、主税はまだ眸を開けない。
玉のような汗を浮かせている聡明そうな額に、少年の身体から吐き出された白い雫を喉元までも滴らせながら、堀部は静かに唇を落とした。
「・・・これで終わりにしなされ」
低く囁く声音に、主税の眸が開いた。
「まだ・・・、まだ私は堀部殿を知りません」
怒りにも似た激しさで、主税は堀部を見上げた。
「堀部殿こそ、主税を愚弄なされる。主税は堀部殿が欲しいのです・・・誰よりも、いえ、誰にも渡したくはないのです」

未だ整わない息の下から強く言葉を紡ぐ少年を、堀部はある種不思議な思いで見ている。
大石主税という少年は、行儀の良い、素直な子供だと思っていた。
共に主君の仇を討ちはしたが、僅か十五の花を散らすことを、堀部は心のどこかで哀れにも似た感情が先走るのを止められずにいた。
だが、自分は一度たりとも一人の人間として、この少年を見たことがあったのだろうか。
今自分に真摯な怒りを湛えた眼差しを向ける主税は、意志を持った一己の人間だった。
主税の最初で最後の決め事は、自分に身も心も捧げることだと言い切った。
それを痛ましい程に分かってやりながら、尚躊躇するのは、自分が主税の想いに応えてやることができるか否か、堀部にもまだ分からぬからだった。
だが主税の想いは、堀部のそんな戸惑いを遥かに凌駕するほどに強い。

「抱いて下され・・・」
懇願は、そのまま命じる言葉だった。
「辛いぞ。それに耐えることができねば、残るのは後悔だけだ」
「もとより・・もしも主税が堪えることができぬと、そう堀部殿が判断されたならば、どうかこの喉首をその手で締めて下され。主税は堀部殿を我が身に抱いてあの世に渡りたい」
悲愴な覚悟を哀しいほどに澄んだ眸でいい、主税はもう何も言わず両の手で堀部の首筋に縋りついた。

膝の裏に手を回され、高く抱え上げられた下肢は全てを堀部に曝し、恥じ入る隙もなく、次にはその中心に火玉をあてがわれたような衝撃が走った。
「・・あうっぅ・・」
きつく噛み締めている唇から、予想を遥かに超えた激痛がもたらす呻き声が漏れる。
受け入れる為の少年の入り口はあまりに狭く固い。
それに加えて痛みを堪える為に、あらゆるところに力が篭る。
その中を進むには堀部も辛い。
主税は額に冷たい汗を滲ませて苦痛に顔を歪めている。
堀部は一旦動きを止めた。
大きく息を吐いていた主税がうっすらと目を開けた。
開いた眸からこめかみに零れ落ちるものを、堀部は唇で拭ってやると、そのままずらして主税のそれに微かに触れた。

「・・・・中途で・・終わるのならば・・このまま主税を殺して下され・・」
解放され濡れた唇から紡がれたものは、決して弱々しい願いではない。
主税の眸は強い光を宿して、堀部を見据えた。
少年の激しさが堀部の躊躇いを許さない。
「終わるつもりなど微塵も無い。最後までこの堀部を受け入れると、そう約束した筈・・・」
我知らず漏らした呟きは、その眸に映る己自身へ向けた決心だったのかもしれない。

言い終わらぬうちに、無理を承知で一気に進みいれた己の辛さが、又主税の苦痛と同じものならば、共に堕ち、果てる先がたとえどこであってもいいと、一瞬に芽生えたこの感情が何たるものなのか・・・・・堀部は振り返る間も無く、今主税の深淵へと辿りつこうとしていた。

体を内から焼き尽くすような焔が貫いているのはどこなのか、その在り処すら分からず、ただ主税は仰け反り、痛みを通り越して苛む苦しさから逃れるように回した堀部の背に爪を立てた。

「・・・主税」
薄れゆく意識の狭間で、繋ぎとめたものは自分を呼ぶ声だった。
それは強く引き止めるのではなく、囁くように優しく耳朶に触れた。
「・・いま・・いちど・・」
もう一度名を呼んで欲しい、乱れた息の下からただそれだけを、主税は儚い言葉で願った。
「主税」
寸暇をおかず返って来た応えと呼応するように、我が身の中に微かに動く者を主税の内壁は確かに主に伝えた。
「・・ぁ」
小さく漏れた声は、快楽からではない。
まだそのような余裕は主税には無い。
だが内から苛むものが、また同時に堀部の存在を知らしめるものだとしたら、主税にとってそれこそが悦びだった。
堀部は落ち着きを取り戻しつつある主税の中で、ともすれば先走りたい衝動を、じっと動きを止めて待つ。
がむしゃらに拒み通そうと締め付ける少年が、やがて名を囁く度にひとつ息を漏らし、緩やかに堀部を包み込む様(さま)に変わる瞬間を掴み取ると、初めて僅かに腰を揺らした。

「あっ・・」
濡れた主税の眸が、うつろに焦点を探った。
あわせた視線が堀部を捕らえると、戸惑うように見上げた。
「・・・ほりべ・・どのっ・・」
悦楽の意味すら知らぬ少年は、己が中に突如生まれたこの芯から溶けるような感覚に怯え、唯一その名を呼び、手を伸ばし、がむしゃらに縋りつこうとする。

「それがしはここにいる・・・主税と共にいる」
うねるように奥を犯しながら、堀部は仰け反る喉元に唇を寄せ這わせる。
幾たびか己の存在を刻み込んだとき、微かにその律動に腰を合わせはじめている主税がいた。
それは悦びの片鱗を見つけた主税が、無意識に堀部を求める行為だった。
「・・・主税、共に何処に堕ちても構わぬか」
苛む苦痛をやりすごすために漏れていた少年の息は、いつのまにか甘やかな陶酔の響すら含んでいる。
「堀部殿を・・連れてゆけるのならば・・・主税はどこに堕ちようと・・」

途切れ途切れに言葉を捜しながら、堀部を放すまいと、主税は貪欲に絡み付いてくる。
まだ苦痛の方が遥かに大きい筈だ。
結ばれたそこから流れ出し、主税の下肢を伝わっているものは、きっと朱の色をしているだろう。
それでも主税は更に己の一番深い処まで、否、果てない淵に誘い込むかのように堀部の律動を我が身と合わせようとする。
その姿がいじらしいよりも、切なく愛しい。

(・・・囚われたのは、自分なのかもしれない)

堀部の中にふいに芽生えたそんな思いを断ち切らせるように、主税が大きく仰け反った。
一瞬触れたそこに、主税の悦びの泉水があったようだった。
それを確かめる為に今一度同じように繰り返すと、主税の眸が見開かれ唇がわななくように震えた。
「あっ・・あっ・・・ああっ、・・」
全てが初めての経験である主税には、己を抑制する術すらない。
内から追い詰められて、再び開放の許しを乞うて、濡れた眸で堀部に視線を縋らせる。
宙に高くある、青竹のようにしなやかな下肢が、堀部の意のままに揺れ舞う。

幾度目かに激しく腰を突き進めたとき、主税の限界の箍(たが)が外れる悲鳴のような声が、小屋の空気を支配する静寂(しじま)に高く細く棚引いた。
その瞬間、主税の内なるものが、堀部を責めるように渾身の力で強く絡め取った。
小刻みな痙攣を残して脱力し堕ち行く少年の内に、堀部も又己の欲望の滾りを迸らせた。


まだ堀部を内に留めたまま、吐く息だけが精一杯のように、瞼を閉じ苦しげに胸を上下させる主税が、ふいにひとつであったものが離れ行く感覚に眸を開いた。
咄嗟に上に触れる人肌に手を回し、それを拒もうとしたのは主税の意識の外であった。
「・・くっ」
悦びの後の新たな苦痛に、一度抜けた力が再び籠もる。
「力を抜きなされ。・・・・主税と離れても、堀部はここにいる」
右の耳朶を噛んで吐息とともに囁き、締め付けが僅かに緩んだその隙に、堀部は主税と己を結ぶ全てを解いた。

「・・・ここにいる」
忍ぶように自分だけに告げられた言葉に、開かれた主税の瞼の間から覗いた眸が滲んだ。
「ここにいる・・・それがしはここにいる・・・」
己を映し出させて、今度は一言一言区切るようにゆっくりと伝えると、瞠られ揺れていた眸に溜まった露はこれが限りと眦を滑り、雫となって零れ落ちた。
「・・・私は直(じき)この世と別れねばなりませぬ。・・けれどそれが今はこの上無く有難い・・。これ以上ここに止まれば、私は飽くことなく堀部殿を追い求めなくてはならない・・・。堀部どのが誰かに想いを寄せる姿を見れば、正気では居られない。苦しくて、苦しくて、きっと醜態を晒して愛想を尽かされてしまう・・・。だから主税は満足して逝かねばなりませぬ。・・・堀部殿に出おうて、良い生涯であったと・・そう言ってお別れすることができます。・・・・そう思わねば神仏の罰があたります・・」
頬を濡らすものは未だ乾く事を知らず流れ続けていたが、それをものともせずに主税は必死に笑いかけようとする。
「それがしは此処に居る・・・・離れることなく常に主税と・・・」
そんな少年に三度(みたび)繰り返された言葉は、遂に主税の唇を震わせ、堪えることもできずに小さな嗚咽が漏れた。

強く縋り来る腕の温もりの主が、堀部の胸に切ない程に、滾る想いを止められぬ程に、或いは哀しい程に、そんなあらゆる感情が綾を成して・・・ただ愛しかった。




松平隠岐守中屋敷の庭に、気の早さを恥じるようにひっそりと咲く白梅は、時折密やかな匂いを風に乗せて運ばせる。
それが今生との別れのせめてものはなむけと思えば、ささやかな花の思いがいじらしい。
廊下を渡り来る足音がぴたりと止まると、それまで瞑目していた誰もが目を開いた。

「大石主税良金殿、只今見事に御本懐を遂げ候」

瞬間そこにあった如月の冷気が、堪えようの無いどよめきに動いた。
松平家用人による伝送は、少し高い声音が散るに惜しい若さを痛んでいるようにも思えた。
ひとり息をついたのは室の一番隅に、先程より身じろぎもせずに端座していた堀部だった。

「主税殿に負けぬ、我が身の散らせ方をせねばなりませぬの・・」
その様子を横に居た貝賀弥左衛門は、堀部が一番若年の主税の首尾を案じていたものと解釈したらしい。
穏やかな視線を受けて、堀部が聞き取れぬ程に低く笑いを漏らした。
「さても堀部殿には余裕な」
共に冥土に旅立ち主君の元に馳せる身、いざこの場にあって貝賀の声に堀部を咎める響きは無い。
「・・・些か思うておりました」
堀部は己の失態を申し訳無さそうに、年配の貝賀に向け頭(こうべ)を垂れた。
「はて・・・この世の瀬戸にありて、未だ如何ばかりの思いがありましょうぞ」
だが五十を過ぎた良人は、その応えの問答を楽しむかのように眸を和ませた。

「全てを捨て、全てを得て・・・分からぬものなど最早何ひとつも有りはせぬと、そう思うておりました」
「ほう・・」
「が、この際(きわ)になりて、又もひとつ応えの見つからぬ事を知る身となりました」
「それは興味の深いこと」
貝賀の面にも含むような笑いが浮かんだ。
「して、それはどのような?」
「お話しとうもございますが、今ひとつ確かめて後、いずれ貝賀殿には次の世で・・・」
言い置いて細められた双眸が、貝賀を通り越してその遥か先を見ていた。

少しも早く追って、腕を掴んで振り向かせ、聞かねばならぬことがある。
この胸に残された逆巻くような狂おしい想いは、主税の残したものなのかと・・・。
昼に夜に我が身を捉えらえて一時たりとも放さぬ影は、主税であるのかと・・・。
確かめずともすでに応えは分かっているものを、敢えて求め続ける己の胸の高鳴りを、堀部は瞼を閉じて鎮め宥めた。


又しても覆った静寂(しじま)の中で、今一度遠く足音が聞こえて来た。
待っていたそれは段々と大きくなり、やがて堀部の五感全てを支配した。

「堀部安兵衛武庸殿」


追わねばならぬ者がいる・・・・・。

堀部はゆっくりとその声に向かって立ち上がった。







                                  春情   了





                   翡翠