玉 響 四十五 乱された身体は精も根も尽き果てたように褥に横たわる。 荒い息を繰り返すだけの総司が、おずおずと右の手を差し出した。 それを握り込んでやると、閉じていた瞳を開けて微笑んだ。 また自分で噛み切った手の甲の薄い皮膚に、微かに血が滲む。 総司は声を漏らす事を恥じて、かならずこうして己を傷つけてそれを堪える。 一度目は身体に刻まれる衝撃のもたらす苦痛を凌ぐため、二度目は与えられる悦びを忍ぶため。 だが土方はすべてを封じ込めてしまう総司の両の手を戒め、奔放に放つ想い人の声を聞きたいと思う誘惑に駆られる。 それを睦いで日の浅いこの愛しい者に強いるのは、酷な事なのかもしれない。 総司は行為の大半をまだ苦痛に支配されている。 そんな勝手な思いに苦笑しながらつかんだ手をそのままに、まだ呼吸の整わない濡れた唇に己のそれを重ねようとした時、下から見上げる総司の黒曜の瞳が土方を捉えた。 「どうした?」 昼間あれほど激しく動いた総司の心だ。 咄嗟に懸念したのはその名残だった。 総司は土方の腕にある己の手の甲に視線を遣った。 「こんなもの、俺には要らぬ傷だな」 低い苦笑にも総司は情事の残影に瞳を止めたまま、何かをためらうように言葉を止めて応えない。 白い皮膚に浮き出た朱の色が何故か妖しくもあった。 「・・・総司?」 黙ったままの想い人に掛けた土方の声に、訝しさと不安があった。 それに促されるように、総司が土方を見上げた。 「一度だけ・・」 呟いたひと言は聞き取るのが辛いほどに小さな響きだった。 「・・・・一度だけ、噛み傷など作らないで土方さんを知りたい」 何かに追われるように早口で言い切ると、すぐに褥に顔を伏せて隠した。 それは初めて総司が口にした激しい思いだった。 愛撫に何を憚る事なく応えたいと、土方の全てをあるがままに受け止めて悦びの声を放ちたいのだと、総司はそう言ったのだ。 応えの返さぬ土方を責めるように、頼りない背は震えている。 どうしてこのいとおしさを伝えて良いのか、土方はもうその術を知らない。 否、すでに言葉は要らないのかもしれない。 何も語らず心の欲するままに、土方は総司に覆い被さるようにして細い項(うなじ)に唇を這わせた。 下に組みしいていた身体を全て伏せさせると、そのまま唇も掌も、肌の温もりひとつひとつを確かめるように丹念にゆっくりと想い人の背を滑る。 時折総司の唇から零れるのは声というにはあまりに淡く消えゆくものだったが、そんな微かな吐息すら土方には己の肉体の昂ぶりになる。 先ほどまで自分を受け入れていたそこに指が辿り着くと、総司が初めて身じろぎした。 その僅かな抗いすら土方は許さない。 知らず逃げようとする腰を両の腕で引き寄せると、もう押えきれない迸る愛欲の証を容赦なく打ち込んだ。 「あっ」 短い声を発した身体は、背を弓なりに撓(しな)らせて一時土方を拒む。 背後からの交わりを強いられたのは初めての事だった。 顔を見ることができぬまま翻弄されることに怯え、土方の姿を探そうと身体を動かすことさえも自由を奪う腕(かいな)は禁じた。 「俺だ」 耳朶を甘噛みされて囁かれれば、それだけで異なるものの侵入を阻んでいた身体が少しだけその守りを緩める。 苦痛をやり過ごす為に深い息を漏らした幾度目かに総司が落ち着くのを見極めて、ゆっくりと己の貌(かたち)を刻み始めると、薄い背がそれに呼応するように仰け反る。 繰り返すだけがやっとだった総司の吐息の中に、いつの間にか陶酔にも似た切なげな色が混じるようになった。それはごく儚いものだったが、紛れも無い悦びの声だった。 身体の中心にある熱い滾(たぎ)りは、やがて総司の内にある神経の一つも残す隈なく甘美な熱で侵し始めた。 もう土方その人しか感じられない極限にまで追い込まれて、だが自分を捉えた熱は少しもその支配の手を休めようとはしない。 弱く強く内からうねるように犯される衝撃に、時折意識すら遠のく。 やがて己の欲望の露な兆に触れられた時、懇願するように首を振った。 その瞬間乱され緩んでいた元結と髻(もとどり)が解かれ、白い背に艶やかな黒髪が散った。 頬に雫が滴った。 それは止まることを知らず、幾筋も幾筋も流れ落ちて総司の視界を霞ませた。 一時も離れることなく土方と一緒にいたかった。 心も身体も常に土方とひとつでありたかった。 土方の律動に、寸分の間もあけずに応えることのできる自分が嬉しかった。 ただそれだけの事が幸いなのだと、動きのひとつひとつに共に応えて伝えたいと思った。 拘束も解放も全て土方の手によってありたかった。 「もうっ・・」 吐息のひとつまで蹂躙された身体は、極限に追い詰められてまだ戒めを解かれてはいない。 目を眩(ま)うように激しい土方の情炎が、惑溺の淵へと総司を浚(さら)う。 かつて経験したことのない欲情の中で、己を見失うことを恐れ土方に縋りたくともその姿は見えない。 あるのはただ身体の中心を貫く、焦がれるような熱さだけだった。 果てる際まで上り詰めて視界が狭くなった刹那、息を止められるような激しい動きに突き上げられた。 己の放った悲鳴にも似た細い声が、宙を震わせ闇に呑まれて消えてゆくのを、総司はどこか遠いところで聞いていた。 ゆらゆらと、たゆたうように沈む身体を支えてくれる腕の温もりが心地よかった。 この腕(かいな)からもう自分はどこにも行くことはないのだ。 いずこへと堕ちる狭間で思った記憶は、包み込まれるような安らぎの中で朧なまま途切れた。 翌朝早くに長州に下るという日の夕刻に、総司は近藤に呼ばれた。 昨日から顔を顔を合わせる暇もなく忙しげにしていたが、その慌しい合間を縫ってわざわざ自分を呼び出したのはどういうことなのか、胸に一抹の不安を抱きながら総司は局長室ではなく、指定された近藤の自室に向かった。 「来たか」 障子を開ける前に外から声をかけると、いつもと変わらぬ近藤の声が迎えてくれた。 「呼び出したりして悪かったな」 声に含まれていた穏やかさに少しばかり張っていた気を緩め室に足を踏み入れると、近藤は自分の前を指してそこに座れという仕草で総司を促した。 「身体はもう辛くはないのか?」 「大丈夫です」 そう笑って応えながら、この師にいつも心配だけを掛けている自分が情けなかった。 「そうか。それならば俺も心おきなく旅立てる」 心底そう思っているのだろう。近藤の声音に安堵の響きがあった。 「・・・近藤先生」 「どうした?」 ためらう総司を近藤が見返した。 近藤に自分はここを離れない、先にそう言わなくてはならない。 先日その話の途中で取り乱してしまった自分は、まだはっきりとその意志を告げてはいない。 新撰組にいると、土方の元を離れないのだと、話さなくてはならない。 「私は江戸には・・・」 「戻らないと言うのだろう?」 「近藤先生・・」 「俺はそれが良しと思っているわけではない。まだお前には江戸に戻って安寧とした日々を送らせたい、そう願っている。だがお前がそれを命などいらぬと思うまでに拒むのならば、この思いは返って仇になるのだろうな」 総司は俯いて何も言えない。 土方の傍らにいると決めた心は、また近藤の思いを堅く拒絶するものでもあった。 それでも自分の思いは変える事はできない。 「・・・私は」 「だがな総司」 更に言葉を紡ごうとした総司を、近藤が止めた。 「俺は諦めたわけではない。いつかそういう日が来る時の為に、お前には相談せずに悪かったがひとつ決めたことがある」 近藤は体を少しだけ後ろに向けると、文机の上にあった白い巻紙を手にとった。 「読んでくれ」 訝しげに見る総司に笑いかけて、先を促した。 近藤の剛毅な人柄を表すような力強い文字を追ってゆく内に、総司の視線が一点でとまった。 次の瞬間弾けるようにして、近藤を見た。 「天然理心流の五代目はお前だ」 「・・・そんなこと」 呟くように漏らすのが精一杯だった。 自分は江戸には戻らない。土方の傍を離れない。 だからそんなことは許されるはずはなかった。 「お前が戻るつもりの無い事は分かっている。だが俺にも望みを残しておいてはくれまいか。こうしておけばいつかお前は試衛館に帰って息災に生きるのだと安堵することができる。俺のせめてもの勝手を受け入れてはくれまいか」 総司は顔を上げられない。近藤の眼差しに合えばきっと零れるものを止められなくなる。 近藤の心に自分はこの世にある限り応えることはできない。 それでもひとつ偽りの応えを返す事が、この何者にも代え難い父とも思う師に報いることになるならば、自分はそうする他に何も出来ない。 「・・・お受けいたします」 顔を伏せたままで返した応えは、語尾がそれと分かる程に震えた。 頬を伝う雫をみっともないとは思わなかった。 ただ近藤の思いが胸に辛い程に沁みいった。 「・・・総司、もうひとつ俺はお前に約束をして欲しいことがある」 いっときの間を置いて掛けた声が、珍しくもどこか躊躇していた。 咄嗟に手の甲で拭って上げた総司の瞳が、うっすらと赤く染まっている。 「俺がこの旅から無事に帰った時、もしもお前の胸に俺に言えずに秘めていることがあるのならば、それを包み隠さず話して欲しい」 近藤の言葉に総司の顔が瞬時に蒼ざめ強張った。 そんな総司の動揺を見ながら近藤の胸の裡が、重く複雑な思いに覆われてゆく。 半ば予期していたことだった。 否、土方と総司、そして伊庭八郎の振る舞いから、その思いはすでに確信として近藤にある。 二人を肉親以上に知る自分から見れば、土方と総司がこの世で唯一求め合う存在になったということは、或いはごく自然なことなのかもしれない。 幼い頃から幸薄かった総司は、更に天に乞われてその生すら限られた。 この不条理を思えば今も神仏に憤りを覚える自分だ。 残された刻にあって、総司には誰よりも幸いの中にいてほしい。 だからそれが総司の望むものならば自分は二人を許してやらねばならないのだろう。 だが今ひとつ自分の中で、それを邪魔するものがある。 小さな身体に道具を背負い、出稽古の為に試衛館の前の坂を下る頼りない背を見送る度に、いつもその身が無事に戻るようにと念じていた。 自分の中にある総司は、もしかしたらあの時のまま成長を止めているのかもしれない。 土方も自分と同じ存在だ。託して不安はあろうはずはない。 己の望んだ幸いと形は違っても、総司が自分で選んだものならば致し方が無い。 それでもどうしても心裡で割り切ることのできない近藤だった。 「帰ってきたら、話してくれるな」 真実の言葉は総司自身から聞きたかった。 それで己を納得させられるのか、近藤にも分からない。 が、聞かなければならないと、この愛弟子の将来(さき)の為に思った。 「きっと話してくれるな、総司」 近藤の声は諌めるのではなく、むしろ宥めるように柔らかい。 江戸に帰れと言われて錯乱して死に囚われた時、必死の形相でこの世に自分を連れ戻してくれたのは近藤だった。 自分のとった愚かな行動を熱く涙を滾らせて叱ってくれた。 この人もまた我が身と代えても守りとおしたい存在だった。 もう嘘をつくことはできない。 深い眼差しに見つめられながら、総司は微かに頷いた。 「約束だぞ。俺は必ず帰って来る。さあもう涙を仕舞え」 言われて頬を伝わっていたものに気付いて、慌てて下を向いた。 釣瓶落しの秋の日がいつの間にか隠れようとしていた。 きっと自分の顔は流れるものでひどい事になっているだろう。 だからそれをすっかり隠してしまう程に暗くなるまで、顔は上げられない。 否、この師の前で何故か今はずっとそうして居たかった。 俯いたままそこに固まったように端座して姿勢を崩さぬ総司に、近藤がひとつ小さく溜息をついた。 それすら耳に優しく聞こえるのは、どこかもの寂しげな秋の夕暮れのせいなのかもしれない。 そんな風にでも思って心を余所に置かなければ、到底零れ落ちる雫は止まりそうにもなかった。 「お前は江戸に帰るのではなかったのか」 臆する風も無く入って来た伊庭八郎への、土方の一声だった。 昔馴染みに掛ける遠慮の無い言葉の裏に、淀むものは無い。 「まだやり終えてはいないからな」 「何を?」 「総司を連れて帰るって言っただろう」 「思い切りの悪さだけは昔より酷いものになってゆくようだな」 「俺は自分に正直なだけだ。むしろ潔いと思っている」 「勝手に言っているがいいさ」 これ以上の相手をする暇も無いというように、土方が又止めていた筆を動かし始めた。 「近藤さんからは便りがあるのか」 近藤が発ってからすで十日の余が過ぎていた。 「往生しているらしい」 「長州城下にはまだ入れんのか」 「さっさと戻ってくればいいものを」 土方は八郎の顔を見ないで、書状を認(したた)めている。 「で、今日は何の用だ。お前もそれ程暇な身ではなかろう」 相変わらず土方は仕事の手を休めない。 「養父殿が江戸に戻られるのを送って帰る途中さ」 「お前も共に帰ればいいものを」 「俺はまだ帰ることはできない。やることがあると言ったろう」 八郎の声音に少しばかり挑むものを感じて、初めて土方が筆を置いた。 「総司はやらん。いい加減に覚えろ」 「生憎覚えが悪くてね。どうも難儀している。いっそ忘れてしまえれば楽なものを」 皮肉に返す言葉にしては重すぎるものだった。 「俺はあんたにとってこの先も一番脅威なものであるだろうよ」 「誰がお前などを恐れるものか」 「その自信そのまま後悔にしてやるよ」 それが偽りではないことは、八郎の眸の奥にある強い色が如実に物語っていた。 「総司があんたの背を追いかけるのならば、どこまでも俺はそれを阻んでやる」 「阻めるものか」 「やってやるさ」 八郎はそのまま顔を狭い中庭に向けて、目を細めた。 鮮やかに朱に色づいた葉の彩りもすでに終焉を迎えようとしている。 見れば降り注ぐ陽射しも、次に来る冬の色に染まったようにもの寂しくもどこか優しい。 季節は確かに移ろいゆこうとしている。 この自然の理のように、きっと自分も飽く事無く人の世の因果というものに振り回され続けるのだろう。 遠くにやった視線の先に、零れ落ちた光が輪を作ってそこだけが柔らかい日だまりを作っていた。 あのように穏やかな心を、自分はいつか迎えることができるのだろうか。 あるいは渡る次の世でも、更にその次の世でも果てなく呻吟の日は続くのかもしれない。 そんな感傷を八郎は低く笑った。 「どうした?」 それを聞きとめて、土方が訝しげに八郎を振り返った。 「いや、何でもない」 「変な奴」 ひとこと言い置くと、背を向け仕事の先を急ぐように筆を走らせている。 この背を追う者を捉えることのできるのは何時のときなのか・・・・ それがどんなに見えぬ先でも、すでに立ち止まることはできなかった。 もう一度外に向けた八郎の顔に触れる風が、知らぬうちにひんやりと冷たかった。 夕刻昼の巡察から戻るとすぐに、それを待っていたかのように永倉新八が駆け寄ってきた。 「お前に客が来ている」 「・・・客?」 「本願寺の境内で待っている。かれこれ半刻近くにもなる」 「お客さんならそんなところで待って貰わなくても・・」 自分に客というのが皆目検討が付かないが、それを不審がるよりも先に外で半刻も待たせていたことに申し訳なさが走る。 「・・・子楽だ」 辺りを憚るように、永倉は耳打ちした。 「子楽さん・・・?」 「どうして土方さんではなく、お前なんだろうな。ま、とにかく早くいってやれ」 それにどう応えて良いのかまだ心が定まらぬうちに、永倉が背を押して促した。 子楽は色を落とした大きな楓の木の下に立っていた。 相変わらず化粧気の無い顔だが、やはり花街で商売をしている女とは思えぬ清々しさがある。 「呼び出したりしてしもうて・・・えろうすみません」 子楽は総司の姿を認めるなり、小さく頭を下げた。 「・・・いえ、お待たせをして申し訳ありませんでした」 「待ったのはうちの勝手どす。沖田はんが謝らはることなんかちいともあらしまへん」 「子楽さん、こんな時刻に良いのですか?」 夕暮れも近いこの頃合に、茶屋をよく抜け出してこられるものだと、総司にもその位の疑念は湧く。 「うちはもう上七軒にはいませんのや」 「・・・え?」 「身請けしてくれはるお人がいはって、その好意に甘えさせてもろうたんどす」 言われて見れば子楽は町屋の内儀のように落ち着いたなりをしている。 「・・・知らなくて」 「土方はんも知らんことですよって」 笑いを含んだ子楽の言葉に、総司は思わず瞳を瞠った。 「そんなお顔せんといて下さい。うちはもうとっくに土方はんのお心には無い女どす。いえ、最初からあのお方にはそんな気ぃはあらしまへん」 総司は応える言葉が見つからない。 「ほんまのことですよってに」 総司の狼狽ぶりに涼しげな目を細めて、子楽は笑った。 「それよりも、うちは沖田はんに謝らなくてはあきまへんのや」 「・・・謝る?」 笑みを消さぬ子楽の白い頬に、黄昏が近づいた陽があたった。 「うちこのあいだ、土方はんのところに来ましたやろ?」 総司は黙ったまま頷いた。 「あれはほんまは沖田はんを見に来ましたんえ」 「・・・私を?」 「土方はんのお心を占めてはるお人の姿を、もう一度はっきりと見ておきたかったんどす」 「私と土方さんは・・」 「隠さなくてもよろしおす」 笑いを含んだ子楽の声が艶やかだった。 「うちはほんまに土方はんに惚れてましたんえ。せやけどあのお人の心は誰にもあらしまへん。そんならうちにもいつか振り向いてくれはる時があるやろか・・・そんな淡い望みを抱いてその時を待ってましたんや。それがいつのまにかお顔すら見せてくれはらんようになって」 子楽が少しだけ目の前の総司を睨むような仕草をした。だが切れ長の眸は笑っていた。 「ああ、他に好いたお方ができてしもうたんや。それが誰なのか・・・すぐに沖田はんのお顔が目に浮かびました。以前に二人ご一緒の所をお見かけしたとき、土方はんのお顔がえろう和んではった。ああ、横のお方は土方はんにとって大切なお方なんやなぁと、その時もうち少しだけ妬いてしもうたんどす」 傾きかけた晩秋の日が子楽の影を細く長くした。 「うちに身請けの話が出た時に、どうしても沖田はんに会いたかった」 浮かべていた笑みが翳った陽とともに消えた。 「意地悪を・・・したいと思いましたんや」 「・・意地悪?」 「へえ。意地悪どす」 総司は言葉を忘れたように黙った。 もしも子楽という人間にとって土方が心底好いた相手であったのならば、自分はいつか叶うと信じていたその望みを断ってしまったのだ。 「うちのように花街で育った女が好いたお人に想ってもらえて幸せになろうなんて、これっぽっちも思うたことはありませんどした」 「・・・そんなこと」 「ほんまのことですよって。身請けされて好いたお方を諦めなければならないと思うた時に、うち生まれて初めて仏さまを恨みに思いました」 「一度だけ、一度だけ、仏さまの罰があたってもかましまへん。自分の好いたお方の心を独り占めしてはる沖田はんに意地悪したいと思いましたんや」 「昔遊んだ馴染みの女が尋ねて行ったら沖田はんの心に波が立つだろうと・・・。うちが沖田はんにとってそれ程までの者とは思ってまへん。そこまで思い上がった気持ちもありまへん。せやけどほんの少しでもええから焼き餅やいてくれはったら嬉しいと・・・・」 子楽がもう一度静かに笑みを浮かべた。 「沖田はんが偶然のふりしてうちを訪ねてきてくれはった時には、ああ自分の願いは叶ったんや・・・そう思いましたんえ」 笑った顔に浅い笑窪ができた。 総司は頬に朱の色を刷かせて俯いた。 自分の見破られた行動が恥ずかしかった。 「けどちぃっとも嬉しいことありまへんでした。沖田はんが焼き餅やいてくれはった・・それを願っていたのに・・なんでですやろ。うちそれが不思議でずっと考えてました。あの日、沖田はんがうちに会いに来てくれはった時、沖田はんのお顔がえろう寂しそうだったんですわ。幸せなはずの人がこないな顔をしはるはずが無い。きっとうちの胸にそのお顔がずっと残ってたんどすやろうなぁ。そないなお人に意地悪してしもうた事がずっとうちの胸を、ちくちく刺してましたんや。せやけど今日、沖田はんのお顔が幸せにならはっているのを見てほっとしました。やっぱりうち思い切って来てよかった」 子楽が小さく笑った。 その顔が安堵と寂しさに交差しているように総司に見えたのは、残照のせいなのか。 「ほんまに、堪忍どっせ」 頭を下げた子楽に総司が慌てた。 「そんなことはない」 「おおきに堪忍してくれはるんどすか?」 子楽の真摯な眸に見つめられ、一瞬ためらう風だった総司が、意を決したように口を開いた。 「私は子楽さんに会ったとき、土方さんを渡したく無いと思った」 それは子楽に嫉妬した自分を正直に表した言葉だった。 子楽は身じろぎしない総司を暫く黙って見ていたが、やがて嫣然と微笑んだ。 「おおきに。嬉しゅうおす」 それだけを短い言葉で告げるともう一度深く頭を下げ、子楽は小さな背をむけて本願寺の門に向かって歩き始めた。 その姿が茜色の中で小さくなり、視界から消え行くまで総司はそこに立ち尽くしていた。 夕暮れ色にそまる副長室で土方はまだ行灯に灯もいれずに熱心に書き物をしていた。 背後の気配に気付いてちらりと後ろを向き、それが総司だと分かると一瞬安堵の色を浮かべてまた文机に向き直った。 いつの日も、いつの時もそうだった。 土方は自分がその後についてくるのだと信じて振り返らない。 導くものは土方の背で、自分はそれを見失わなければそれでよかった。 だから自分に必要なのは土方その人だけなのだと、もう誰にも渡さないのだと、その想いをどう告げてよいのか分からない。 言葉にしてしまえばきっと安易なものになってしまうだろう。 だが今、総司はそれを伝えずにはいられなかった。 「・・土方さん」 ただひとり愛しい者の声に、土方がゆっくりと振り向いた。 了 裏文庫琥珀 玉響第弐章 2002.9.7 |