やつあたり (下) お結の亭主が云ったとおり、雨は篠突くような激しい降りとなり、じき試衛館と云う処まで来た頃には、袴は膝上までがどっぷりと水を吸い、布切れが足に絡まりついていると云う有様だった。 が、坂を、勢いにまかせて走る雨水の中、ふと上げた視線の先に、飛沫を上げながら下って来る人影を捉えた時、宗次郎の足が、流れに堰するように止まった。 傘が顔を隠しているが、やって来るのは見間違える事の無い人の姿だった。 やがて土方も又、水の帳(とばり)の向こうに佇む人形(ひとかたち)を見止めると、その像をより鮮明にするかのように眸を細めた。 そして其れが宗次郎だと知るや、幾分歩を遅くし、再び坂を下り始めた。 行くぞと、其れが土方の最初の言葉だった。 見れば片方の手は、もう一本、畳まれたままの傘を握っている。 もしや土方は自分を迎えにきてくれたのではと・・、一瞬の狼狽の後に訪れた悦びは、宗次郎の裡で、すぐさま云いようの無い昂ぶりへと変わった。 「土方さんっ・・」 傘を叩く雨の音は、宗次郎の必死を妨げようとしたが、しかし先を行く背は、その声を聞き逃す事無く振り向いた。 「あのっ、・・この傘、蒲池屋さんで借りたのです」 「・・蒲池屋?・・お結の店か?」 蒲池屋と言葉にした時、始め土方は訝しげな沈黙を作ったが、それでも直ぐに記憶は手繰り寄せられたらしく、寡黙な口から返ったのは、愛想の無い声だった。 「・・土方さん、知っていたのですか?」 「帰って来て、駆け落ちした相手と店を切り盛りしていると、誰かが云っていたな。あの強欲親爺も、年貢を納めるにはいい潮時だろうさ」 興の欠片も動いていないような淡々とした物言いは、瓦版の一枚を捲るように、他家の事情を語る。 それは土方にとって、お結との間にあった昔が、端から情の通わぬものであった事を物語っていた。 が、その瞬間、宗次郎の胸の裡を、抉るような、重く鈍い痛みが走った。 ――お結が云い掛けて、笑みの中に仕舞った言葉。 歳三さんは・・・ 達者か、どうしているのか、そう、お結は聞きたかったのだ。 越えてしまった時の、その一筋だけを、胸の片隅に止め続けている人の、声に為さぬ声が、宗次郎の耳に現(うつつ)のものよりも鮮明に届く。 良夫と子宝に恵まれ、柔らかに笑った目は幸せそうだった。 だがその奥にひっそりと沈む痛みを、あの一瞬、垣間見てしまったと思ったのは錯覚だったのだろうか。 二年前、激情のままに坂を駆け上ってきた人の土方への想いは、自分が抱くものと同じだからこそ、宗次郎には、お結の心の裡が透けて見える。 幸いに包まれているお結の核(さね)に、今もほろにがく残るものが、自分の心と相俟って哀しかった。 「どうした?」 着いて来ない宗次郎に、土方が振り向いた。 それに何でもないと首を振り、詮も無い感傷を打ち捨て、足を踏み出すのは簡単だった。 だが宗次郎の心は、頑なにそうする事を拒んだ。 「宗次郎」 蒲池屋の屋号を小さく入れた傘の下で立ち尽くしたまま、身じろぎもせず見上げている深い色の瞳に苛立つように、止まっていた足が、上った坂を戻ってきた。 しかし乱暴に取った腕を振り払われた寸座、整い過ぎたが故に冷淡な感を与える造作が、一瞬呆けたような表情をつくり、其れが漸(ようよ)う、この男の顔に人らしい感情を走らせた。 「いい加減にしろっ」 怒鳴り声は、雨の音を劈く勢いで四方に響いたが、宗次郎は勝気に土方を見上げたまま、固く結んだ唇が開かれる事は無い。 そうして。 暫し互いに睨み合うようにしていたが、やがて諦めの息と共に折れたのは、訳の分からぬ少年の頑固に業を煮やした土方の方だった。 「傘が駄目になる前に、上って来い」 叱るように命じた声は、もう怒ってはいなかった。 だが宗次郎は、自分に向けられた土方の優しさを素直に受け止める事が出来ず、ただただ激しくなるばかりの雨の中、坂の上の黒い門を潜る広い背を、瞬きもせずに見詰めていた。 ――それが昨日の事で、試衛館に戻っても、宗次郎は、土方と顔を合わせないようにしていた。 そのような経緯から、出掛けに急に決まった猿若町への寄り道を、まだ起きて来ない土方は知らない。 急速に強さを増してきた日差しを、ぴしゃりと遮るように閉ざされた障子の手間で、宗次郎は暫し立ち尽くしていたが、やがて中の人の眠りを妨げぬよう、静かに踵を返した。 降り始めた雨は、然程勢いのあるものでは無い。 だがじっとりと、肌に絡みつくような、細く煙る雨だった。 その物憂さが、まるで自分の心のようだと、宗次郎は思う。 「宗次郎が旋毛(つむじ)を曲げている理由てのは、一体何なんだろうねぇ」 まるで謡曲でも口ずさむかのように、佳い声が耳に触れた。 「・・土方さんが」 十も歩を刻めば一回りしてしまえる小さな庭に、再び目を戻して返したいらえは、富弥の顔を見て話す勇気を持てぬ弱気と、そんな自分を見られたくは無い、投げなしの矜持だった。 「あの女の人の事を、まるで知らない人の事のように云うから・・」 「振られて、当て付けに駆け落ちまでした娘さんの気持ちを、少しは分かれと云うのかい?」 一度弾(はじ)いた音を、弦を押さえ仕舞って問う富弥に、背を向け俯いたまま、宗次郎は応えない。 「それは、無理だろうよ」 が、当然のように返った言葉に、咄嗟に振り向いた瞳が、驚きに瞠られた。 「どうしてでしょうか?」 「さて、どうしてかねぇ・・」 「富弥おじさんは、分からない事ばかりを云う」 硬い声には、先程から、話の核を逸らされてばかりいる事への、苛立ちがあった。 その宗次郎を、富弥は楽しげに見詰めている。 大人しげな少年の、実は裡に秘めている不器用な頑固を、五十の齢(よわい)を重ねた我が身へ、真っ直ぐにぶつけて来る一途が心地良かった。 ――宗次郎の想いを、土方は知らない。 そして土方も、己の裡に、宗次郎への想いを深く根ざしながら、その事をまだ知らずにいる。 だが其れは、六つの花の冷たさから護る雪圍(ゆきかこい)にも似て、或いは、じりじりと地を焼く炎陽を己の背で遮るにも似て、大切に、あまりに大切にしすぎて、その菰(こも)が邪魔をして気付かせないだけで、遠からず土方自ら知る事だった。 だから土方には、己のしでかすどのような色恋沙汰も、紗幕の向こうから見る他人事でしかありえない。 土方にとって、宗次郎だけが真から欲し、そして護らねばならぬ者だった。 が、その事を、宗次郎は知る由も無い。 「おいで」 物言いは穏やかだったが、富弥の調子には否と拒めぬ強さがあった。 「持ってごらん」 差し出された三味線を、宗次郎は躊躇いがちに受け取った。 三味線を触るのは初めてではない。 師の周斉も嗜んでいたし、こうして富弥の処に出入りするようになってからは、宗次郎にとってこの楽器は、むしろ身近なものになっている。 唄う者の声の高低に合わせ一の糸を決めたら、其れを基調として、二の糸、三の糸を決める。 だがどんなに確かな調弦をしても、糸巻きから手を離した瞬間、音は狂いだし、奏者はその狂いを悟らせぬよう、微妙に押す指を調節し、曲を終わらせる。 三味線とは、それほどに手の掛かる代物だった。 ゆえに、技量の差が容赦なく問われる。 「何か、音を出してごらん」 云われるままに、一の糸を押さえ撥を弾いて出した音は、ぴんと張られた弦が、思いもかけず強い調子のものにした。 それに驚き、つい離しかけた指を、富弥の手が上から押さえた。 「これが二年前、宗次郎がお結さんに、歳三さんはいないと応えた時の心」 「私の、心・・?」 「もう一度、指の位置をそのままにして、同じように弾いてごらん」 不思議そうに見る瞳には応えず、富弥は促す。 そうして再び弾いた音は、案の定、僅かな狂いを生じて来ていた。 「そしてこれが、今の宗次郎の心。お結さんとやらの心も同じだ。変わらないのは歳三さんだけかね」 最後は小さく、喉を鳴らすだけのようにして笑った声に、元は舞台役者の、褪せぬ艶をとどめていた。 「富弥おじさんの云っている事が、分かりません」 だが宗次郎に、その余裕に付き合えと云うのは無理な話だった。 向けた眼差しにあるのは、形の見えるいらえを欲する焦燥だけだった。 「お結さんに歳三さんの留守を教えた時、宗次郎は本当を云ったが、暫くすれば戻るとまでは教えなかった。だがもしそう付け加えていれば、お結さんは駆け落ちなどしなかったのでは無いかと、お前はずっとそう思っていた。・・それが、全ての始まりの音さ」 巻き終えたばかりの糸は、弛む事を知らない。 その糸を最初に弾(はじ)いた音が、宗次郎とお結の二年前の心だと富弥は云う。 「それから二度目の音、これが今のお前と、お結さん」 「・・今の?」 「押さえる糸の場所も、指の力も、撥を弾く加減も同じにしても、三味線と云うものは、糸巻きから手を離した其処から調子を違えて来るのは、お前も知っているだろう?」 頷く宗次郎に、富弥の語り口は柔らかい。 「狂ってくる音を追い、指は位置を変えながら調子を保ち、ひとつの曲を終わらせる。 二年前、宗次郎の裡で弾かれた音は、少しずつ歪みながら今になった。その歪みは、お結さんへの申し訳なさだったのかもしれない、或いは引け目だったのかもしれない」 その核に、幼い嫉妬があったのだとは、富弥は云わない。 云ったら最後、宗次郎は、知られてはならない心を見透かされた戦慄に怯え、震えるだろう。 この少年にとって土方への恋慕は、まだひっそりと胸に仕舞っておかねばならない禁忌だった。 「だがお結さんとて、それは同じさ」 「同じ・・?」 「歳三さんに袖にされ傷ついた矜持は、お結さんを捨て鉢にさせた。駆け落ちは、確かにその当てつけだろうよ。こんな事を云っちゃ何だが、歳三さんと云う兄(あに)さんは、姿形が良いだけに、相手を夢中にもさせるが、不安にもさせる。が、当人はどれも遊びで、本気になる事は無い。だが面白いもので、そうなれば相手はどんどん深みに嵌る」 「お結さんも、そうだったのでしょうか?」 「違うと、思うのかえ?」 己の言葉の中のどの部分が、少年の心の琴線に触れているかを十分に知る声が笑っていた。 「歳三さんを追っている時のお結さんには、安堵する時が無かった。あるのは、苛立つ心ばかりだった。もしかしたらお結さんは、そんな日々から逃れたかったのかもしれない。だから、駆け落ちなんて手段に出たのかもしれない。が、二年の歳月の中で、お結さんは、きっと心の安堵を見つける事が出来たんだろうねぇ。もっとも、一緒に逃げた男の、惚れた女の何もかもを包み込んでしまうような度量が、全てを幸いに変えたんだろうがね」 富弥の声を聞きながら、宗次郎の脳裏に、傘を手渡してくれた人懐こい笑い顔が蘇る。 元は蒲池屋の手代をしていたと云う人間が、お結の、土方への恋慕を知らない訳が無い。 だがお結の良夫は、宗次郎が試衛館の人間である事を承知の上で、濡れる事を案じてくれた。 其れはお結の心をしかと掴んで揺るがぬ、自信の表れだった。 そしてその背を追い、幼子を腕に抱いて続くお結は幸せそうだった。 否、幸せに違いなかった。 その事だけは、宗次郎にも分かった。 何より。 振り向いて、言葉を紡ぎかけて止めた唇の端に、鮮やかに浮かべた笑みが、如実にその事を物語っていた。 この女(ひと)にとって、土方への想いは昔の事になったのだと、その時宗次郎は知った。 だがならば何故、土方にあんな態度をとってしまったのか――。 答えは簡単だった。 二年。 心の片隅に忸怩たる思いで圧し掛かっていた塊は、お結との思いもかけない再会で、まるで手の平に乗せた花弁が、吹く風に浮き立つように呆気なく容(かたち)を無くしてしまった。 そして不意に重石を失い均整を崩した心は、その反動のように、土方へ癇癪をぶつけた。 甘えたかったのだ。 駄々を捏ねたかったのだ。 だから悪いのは、自分なのだ。 何も知らない土方が怒るのは、当たり前の事なのだ。 が、其処まで分かっていながら、宗次郎は素直になる事が出来ない。 素直に、謝る事が出来ずにいる。 「人は大根じゃないんだから、一度抱いた想いや怨みを、そうばっさりと切捨てられるものじゃぁない。だがその時は、どんなに強く念じた怨みであれ、愛しさであれ、時が経れば少しずつ形を変えて行く。歳月ってのは、そんな風に、人の心に吹くものさ。丁度糸巻きを離した途端、調子を変えて行くのと同じようにさ」 形の良い顎を少しばかり引き気味にして頷く富弥を、深い色の瞳は瞬きもせずに見詰める。 「ではあの女の人は、もう土方さんの事を怨んではいないのでしょうか?」 「さぁ、そればかりは、宗次郎が一番に知っている筈だよ?」 謎掛けを装い揶揄する、目が笑った。 その、全てを見透かせられてしまいそうな眼差しから逃れるように、宗次郎は再び縁の向こうに目をやった。 裏店とは云え、幾人かの弟子も取り、若い役者にも三味線を教える富弥の家は、畳の部屋がふたつあり、縁の向こうの僅かばかりの庭の先は、人ひとりがようよう通れる程の細い小路に続く。 その路(みち)と境をつける、低い柵の際に咲いた桔梗が、薄い紫(ゆかり)の花弁を、雫に洗わせている。 それを宗次郎はぼんやりと見詰めていたが、不意に視線が上を向いた。 そしてその寸座、息をも忘れてしまったかのような硬い横顔が、一点を凝視した。 両の瞳が捉えた其処に、積み上げた薪や桶を器用に避(よ)けながら、小路をやって来る人の姿があった。 前に傾け加減にした傘が、近づく人の顔貌(かおかたち)を隠している。 だが片方の手には、あの時と同じように、もう一本、畳まれた傘が握られている。 心の臓が、どくりと隆起する。 打ち始めた鼓動は、宗次郎の胸を破らんばかりに高鳴る。 謝らなければならないのだ。 お結と云う女性へ嫉妬し、意地をした贖罪を背負い続けた歳月から解き放たれた途端に、安堵が駄々となってしまったのだと。 やつあたりを、してしまったのだと――。 謝らなければならないのだ。 今度こそ、素直にならなければならないのだ。 想いは、考える事よりも先に宗次郎の身を動かし、膝立ちにさせる。 やがて、湿り気を含んだ枝折戸が、ぎしりと重い音を立てた。 「今、あんたの話をしていたところさ」 富弥の声に笑いがあるのを怪訝に思ったか、土方が、縁に立ち尽くす宗次郎を見上げた。 |