ももの木亭掲示板1000御礼  
                        
                       青柳みさとさまへ


      七   夕






「宗次郎」

川原から姿を見つけて上の畦の道に続く勾配を駆け上がり、小さな後姿に声を掛けると、まるでそれを待っていたかのように、無造作に結い上げた髪を揺らして少年は振り返った。

「土方さん」
宗次郎と呼ばれた少年は自分を呼び止めた青年に向かい、何がそれ程に嬉しのかと、思わず尋ねたくなるような笑みを満面に浮かべた。


「どこに行く」
「橋本さまのところに、近藤先生のお使いで来ました」
「お前ひとりでか?」
呆れたような問い掛けに、宗次郎は小さく頷いた。
「もう子供ではありませんから・・」
その声が幾分不機嫌そうにくぐもった。
この程度の道のりならば、十分に自分ひとりで来ることができる。
そう宗次郎は言いたいのであろう。
それが不満なのか、顔に心外そうな色を正直に湛えた。

だが今年、年が明けて十ニ歳になったという宗次郎は、同じ位の歳の少年達に比べても、ひどく頼りなく見える。


「近藤さんはどうした」
「先生は今日は大事なお客様がいらっしゃるから。でもこれも今日の内に届けておかなければならないからと言われて・・」
そう言いながら、大事そうに懐に入れてあった、黄色い油紙に包んだ書状を見せた。
「それでお前が一人で来たのか?他に幾らでも人はいるだろうに」



土方は内心舌打ちをした。
江戸の試衛館道場から、ここ小野路村までは結構な距離がある。
少年の宗次郎の足をして、一日で往復をするのには辛い行程だ。
きっと宗次郎は、夜も明けぬ暗い内に試衛館を発って来たのであろう。

だが言葉尻に近藤への多少の非難を込めた土方の口調に、また宗次郎の小さな顔が曇った。


「・・他にいなかったのです」
「あんなにごろごろしているじゃないか」
「今日は井上さんも皆も、たまたま用事があって居なくて。本当は大先生が来られると言われたのですが・・」

近藤勇の養父、試衛館三代目の当主近藤周助の事を、宗次郎は言っている。
確かに今は道場の実質上の全てを勇に譲り、隠居生活のような毎日を送っているとはいえ、仮初にも当主を自分の使いに遣るというのは、近藤にも些かの遠慮があったと見える。
結果、宗次郎に白羽の矢が立ったという事らしい。

夏の昼下がりを歩いて来た宗次郎の背中に、汗で藍木綿の着物が肌に張り付つくように濡れている。
日除けに被ってきた笠は、とっくに首の脇にずれて、ものの役には立ってはいない。
きっと熱がこもって、宗次郎には耐えられなかったのであろう。
稚気の抜けきらない白い頬が、天道の熱に長く触れて朱く火照っている。
自分を見る黒曜の瞳だけが、唯一涼しげに瞬きを繰り返している。

近藤に止む終えない事情があったことは想像に難くないが、それにしても目の前の、みるからに頼りない少年ひとりに、この炎天下を往復させようとした近藤の無神経さに無性に腹が立った。
それがつい言葉に強く出てしまった。



「全く役に立たない奴らばかりだな」
忌々しげに呟いた土方の声を聞いて、途端に宗次郎が俯いた。
「・・・ごめんなさい」
「何故お前が謝る」
下を向いたまま、宗次郎は応えない。

「お前は謝る事などしてはいないだろう」
それでも宗次郎は顔を上げずに黙ったままだ。

おおよそ宗次郎には土方の苛立が、役に立たない半人前の自分を寄越した事に由来しているのだと思えたのに違い無い。
この少年にはそういうところがある。
小さな頃から大人の中で育って来たせいか、他人の感情の起伏の有様を機敏に感じ取り、時に神経質なくらいに過敏に反応をする。


そんな宗次郎という少年の脆い部分を知っていてやりながら、ついそこに触れてしまった自分を土方は後悔したが、もうどうにでもなるものでもない。

「荷物を持ってやる。来い」
橋本家への届け物の入っているという包みやら、途中で飲んだのであろう水の入った竹の筒やらを、少しばかり乱暴に宗次郎の手からとりあげると、やっと顔を上げて、その突然の挙措に大きく瞳を瞠っている宗次郎を後に、土方はずんずんと先を歩き始めた。

「土方さん、今はどこに居るのですか・・?」
その背を小走りに追いながら、宗次郎が息を切らせて問いかけた。
「どこって、橋本の家に居る」
「このあいだ彦五郎さまの処に近藤先生と行ったら、土方さんは小野路村に居るって・・」
だから自分は来たのだと言わんばかりに、宗次郎の声が楽しそうだった。


宗次郎が言う彦五郎とは、土方の実姉のぶの嫁ぎ先で、日野の豪農佐藤彦五郎のことである。
ここのところ江戸の試衛館と日野の佐藤家を行ったり来たりしていたが、二、三日前に、姉ののぶの使いで土方の祖母の実家である橋本家に来て、そのまま留まってしまっている。

橋本家は小島家とならぶ小野路村の名主をつとめる家柄で、やはり同じように天然理心流の強力な後援者でもあった。
その橋本家はどうしたものか土方にとって気の休まる処らしく、来れば何日かはここで過ごして行くことが多い。



「お前、今日また試衛館に帰るつもりなのか」
確かに付いて来る、後ろの小さな足音を聞きながら、相変わらず振り向きもせず土方は問うた。
「あまり遅くになるようだったら、泊めて頂くようにって、近藤先生が」
「では泊まって行け」
「でもまだ今からなら、急いで戻れば暗くならない内に帰られるから・・」
「帰りたいのか?」
ようやく土方が足を止めて振り返った。
その勢いに気圧(けお)されたのか、宗次郎も息を呑むようにして立ち止まった。

「今夜は七夕の祭りがある。泊まって行くのなら連れて行ってやるが・・」
こういう親切を言葉にする事には、慣れてはいない。
その照れくささを隠すように、土方の物言いはひどく素っ気無かった。

「どうするんだ」
瞬きもせずに自分を見ている少年に、怒ったように低く応(いら)えを促した。
そんな土方の様子に気付いて、宗次郎が慌てて首を幾度も縦にして頷いた。
やがて汗にまみれた顔が、この上なく嬉しそうに笑った。





近藤の書状とは、近くの八幡神社に奉納する献額の件について書き記したものだった。
養父周助に早くに届けるように云われていたものを、すっかり忘れていて慌てたらしい。

無事に書状を届け、当主の道助から労(ねぎら)いの言葉をかけて貰うと、宗次郎は今まで張ってきた神経が一度に緩んだのか、幼さを残した顔にやおら疲労の色が浮かんだ。

「夕飯になったら起こしてやる。それまで休んでいるといい」
風通りの良い客間に連れて来ると、土方はそう云いおいて自分は出て行こうとした。
その袖を、宗次郎は遠慮がちに引いた。

「どうした?」
「眠りたく無い」
「今寝ておかないと、夜になって眠くなる。そうすれば七夕の祭りには行けなくなるぞ」
「大丈夫です」
「何が大丈夫だ」
「眠くなどなりません」
頑固に言い張る宗次郎に、土方はひとつ息をついた。

「眠りたくなければ勝手にしろ。だが俺は忙しいからお前の相手はしてやれないぞ」
少しばかり意地の悪い言い方に、宗次郎の顔がみるみる失望の色に染まった。
精一杯背伸びをしてはみても、こういう率直な感情はまだまだ隠せないらしい。

「夕飯を食ったら必ず連れて行ってやる。だから今の処は俺の言うことを聞いておけ」
幾分和らいだ土方の声音に、宗次郎がまだ名残惜しそうにしながらも、諦めたように頷いた。
それでも自分に向けた顔が寂しそうに沈んだのを見れば、流石に後ろめたいものを感じ、それを隠すようにやや乱暴に宗次郎に背を向けた。




この家の誰が吊るしたのか、軒で風に戯れて時折音をたてる風鈴を、宗次郎は先ほどから横になって、飽く事無く眺めている。
確かに身体は疲れて水を含んだ綿の様に重いのに、少しも眠ることなどできはしない。
一度瞳を閉じて現(うつつ)を離れてしまったら、土方との約束も夢となって消えてしまいそうに思えた。
あと幾つこの風鈴の鳴る音を聞けば夜になるのだろう。

そんな事をぼんやりと思いながら、樹々を渡ってくる夏の昼下りの風が、前髪を揺らし、乾いた頬に心地良かった。





祭りといっても、それは近くにある小さな神社の毎年の行事で神輿を担ぐ訳でも無く、「七夕」という季節の風情を楽しむものだった。
近在の老若男女が幾棹かの竹笹に願い事を書いた短冊を吊るして、その成就を祈願するという、どちらかと言えばひっそりとした神事にも似ていた。



「何か願い事を書いてここに吊るすといい」
土方が一枚の細長い短冊を宗次郎に手渡した。
「願い事?」
「沢山あるだろう」
「書いて吊るすと叶うのかな?」
「そのために書くのだろう」
「叶わなかったら・・?」
「諦めるしかないだろうな」
「・・・諦める?」
「そうそう簡単に願い事など、叶うものでも無いさ」

たかだか短冊に書く願い事で、何故こんなに拘るのか分からず、土方は闇に仄かに浮かぶ宗次郎の白い顔を訝しげに見た。
その宗次郎はまだ短冊を手にしたまま、考え込んでいる。。

「どうした?」
土方の声にようやく、やや俯き加減にしていた顔を上げた。
「書くの、やめます」
「何故?」
「叶わないと困るから」
「ばか、そんなことは迷信だ」
「それでも書かない」
「ならば、好きにしろ。お前の願い事など俺の知ったことではないからな」
訳の分からぬ事を言う宗次郎に、つい声を荒げた。



自分と同じで早くにふた親を亡くし、姉の手で育てられたというこの少年は、どうした訳なのか初めてあった時から、己の心に強く気にかかる存在だった。
環境の酷似だけではなく、何故かこの少年をほおっては置けない自分がいつも居る。

黒曜石に似た深い色の瞳に、ほんの一瞬湛えられる縋るような色は、自分だけに向けられるものだといつか気づくようになった。
宗次郎をいじらしいとも思い、大切にしてやりたいとも思う。

だからこそ自分が知ることの出来ない宗次郎を、土方は許せなかった。
誰よりも宗次郎の事は、自分が分かってやっておかなければならなかった。


そんな苛立ちを、土方の若さもまた堪えることが出来なかったのだが、言い切ってすぐに苦い思いが胸に走った。大人気ない事を言ったと思う。
が、そう感じるよりも一瞬早く、自分を凝視する宗次郎の黒曜の瞳をみるみる覆うものがあり、それが露となってひとつ頬を伝わった。
恥じるように、宗次郎が咄嗟に下を向いた。


「こんなこと位で泣くな」
しまったと、己の所業を後悔してもすでに遅かったらしい。
宗次郎は必死に嗚咽を堪えている。
時折か細い項(うなじ)が震える。

「・・・泣いてなどいません」
だがその声は強張って、ところどころ途切れた。

こんなに感情を露にして泣く宗次郎は初めてだった。
何故宗次郎が泣くのかが理解できず、焦りにも似た気持ちをかこって土方は戸惑った。

そうこうしているうちに、宗次郎の涙はあとからあとから溢れ出ているようで、時折耐えられずにしゃくりあげる。



どうやってこの少年の心の裡(うち)を知ってやったら良いものか、それすらもう分からず、土方はただ途方にくれて、宗次郎の小さな頭の上に手を置いた。
その掌の温もりを感じて、宗次郎がついに両の手の甲を目に当て、もう堪える事もなく、小さな泣き声を漏らし始めた。






二人とも無言のまま、気まずい思いで帰る夜道は長い。
宗次郎はあれから俯いたまま、土方と視線を合わせようともしない。
多分泣き濡れて赤くなった瞳を見られるのが嫌なのだろう。

土方も黙ったまま、それでも後ろから付いて来る気配だけには敏感になっていた。
その宗次郎が少しづつ、自分よりも遅れだした。


「宗次郎」
意を決したように振り向いた土方に、宗次郎がひるんだように立ち止まった。
「疲れたのか?」
それには首を振って否の意思を示した。
が、掲げた提灯の淡い灯に照らしだされた宗次郎の姿には、来る時の生気の欠片も無い。
夕に萎んだ朝顔のように、脆弱な身体だけが頼りなくある。

土方は大またで宗次郎の前まで戻ると、背を向けて膝をついた。
「おぶされ」
後ろで宗次郎が先程よりも激しく首を振ったのが分かった。
「早くしろ。置いてゆくぞ」
まるで脅しつけるような、土方の低い声だった。
それでも暫らくためらっていたが、やがて宗次郎の腕がおずおずと土方の首筋に回された。



「昼に眠れと言ったのに、言うことを聞かないからだ」
「・・・・すみません」
あれから初めて聞く宗次郎の声は掠れて良く聞き取れなかった。
それが自分のせいだと思えば、土方もまた自責の念に苛まれる。

「何故、あんな他愛も無いことに拘った」
「・・・叶わないと、困るから」

背を通して感じる互いの温もりは、頑なだった心を少しずつ解きほぐして行く。

「そんなに大事なことなのか?」
背中で宗次郎が頷いた。
そんな大切な秘密を持っている宗次郎に、土方は少しばかり面白くないと思う自分を見つけて胸の裡で苦笑した。

「それは天に願わなければ叶わないことなのか?」
何故そんな事を言ったのか、土方自身にも分からない。
だができることならば、自分がそれを叶えてやりたいと、不思議なことに今切実に思った。

「・・・・違う」
宗次郎の細い腕が、心持ち強く土方に絡んだ。

「誰かに叶えて貰えることなのか?」
「・・・土方さんに」
聞き逃してしまいそうな、小さな声だった。

「俺に・・?俺が叶えることができるのか?」

突然の話しの成り行きに、聞かれて宗次郎が口を噤(つぐ)んだ。

「俺に叶えてやれることなのか?宗次郎」
重ねて問われて、やがて観念したように小さく頷いた。

「だが俺にもお前の心の裡までは分からん。言葉で伝えなくては他人には通じないぞ」
「・・・土方さんに」
何かをひとつ決めたように、宗次郎が呟いた。
「俺に?」
「土方さんに、ずっと試衛館に居てほしい」
一気に言い切って土方の背に顔を伏せた。



背負われて行く道の両脇の竹藪が、時折夜風に揺れて重なりあった笹を騒がせる。


土方は何も言わない。
土方の短い沈黙が、宗次郎にとっては果てのない拷問だった。
今はそれを否と返される事に、ただ怯え続けた。



「お前はそんな事を望んでいたのか・・」
どの位の時を経たのか、顔を伏せた背中に響いて、土方の静かな声音が耳に届いた。
その問い掛けには、固く瞳を閉じたまま頷くことしか出来ない。

「橋本の家についたら、短冊にその願い事を書いてみろ」
「・・・叶うのかな」
それだけを言葉にするだけがやっとだった。
「俺が吊るしといてやる」
是とは応えず、だが土方の声は優しかった。
それを唯一の頼りに、宗次郎はもう一度微かに頷いた。


戻ったら短冊に願いを書いて竹笹に吊るさなくてはならない。
けれど今は揺れる土方の背が温かい。
眠ってしまったら願いを書くことができなくなる。
そんな事を思いながら、いつしか宗次郎は安堵の眠りにさらわれていった。






翌朝目が覚めた時には、すでに夏の陽が辺りを強く照らしていた。
蚊帳を張った室の真中に延べられた夜具の上で、自分は眠っていたらしい。
まだぼんやりとした頭で思考を巡らせ、やがて昨夜の事に思い当たって、慌てて飛び起きた。

短冊を吊るす事無く、寝入ってしまった自分を知って愕然とした。


叶わなくなってしまう・・・

愚かな自分に涙が零れそうだった。
それを夜具の端を強く握り締めて堪えた。



「宗次郎」
蚊帳の外で、決して聞き違える事の無い土方の声がした。

「目が覚めたか?」
起きている気配があるのに、応えの無い宗次郎を不審に思って、蚊帳の端をめくり上げて入って来た。


「何を泣きべそをかいている。さっさと支度をしないと置いてゆくぞ」
今にも泣き出しそうな宗次郎を見て、土方の声が笑っていた。
「・・・どこに?」
「一緒に試衛館に帰るのじゃないのか?」
一瞬宗次郎が弾かれたように顔を上げて、土方を見た。

「そんなに驚く事はないだろう」
呆然と、瞬きをするのも忘れたように自分を見ている宗次郎に、土方が堪え切れないように笑い出した。

「・・・でも、短冊を書かなかった」
「俺が書いといてやったよ」


言葉の全部を聞かぬ内に、宗次郎が素足のまま庭に飛び出した。
土方の声が背後で聞こえたが、振り向きもしない。
そのまま庭を走り、昨夜この家の家人が作った七夕の竹笹を探し当てると、弓なりにしなる程に吊るされた短冊の中の一枚を、夢中で探した。


沢山の同じような白く細長い紙の中に、見慣れた文字を滲ませてそれはあった。


『宗次郎といられますように』
その下の名は土方その人のものだった。

代わりに書いてくれたのではなく、土方自身も自分と居ることを望んでくれた。
それは自分への土方の優しさだとは十分わかってはいたが、それでも宗次郎にはこの短冊がなによりも大切なものに思えてそっと手のひらに包み込んだ。
今自分の頬に伝わるものは、昨夜流したそれとは違う。
こんなに嬉しいはずなのに、何故だか零れるものを止められない。




「帰るのか、帰らないのか」
いつの間にか土方が、すぐ後ろに立っていた。

宗次郎は必死に頭(かぶり)を振って、次に気が付いたように幾度も頷いた。

「どっちだ」
土方のうんざりとしたような声音が耳に響く。





それを聞いて、もうどうして良いのか分からずに、顔が泣くのと笑うのと一緒になった。






  


                             了




         水晶の文庫