よりそう (下)




 芝居小屋が並ぶその外れには、裏店が幾つも続く。それは役者の家だったり、芝居で使う小道具や大道具を作る者の家だったりするが、狭い路地からは、三味線やら笛の音色が絶えず聞こえてくる。
その中で、松吉の金槌の音は異質ではあったが、決してそれら粋な音色を邪魔するものではなかった。時折、あんたの金槌を遣う音は節回しがあるようだね、などと三味線の師匠にからかわれるが、それは松吉の腕を褒めての事であった。が、今日はその音を早々に切り上げると、松吉は、道具箱に金槌やかんなを仕舞った。
 まだ天道は一番高い処を回ったばかりだったが、さっきまで幕間の一服に出ていた客達も又小屋に戻り、そろそろ秋も行きかけの相を見せている陽だまりが、辺りの景色を静かに包んでいた。
今から帰れば、おゆきと宗次郎も、そろそろ浅草寺から帰って来るだろう。そんな事を思いながら肩に担ぐ道具箱は、いつもよりも軽かった。




 お上の御触れによって、ひと処へ閉じ込められたと云う経緯を持つだけに、猿若町は元々が狭い町である。しかも此処で暮らす人々は、すべからく芝居と結びつきがあるから、大概の顔は互い馴染みになっていた。
 その中にあって、町の治安を預かる岡っ引きの助左は、もう四十も半ばを過ぎていたが、すばしこい身ごなしで、掏りのひとりふたりお縄にするなど茶飯事の腕で、住人達からも頼りにされていた。
が、その助左の姿を、裏店へ入る木戸の前で認めた途端、松吉の顔に硬さが走った。
そして更に助左の後ろに立つ長身の男に目を遣ると、自分自身にも分からぬ緊張に、身の内に力が籠もるのが分かった。


「おう松吉、丁度いいところに帰えって来てくれた」
だが助左はそんな松吉の様子など頓着無いように、普段は強面だが、笑うと妙な愛嬌が浮かぶ顔を向けた。
「こっちの兄さんが、昨日の迷子のぼうずを捜して、牛込柳町から来なさったんだ」

――助左のしゃがれた声を聞きながら、自分の一番真ん中で、必死に固めていた何かが壊れて行くのを、松吉は感じていた。
それは言葉にして伝えられるものでは無かったが、もしかしたら、自分とおゆきと、そして少年との三人で過ごした、たった一夜を守ろうとする砦だったのかもしれない。
こんな偶(たま)さかな安らぎが、ずっと続く筈など無いと笑い飛ばしながら、けれど心の隅に芽生えた淡雪のような希(のぞみ)に、いつの間にか自分は縋っていたのかもしれない。
 松吉の目が、その幸いを摘み取ろうとする理不尽を怒るかのように、少年を連れに来たと云う男を見上げた。


「あんた、ぼうずを捜して来たと云いなさったが、本当にぼうずの身内かどうか、その証拠はあるんですかい?」
「松吉っ、何を出し抜けに云いやがる。尋ね人の届出は、こちらさんの方がずっと早かったんだ」
九つの少年が、牛込柳町から、縁もゆかりも無いこの猿若町まで、まさか来ていようとは誰しもが思わず、知らせが遅くなったのだと、助左は長身の男を庇った。そして男は睨みつけるようにしている松吉に頭(こうべ)を垂れると、低い声で、宗次郎が世話をかけたと詫びた。
それは常日頃、様々な役者を見慣れている松吉の目から見ても、姿の良い若者だった。むしろ飛びぬけて端整な顔貌(かおかたち)は、人によっては、冷たいと云う印象を覚える程だろう。それが今、血走った目をし、まるで掴みかからんばかりにして、松吉を見下ろしている。そしてこの男を、此処まで追い詰めているその理由が、宗次郎を案じる余り故だとは分かる。それでもどうしても、素直に宗次郎を渡したく無いと駄々を捏ねる自分に、松吉は負けていた。

「そっちの兄さんがどっから来ようが、あの子は俺が拾ったんだっ、もう俺の子だっ。誰にも文句云われる筋合いはねぇやっ」
「松吉っ、てめぇ、何莫迦な事を云い始めたんだ」
「莫迦で上等でぇっ、どうしても連れて行くってんなら、俺を殺してからにしやがれっ、さぁ殺せっ」
わめき散らす声は、家の中にいた者達を表へと引っ張り出し、それが騒ぎになりそうな気配に、助左が慌てて剥いた目を回し、野次馬達に睨みを効かせた。
が、その寸座――。
「宗次郎っ」
それまで一歩も譲らぬ鋭い目で松吉を見据えていた男が、振り絞るかのような大音声を発した。
そしてその途端、おゆきに手を引かれ、木戸に差し掛かった宗次郎が立ち竦み、次の瞬間、繋がれていた手から滑り抜けるようにして、駆け寄る男に向かって走り出した。

「・・・莫迦野郎がっ・・」
飛び込んできた小さな身体の上から、覆いかぶさるようにして抱き、男の唇から零れ落ちたのは、視界を霞ませるものを必死で堪える唸り声だった。
そしてその腕の中で宗次郎は、始め声を忍ぶようにして、瞳から透いたものを溢れさせていたが、しかしそれは瞬く間に、激しい泣き声に変わった。時折、しゃくり上げる間が狭まり息が痞えると、男は薄い背に廻した手を上下に擦って安堵させてやる。そうして又宗次郎は、男の腕の中で新たな涙を零し始める。


 尽きないそれは、今の今まで稚い心が堪えて来た、寂しさと不安が堰を切ったものなのだと、そして必死で封してきた宗次郎のその心を、あの男はいとも簡単に解きほどいてしまった・・・
ぼんやりと見る松吉の胸に、悔しさと、そして羨望が重なり合う。
が、ふと気付いてその先に目を遣れば、二人を見詰めているおゆきの姿があった。そしておゆきも松吉の視線に感ずいたか、遠くから小さく笑った。
だがその笑い顔が、ひどく寂しげなものに思えたのは、おゆきの心に、自分の心を重ね合わせてしまった所為なのかもしれないと、松吉は、天に顔を上げ二度三度瞬きすると、まだ大きく震えている小さな背に目を戻した。





 つい今しがたまで聞こえていた三味線の音が止んで、自分の叩く金槌の音だけになると、それが何だかひどく煩いもののような気がして、松吉は手を止めた。と、その時を見計らったかのように、今軒の修繕を頼まれている家の隣の戸が開き、そこから細面の品の良い顔が覗いた。

「申し訳ござんせん、稽古の邪魔をしちまって・・」
「そんな事は、構やしないよ」

無造作に羽織った半纏の両袖を鳶にしながら笑った顔は、もう五十に近いと云うのに、艶のある肌が、下手をすれば松吉と同じ位に見える。元は女形として鳴らしたこの富弥は、芸の肥やしに三味線を習う内、すっかりそちらに興が移り、惜しむ声も聞かずあっさり舞台を捨てると、三味線弾きとして裏方に回り、若い者に教えたりもしている。今では富弥の弾く三味線の音色聞きたさに、小屋を訪れる贔屓客もいる程だった。

「それよりも、松吉さん、あんたどっか具合が悪いんじゃないのかと思ってね」
「とんでもありやせん、莫迦は風邪のひとつも引かねぇと云いますが、まったくもってそのとおりで」
「ならいいんだけれどね。いやね、今日の金槌の音が、妙ににちぐはぐだと思ってさ」
「ちぐはぐ・・、ですかい?」
言葉の意味が分からず、松吉は首をかしげた。
「そう、ちぐはぐって云うのか、何ていうのか分からないんだけどさ、いつもは私が三味線を弾いて、外で松吉さんが金槌を叩いていても、ひとつ空気のようで、何の不自然もないんだよ。でもたまに私の具合が悪かったり、あんたの具合が悪かったり、そのどちらかに何かがあると、音が勝手に先走って喧嘩しちまうんだよ」
「へぇ・・、そんなもんですかい?」
「あんた、気がつかなかったのかい?」
「ちっとも」
呆れたように笑う富弥に、松吉は恐縮し、頭をかいた。
「腕がどうこうと云うんじゃないんだろうけれど、ただいつの間にか、長い付き合いの間に、お互いの音が寄り添うようになったと、まぁ、そんな処じゃないのかね」
「よりそう・・?」
呟いた松吉に、富弥が笑って頷いた。





 昨日あたりから、ぐっと厳しくなった朝晩の冷え込みは、まるで天道までが、顔を隠すのを急いでいるように思える。
そして日が沈めば、空に取り残された雲は、茜の残り陽を下に映し、白から薄ねずへと色を変える。
 自分の先を行く長い影法師に目を落としながら、松吉は、先程富弥が云っていた言葉が、胸の裡から去らない。

 昨日助左と現れたあの若い男が、どんなに宗次郎を捜し回っていたのか、それは一目見ただけで知れた。そして宗次郎も又、あの男が来るのを待っていた。だがその事に、自分は激しく抗った。出来る訳が無いと承知しつつ、宗次郎を渡すまいと必死になった。何故だと云われても言葉に詰まるが、ひとつだけ、その時松吉の頭にあったのは、前の晩、三人で同じ温もりの中にくるまって交わした、おゆきとの会話だった。
 もしや宗次郎が捨て子ではないのかと云った自分に、おゆきは何かを云いかけて止めた。だがその言葉の先を、自分は知っている。おゆきは、もしも宗次郎が捨て子ならば、自分たちの子にして育てたいと、そう願ったのだ。そして宗次郎があの男の腕の中に飛び込んだ時、おゆきはそのささやかな希(のぞみ)を、ひっそりと胸に仕舞いこんだ。
 若い時には、見えない心に焦れた事もあった。それでも一緒に時を刻み生きて行く間には、少しずつ互いの心も見えてくる。が、見えてくれば、今度は、其れをどうにもしてやれない自分に苛立つ。

「寄り添う・・か」
ぽつんと漏れた呟きが、闇を混ぜ、紅に変わりつつある晩秋の暮れ色に、紛れるようにして消えた。




「帰えったぜ」
少しばかり隙が出来ていたのを訝しげに思いながら戸を引くと、框に腰掛けていたおゆきが慌てて振り向いた。
「何でい、ぼんやりしていやがって」
「御免なさい、遅かったのね」
笑いながら立ち上がった時には、もうおゆきの素振りに不審はなかった。が、その脇にあった包みに、目ざとく松吉の視線が行くと、おゆきが慌てて白い紙のそれを持ち上げた。

「宗次郎ちゃんがね、昨日連れに来た若い人・・、土方さんと云うのだけれど、その人と、宗次郎ちゃんのお師匠さんと、それから其処の若い先生と四人で、挨拶に来てくれたのよ」
「ぼうずが?」
「宗次郎ちゃん、今年の春、牛込柳町の剣術道場の内弟子に入ったばかりだったのよ」
「剣術の道場?あのぼうずがかっ?」
「そんなに吃驚すること、無いじゃないの」
思わず声がひっくりかえった松吉に、おゆきが笑った。
「それで迷子になった日は、その道場へ預けられて初めて、大先生のお使いで、文を届けに九段へ出掛けたそうなの。それが途中でその文を落としてしまって、探し廻っているうちに、こんな処にまで来てしまったらしいの」
「そんなに大事な文なら、何で九つのぼうずになんぞ、託(ことづけ)たりしたんだ」

牛込柳町からこの猿若町までは、子供の足をして、決して近いとは云い難い。松吉の乱暴な物言いは、その間、不安に押し潰されそうになりながら、探し回っていたのであろう宗次郎への不憫を、周りの大人達へ向け怒ったものだった。

「中身は大したものじゃなかったのよ。お師匠さんが、お仲間さんに、碁を打ちに来ないかと誘ったものだったの。でも宗次郎ちゃんにはそんな事は分からないから、張り切って出かけたは良いけれど、それを落として、途方にくれてしまったらしいの」
「なら、ぼうずも、端っからそう云や良かったんだ」
「きっと、云えなかったのよ」
「何故?」
おゆきの声がふと沈んだ事に、松吉の顔が怪訝に歪んだ。
「ひと言、・・・ひと言でも声を出した途端に涙が止まらなくなってしまいそうで、あの子はずっと堪えていたのよ。失くしてしまった文が見つからなくて、もう自分の帰る処は無いと、きっとそう思いこんでしまったのよ・・」
まるで其処にまだ宗次郎がいるようにして語りかけるおゆきを見ながら、松吉の脳裏にも、初めて会った時、自分を見上げていた深い色の瞳が蘇る。
それは大きく零れ落ちてしまいそうに見開かれ、瞬きひとつしなかった。だがあの時宗次郎は、今にも叫び泣き出しそうな不安を、そうして堪えていたのだろう。

「頑固もんの、ぼうずが」
不意に、鼻の奥をつんとさせたものを慌てて誤魔化すと、松吉はもう一度、おゆきが大事そうに抱えている包みに目を遣った。
「宗次郎ちゃんがね、持ってきてくれたのよ、お饅頭。若い先生がお好きだそうなの。途中で重いから代わると云っても、此処に来るまで、ずっと自分の手から離さなかったのだって。・・夕飯の前だけれど、お前さんもひとつ頂く?」
「お前は?」
「お前さんには悪かったのだけれど、あたしはお茶を淹れた時に、宗次郎ちゃんやお客さんと一緒に、お先にひとつ」
そうと聞いた途端、松吉の顔が顰められた。
「俺ぁ、甘ぇもんは苦手だ」
自分ばかりが少年の笑い顔を見られなかったと云う寂しさが、松吉を頑なにさせる。
「宗次郎ちゃん、本当はお前さんと一緒に食べたかったのよ。・・・いないと分かって、とても寂しそうだったのよ」
だがくすりと笑ったおゆきの声に、心の裡を見透かされたようで、松吉は黙ったまま手拭で足を拭くと、乱暴に畳の上へ転がった。
その、丁度目線の先には、饅頭の包みがある。それを敢えて見ないのが、自分でも呆れる頑固だった。



「ねぇ、お前さん」
竈の上で菜を刻み始めた包丁の音が、歯切れ良い。それを心地よく聞きながら、つい眠りかけていたらしい。おゆきの声に、うたかたの夢から覚めたように、松吉は煤だらけの天井から土間へと視線を向けた。

「宗次郎ちゃんがね、お正月に遊びに来るって云うのよ」
返事が返らぬとも、おゆきは気にならないようで、後ろを向けたまま続ける。
「若い先生が連れて来てくれるって・・。そうしたら又浅草寺にお参りに行こうって約束したの。あの若い先生は真面目で良さそうな人だったから、きっと約束を守ってくれるわ」
手を休ませず嬉しそうに語る背が、ふと小さくなったと思ったのは、ささやかな約束を弾んだ声音で教えるおゆきを、哀れに思った所為なのかと・・・
松吉は、振り返らぬ後ろ姿を、ぼんやりと見詰めた。


――見えぬ心が見えるようになれば、どうにもしてやれぬもどかしさに、苛立つ事もあると思ったのは、つい先程の事だった。
だがその辛さ切なさの分、相手への慈しみも、いとおしさも増す。
其れは、おゆきも同じ事なのだろうか。
そう思った途端、松吉の一番深い処に、温(ぬく)い何かが寄り添った。
そしてそれはおゆきだと、確かに心が教えた。

「・・正月に」
殊更ぶっきら棒な物言いは、胸の奥を熱くするものを隠す為だった。
「ぼうずが来るんじゃ、独楽でも拵えといてやるか」
その途端、振り向いたおゆきが、満面に笑みを湛えた。
だがそれは、松吉が哀しくなる程、柔らかできれいな笑みだった。
今度こそ塩辛いものが目から落ちてきそうで、松吉は、ふて寝を装いおゆきに背を向けた。









猿若町界隈