肌に咲く花 あさぎこと 様 雪白に咲いたは紅の花。 匂うは梅が香。 暗闇にあっても、自分はここだと主張する。 高慢で、我儘な、愛しい仇花。 「お前は梅のような男だな」 白い肌に刻んだのは紅梅。 この花を見た男は、その主の他に二人いる。 一人は、もうこの世にはいない男。だが、肌に咲いた花が消え去ることがないように、これを刻み付けた男を花の主が忘れることはないのだろう。 新撰組の筆頭局長・芹沢鴨が死んだのは、文久3年9月18日。 悲鳴も剣戟の音も、強く降る雨に消されてしまう、――そんな夜だった。 「来たのか? 総司」 鉄錆びた匂いが漂う中、暗殺者にたがうことなく、そう呼びかけた。 「お前の体からは梅の香が立ち上る。あの花に愛でられたのか、それとも呪われたのか。どちらにしても、闇討ちには不向きだな」 「芹沢先生」 「一度、お前と試合ってみたいと思っていた」 「ええ、私もです。本当に残念です」 「大事な男のために俺に抱かれたお前」 スッと大きな手が愛しげに頬に伸ばされた。 「今度はその男のために邪魔になった俺を殺すのか。もっとも、心の中では何度も俺を殺していたのだろうがな、可愛い総司。…一緒に死なないか?」 「……私は、まだ死ねません」 刹那、肉を貫く鈍い音がした。 「ぐ…。…ああ。…そうだった…な…」 芹沢はすでに一太刀、兇刃をその身に受けていた。新たな傷口からも血が流れているのだろう。 「あの世で…待って…いる。俺の…紅梅…」 総司によって腹に刀を突き立てられながらも、芹沢が囁くのは、欲を孕んだかすれ声。 失血のため、荒い息の合間に搾り出されたのは、罵声でも、恨み言でもなく、己を求める言の葉だった。 「残念だが、コイツは渡さねぇぜ、芹沢。お前は極楽に行け。俺はコイツと地獄で足掻く」 低い美声が、耳のすぐ傍で聞こえた。 次の瞬間、グサッという音と共に、暗闇の中、また血臭が濃くなった。 雨の降る日は思い出す。 もう忘れろと、何度、己に命じたことだろう。でも、忘れられない。忘れることなど出来ないのだ。 それは、忘れたつもりでも、夢魔となって追いかけてくる。 「いや…。いや…だ」 熱い。 誰か助けて。 誰か…。 ――さん。 「総司、どうした? しっかりしろ、総司」 「あ? ああ、…土方さん」 「何を魘されていた。ひどい汗だぞ」 目を開けると、薄闇の中、飛び込んできたのは兄のような男の顔だった。 総司の一番好きな、綺麗な顔が気遣わしげに覗きこんでいた。 「…夢を見たようです」 「怖い夢か?」 「…と言うより」 「?」 「いえ。どんな夢だったのか、覚えていないです」 雨音に掻き消されそうな小さな声だった。 「そうか?」 ――嘘吐きめ―― 土方は心の中で呟いた。 こんな夜は、いつも総司は夢に魘されるのだ。怖い夢というより、むしろ痛い夢であることを土方は知っている。 芹沢が死んで、もう2年の月日が経っていた。 ――もう、忘れてもいいだろうよ、総司―― そう思い、心の内でため息をついたものの、土方は何も言わずに、瞼の上に手を置いた。 「眠れ。…今晩は、付いていてやるよ」 新撰組の鬼は、本当は誰よりも優しい人だ。どんなに酷薄な男に見えたとしても、彼の心には一点の曇りもなければ、迷いもない。 彼は幼い頃の夢を追い求め、それに向かって、ただ突き進んでいく。 脇目も振らず、我武者羅に、真っ直ぐに――。 あまりに急ぎ過ぎて、息切れしなければいいと、総司は密かに心配している。 だが、当人は周りの思惑など気にせずに、最短距離を走り続ける。それが、山だろうと、谷だろうと構わぬのだろう。茨の道で、傷だらけになることこそ本望だとでも言うように。 来し方を、この男と共に過ごしてきた。 花を見るのも一緒だった。 川遊びも蛍狩りも。 強請って、連れて行って貰った秋祭り。買ってもらった狐の面は、ずっと宝物だった。 雪だるまを作ったあとは、決まって熱を出した。そして、その晩、枕元には長く白い指によって生み出された雪兎が置かれていた。――そんな優しい思い出。 「熱があるようだな。梅の香で咽そうだ」 総司は不思議な体臭を持っている。普段はそれ程ではないのだが、体温が上がったり、興奮すると香るのだ。 近付くと、ふわりと絡みつくように、梅の香が漂う。まるで、盗めと誘っているようだ。 「土方さん」 「なんだ?」 「欲情しないで下さいよ。…不穏な瞳の色だ」 淡い行灯の光に、その色が浮かぶ。 「そんな潤んだ目で、俺を見るから悪いんだ」 総司は、松本良順によって、労咳と診断された。体調は悪化の一途を辿る。元気そうに振舞っても、それは見せ掛けだけだと言う事を、土方は知っている。 剣の冴え、心の健やかさは、体の強さに比例しないようだ。 芹沢一派の死を皮切りに、命じられるままに浪士を斬り、内部粛清に手を貸す総司は、どんどん、自分の感情を殺ぎ落としているようだ。 土方の前では、昔と変わらぬ稚気を見せ、楽しそうに笑っているけれど、それがどこか無理をしているように見えて仕方がなかった。限られた命をすり減らし、心を押し殺し、空気のように傍に在る。 だが、この心地良い愛しいものは、もうすぐ自分の前から消え去ってしまうのだ。そうしたら、自分は息が出来るのだろうか――。 「もうそろそろ、良いだろ?」 痩せた肩を震わせて、一人で耐える総司を、ただ見つめるのは、もう限界かもしれなかった。 「何がです」 「あいつのことは忘れろ」 「誰のことです」 「…俺とお前が殺した男」 「ああ、あの人ですか」 素っ気無いほど、返った言葉の温度が低い。 「もう、俺のものになれよ」 「今更。…私はずっと昔から、あなたのものですが……」 幼い自分に夢を語ったあの時から。前だけ見つめる、強く、危うい瞳の色に魅せられた時から――。 「…願えば、夢は叶うのでしょうか」 「叶えるさ。……お前の夢は、何だろうな?」 「聞きたいですか?」 「歳三さんのお嫁さんになりたい」 そう言う男の顔には含み笑いがある。 「いやだなぁ。なんでお嫁さんなんです?」 「ばか野郎、ほんのチビの時、お前、そう言ったんだぞ。忘れたのかよ」 「いつのことです?」 「おきんさんが嫁に行ったとき。歳三さん、好き。そう言って、抱きついてきて、可愛かったよなぁ」 「え? 本当ですか?」 「ああ。だから、責任をとってもらうぞ」 「なんの責任です?」 「俺が、今まで独り身だったのは」 「私のせいなんて言うんじゃないでしょうね。…面倒くさかっただけでしょ?」 「まぁ、それもあるかな」 「ほぉら、調子いいんだから。全く、あなたときたら…」 だが、すぐ返されると思った土方の言葉は、なかなか総司の耳には届かなかった。 いい加減焦れたとき、突然、抱き寄せられ、嗅ぎ慣れた体臭に包まれた。すぐ間近に聞こえる鼓動は、やけに速かった。 「好きだ、総司」 わずかに頭上に聞こえる耳に触る甘い声。言葉で愛撫されているようだ。 「何人の女に、そう言ったんです?」 「苛めるなよ」 土方は苦笑せざるを得ない。 この愛しい男は、自分の知られたくない過去を洗いざらい知っている――ような気がする。 「忘れろとは言わない。…その代わり俺のことだけしか考えられないようにしてやるよ」 総司の肌に咲く一輪の花。 手当てをしてやった時、たった一度だけ見た花が忘れられない。 芹沢が刺した花。何を思ってそんなことをしたのか、もう聞くことは出来ない――。 だが、聞いたら、その横っ面を思いっきり張っていたに違いない。 屈託なく笑っていた子どもを泣かせた罪は重い。 清らかなものを、無残に汚した罪科はその死をもって贖わなければならなかったのだ。 会津に命じられた芹沢の排除は大義名分に過ぎない。土方はあの男が憎かったのだ。八つ裂きにしても飽き足りないほど、憎かったのだ。 「土方さん、怖い顔をしている」 総司は、土方の心の動きに敏感だ。 「ああ。すまねぇ。…笑ってやるから、俺に抱かれろ。いいな」 「……痛いのは、嫌ですよ」 憎まれ口を叩きながら笑っているけれど、心の内は決して穏やかではないことを、土方は知っている。 「俺が、…忘れさせてやる」 「どうしても忘れられないのです。多分、忘れてはいけないのかも知れない」 「そんなことがあるか。忘れちまえ。…俺が我慢できねぇんだよ」 大事な総司を泣かせた男が、心のほんの片隅にでも息づいている事が――。 土方は総司を大切にし過ぎて、取り返しの付かない過ちを犯してしまった。その同じ轍を二度と踏みたくないと思っていた。 だが、芹沢のように無理矢理に奪うことも、土方には憚られたのだ。 「もう、待てねぇんだよ」 総司に残された時間を知ってしまったから、土方は一歩、踏み出さずにはいられなかった。 「私の中の芹沢さんごと、受け入れてくれるのですか?」 総司は容赦のないことを聞いてくる。 「…あなたは許せるのですか? 芹沢さんが咲かせたあの花を。それをむざむざ刻ませた私を。…芹沢さんの腕の中で感じたのが痛みだけなら許せた。でも、そうではなかったことを私はこの身で知っています」 総司の雪のように白い肌には、真っ赤な梅が咲いている。足の付け根の際どい場所に、所有の印の様に彫られた刺青。 この世で、この存在を知っているのは、総司と土方のみ。親代わりである近藤勇ですら知らないことだ。 「全く、あの親父も悪趣味なことをしやがるぜ」 「本当ですよね、ふふ」 どんな表情をしているのか。総司の自虐的な笑みは、とても痛々しい。 「…傷口に塩を塗り付けるのは、お前の悪い癖だ。俺なら薬を塗ってやれるぜ」 「…土方さんの薬は苦いです」 「ばか野郎が。虫歯になるくらい甘い薬を調合してやるよ。期待しておけ」 「試して…あげてもいいですよ」 「そんな生意気なことを言っていてもいいのか? すぐに後悔させてやるぜ」 土方は素早く自分の着物を脱ぐと、今度は慣れた手つきで、スルリと総司の着物を剥いでいく。 先ほどまで、雨の臭いが勝っていた室内は、今度は濃厚な梅の香に包まれた。 「昂ぶっているのか?」 早鐘のように鳴る心音と、期待と不安で呼吸が上手く出来なくなっている総司に、土方は意地悪くそんなことを聞いてくる。 「ドキドキしているようだな」 左の胸の淡く色づいた部分に唇を寄せ、くすりと笑う。そして、ムッとしている総司の右の手をそっと取り、自分の胸に当てさせる。 「ほら、同じだろ?」 「…はい」 「口を吸うぞ」 「ダメです。それだけは堪忍してください」 「聞かねぇよ。甘い薬は、まず、その口で味わえ」 土方との口付けは、甘いんだか、辛いんだか。総司にはよくわからなかった。でも、味があるとしたら、それはほろ苦い罪の味だったかも知れない。 ただ、熱に浮されたみたいに、一つの言葉だけを、心の中で呟いていた。 好きです――。あなたが好きです――。 長い夜の始まりは一つの言葉で始まって、幾度唱えたかわからぬ言葉で埋めつくされ、夢現の中で、唐突に途切れた。 「大丈夫か?」 長い抱擁から開放され、再び目を開けた時、目前にあったのは気遣わしげな情人の顔。 「…ああ、もう死んでしまいそう」 「おい!」 慌てる土方に、総司はフフと悪戯っ子のように笑う。 「幸せすぎて死にそうなんです。もっと早く、こうして欲しかった」 「なんだと?」 「ずっと、好きでした」 「ハ。なんてことだ。俺は要らぬ我慢をしていたってことか」 「我慢していたんですか?」 「ああ。悪いかよ」 「女の人を手当たりしだい、とっかえ、ひっかえだった土方さんが? …まるで、純愛ですねぇ」 「ああ、そうだよ。俺がこんなに我慢強く、純情だったとは、俺自身、思いもよらなかったよ。文句あるのか?」 「ないですよ。…罰があたりそうです」 「あ?」 「こんなに幸福でいいのかと心配になります」 「総司」 土方の惚れたのは、とても、幸せなどとは言えぬ境遇の男だった。 貧困ゆえに道場にやられ、そこで下働きをしながら、剣を学ぶ幼い日。決して、丈夫とはいえなかった総司は、その早熟な剣才に体が付いて来ず、周囲を何度もハラハラさせた。その度に、からくも、命をギリギリのところで拾い上げ、今日に至る。 「お前は幸せになっていいんだよ」 「…ずっと、幸せですよ。…あなたは私を不憫だと思っているのでしょうが、幸せかどうかは、誰が決めるのでもない。私が決めるんです」 「総司」 生命の瀬戸際に立つ男は、そう言って艶やかに笑った。 「私はあなたといられて幸せです」 「総司。じゃあ、もっと幸せになれるようにお守りをやるよ」 「?」 土方は矢立を出して、サラサラと短冊に何かをしたためる。 差し出されたのは、墨跡も美しい一句。 『梅の花 一輪咲いても 梅は梅』 誉めるべきなんだろうかと、総司は土方の顔を覗きみる。 「良い句だろ?」 そう言って笑った秀麗な美貌の男は、何を思ったか、朝陽の中で総司の掛け布団を剥いだ。しどけなく開かれていた足を咄嗟に閉じようとしたが、土方の手によって阻止された。そして、――肌に咲く梅の花が白日の元に曝け出されたのだ。 「土方さん!」 「黙れよ」 両膝を押さえられ身動きできず、抗議の声を上げたが、反対に窘められた。 「痛…」 不意にそこに強く口付けられた総司は、短い悲鳴を上げた。 「ほら、見てみろよ」 「嫌です…」 そんなものは見たくない。ずっと、目を背けてきたのだ。 「吸われて、綺麗な色になったぜ。…これから先、一夜一夜に、俺の色に染めてやるよ」 「土方さん…」 「総司は、何があろうと、俺の総司だ」 誰よりも強く。誰よりもいとおしい――。 春を待ち侘び匂う花。 私はここだと、愛でろと主張する我儘な花。 春を愛する男によって雪白の肌に咲いた花は、今、艶やかに香る――。 完 宝 蔵 |