露 U -tuyu-



「艦はいつ出る」
「この風が止めば明日早朝には・・・」
傷病者の手当ての為に慌しく船室を行き来していた足をふいに呼び止められて、それでも島田魁は律儀に土方の問いに応えた。
新撰組の生き残りを乗せた二隻の艦のうち、順動丸は天保山沖を昨日出航していたが、土方等が今乗船している富士山丸は、暴風の為一旦兵庫に碇泊していた。

「止みそうか」
「少しづつ鎮まっては来ています。が、まだ暫く様子を見なければ出向の有無は分かりませんでしょう」
「呼び止めてすまなかった。行ってくれ」
それが自分の責任でもないのに、申し訳なさそうに頭(こうべ)を垂れる島田の肩を土方は軽く叩いた。

だがそんな労いの言葉を掛けられて、例え完全な敗北といえど常に強気を崩さなかった土方の、いつにない憂えるような語調がどうにも気になり、島田は上げた視線の先に小さくなる背を暫く立ち止まったまま見ていた。



木造艦の、決して建て付けが良いとは言えない扉を押すと、やはり懸念していた通りに軋んだ木の音が病人に聞えたようで、寝台の上に伏していた酷く薄い人の形が動いた。
だが身体を起こすことはできず、土方が歩み寄る姿が見えると、血というものがこの者に一体流れているのだろうかと、見るものを不安にさせるような蒼白な頬に、総司は安堵の笑みを浮かべた。


「まだ言う事を聞けないのか?」
狭い船室の隅にあった椅子を寝台の横まで引き寄せて、それに腰を下ろしながら顔を覗き込むと、黒曜石の深い色に似た瞳が翳りを宿した。
脇にある机の上に目を遣ると、幾分大きめな湯呑みと小さな白い薬包が、まだ此処へ持ってきたままに置いてある。

「飲ませると言う約束を、松本先生としてきた」
「・・・これを」
人の腕というにはあまりに痛々しい細さの総司のそれが、机の上を指さした。
「飲んだら江戸まで眠ってしまう・・・」
視線を上げるのさえ大儀そうにしながら、瞳だけが揺らいだ。
「飲まねば江戸には行けない」
もう幾度繰り返したか覚えておく事も出来ない問答を、また続けなければならない微かな苛立ちに土方は吐息した。



鳥羽伏見の敗戦は、新撰組を遂に江戸に撤退させることを余儀なくさせた。
すでに息をしているのが不思議とまでに弱っていた総司の身体は、当初艦の旅に耐えうるものではないと、戦乱にあって主治医をかって出てくれた御典医松本良順は断言するように土方に告げた。
置いて行くべきだという松本に、強く首を振って江戸に連れて帰ると、己の意志を貫き通した土方だった。
総司をこの身から離すときは、次の世で掴まえるまでの、瞬く間も与えぬ束の時だけと決めていた。

譲らない土方に、松本が示した最後の譲歩は病人を眠らせて乗船させることだった。
船酔いは常人にすら激しい体力の消耗を要する。
胸を病み、すでに末期と手の打ちようの無い総司の身体は殊に衰弱が激しい。
順調に行けば艦は三日程で江戸に着く筈だった。
その間のほとんどを眠らせておく事によって、無けなしの体力の温存を図ろうと松本は考えたのだった。
その薬も船酔いが始まれば胃の腑に流し込んだものが逆流し、役には立たなくなる。
今夜は更に風が酷くなり、海は荒れるかもしれない。
それ故一刻も早くに飲まさなければならない。
躊躇している間は無かった。



「目を覚ませばもう江戸だ・・・膳所に寄っている田坂さんも遅れてすぐに着く。みつさんも、きっと伊庭も戻ってきて・・・皆がお前を待っている」
己の口から次々に繰り出される嘘は、一体何処から出ているものなのか・・・・
だがそれを反問する余裕すら、土方にはなかった。
どんな事をしても繋ぎとめておかねばならぬのは、目の前に息する想い人の命脈だった。
それでも総司は辛そうに土方の顔を見るだけで、ひと言も応えを返そうとはしない。


頑ななまでに眠る事を拒む総司の思いが、土方には痛い程分かる。
総司はこの艦に行き着くまでの、淀川を下る舟の中で命を賭して自分に抱かれる事を望んだ。
江戸に戻れば今度こそ置いて行かれるのだと・・・
それならば此処で果てたいと、そう願った総司の激しさに応えてやるだけが精一杯だった。
眠って目覚めれば、そこからは終焉に向かって孤独な日々を送らねばならない自分を思い、総司は今気の狂うような孤独の中にいるのだろう。

薬を服さない事が、それを拒むたったひとつの砦のように、今総司の心を閉じさせている。
それを知りながら、ただ生きながらせたいが為に飲めと強いる自分は、恐ろしいまでに勝手な心の持ち主なのだろう。
思えば生身に杭を打たれるような苦しさだけが、すべての思考を支配する。
それでもまだ、この生きた温もりを失う訳にはゆかなかった。
例えそれがすでに人でない所業であっても、我が身から総司を奪うものは何人たりとも許すことはできない。
土方の悲愴な決意だった。



「・・・お前は今何を思っているのだろうな」
頬に手を触れられて、突然の言葉に黒曜の瞳が戸惑うように土方の眼差しの行方を追った。
「置いてゆかれるのだと・・・そう怯えているのか?」
総司は応えを返さぬまま瞳を閉じた。
それは今度こそ、あらゆるものを拒絶する頑なな姿勢に土方には思えた。
「どうして目を閉じる」
だがやはり総司は応えず、土方から逃れるように反対に身体を倒そうとした。
それを病人にするには荒い仕草で土方は遮った。

「・・・置いてゆこうとしているのはお前だ」
選ぶ暇(いとま)すら叶わぬ言葉に任せた、土方の堪え切れぬ感情の迸りだった。
そのまま戒めるように覆いかぶさり、触れた総司の頬に冷たいものがあった。
想い人の閉じた瞼から溢れる露が、重ねる土方の頬をも濡らす。

「お前はいつも俺を不安にする・・・」
総司の肌は自分のそれよりも余程に熱い。

「・・・お前の身体が熱を帯びるとき、・・血を吐くとき・・・俺はいつもこうして恐怖していた」
肌を合わせて互いの温もりを一つにしても、まだ総司はすり抜けてゆこうとする。
この恐怖を何と言葉に表したら、どうして総司に知らせたら良いのか・・・土方にはわからない。
猛り狂う波のうねりのように、愛しすぎる者を失くす日を戦慄している己の激情を、堰を切ったようにぶつける他、土方はもう術を知らなかった。
総司を覆ったそのままに、薄い肩口に顔を伏せた。



「・・・死ぬな」
それは長いとも、短いとも思えた沈黙の末、切り刻まれた胸の底から絞り出すようにして告げた土方のひと言だった。

「・・・・俺をおいて死ぬな」

人の行き交う足音も遠いこの艦の奥に、微かに細い総司の嗚咽だけが漏れ始めた。




合わせた胸に響くのは、鼓動に似せた土方の悲痛な叫びだった。
死ぬなと・・・それは命じているのではなく、懇願だった。
今も土方は自分の上から顔を上げずにいる。
おずおずと、一杯に手を伸ばして抱えた広い肩が震えていた。
仰臥したまま開いた瞳の視界に映るのは、盛り上がる露に滲んで、すでに像では無い船室の低い天井だった。

残される者と信じて疑わなかった自分は、また土方にとっては残してゆく者だった。
分からなかったわけではない。
むしろ知りすぎる程に知っていた。
残されるのも、残して逝くのも同じ修羅におかれるものなのだと、残酷な程に己の裡に刻んでいたのに、いざとなれば自分の苦しさだけを土方にぶつけていた。
幸いも辛いも常にふたつの身をひとつにして享受するのだと、そう決めていた筈の自分はこんなにも弱い人間だった。
江戸で、きっと良くなって待っていると、たったひとつの嘘を言えない自分に総司は唇を噛んだ。

置いてゆかれる前に、置いてゆきたいと願うのは傲慢なことなのだろうか・・・
閉じた瞳から溢れ出た一滴(ひとしずく)が、眦から耳朶まで零れ落ちた。


容赦無く艦を打つ荒い波が、床から高い位置にある寝台に付ける背を、戒めるように叩き揺らす。

腕から逃さぬように抱きしめたまま、伏せたきり顔を上げない土方の哀しみを、両手を回して抱き返すことで受け止めた。
ふたりで身じろぎせず温もりを別ち合う間に流れる刻(とき)は、こんなにも心穏やかでいられるものなのに、離れてしまえばすぐに独りになる恐怖は自分を激しく渦に巻き込もうとする。
もっと強くあらねばと、そんな己を叱咤しても頬を伝わる冷たい露がそれを邪魔する。

荒れ狂う海に翻弄された藻屑が、いつか水の底に沈むような静けさの中で、総司は今一度瞳を閉じた。



「・・・土方さん」

鎮まらぬ揺れを身体に受け、艦を隠す闇に吹きすさぶ風の音を聞きながら、やがて総司は小さくその名を呼んだ。
顔を埋めていた場所にあった温もりを離すことを躊躇うように、ゆっくりと顔を上げた土方の双眸にはやはり滲むものがあった。
それでも自分の瞳を覆う露の方が遥かに多い。
ぼやける輪郭を、両の指で触れることで確かなものにするように、総司は幾度も土方の頬をなぞった。

「ここにいる・・・」
零れ落ちるものをそのままに、飽く無く自分を求める想い人の哀しい仕草に、土方はただそう告げることで応えた。
声が耳に届いたのか、総司の唇が微かに笑みの形を結んだ。

「・・・眠りたいのです」

まるで慰撫するように柔らかく言って、視線だけを動かすことで指した白い包みを、土方はただぼんやりと見つめていた。




包みの中にあった白い粉は、松本が西洋の薬だと言っていた。
深い眠りに誘うそれは患者の苦痛を和らげるが、その代償のようにそのまま目覚めぬ危険をも叉伴う。
それ故一度に服用せず、少しづつ加減を見ながら飲ませる為に、薬は幾包かに分けられていた。
その一つを取って湯呑みの中にある冷めてしまった白湯に溶かそうとする土方を、総司は止めた。

「溶かした方が飲みやすいだろう?」
粉のままでは咽(むせ)て咳を誘うかもしれない。
だが土方の憂慮に、総司は小さく首を振った。
「溶かせば・・・一緒に飲みこんでしまうかもしれない・・」
「一緒に飲むのだろう?」
「それでは土方さんも眠ってしまう・・」
「どうして俺が眠るのだ?」
訝気な視線にあって、総司は一瞬躊躇うように瞳を伏せたが、すぐにまた見上げたそれは強い色を湛えていた。

「・・・飲ませて、ほしい」
瞳の色とは裏腹に、声音は消えゆくように儚かった。
言い切って恥じ入るように視線を逸らせたが、蒼い頬はすでに尽きたように、朱を刷かせる事すら拒む。

溶かしたものを口移しにすれば、確かに飲ませる方も嚥下してしまうかもしれない。
総司はそれを案じているのだろう。
隠すように枕に付けた顔に、もう暫らく結い上げた事の無い、ゆるく一つに束ねられた艶のある髪が幾筋か乱れてかかる。
だが露(あらわ)になった項の細さは、土方を底の無い恐怖に陥れる。

「どうした?今日は素直だな」
そんな心を慌てて隠し、思いを違えて揶揄して笑いかけても、総司は返す言葉を持つ心の余裕を無くしたように不安げに見つめてくるだけだった。

その瞳は最後の我侭を受け容れる事だけを、ただひたすらに土方に迫る。
「・・咽て苦しくなってもしらんぞ」
それが想い人への、精一杯の応えだった。



目覚めた時、総司はもう駄々をこねることはしないだろう。
いつもいつもそうだったように、ささやかな幸いすら我が身に不釣合いと決め付けて小さく笑っているのだろう。
天の運命(さだめ)を理不尽だと憤ることもせず、胸に巣喰う業病とて己に与えられしものと恨みもせず、問い掛けられれば柔らかく応えを返し、笑いかけられれば静かに笑みを浮かべ、やがてやって来る最後の時を孤独の中で待つのだろう。
だがそれでも生きて欲しいと、この者の温もりを失う事を恐れるあまりに、そんな結末を承知しながら、それでも残酷にそれを強いたのは自分だった。

最早贖罪というには叶わぬ、人でない仕打ちを自分は総司にしている。
薬包を開く為に背を向けて、机の上にあった小さな包みを持つ土方の指先が震える。
今総司に後ろを向けている事を、土方は感謝した。



「大丈夫か?」
片手で容易に支えられる後ろ首に手をあて少し起こしてやると、土方は白い粉を、僅かに開いた唇の端から少しづつ注ぎいれた。
舌に障る苦さに思わず顔を歪めた辛さを瞬時にもぎ取るように、白湯を含んだ唇が総司のそれに隙無く重ねられた。
幾たびか同じ事を繰り返し、そうする度に薬は総司の喉から身体中に流れゆき、いつか思考も四肢の自由も奪う深い眠りがやってくる。
そうしなければならないのだと己に言い聞かせながら、黒曜の瞳が閉じられること無く少しでも長く自分を映し出しているようにと願うふたつの心を、土方は最早矛盾とは思わなかった。


「少し身体を起こすことは、やはり辛いか?」
唇の端から溢れて顎を伝わる残滓を指で絡め取るようにして拭ってやりながら、土方は総司に問うた。
大丈夫だと告げる為に首を振りはしたが、何を言い出したのかその真意がわからず、不思議そうに見上げる瞳に苦笑した。
そのまま物言わず、支えていた手を首筋から背に回し、静かに総司の身体を起こすと、一瞬のうちに土方は寝台の上に滑り乗った。


土方の胸を背もたれのようにしているのだとそう気がついたのは、ふいに離された手の代わりに、背中一杯に人肌の温もりを感じた時だった。
肩の後ろから回された両の腕が、まるで羽交い絞めにでもするように胸のあたりで絡められた。
「眠るまでだ」
苦笑して、頬を寄せられたそのくすぐられるような感触に、総司が躊躇いながらも身体の力を抜き後ろに深くもたれかかった。




土方は何も言わない。
ただ後ろからつつみ込むようにして自分を抱いてくれている。
艦の揺れは、まるで土方の中にあって感じるものの様に優しい。

眠りに誘われるまで自分をこうして抱いていることが、土方の孤独の重さなのだろうか・・・
独りになることを怯えているのは自分だけではなかった。
あんなに互いを求め合ってきたのに、まだ足りないと足掻く自分がいる。
神仏に怒りの雷(いかずち)を振り下ろされても、失いたく無いのはこの腕だ。
零れるものは飽き足らず、まだ内から溢れ出ようとする。


「・・・・いつも・・・追ってばかりいた・・だから」
慌てて紡いだ言葉は、だがそんな意気地の無い自分を誤魔化すのに何の役にも立ちそうになかった。
「・・追われることには・・・慣れていない・・」
「それは脅しているのか?」

そんな事を総司は言っているのでは無いことは十分に知っている。
だが逝く自分を追えという言葉には応えることはできない。
それはそのまま総司が自分の腕を離れてゆく事を意味している。
土方は黙って耳朶に唇を寄せた。

胸に預けてあった薄い背から、また少し力が抜けた。
それは多分、身体に触れられる悦びからではなく、もう確実に総司の神経を侵し始めている先ほどの白い粉の作用の表れなのだろう。



「・・波、・・・高いのかな」
耳に届く自分の声がひどく遠くに聞こえる。
忘我の淵はすぐそこにやって来ているらしい。
けれどまだ眠るのには早すぎる。

「・・なみの・・しぶきのひとつに・・・、あぶくに・・なれればいいのに」
「あぶく・・?」
少しあやしくなった呂律(ろれつ)が、押寄せる睡魔へのせめてもの抗いだった。
「すぐに・・きえて・・・何ものこらない・・」
「馬鹿なことを・・」
振り向かない総司を戒めるように、回した腕に力を篭めた。

「・・今日は・・我侭ばかりを、言っている・・」
「確かに聞き分けが悪いな」
耳の傍で囁くように咎められると、総司が初めて後ろを振り返り笑った。
その瞳はすでに夢と現(うつつ)を彷徨い始めているように、近くのものを遠くに見ていた。


「一度・・・こうして土方さんの言うことに・・全部さからって・・・駄々をこねてみたかった」
言いながらまた前に向き直って、唯一安堵できる胸の中にゆっくりと沈んだ。
そのまま眠るのだろう・・・
もう力は全て抜いてしまったように、総司は土方に身体を預けてきた。
言葉にするにはあまりに哀しい重みに、土方は一瞬熱くなった瞼を閉じた。

「一度でいいのか?」
それを隠すように告げた言葉に、想い人は微かに笑い声を漏らした。
「・・・ほんとうは・・」
「本当は?」
促しても暫し応えは無く、唇に浮かべた笑みはそのままに、静かに瞳を閉じるのが分かった。


止むと言っていた風は更に強くなったようで、机上の蝋燭に灯る焔(ほむら)が行方を定めず揺れる。
その度に仄かな灯りが、映し出す物の影を思いのままに動かす。



「・・・本当はなんなのだ」
問い掛けても応えは無い。
「・・・・眠ってしまったのか・・?」
覗き見ても、閉じた瞼は開く気配も無く、頬に影を落とした睫は微動だにしない。
僅かにも息吹の気配を感じさせない静けさに、もしやと震える指で触れた唇から微かに漏らす息の音(ね)を感じた時、土方は脱力したように後ろから抱いている総司の首筋に顔を伏せた。
そのまま己の頬を項(うなじ)まで滑らせて確かめるのは、想い人の露にも儚い生の証だった。



簡単なことでは目覚めはしないだろう眠りを、それでも妨げるもの全てを払うように神経を張り詰めて、力の無い身体を静かに横たえると土方は音もさせずに寝台を降りた。
薄闇の中でも容易に判る血の気の無い頬は、だが触れれば驚くほどに熱を伝える。
乱れた前髪を掻きあげてやった額に頬をつけると、土方は暫くそうしていた。

息をつくことすら惜しみ、生きとし生けるもの全ての営みを止めたような静寂(しじま)の中で、ただひとつ風だけが波を騒がす。



「・・・お前は知っていたか」
やがて昏い淵に意識を沈めてしまった想い人に語りかける声音は、辺りに溶け込むように静かなものだった。
「俺はこんなに残酷な人間だったと・・・」
先ほどまで胸に抱いていた骨ばった背の感触が蘇る。
自分はその背に更に重い荷を背負わせて、生きろと懇願した。

「・・・それでも俺はお前を失くしたくは無い」
そんな傲慢な願いを、総司はささやかな我侭と引き換えに許した。
語りかけながら眠り続ける者の肌を滑らせる指に、抗う事無く沿うように残る温もりは、いつも振り向けば其処にいた総司そのものだった。


「知っていたのか・・・?」
両の手の平で頬を包み込んで問いかけても、白い顔は声を捉えようとはしない。

「・・・俺はこんなに情けない人間だったと・・・お前は・・、とっくに知っていたのか?」
だから眠りについたのかと、終焉を向かえるその瀬戸まで不安に怯えて過ごせと言った自分の言葉に頷いたのかと・・・・
そう問い質したい滾る思いを漸く押し殺して、総司の左の胸の上に伏せるように方耳をつけた。
そこにある心の臓の微かな音だけが、今たったひとつ土方を安堵させるものだった。


「・・・死ぬな・・」
伏せたまま伝える言葉に応えは無い。
「死ぬな・・」
それでも土方は繰り返す。
繰り返さねば、この儚い音すら刻むを止めてしまいそうな恐怖に囚われる。
空(くう)に呑まれてしまうのを恐れるように、想い人の温もりを必死に掻き抱いた。



打ち寄せる波の音と、吹き荒れる風の音と・・・

「・・・俺をおいて、死ぬな・・・」

そんなものすらもう耳には届かず、どの世に渡っても唯一愛しい者の頬に己のそれを寄せ、土方はただ繰り返す。




いつの間にか外に舞い始めた白い欠片が、海に降りたち、ひっそりときえる。

やがて声はくぐもり途絶え、言葉にするに叶わず、音無き慟哭だけが闇を震わせた。










                水晶の文庫