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筒井筒 -tutuizutu- 「祭りの帰りに、新しい下駄の鼻緒が擦れて痛くて、・・・それでも一生懸命歩いたのに、何故痛いと云わなかったと、後でずいぶん土方さんに叱られた」 腰掛けている濡れ縁から下ろした足先が揺れる度に、地に落ちた影が、まるで生有るもののように伸び縮みする。 その気侭な風情に目を細めながら告げる総司の口調は、恨みの言葉を云うには柔らかい。 「そんな事も、あったな」 だが視線を、手に在るものの一点に落としたまま、顔も上げずに応える物言いは素気無い。 「土方さんは、いつも意地悪だった」 そんな相手を責め立てる声音には、微かな笑いすら籠もる。 「生憎だったな」 それを然も無く交わしながら、土方の注意は、やはり己の手先にだけ注がれている。 その横顔を総司は暫し無言で見つめていたが、やがてゆっくりと、金色(こんじき)に変わりつつある庭へ目を向けた。 「その意地の悪い人間に、未だ鼻緒挿げをさせるのは何故だ」 「・・え?」 下駄の小さな孔に前緒を通す、その作業に神経を集めている土方の唇が僅かばかり動き、そうして漏れた低い呟きに、総司が慌てて振り返った。 だが降りしきる蝉時雨が邪魔をし、聞きづらかったのか、見つめる面輪は、沈黙の中で今一度同じ言葉を待つ。 「何でも無い」 向けられた視線を気配で感じた土方が、苦笑交じりのいらえを返しても、総司の唇は閉ざされたまま、こちらを見ぬ横顔を不安げに凝視している。 それでも無言の時は暫し続き、やがて土方は通し終えた前緒の締め具合を確かめると、次ぎに指を入れて鼻緒全体の形を整え、組んでいた胡坐を回して向き直った。 「出来たぞ」 唐突に差し出された下駄に驚いている総司の手に、押しつけるようにしてそれを渡すと、もう用は無いとばかりに立ち上がった長身の主は、夕暮れの陽が眩しい縁を離れ、室の中央に、左腕を枕にして横になってしまった。 「きついようだったら、云え」 その姿勢のまま放たれた物言いは、命じると云った方が良い横柄なものだったが、総司は慌てて頷くと、手にした其れを土の上に置き、漸く左右揃った下駄に、ゆっくりと足を通す。 「丁度いい」 二度三度、先で地を叩いたりして具合を見ていたが、やがて嬉しそうに奥に向けて告げた声に、言葉のひとつも返すでも無く、土方は億劫そうに目を閉じた。 「・・ありがとう」 その眠り端を邪魔せぬよう、遠慮がちに重ねた言葉にも、戻るいらえは無い。 だが総司は立ち尽くしたまま、少しの間動きの無い土方を見ていたが、やがてこれ以上は何の反応も戻らぬと知るや、漸く諦めたように背を向け縁に腰掛けた。 下駄の鼻緒は、今挿げたばかりのものとは思えぬ程に、きつくも無く緩くも無く、丁度良い加減で足の甲を押さえる。 見知らぬ大人ばかりの中で始まった生活に、姉恋しい寂しさを堪えきれず、枕を濡らした証を知られたく無くて、夜具を抜け出し膝を抱えて眠る夜が二つ続いた日の、夜も明け切らぬ早朝、水を汲むに難儀していた井戸端で出会った人は、切れた鼻緒を黙って挿げてくれた。 優しい言葉を掛けてくれるのでもなく、柔らかな笑みを見せてくれるのでも無い、むしろ誰よりも素気無い態度を見せる人の背中を追いかけるようになったのは、いつの頃からなのだろうか。 気がつけば、視線は常にその人の姿を探しているようになったのは、どれ程前からなのだろう。 慕う気持ちが、苦しいだけの想いに変わってしまったのは、何処からなのだろうか。 そうして白粉のむせる街から戻らぬ人を、独り伏す床で、唇を噛み締め耳を塞ぎ、眠れず過ごす夜を幾つ数えた事か・・・ もう数える事も適わない。 追えば切なく、想えば千々に身が砕け散ってしまいそうに胸が痛い。 いっそ言葉など選ばず、今この胸の裡に逆巻くものを、迸るままに、あらん限りにぶつけてしまいたいと・・・ どんなに叱っても戒めても、主の云うことなど聞かず、まるで我が身のもので無い様に心が乱れるようになったのは、一体いつの頃からだったのか―― ともすれば溺れてしまいそうな恋苦しさに引き摺られまいと、おもむろに見上げた先の木立からは、枝を撓らせる勢いで幾重にも和す蝉の鳴き声が、往く夏を、其処だけに留めるかの如く、天に響き地に轟く。 「昼間、伊庭が来てたのか」 だが眠っていると、そう思っていた人の声は、背後から不意に、まるで今在る心を見透かしたかのように掛かった。 「何をそんなに驚く」 びくりと身を震わせ、次に慌てて振り返った、そのあまりの狼狽ぶりを訝しげに問う声が、総司に緊張を強いる。 「・・眠っていると、思ったから」 ようよう唇を震わせ出た声は上ずり、直前まで胸の裡を揺らせていた想いの丈を知られまいと、酷くぎこちない。 「お前、あいつと何かあったのか?」 「・・何か、・・あったって?」 その心の臓の高鳴りを鎮める間も無く、続けられた言葉のあまりの思いがけなさに、総司の面輪が一瞬にして強張る。 「何もなけりゃ、それでいい」 「八郎さんが、何か言ったのですか?」 然も無く云い切って、寝返りを打とうとした背を、今度は総司の硬い声が止めた。 「いや」 「ならば、何故そんな事を聞くのです」 それ以上会話を続ける意志の無い事を、あからさまに知らしめる面倒そうないらえにも、総司は執拗に食い下がる。 「お前こそ、何故そんなに向きになる」 「何故・・て。土方さんが変な事を、言い出すから・・」 流石に不審を感じ取った土方の鋭い視線に捉らわれた途端、それまでの激しさは急速に失われ、言い訳する言葉はしどろもどろに語尾が澱む。 更にその土方が身を起こしかけるのを見ると、総司は目線の高さが同じになるのを避けるかのように、背を向けた。 「光さんには、文を書いたのか?」 隠し事を、隠し事に出来ぬ不器用な背を、暫し無言で見ていた土方だったが、閉ざされた唇が頑なにいらえを寄越さぬと知るや、ゆっくりと立ち上がり、振り向かぬ主に問うた。 そのまま幾つか歩を進めて敷居を跨いで縁に出、総司の傍らに腰を下ろした寸座、痩せた木が軋む音を立てたが、それよりもかの者の、竦む心の悲鳴の方が、遥かに強く土方には響く。 「・・姉さんには、今夜」 未だ心の裡を大きく波立たせている、動揺を悟られまいとの必死は、無残な程に総司の声を硬くする。 「今夜?お前、まだ書いていないのか」 呆れたような物言いに頷く横顔は、しかし正面の木立に向けられたまま、問う主とは一度も視線を合わせようとしない。 「不孝な奴だな」 「・・何を書いたら良いのか、分からなくて」 「詫びる言葉しか、無いだろう」 「分かっている・・」 叱る言葉にぽつりと漏れた呟きは、同時に伏せられた瞳と共に、気弱を映して頼りない。 出稽古先の小野路村で麻疹に罹った総司は、一時は医師に難しい顔を強いるまでに病状を悪化させてしまったが、それもどうにか脱して周りが安堵したのも束の間、たまさか見舞いに訪れた八郎と共に、まだ無理だと止める周囲の反対を押し切って、試衛館に帰って来てしまった。 その時の姉光の杞憂は尋常では無く、確かに無事に着いたとの知らせを走らせたにも関わらず、不安は拭いきれなかったようで、総司は元より、道場主の近藤へも迷惑を掛けた旨を詫びながら、弟の身を案じる文を寄越していた。 土方の問いは、その文への返事の事を云っていた。 「散々駄々をこねて案じさせ、それで仕舞いか?」 「・・・姉さんには、いつも心配ばかりを掛けてしまう」 「分かっているのなら、何故書かない」 厳しい詰責に、だが返るいらえは無く、総司は唇を噛み締めるようにして、自分の足元へと視線を落とした。 ――小野路村で、療養を余儀なくされていた日々。 土方と離れてしまった孤独感に押しつぶされそうになっていたあの時、八郎の何気ない言葉から、近藤の妻つねの里帰りで試衛館に手が無く、皆が難儀をしていると知ったそれを隠れ蓑に、闇雲に己を貫き通して帰って来てしまった。 だがその途中、暫時の雨を凌ぐ為に入った社の中での、思いもかけない八郎の告白は、逆に総司に、己の裡にある、土方への想いの丈の強さ激しさを、今一度知らしめる結果となってしまった。 そしてその衝撃は同時に、決して知れてはならぬこの恋情が、いつか堰を切って迸り出る予感に、総司を怯えさせ始めた。 だがどんなに隠そうとしても、土方は恐ろしい程に鋭く、自分の心にあるわだかまりを見破ってしまう。 その後も幾度と無く八郎は試衛館を訪れ、そうして以前と何一つ変わらぬ笑い顔を見せる。 それに対してどんなに自然に振舞っているつもりでも、どこかぎこちない自分の素振りは、あまりに違和感のあるものとして、土方の目には映るのだろう。 或いは先程さり気無さを装って問うたのも、それを質す機会を、土方自身が待っていたのかもしれない。 否、きっとそうなのだろう。 そして自分は、いつかその時の来るのを知っていた。 覚悟はしていた筈なのに、いざとなれば嘘のひとつも上手につけず、ただ怯えるだけの、意気地の無い自分が情けない。 顔を上げられないのは、これ以上言葉を交わせば、胸の裡にある秘め事を、きっと土方に暴かれてしまう事への恐怖からだった。 「昔、姉さんの挿げてくれた下駄の鼻緒を恋しがって泣いた奴が、こんなにつれなくなるとは、光さんも気の毒な事だな」 ぎこちなく途絶えていた会話の端を繋いだのは、土方の揶揄だった。 「恋しがってなど、いない」 「嘘をつけ」 「嘘じゃない」 強く抗い見上げた勝気な瞳が、しかし其処で待っていた視線に捉われるや狼狽に揺れ、直ぐにそれを隠すように逸らされた。 「・・・嘘じゃない」 本当は、姉を越えて恋しい人が出来たのだと、云えられずに俯いた横顔の唇が、戦慄くようにして、二度目の言い訳の言葉を紡ぐ。 すぐ隣に居る者の声をも邪魔するような蝉時雨は、一瞬、まるで其処だけ時を切り取ってしまったかのように、ぴたりと音を止める事がある。 そうして出来た束の間のしじまは、しかしその狂騒を聞きなれた耳には、ひどく落ち着かない違和感をかもし出す。 互いに心の裡を掴めぬ晩夏の夕暮れの中、何とは無しに気まずい沈黙が続いたその時、不意に遠くから熱い風に乗り、微かな人の声が聞こえてきた。 「・・筒井筒、か」 その正体が何なのか、ふたり共に暫し其方に神経を傾けていたが、やがて漏れた低い呟きに、押し黙ったままの総司が、傍らの主を見上げた。 「凝りもせずに、良く続くものだな」 舌打ちせんばかりに苦々しく言い捨てた土方だったが、自分に向けられている不思議そうな瞳に気付くと、仕方無しの苦笑を見せた。 「下手の横好きだ」 「大先生は、謡曲が得意だから」 言葉の意味する処が、奥から聞こえて来る謡の事を云っているのだと知ると、総司の面輪にもつられるような笑みが浮んだ。 「此処に来る奴で、聴かされない人間はいないだろうが、あれこそ傍迷惑と云うものだな」 うんざりとした物言いは、しかし土方も、確かにそれに巻き込まれた一人であったと云っていた。 今は隠居している、この試衛館の三代目当主近藤周斎は、艶話には事欠かぬ粋人だったが、それゆえ趣味の範囲も広かった。 特に講釈、謡曲を得意とし、酒が入ると端座させた門人を前に、上機嫌で自慢の喉を披露した。 それに付き合わされるのは御免だと、土方などは滅多矢鱈隠居部屋へは近づかない始末だったが、こうして謡の一端で即座に演目を当てるとなると、律儀な門人の体をとらされたのは、一度や二度の事では無いらしい。 総司の面輪にある笑みは、それを察しての事だった。 「けれど謡曲は、武士のたしなみだって大先生が」 「言葉より、中身の問題だろう」 苦虫を潰したように、眉根を寄せた端正な顔(かんばせ)を見る総司の唇から、遂に堪えきれない小さな笑い声が零れ落ちた。 謡曲とは能の脚本であったが、当時武士階級は、己の口語言語の訓練の為にこれを習いとし、それによって言葉遣いに品格を保ち、恥ずかしいものにならぬよう修練した。 そう云う意味合いもあり、年端も行かぬ愛弟子には殊の外、周斎は謡曲を良く聞かせ又習わせもした。 「・・筒井筒、井筒にかけしまろが丈、過ぎにけらしな妹みざる間に」 庭の木々へと視線を戻し、そうして最初は躊躇いがちに、けれど段々に強く、総司の唇は途絶えてしまった声を引き継いで、その和歌の全部を紡ぐ。 「背丈が伸びたなどと遠まわしをせずとも、好いたとひと言で済むものを、面倒な事だな」 謡い終えた余韻も消えぬ内に聞こえてきた声に其方を向けば、土方が、横顔の見えない半分だけを顰めているのが、茜色の陽を受けて作る高い鼻梁の影が、少しだけ揺れた事で分かる。 「土方さんとは違う」 そんな癇性を揶揄して笑った声が、漸くいつもの邪気の無いものに戻っていた。 「でも・・いつからなのだろう」 暫し笑いを堪えるようにして、無愛想な横顔を見ていた総司だったが、やがてゆっくりと正面を向いて呟いた声音は、折から射し込んだ残照の強さとは、凡そ不釣合いに寂しげなものだった。 「何が」 「・・和歌を送った男の人が、幼馴染の女の人を好きになったのは」 その異質さを感じ取ったのか、怪訝に振り向いた土方を、深い色の瞳が待ち構えるようにして見つめていた。 「そんな事は知るか」 「ずっと、好きだったのだろうか」 いらえの素気無さにも怯まず、畳みかける様にして問う様は、総司の言葉の意図するものが掴めず、土方を困惑させる。 「そうでなけりゃ、わざわざこんな歌を送り付けはしないだろう」 瞬きもせずいらえを待つ瞳に負けた形で返す調子には、呆れよりも先に、聞き分けの無い者への、俄かな苛立ちが交じり始める。 「そうなのかな・・」 その不機嫌を機敏に察して呟いた声音が、夕に萎れる朝顔の儚さにも似て、夕暮れが彩る茜色の中に溶け行くように消えた。 そうしてそれが合図であったかのように、鳴くを忘れていた蝉が、ひとつふたつ・・ 数を知る間もなく一斉に透ける羽を震わせ音を鳴らし、幾重にも和すその輪は、たちまち辺りを元の喧騒に包み込む。 「何故そんな事を聞く?」 「・・何故・・って」 再び沈黙に籠もってしまった主に問う土方の双眸は、木立全部が揺れるような喧しさの方角を鬱陶しげに見ており、向けられた深い色の瞳が、微かに揺れ動いているのを知らない。 「・・小さな頃から」 やがて無言の行に負けたかのような諦めと、未だ云うを逡巡する戸惑いとを、交互に織り成したような不安定な響きが、地に映る己の影法師に視線を移した総司の唇から漏れた。 「小さな頃から?」 そうでもしてやらなければ先は聞けないであろうと、先を促す物言いは凡そ愛想の無いものだが、しかし総司はそれで躊躇いを捨てたように顔を上げた。 「小さな頃からずっと好きでいたのに・・けれどそれは、大人になってから、人を恋しいと想うものとは違う。何故人は、小さな頃の好きのままでいられないのだろう。 ・・・そう云う風に変わる切欠って、何処にあるのだろうと思ったから」 「珍しいな、お前がそんな事を言い出すなど」 「土方さんに聞けば、分かると思った」 再び土方を振り仰いで笑う顔には、もう屈託は無い。 「つまらん事を聞くな」 「・・つまらない事かな」 浮かべている笑みも、柔らかな声音の調子もそのままに、しかし沈む間際の西の陽射しが落とした翳は、細い筆で丹念に描かれたような総司の面輪の線を朧に霞めさせ、この者が今現に在るのかと、一瞬奇妙な錯覚に土方を囚らわせる。 「好いたと知った、それが切欠だ」 不意に頭上に羽ばたく鳥が落とした影のように、突然己の裡を過ぎった、得もいえぬ禍々しい感情を振り切る声が、怒声にも似て大きくなった。 「好いたと・・知った時・・?」 「他にあるか?」 心許無く弱い反復に、返すいらえの声には、怒りすら籠もる。 己にも鎮め様の無い不機嫌の原因が、先ほどから奇妙な問答を繰り返す、総司の真意を量りかねた苛立ちの反動だとは、土方自身も重々承知している。 「が、生憎だったな、それは俺に聞く事じゃない」 昔から何故かこの者には、それが何で有れ、秘め事を持たれるのに堪えの効かぬ己を知り、そして一旦憤れば、とことんまで追い詰めてしまわねばいられない、その最悪の事態を避ける為に、会話の仕舞いを告げる声音が低く素気無い。 だがそんな胸中など知る由も無く、総司は、ただひたすらに土方を凝視している。 「惚れた、好いたのと、そんなものは煩わしいだけだ」 このままでは埒が明かないと諦めたのか、遣る瀬無い吐息と共に嘯いて立ち上がった長身を、深い色の瞳が、慌てて見上げた。 「歩いてみて、具合が悪いようなら云え」 「・・えっ?」 そうして高い位置から命じられた言葉は、又も唐突すぎて、益々総司を混乱させる。 「下駄だ」 無愛想に一度だけ指差すや乱暴に踵を返した後姿は、もう振り向く素振りも見せず、廊下の先へと小さくなる。 その土方の背を、総司は縁から下り立ちぼんやりと瞳に映していたが、やがて追っていた姿が、視界の何処にも見つけられ無くなると、一層強くなった蝉の鳴き声に促されるように、緩慢な仕草で足元に視線を落とした。 素足の甲を八の字に押さえる鼻緒は、右も左も土方が挿げてくれたものだった。 そのままひとつふたつ地を踏みしめてみると、過不足無い締り具合が心地良い。 だが総司はそれ以上歩を進める事はせず、縁まで戻ると、元のように其処に腰掛け、傍らの板敷きへと手の平を翳した。 辺りを茜色に染める頃合になっても厳しさの衰えない残暑は、人の置いて行った温もりなど、たちまち己の熱で消し去ってしまう。 それでも手を指を一杯に広げて、総司は有るはずの無い温もりを探る。 惚れた好いたは煩わしいだけだと、土方は云った。 ならば秘めるだけの想いは、許されるのだろうか。 慕い続けていた、ただそれだけの思いは、いつの間に身を焦がすような恋情に変わってしまったのだろうか。 苦しいだけの想いが、胸を裂いて迸る予感に怯える日々は、いったい幾つ続けば終わるのだろうか。 それでも、この想いを知られる事は出来無い。 束の間も、一瞬も、土方の傍らから離れたくは無いが為に―― 「・・井筒にかけし、まろが丈」 独り語りの呟きは、誰に聞かせるものでも無い。 「過ぎにけらしな・・」 だが苛烈なまでの紅に染まる天を仰いで紡ぐ声音は、一瞬迸りにも似た激しさで総司の唇を震わせる。 「・・・妹見ざるまに」 ――そうして踏まれた最後の韻が、晩夏の残照の中、余韻も残さず止まぬ蝉時雨に呑まれて消えた。 水晶の文庫 |