驟 雨  −syuuu−





きっと自分が悪かったのだ。
ふいに空から降って来た大粒の雫を軒の下で凌ぎながら、総司は先ほどから同じ後悔を繰り返している。



土方と小さな諍(いさか)いを起こしたのはほんの一刻程前のことだ。
めずらしく感情が昂ぶって、初めてと言って良いほどの強い言葉で土方に反抗した。
切欠は本当に些細なことだった。

二番隊を率いている永倉新八が所用でどうしても明日から二、三日隊を明けなくてはならないことになった。
その間自分が一番隊と二番隊の隊務を兼ねるという総司に、土方が反対をした。
ただですら最近の総司の無理を憂慮している土方にすれば、それはごく当然のことだった。

この春の参謀伊東甲子太郎等の事実上の離隊により、新撰組は人手不足が続いていた。
そのため秋には土方自身が新しく隊士募集の為に江戸に下ることになっている。
その直前の用意もあって土方も苛ついていた。
せめてそんな土方の役に立ちたいと思う願いを頭ごなしに否定されて、総司もつい自分を抑えることを忘れた。



自分の身を案じてくれる土方に、ひどい言葉を返したのかも知れない。
止みそうにない雨露に霞む往来の向こうをぼんやりと見ながら胸が痛む。


多分自分は違うところで土方に抗ったのだ。
業病を抱える我が身の衰えが、最近は手に取るように分かる。
京の蒸し暑い夏をどうにか凌いで過ごしたが、その頃から胸の病は急速にその勢いを増して来た。
身体が言うことを聞かなくなる日は案外に早く来るのかもしれない。
だからこそ、じっとしてはいられなかった。
もしもここで止まってしまったら、自分はもう二度と動くことができなくなりそうな恐怖に総司は囚われていた。
更に江戸に下る土方とこの状態で暫し離れるのは、最早己の胸の内の全てを占める不安以外の何ものでもなかった。



神経を逆立てて、無理を言ったのは自分の方だ。
いたたまれぬ思いに、総司は遣る瀬無い溜息をひとつ漏らした。

土方はまだ怒っているのだろうか。
両手を頭の上で重ねてせめて濡れるのを庇うようにしながら、せわしなく行き交う人々の様がまるで自分とは違う世の情景のようにも思える。
それ程に心が寂しい。

勢いにまかせて土方の腕を振り払って出てきてしまったが、もしかしたら傘を持たずにいる自分を心配してくれているのかもしれない。
謝ったら許してくれるのだろうか、とりとめのない事ばかりを際限もなく考えている。
ならばさっさと帰れば良いものを、それを降りやまぬ雨のせいにして足を止めている自分をも叉知っている。
帰りたくとも帰れない。
雨はやんで欲しい、だがまだまだ降り続いても欲しい。

「ばかだ・・」

そんな自分を総司は声に出さずに俯いて笑った。

みるみる激しい勢いになった雨は、最早雫というには強すぎて、地を叩いて跳ね返り袴の裾を濡らす。




「おい、こんなところで何を濡れてんだ」
ふいに掛けられた声は、良く知ったものだった。
咄嗟に顔をあげると、確かに永倉新八が目の前で呆れたように自分を見ていた。

「永倉さん・・」
「お化けじゃねぇよ」
不思議そうな総司の瞳に、永倉は小気味良く笑いかけた。
頬を緩めるとひどく人なつこい表情になる男だった。

「雨宿りにしちゃぁ情けないもんだな」
自ら江戸っ子を自負する永倉の歯切れのいい江戸言葉は、湿った身体にも心にも気持ちがいい。
「もともとは永倉さんのせいなのに」
「何がだよ」
「何でもない」
「お前の言っていることは訳が分からねぇな」
苦々しそうに眉を顰められても、ただ笑いだけが零れた。
「笑ってねぇでちゃんとしようぜ」
「ちゃんとって?」
「雨宿りに決まってるだろう。俺は付き合って濡れるのはごめんだよ」
「どこで?」
「昼飯は食ったか?」
言われて昼前に屯所を出て、それから何も食べてはいないことに気付いた。
そんなことすら忘れて、物思いに耽っていた自分が恥ずかしくもあった。

「まだのようだな。馳走してやるよ。そこでいいか?」
永倉が顎をしゃくった方向を見れば、軒を連ねる大店の狭間に小さな路地がある。
その先にどうやら永倉が行こうとしている店があるようだった。

「知っている店なのですか?」
「時々行く」
短いながら、どこかそれ以上聞くのを躊躇わせるような永倉の応えだった。
「行くぞ」
少しばかり気後れしている総司に、永倉が持っていた傘を差しかけて促した。






表通りから先ほどの小路を少しばかり入ったところにこじんまりと構えた店は磯屋といった。
間口の割に奥が細長い所謂京の町屋風の建物のこの店で、永倉は良い客らしく昼というのに一番奥の座敷に通された。
贅沢な造りではないが、どこもかしこも手入れの行き届いた落ちついた設(しつら)えが、こういうところにあまり縁の無い総司にも安堵感を与えた。
それにしても良く永倉はこんな店を知っていたものだ。
隊にいる時はとは又別の永倉の顔を見たようで、総司は少しばかり戸惑った。


「どうした、珍しそうな顔をして」
不思議そうに自分を見る総司の様子に永倉が笑った。
「永倉さん、ここに良く来るのですか?」
「いや、つい最近だ。偶然に見つけた店だ」
それにしてはもてなす店の者の待遇が親切すぎる。

「店の名前が気に入って夏頃から来るようになった」
「・・・磯屋?」
言葉にして呟いて、初めてその意味が分かった。

「お磯ちゃん」
自然と顔がほころぶのが分かった。


お磯というのは夏に生まれた永倉の子供の名前だった。その子が生まれた時に永倉は誰憚る事無くそれを表に出して喜んでいた。
お磯の母親という人は元は島原の芸妓で小常と言った。総司も二度程顔をみたことがある。言葉を交わしたことはないが、控えめで綺麗な人だったという印象がある。



「つまらねぇ親ばかだろう。笑ってくれてもいいぜ」
仏頂面で応えながら、どこか照れくさそうにしている永倉が今幸せにいるのは良く分かる。
大方この店に初めて上がった時にもその事を嬉しそうに語ったのだろう。
店の者の対応がどこか親しげだったのは、その飾り気の無い人柄に好意を持っているのだとすぐに察せられた。
そんな永倉を総司は眩しそうに見た。

「なんだよ」
「なんでもない」
声に笑いを含んで、総司は首を振った。
もしここで揶揄したら、この男は本当に怒り出しそうだった。


「ここの主は小浜ってところの出だそうだ」
「小浜?」
総司には名前も知らない処だった。
「俺も行ったことはない。何でも京の裏側の方で海辺の村だそうだ」
「京にも海があるのですか?」
「あるよ」
あっさりと応えて、運ばれてきた昼酒の盃を口に持って行った。

「冷たい海に面した処の人間ってのは、俺みたいに肌が温(ぬく)いんだよ」
「永倉さんは江戸っ子だっていつも言っているくせに」
その矛盾を総司は笑った。
「まあな。俺は生まれも育ちも江戸っ子だよ。歴として三代は続いているから正真正銘のな。それでも一応は松前藩で飯を食わせて貰っていた家だからな」
「松前って・・蝦夷にあるのでしょう?」
「寒いところさ。冬などは雪で外にでることが出来ない日が大半だそうだ。俺は行ったことがないから知らんが」

語る永倉の眸が少しだけ翳を落としたのは気のせいなのだろうか。
土方との気がかりを胸に抱える身に食欲などあろう筈が無かったが、永倉の好意の膳に箸だけを動かしながら総司は訝しげにその顔を見つめた。



「そうそう、明日から厄介を掛けるな」
ふいに思い出したように、永倉が総司に告げた。
どうやら自分の不在中の事を言っているらしい。
「厄介だなんてそんなこと・・・」

応えながら土方との諍いの原因に図らずも触れる形になって、言葉が我知らず途切れた。

「悪いな」
そんな総司の様子から何かを察したのか、永倉の顔が申し訳なさそうに曇った。
「悪いことなどない」
慌てて否定しても、この勘の良い男には遅かったようだった。

「土方さん何か言っているのか?」
「何も言っていない」
「隠さなくてもいい」



永倉の胸のどこかに、土方への不満があるのを総司は知っている。
それは伊東と共に藤堂平助が新撰組を離れた時に決定的になったようだった。
永倉は藤堂と親しかった。
志を違えた者を説き伏せることはできぬと知りながら、それでも藤堂の離脱を思いとどまらせることができなかった己自身に遣り切れないものを覚えるのだと、総司に苦しい胸の裡を漏らしたことがあった。


「土方さんは何も言ってはいない。さっき言いよどんでしまったのは、私が二番隊も兼ねると言ったことで少し土方さんを怒らせてしまったから・・」
正直に話す以外に永倉の懸念を取り払う術は無いと諦めた。

「お前がか?・・・それは土方さんでなくても止めるだろうよ」
「何故」
つい詰め寄る強い口調になってしまうのが分かったが、それを止めることはできなかった。
人から労わられるのは嫌だった。

「お前、この頃具合があまり良くないだろう」
「そんなことはない」
「嘘はつくな」
「嘘じゃない」
「容易く見破られるぜ」
これ以上の言葉の応酬は限りの無い事と打ち切るように、永倉が手にしていた盃を一気に煽った。



夏が終わったあとの雨は、ひとつづつ季節を連れてくる。
どこもぴたりと閉じてあるはずなのに、時折忍び込む風に湿り気と冷めたさが籠もっている。



「永倉さん、どこかに行くのですか?」
重くなった沈黙に耐えかねられないように、総司が話題を変えた。
「いや、京からは出ない」
「じゃあ小常さんの処に?」
やっと総司がからかうように笑った。
「残念ながら違う。そっちの用事なら苦労はしないのだけれどな」
それが満更嘘でもないらしく、永倉は妻とその子を恋しがる心を隠しもしなかった。

「何か大切な用事なのでしょう?永倉さんが休みを三日もとるなんて今年の正月以来だ」
「お前は時々憎らしいことを言う」
忌々しげな言葉の割には含むものは無く、むしろ永倉は苦笑するように口元を歪めた。



今年の正月永倉と斎藤、そして伊東が島原に上がった際、何が切欠になったのか隊に断り無く三日居続けをして戻らなかった。
後できけば局中法度が怖くて酒は飲めまいという伊東のとんだ触発によるものだった。
戻ってきてそれぞれが謹慎の沙汰を受けたが、三人の中で永倉が一番長かった。
その理由が局長近藤の所業に業を煮やして、永倉が会津藩に建白書を送った事へと端を発しているというのは周知の事実だった。
思えば我が身の保身を考えず、己の意のするまま捨て身の人生を送ってきた男だった。

その永倉が最近変わったのは紛れも無く我が子の誕生のせいであろう。


「それでは何故?」
「隊を明けると聞きたいのか?」
「永倉さんが言いたくはなければ聞かない」
「聞きたいと素直に言え」
低い声を漏らして笑いはしたが、永倉は殊更隠す気持ちも無かったらしい。
その拘りの無い様子に総司は安堵した。
できれば隠し事はして欲しくはなかった。
藤堂が新撰組と袂を別つてから、胸の裡にある寂寞感を禁じえない総司だった。



「江戸から人がくるのさ」
「・・・人?永倉さんの知り合いの人ですか?」
「俺が生まれた時から面倒を見てくれていた人間だ」
「では永倉さんのご両親・・」
「違う。俺の生まれた家に、父親のそのまた前の代から居てくれた人間だ。それが何を思ったか、歳をとった体を励まして俺に会いに京に来ると先日文が届いた。もともと親に成代わって俺の面倒を見てくれた奴だ。会わねぇと無碍にもできねぇ。」
「その人、お幾つ位になるのですか?」
「還暦はとうに過ぎているさ」
「そんなに・・・」
六十を越して江戸から京への道中は、さぞ辛い旅になっているだろう。
にも係わらず永倉に会いに来るのには、何か深い理由(わけ)がありそうだった。
それを聞いて良いものかどうなのか、迷っている総司の心の裡を見透かすように、永倉が先に応えた。

「話は簡単なことなのさ。俺にもう一度家督を継ぐ為に江戸に戻れと言いにくるらしい。年寄りの駄々に付き合う暇はねぇが、それでも俺も親になって人の気持ちの欠片位は分かるようになった」
「家督を継げと?」


まだ江戸の試衛館の食客として永倉が居た頃に、生家は松前藩で高い禄を貰う家だと聞いたことがある。その時には本人も冗談めかして言っていたから、そこに居た人間達も永倉をからかいながら話半分に聞いていた。が、どうやら今の内容ではそれは本当だったらしい。



「前に江戸にいた頃永倉さんの家が松前藩でも要職にあると聞いたことがある。たしかご親戚筋には家老職の家もあって・・・冗談で言っていると思ったけれど」
総司は過去の記憶の細い糸を辿るようにして、言葉を繋げた。
「いっそ冗談にしちまいたいね」
「本当なのですか?」
「本当だから困ってる。俺はとっくに家を飛び出した人間だ。嫡男だったから親は慌てただろうが、そのあとちゃんと養子を迎えて跡目の心配は無い」
鬱陶しげに言いながら、永倉は手酌で酒を盃に注いだ。

「何をそんなに驚いた顔をしている」
「だって吃驚した」
「何が」
「永倉さんが言っていたことが本当だったなんて」
「ばか野郎」

乱暴な言葉を投げつけながら、永倉の目が笑っていた。

「元はといえば江戸の浅草で店を構えて商売をやっていたところが、俺の何代か前の伯母って人が松前の殿様に見初められて側室になった。ただそれだけの関係さ。禄高だってその為にとってつけたようなものだ。女ひとりの犠牲の上に成り立った家禄なんざ欲しいとも思わねぇ」
「永倉さんはそれで脱藩をしたのですか?」
「いや、それだけじゃない。つまらなかったのさ。人から貰ったものじゃ自分は試せない。そう思っていた。今に思えばとんだ思い上がりだったがな」
永倉の声に自嘲の響きが篭められていた。
「・・・つまらなかった?」
「若かったからなぁ」
その頃を懐古するような永倉の深い眼差しだった。

「そういや俺が試衛館に居つき始めた頃、土方さんもそんな目をしていたな」
「土方さんが・・?」
ほんの一時忘れていた先ほどまで胸を占めていた重いものが、ふいにその存在を総司の中で主張した。
「自分の力の試し場所を探していた。・・・まぁ、若いうちはみんなそうさ。もっともあの人はちゃんとそいつを見つけたがな」
その土方の今を肯定しているのか、否定しているのか、永倉の表情から総司は読み取ることができない。できればそれは後者であってほしいと願う他ない。
これ以上昔からの親しい人達の去る背を見るのは嫌だった。


「それではその人、永倉さんを育ててくれた恩人なんだ」
意識して話題を変えたのは、そんな総司の感傷だったのかもしれない。

「恩人ねぇ・・・。まぁそういうことになるのだろうな。もしもそれができるのならば死水をとってやりたいと思う人間だ」
「大切な人なのでしょう?」
「誰とも比べようが無い。が、俺はその歳とった恩人の最後の希(のぞみ)を断ち切ろうとしているんだぜ」
「家禄は継がないと?」
「いや、女房子供を捨てることはできねぇと言う。どっちに転んでも同じことだが本当だから仕方がねぇ」
流石に気が重そうに、永倉が珍しく溜息をついた。


「本当に大事な人なんだ」
永倉の心根の優しさが、今本人を苦しめているのだろう。表には出さないがその深い憂慮は総司にも伝わってくる。

「・・・左源治と言って、実直な爺さんだったよ。両親は嫡子ということで殊更厳しく俺を育てた。まだ元服もしない頃剣術の稽古に行っての帰りに丁度こんな雨に降られると、必ず道場の幾らか離れた家の軒の下で傘を持って待っていてくれた。だが俺は意地っ張りだったから左源治の姿を見つけても、見ない振りをして濡れたままその前を通り過ぎた」
「その頃から、へそ曲がりだったんだ」
「大きなお世話だ」
小さく笑った総司の瞳にからかいの色を見つけて、永倉が面白くなさそうに盃を煽った。



雨の音は強くなりはしたが、やむ様子は無い。

左源治という人間の希(のぞみ)を断つ言葉をこれから伝えなければならない憂鬱に、永倉の思考はすっかり囚われているようだった。


静かな沈黙の中で、総司は先ほど永倉が言っていた情景を、自分の中にあるそれに似たものと重ねていた。



一度出稽古に行った日野からの帰りに、あと少しで試衛館といった処で俄に降り始めた酷い雨に往生して、街道筋の家の軒を借りて止むのを待っていたことがあった。
いくらたっても雨は一向に降りやまず、夜の闇のような天に時折青い稲妻が走り、少年だった自分は本当はその恐ろしさに震えていた。
だがそれを表に出すことはできない。
突然の雨に往来で慌しく右往左往していた人影がひとつも無くなると、置いてゆかれたような心細さだけが大きく心を捉えていた。
傘をもって迎えに来て貰える筈などありはしなかった。
だいたい自分がここにいることすら知る者はいない。
動かなければ帰ることはできはしない。
が、そこを動くことをさせなかったのは、濡れるのを厭う心ではなく、誰かが見つけてくれるのを待っている、叶えられぬと承知の心だったのかもしれない。
ただただ、人恋しかった。

半刻もそのままで居て、さすがに己の愚かさ加減に呆れつまらぬ望みを断ち切り、まだ勢いのある雨の中に飛び出そうとしたとき、水滴で霞む視界の遠くに見慣れた人影を見た。
それが誰のものか一瞬にして悟ると、身に付けていた稽古の道具も何もかも振り捨てるようにして走り出した。
濡れ鼠になって駆け寄ってくるその姿を見て、土方は『ばかっ』と目をむいて一喝した。
せっかく濡れぬように傘をもって探しに来てやったのにこれでは何もならないと、並んで帰る道すがら小言は止まらなかった。
それでも隣にある人の温もりが、何よりも自分の心を幸いに満たした。




「斎藤もいねぇからなぁ」
永倉の呟くような低い声にふいに現(うつつ)に心が呼び戻された。
「俺の留守だよ」
言った意味が分からず不審そうに見つめる総司に永倉が苦笑した。
「だから私がやる」
「無理だよ」
「無理じゃない。何故そんなことが永倉さんに分かるのです」
気遣われるのは辛い。その思いが総司を頑なにする。
「土方さんが怒ったんだろう?それじゃお前よりそっちを俺は信じるよ」
「自分のことは自分で一番良くわかる」
「何故みんなそう言うんだろうな」

永倉の声が思いもかけず湿っていた。咄嗟に見た顔が酷く物憂げだった。こんな永倉は初めてだった。


「・・・みんなって?」
明らかに永倉は自分以外の人間をさしている。
「俺の女房さ」
愚痴をこぼすつもりはなかったのだろう。永倉の面に苦い笑いが浮かんだ。

「小常さんが・・?」
「お磯を生んでからどうも肥立ちが悪くてな。今も床につく日の方が多い」
「知らなくて・・」
「お前がそんな顔をすることはないだろう」
「・・けれど」
「お磯は頼んでいる婆さんが見てくれている。だから何の心配もないんだが・・・。俺が小常を案じるとあいつは決まって大丈夫だという。自分が一番分かっているからと、そういう。だが俺はそれを聞くたびに、小常がひとつ俺に隠し事を増やしているような気がしてならない」

総司は応えない。否、応えられない。小常の心は今の自分だ。

「大丈夫かと聞いて大丈夫と応えが返って来る。が、そうで無いことは惚れた奴のことだから俺には分かる。例えそれが俺に心配をかけまいとするあいつの優しさでも、俺にとっては辛い嘘だ」

淡々と語る永倉の言葉が胸に痛い。
土方も同じ事を思っているのだろうか。

「自分以上に大切になっちまった人間の隠し事は、自分の身でないからこそ余計に辛いと思うことがあるのさ」

それが土方と自分のことだと永倉は言っているわけではない。
だがそうとも受け取れる永倉の言葉を、総司はどう応えて良いのか分からず瞳を伏せて聞いていた。


まだ雨は飽く事無く降り続いているらしい。
時折雨脚が強くなるのだろう。
室に在るしめやかな静寂(しじま)がその都度乱される。



「左源治・・・今頃慣れない道中でこんな雨にふられちゃさぞ難儀しているだろうよ」
「そろそろ京に入られる頃かな」
「どうだろうな。昨日の内には大津の宿に入ると便りにはあったが・・年寄りの覚束ない足だ」
言いながらひとつ息をついた。
それが遣る瀬無ない永倉の心を表していた。


「けれど・・・」
「何だ?」
総司の訝しげな呟きを永倉が聞きとめた。
「どうして今頃家督を継ぐようにと、わざわざ京にまで上ってこられるのか・・」
確かにそれは不思議なことだった。
とうの昔に飛び出した家では養子を貰っているという。それが何故今頃話を蒸し返すような事をするのか。

「年寄りの最後の我儘だと言っていた」
「我儘?」
「左源治は赤ん坊の時から育てた俺にどうしても家督を継がせたいらしい。実の親も諦めたというのに見上げた根性だぜ」
「そんな事を言ったら左源治さんが気の毒だ」
「分かっているさ。左源治は俺の親ではない。が、俺にとっては親と代わらぬ存在で、左源治にとっては俺は子さ。実の子を贔屓したい親の欲目のようなもんだろう」
空の盃に目を落として指に挟んだそれを揺らしながら、永倉は何かを思っているようだった。

「左源治は俺の親か・・・」
独り言のように呟いた永倉が、持っていた盃をふいに膳に伏せて立ち上がった。


「左源治を迎えにゆくよ」
「どこまで?」
「さぁなぁ・・どこまで来ているものか。とりあえず粟田口まで迎えに行ってみるさ」
ここに来て初めて永倉がいつものような屈託の無い笑い顔を見せた。

「雨の音を聞いていたら急に迎えに行きたくなった。今度は俺が傘を持って待っていてやったら、左源治はどんな顔をするのか見たくもなった。
俺も人の親になって少しは親の心の有り難味って奴が分かるようになったのかもしれんな」

照れくさそうに笑う永倉に、つられるように総司も笑みを浮かべた。







往来に出ると、粟田口まで駕籠で行くという永倉と別れて、総司は屯所へと向かう道を一人歩いていた。
手には磯屋で借りた傘がある。
雨は勢いを緩めはしないが、何とか濡れることは無い。



先を急ぎながら永倉が言った言葉が総司の胸に幾度も思い起こされる。

自分以上に大切になってしまった人間だから、その隠し事は余計に辛いと・・・
永倉は小常の嘘をそう言っていた。
土方もそうなのだろうか。



雨に煙る視界の先に屯所の板塀が小さく見えてきた。
そこで足を止めると、総司は差していた傘を畳んで脇の民家の軒の下に入り込んだ。
身体の全てを雨から凌ぐには軒は短かく、肩の辺りに雫が滴ったが総司はそこを動かなかった。


それは予感でも確信でも何でもなかった。
強いて言うのならば、そうあって欲しいという勝手な希(のぞみ)だった。

昔人恋しさに迎えに来てくれる人を待ってそこを動けなかったように、今の自分も叶わぬことと知りながら愚かなことをしている。
それでもここで待っていてみたかった。
今自分を探しに来て欲しいと願っているのは、ただ一人の人間だった。
瞬きもせずに道のむこうを見て待っているのは、唯一土方その人の姿だった。





肩先だけを濡らしていた雫が段々に勢いを増し、着けているものの左半分が絞れば水が出てきそうに浸された。
一時のものと思った驟雨は案外にしつこく降り、やむ気配すらない。

幾ら待っても道の向こうには何の変化もない。
最初から有り得ぬ事だったのだ。



「・・・やっぱり、ばかだ」

自分の諦めの悪さを、自嘲するように呟いて小さく笑った。
そろそろ帰らなくては本当に土方に心配を掛けてしまう。

吐息と共に脇に立てかけてあった傘に手をやろうとした時、視界を邪魔する雨の向こうに朧な人影が揺れた。
瞬間見開かれた総司の瞳の中で、それが段々に近づいてくる。


傘に隠れた顔の様子は分からないが、もう一本畳んだ傘を片手に持つその表情はきっと仏頂面に歪められているだろう。

心の臓の音が高鳴る。

今駆け出して行ったら、あの時のように土方は怒り出すだろう。
けれど心も身体も、少しもじっとしてはいられない。



ずっと待っていたその姿に向かって、総司は篠突くような雨の中に飛び出した。






                       驟雨     了
                                   






          水晶の文庫