道化師 いいかい宗次郎、よくお聞き。 お前は武士の子です。 沖田家の長男です。 どんなことがあっても、弱音を吐いてはいけません。 どんなことがあっても、涙を見せてはなりません。 いつかお前が心から尽くしたいと思えるその人に出会うまで それまでに強くおなりなさい。 そのことだけを考えて、わき目をふらずに、 誰よりも強くおなりなさい。 いいかい宗次郎、これだけはどうか忘れないで・・・ * * * 「おい歳、宗次郎を見なかったか」 苦悩の色に顔を染め、縁側に立ち尽くしている幼友達に声をかける。 歳三は振り向くと、胸のあたりで組んでいた腕をほどき勝太の方へ身体を向けた。 「いや・・・どうした、見つからねえのか」 「・・・ああ、試衛館中探したが誰一人見てないそうだ」 「・・・そうか」 「俺には分からんよ、あいつがどこへ行くのかなんて。さっぱり、 見当もつかねぇ。歳、おめぇは心あたりがあるんじゃねぇか?」 「・・・さぁね」 「一体、どこへ行ったんだ、宗次郎・・・」 お前の母親が亡くなったんだぞ・・・・・・・・・ 皮肉なほどに晴れ渡った空の青が、目に痛い。 母の記憶はあまりない。 身体の弱かった母はいつも床に伏していて、表に出ることは少なかった。 二人の姉はそんな母を気遣ってか、甘えたい盛りの私を近づけることはしなかった。 私もまた、そんな姉の心内を痛いほどよく分かっていたから、無理強いはしなかった。 微かに残るのは、あの母の声。 ここ試衛館へ送られる最後の日、母は私を自室に呼び、その細い腕で私を抱きしめ それだけを静かに言った。 当時9つだった私は意味も分からずただ頷いた。 初めて抱きしめられることに喜び、はにかみ、笑顔で 「行って来ます」 そう言った。 あるといえばそれだけのこと。 たったそれだけの記憶が、どうして私の心を支配するのだろうか。 こうして静かに流れる時間を感じていると、何故か無性に空しくなる。 目の前に輝く川の水が眩しくて、思わず目をそらす。 なぜ、今日はこんなに晴れているのだろう。 なぜ、こんなにも眩しいのだろう。 果たしてこれは現実なのか。 夢なら早く覚めて欲しい。 目の前の世界と今の自分が違う次元にあるようで、妙な違和感が消えず私を苛立たせる。 頭の中は真っ白だった。 「やっぱりここにいたか」 聞きなれた声にふと振り返る。 その姿を確認すると、ああ、これは現実なのだと実感させられた。 「・・・歳さん」 「えらく探したぜ。勝太が心配してる」 隣に腰掛ける男に返事もせず、私はただひたすら黙っていた。 なぜだろう、言葉がでない。 不思議なことに、話すだけの気力がない。 隣の歳さんの荒い息遣いが聞こえる。きっと走り回ったのだろう。 誰のために? 私のため? 「どうした、やはりつらいのか」 「・・・さぁ」 「つらいのならいいんだぜ、思い切り泣け」 「泣きませんよ、コドモじゃあるまいし」 「強がるなよ」 「そんなんじゃ」 強がる必要なんてない。 ただ、私に泣くなんてことが許されるのだろうか。 たったあれだけの記憶のために。 私に泣く権利など、あるのだろうか。 「・・・放っておいてくださいよ、今は何も考えたくありません」 「そうはいかねえ。お前さんを見つけ次第連れて帰ると約束したんだ。 さぁ来いよ」 引っ張られる手が痛い。 振りほどくだけの力さえ出せず、私はそのまま、右の手首を掴まれたまま、 試衛館へと連れ戻された。 ・・・いつもより格段と長い、道のりだった気がする。 出迎えてくれた若先生の顔色はよくなかった。 やけに青く見えて、いつもの豪快さが今ではどこかへ失せている。 「よかった、宗次、無事だったか」 その顔が、私の心を責め立てる。 胸のうちの何者かが私の心にゆとりをつくらせ、無理に笑顔に変えさせる。 「すみません、ご心配をおかけしました」 笑顔はなんと便利なものだろう。 たったこれだけのことで、人の心をよくも悪くもさせることができる。 いつの間にこんな術を身につけたのだろう。 思い出せないが、今はそんなことなどどうでもよい。 肩を抱かれ、そっと中に迎え入れられ、若先生は後ろ手に障子をぱたんと 閉めた。 「話がある」 「なんですか」 「葬式のことだ」 「母の…ですか」 「・・・そうだ」 ああ、そうか。 母は死んだのだ。 どんな最期だったのか、それすらも知らない。 ただ突然に、姉から手紙でその旨だけを知らされ、それが現かどうかも確かめる 術を与えられないまま、時間はすでにここまで流れていたのだ。 「お葬式・・・」 考えてもみなかった。 母が、死ぬなどと。 「二日後だそうだ。急いで帰れば十分間に合う。お前は沖田家の長男なのだから、 行って来い」 二日後。 二日後には母は土の下。 顔も朧げにしか憶えてはいない母の葬式が、二日後に行われる。 夢では、ないのか。 「宗次郎」 目の前の、苦渋に満ちた岩のような顔が私を見ている。 「泣きたいのなら泣け。気を使わんでいいんだぞ」 ・・・そうじゃないのです。 何かが胸のうちでつかえて、今自分がどんな気持ちなのか、自分でもよく分からない のです。 あまりにも突然すぎたので。 あまりにも記憶にないので。 そんな私が、泣いてもいいのでしょうか。 母は、悲しみやしないでしょうか。 「お葬式には」 ゆっくりと腰をあげた。自分の足が驚くくらいに不安定だ。 思わずぐらついたのを、笑って誤魔化した。 「お葬式には出ません」 「なぜだ、宗次。遠慮はするな」 「今更私が行って何ができましょうか。自分はもう沖田家から離れた人間です。今更 戻れば、林太郎さんにも迷惑だ」 「おミツどのは構わないさ」 「・・・出ません」 「・・・お前の母親だぞ」 「・・・記憶にないのです」 「失礼します」 パタンと閉まる障子の音が、やけに耳障りだ。 口元に浮かぶこの笑みはなんなのだろうか。 胸にぽっかりと開いてしまった穴は、いつ閉じられるのだろうか。 「いい子だ」 どんなことにも笑顔で答えていれば、誰もがそう言って褒めてくれた。 「えらいな、宗次郎は」 若先生の声だ。 ここ試衛館へ来たばかりの私を、慰めてくださった。 泣かなかった私に、若先生は 「強いな、宗次郎は」 そう、言ってくれたんだ。 母の言葉がこだまする。 強くおなりなさい、と。 真の武士におなりなさい、と。 お母さん。 私は「強い」ですよ。 皆そう言ってくれるのです。 私はもう泣きません。 笑顔であなたを送ります。 「宗次!」 突然腕を掴まれ、無理やり身体の向きを変えられた。 何事かと思えば、目の前にあるのは怒りに震えた歳さんの顔だった。 瞬間、左頬に熱いものが走り、衝撃で私はその場へ倒れた。 「この・・・馬鹿野郎が!!」 「歳、やめろ!」 一体何が起こったと言うのだろう。 先ほどまで笑っていた唇に指をあててみると微かに濡れている。 そのまま指を目の前までもってゆくと、その先は朱い液体で濡れていた。 こんなに強く殴られたのは、おそらく初めてだ。 頭が、フラフラする。 「フザケるのも大概にしやがれ!畜生!!」 「落ち着け、歳!!」 この人は。 一体何を怒っているのだろう。 ああ、もうだめだ。 何も考えられない。 「何がおかしい!へらへらへらへらしやがって!!てめえの母親が死んだ ってのがそんなに嬉しいか!!ああ!?」 「嬉しい・・・・・?」 「てめえみてえな親不孝もんは、犬に噛まれて死んじまえってんだ!!」 「いい加減にしろ、歳!」 「畜生・・・ッ!!」 一瞬、怒りに満ちた歳さんの瞳が潤んでいたような気がした。けれどそれを 確かめる間も与えないまま、反対方向へ音を立てながら去っていった。 「宗次、大丈夫か」 「ええ」 「そうか、ならいい」 それを追う若先生の後姿。 一人残された私は、それをただ呆然と見送るしか他なかった。 泣いてはいけない。 私はもう子供ではない。 もうない母の幻影に、いつまでもすがっていてはいけない。 強い武士になるのだから。 それが、母の望みなのだから。 * * * いつかと同じ川原には、今日も穏やかな風が吹いている。 相変わらず輝く水面が眩しい。 けれど、目をそらすことはなかった。 そっと目を細め、流れる前髪を掻きあげる。 「結局、行ったのか」 あの日と同じように、隣にはいつの間にか歳さんがやってきていた。 こちらを見ずに、ぶっきらぼうに放つ言葉の中に微かな優しさを感じる。 思わずクスリと笑って、 「はい、行きました」 と言った。 「そうか」 「『その痣は一体どうした』って、林太郎さんにひどく心配されました」 見せつけるように、微かに青い左頬を突き出した。 チラリと振り返った歳さんは顔を耳まで真っ赤に染めると、また、プイ とそっぽを向いてしまう。その仕草があまりにも子供っぽかったので、 また、私はクスリと笑った。 「・・・・どうだった」 「何がです?」 「おふくろさんと、きちんとお別れできたのか」 「はい」 「安らかな、顔でした」 久しぶりに見た母の顔は、驚くほどに青白く痩せこけてはいたが、美しかった。 閉じた瞳の奥で私を見てくれているようで、不思議と心は穏やかだった。 涙で顔を濡らす姉たちの前で、私一人が笑顔だった。 手を合わせ、土に埋もれてゆく母の顔を眺めているうち、胸のうちがひどく 張り詰めた。 それでも笑顔だったのは、吹き出しそうな感情を必死に堪えるための仮面のつもり だったのだろう。 いけない、母が見ている。 私はもう、強いのだ。 「しかしなぁ」 溜息とともに、歳さんの言葉が私の思考を止めた。 振り向くと、いまだに顔の赤い歳さんがこちらを見ている。 「おめぇ、その様子じゃまだ我慢してやがるな」 ・・・時々、この人の鋭さには心の臓が口から飛び出そうなほど驚かされる。 若先生や大先生、おかみさんの目は誤魔化せても、結局この人には通用しない。 今回も見事なほどに言い当てられて、思わず動揺した。 「・・・かなわないなぁ、歳さんには」 「そのとおりです」 口元に浮かべた笑みが壊れそうだ。 唇が痙攣して、ともすれば目頭が熱くなってくる。 泣かない。 泣くものか。 「母は」 歳さんの目が、私に嘘をつくことを許さなかった。 その鋭い瞳でじっと私を見据え、私の胸の内を半ば強引に引きずり出す。 震える唇で、導かれるまま私は呟き続けた。 「母は、私に『真の武士になれ』と言いました。いつか私がお仕えする方 のために、誰よりも強くなれと言いました。どんなときも弱音を吐くな、 どんなときも涙を見せるな、そう言いました。だから、今私が泣けば、悲 しむのは母だ。そう約束をした私が泣くのは、いけないことです。約束を 違えば、それは武士の理に反します。だから私は泣きません」 「私はもう子供ではありません。もう十分強いのです。泣きません。泣く ものか」 「・・・馬鹿だな」 歳さんの大きな手のひらが、私の頭の上に乗せられた。 「おめぇは馬鹿だな、そういうところが、まだまだガキだ」 ガキ、と言われて、瞬時に顔が熱くなる。 反論しようと口を開けかけた私をその目で制し、ゆっくりと言葉を紡ぎ 始めた。 「おふくろさんは何もそんな無体なことを言ってるわけじゃねぇさ。 我慢すればするだけ、悲しむのはおふくろさんだぜ」 「おめえは初めから自分の本心を誤魔化してきたな。そりゃあ、勝太 やおかみさんに遠慮してのことだったんだろうが・・・おふくろさんが 死んだ今くれぇ、吐き出しちまってもいいんじゃねえか」 「おふくろさんの言う『真の武士』たぁ、泣かねえ男のことじゃねえさ。 てめえの身内の不幸にも涙を流せねえ男なんざ、武士じゃねえや」 「情のねえ武士なんざ、なるもんじゃねえよ」 どうしてだろう。 歳さんの言葉の一つ一つが、深く胸に突き刺さる。 全身の力が抜け、いつの間にか笑みも消えている。 余裕の無くなった心は押し込めていたもので溢れかえり、はちきれんばかり に蓋を押し上げた。 溢れたのは、涙だった。 「あ・・・・っ」 一度零れたものは、とめどなく溢れ続け私の顔を濡らした。 「違うんです、こんなつもりじゃ・・・」 「いいさ、もっと泣けよ」 私が声をあげるのに、そう時間はかからなかった。 歳さんはその腕で私の頭を抱え、このぐしゃぐしゃになった顔を見ないように してくれた。 私はそんな歳さんの優しさに甘え、その腕にすがり、赤ん坊のように泣き続けた。 時々歳さんがむせる私の背をさすってくれる。それがまた優しすぎて、さらに私 の涙を溢れさせた。 「うわああぁぁぁ」 恥ずかしいなど、思うゆとりも無かった。 「お母さん、お母さん」 唯一残ったあの記憶が、鮮明に脳裏によぎる。 なぜだろう、どうしても思い出せなかった母の笑顔が、今ではくっきりと思い出す ことができる。 抱きしめられた感覚がちょうどあの時と同じで・・・。 このたまらない切なさの嵐は、しばらくやむことはなかった。 「宗次、よかったな。これでおめえの臍が曲がらなくてすみそうだ」 俺もな、と、歳さんは語ってくれた。 生まれた時には既に父親がいなかったこと。 私より幼い時に母親をもなくしたこと。 その時強がっていた自分は泣けず、今のようなへそ曲がりになってしまったのだと いうこと。 お前のいいところはその素直さなのだから、それを自ら否定してはならない そう言ってくれた。 その言葉がまた突き刺さる。 そのままいつまで泣いたろう。 泣き膨れた顔を隠すように、歳さんの背後に、その影を追うように帰った。 お母さん。 私はまだまだ子供です。 泣かないと決めたのに、堪えきれず涙をこぼしてしまいました。 こんな私を、見てくださっていますか? 病に苦しむことのないその暖かな場所で、私のことを見守ってくださいますか? 思い出のあなたに時にすがることを、許してくださいますか? まだまだ弱い私を、許してくださいますか? あなたのいう「武士」に、今はまだなれません。 けれどいつか。 大人になった時には。 「真の武士」となって、あなたの墓前で手を合わせましょう。 それまでどうか、見守ってください。 甘えることを、許してください。 あなたの息子として、恥じない人生を歩みましょう。 ・・・さようなら、お母さん。 777HIT感謝 丘芽ナナ |