玉 響 〜たまゆら〜 二十九
「何をぼんやりしている」
何かに思考を捉われているように、
箸を止めたまま自分を見ている総司に気が付いて八郎は苦笑した。
その総司の前に置かれた膳に伏したままだった杯を、
つと手を伸ばして引っくり返すと、
「一杯位はつきあえよ」
八郎はその杯になみなみと酒を注いだ。
酒は元々があまりいける口ではないし、
病を得てから田坂に止められていることもあったが、
それでも八郎の満たした杯に総司は口をつけた。
「ご馳走様でした」
「もう終わりか」
「謹慎中だから」
「謹慎・・?お前がか」
さすがに呆気にとられたように見る八郎に、総司は生真面目に頷いた。
「一昨日屯所でちょっと面倒を起してしまって・・・
それで近藤先生に叱られて、昨日から三日間の謹慎なのです」
「・・・で、医者に行くのはいいってか?」
今度は少し曖昧に否定するでも無い笑みを総司は浮かべた。
「まぁ、お前も最初からその位の我侭が言えりゃ良かったんだろうにな」
総司に言っておきながら、八郎は確かにそうだと思う。
昔から自分を押し隠すようにして他人を思い遣ってきた総司だった。
遠慮がちに穏やかそうに笑うくせに、
黒曜の深い色に彩られた瞳の奥に時折激しい光を見ることがあった。
だが、その強い色を放った後はすぐに不安定に瞳は揺れ動く。
いつの間に自分は目の前の人間に惹かれ始めていたのだろう。
想い人の追う視線が自分ではないと知ったのは、
すでに総司への情が断ち切れぬようになってしまってからなのか・・
あるいは知りつつ恋慕は日々つのっていったのか・・・
八郎は思い出せない遠くを計る。
それでも応(いら)えは見つからない。
詮(せん)も無いことと苦笑して、
戻した視線の先に自分を怪訝に見つめる総司の目と合った。
話の途中で思考をあらぬ方向に向け、
黙ってしまった自分を不安そうに見ている。
黒曜の瞳の奥に僅かに翳りが落ちている。
いつも自分を迷わせ、辛いも悦びもこの瞳の内に操られて来た。
そしてすでに叶わぬものと知りながら、
それでも自分はまだこの瞳の色に翻弄され続けるだろう。
揺れる二つの瞳の中に自分がいる。
その色の深さに吸い込まれるように八郎は呟いた。
「口を吸ってもいいか・・?」
それは静かな感情の発露だった。
笑みを消した八郎の視線を受けて、だが総司は首を横に振った。
「なんだ、土方さんに遠慮してるのか」
思わず笑った八郎のその言葉にも総司は同じように首を振った。
八郎の気持ちを知っているだけに容易にそれを受け入れることは、
土方への裏切りだけではなく、八郎その人への裏切りにもなると思った。
それが総司を頑なに拒ませる。
そしてもう一つ、
更にそれとは違う理由(わけ)が総司の胸に翳を落とす。
そのもうひとつの理由だけを、総司は八郎に向かい告げた。
「感染(うつ)る」
躊躇うような小さな声音に総司の本当があった。
想いを堪えるのに必死だった時には考える余裕もなかった。
だがこうして土方が自分を受け入れてくれると、
改めてそれは現実の問題として今総司を重く捉えていた。
その総司の思考など斟酌もできるはずがなく、
八郎は暫らく呆けたように総司を見ていたが、
次には耐えられぬかのように、声を出して笑い出した。
「八郎さんっ」
「・・・悪い」
それでも八郎の笑いは治まらない。
自分の憂慮を笑い飛ばされて、
総司は毒気を抜かれたようにあきれて八郎を見ていた。
「・・・お前がそんなことを考えているなんてな・・」
笑いが過ぎて目の端に溜まったものを手の甲で拭いながら、
八郎のそれは漸く治まりつつあったようだった。
「いつも考えています」
少し怒ったように総司が眉根を寄せた。
「お前の気持ちは分かる。だがよ、総司。
お前に惚れるってことは、全部を惚れるってことだぜ。
お前の気持ちも体も病もひっくるめて、
お前の全部が欲しい、そういうことだぜ。
感染(うつ)るならそれはそれで俺は本望さ。
そんなことを気にしていてお前に惚れられるか。
・・・多分、土方さんも同じだぜ」
いつの間にかゆっくりと、諭すように語る八郎の言葉が胸に響く。
病を抱えた負い目を力強く払拭するように言い切って、
土方に縋って行けと、そう八郎は言っている。
自分に注がれる八郎の眼差しがあまりに深く、思わず目を伏せた。
正視していたらきっと零れるものがある。
「今一度だけお前の口を吸いたい・・」
その声に再び目線を上げた時、思わぬ近さに八郎の顔があった。
先程よりずっと激しい色を湛えた八郎の視線が総司を見据えていた。
・・・・土方を諦める為に、抱いて欲しいと自分は八郎に願った。
八郎の心を知っていながら、自分は卑怯にそれに甘えた。
そして八郎は自分を受け入れてくれた。
今、八郎は何を思っているのだろう。
ひとつ唇を重ねるだけで
八郎は自分への気持ちを断ち切ろうとしているのだろうか。
だがその八郎の気持ちを自分が探ることはひどく傲慢なことだと思う。
自分は八郎に何もして遣ることはできない。
八郎への思いは土方へのそれとは違う。
それは限りなく似ていて、どこまで行っても否なるものだ。
それでもこうして切ない程に八郎への思いは溢れ出る。
自分でも分からぬ思いだけが、ただただ堰を切ったように止まらず流れ続ける。
それが今、全ての拘(こだわ)りを拭い去って、総司を素直にさせた。
八郎の視線に、総司は微かに顎を引いて頷いた。
それを待っていたかのように八郎の顔が近づいて、総司はきつく瞼を閉じた。
この一瞬で、総司の全てを貪ろうとするかのように長い抱擁だった。
その息苦しさに総司の顔が苦しげに歪んでも、八郎は止めることはしない。
やがてどんなに貪欲に求めても、決して縋っては来ないその腕に、
総司の自分への思いの限りを知って、八郎はゆっくりと唇を離した。
そのまま暫らく総司に視線を縫い止めるように見つめていたが、
胸の内にあるまだ消しようの無い恋慕の焔(ひ)の揺らめきを、
「この位じゃまだ足りてねぇよ、あの唐変木には」
見えぬ恋敵に毒づいて、快活に笑って誤魔化した。
「もう、行ってやれよ。屯所で落ち着かないで居るだろうよ」
それでも八郎を見たまま動かずにいる総司に、
「本気になるぞ」
冗談めかして告げた言葉の裏に、切ない真実があった。
川の水面を渡る風が頬に強すぎず弱すぎず気持ちがいい。
それでも総司の去った部屋は先程よりはずっと広い。
諦めることなど決してできぬであろう。
そこまで自分は思い切りの良い人間では無い。
「まったく、江戸っ子ってのはよ・・・」
形ばかりを付けようとする男の矜持のやせ我慢に、知らず自嘲の笑みが零れる。
「いっそ、さらっちまうか・・」
出来ぬこととは百も承知で一気に干した杯から伝わる酒が、
ほろ苦くもあり、妙に熱くもあった。
運ぶ足が次第に早くなり、息が乱れる。
少しでも早くにそこに辿り着きたい。
田坂が見守ってくれた、そして八郎が背を押してくれたそこへ、
総司は今わき目もふらず一心に歩を進める。
西本願寺の広大な敷地をぐるりと囲む黒い板塀が見えてきて、
さらに総司の足は勢いづく。
呼吸すら苦しくなっても、もう止まることはできない。
自分が見ているのは夢の中の、束の間の現(うつつ)なのかもしれない。
或いは現が見せる朧(おぼろ)な夢か・・・
だが立ち止まればそれは一瞬の幻の様に、きっと消えてしまうだろう。
そんなあるはずも無い思いに捉われながら、
だがそれを恐れるように、
総司は確かに其処にいる筈の人を求めて息を切らせる。
屯所にしている建物の門が見えてきた。
たまらなくなって、それに向かって駆け出そうとした時、
「総司」
決して間違えるはずの無い声が背中に聞こえた。
一瞬の内に足が止まった。
荒く吐く息の下で、心の臓の音だけが今耳に届く全てだった。
ゆっくりと、幻を現(うつつ)のものと確かめるように振り返った。
躊躇うことなく真っ直ぐに遣った視線のその先に、土方がいた。
玉 響 了
裏文庫琥珀 2002.4.5