「両手いっぱい花いっぱい・後編」
電話を終えた土方は、頭を抱えたくなった。
今、斉藤から受けた報告によると、君菊と小楽は官舎の部屋の前、自分が戻るまでは帰らない!と踏んばっているらしいのだ。
もともと己の軽はずみな言動が招いた結果だが、もう勘弁してくれと云いたい気分だった。あんな何年も前の事を今頃になって蒸し返されるとは、思ってもいなかったのだ。しかも、大事な可愛い恋人にべた惚れになってる今になって、こんな───
「……厄日だ」
がっくり項垂れ、土方は深々とため息をついた。ショーウインドーに凭れながら携帯電話を仕舞い込み、視線をあげた。
とたん、ぎくりと顔を強ばらせた。
「──」
いつのまに戻ってきたのか、そこには彼の愛しい愛しい恋人──総司が立っていたのだ。桜色の唇をきっと引き結び、あの大きな瞳でじーっと土方だけを見つめている。
上目がちなその表情はちょっとだけ不安げで、思わず押し倒したい程の可愛さだったが、今はふらふら惑わされている場合ではなかった。
土方は慌てて、その端正な顔に笑みをうかべた。
「……総司、店に入らなかったのか?」
「土方さん」
「あぁ」
「厄日って何のこと?」
いきなり直球で訊ねられ、土方はうっと詰まった。が、ここで狼狽えては今までの努力がすべて水の泡だ。
総司の細い肩を抱くと、僅かに苦笑してみせた。反対の手でガラス戸を押して店内へ入りながら、ちょっとからかうような口調で云った。
「そりゃ、厄日だろ? おまえにすげなくされてさ」
「つれないのは、土方さんの方じゃない。携帯電話ばかり気にしてるし」
「そうかな」
「お仕事が忙しいの? それとも……」
「え?」
「もしかして……他のご用事?」
どこか瞳をうるうるさせながら、不安そうに小首をかしげた総司は、まるで可愛い白ウサギそのものだった。
今すぐにでも、ぎゅーっと抱きしめてやりたい程の、ベリーベリーキュートな可愛さだ。
それをぐっと堪えつつ、土方は素早くその額にしっかりキスだけは落とした。とたん、ぱっと頬を染める総司がたまらなく愛おしい。
「おまえとデートしてるのに、他に用なんかある訳ねぇだろ?」
「でも……」
「電話の相手は斉藤だ。疑うなら、ほら……履歴見てみな」
ぱちんと音をたてて携帯を開くと、それを差し出してみせた。こればっかりは事実だから、土方も堂々としていられる。
履歴表示を見た総司は「あ」と小さく声をあげた。かあっと耳柔までピンク色になってしまう。
それから、もじもじと恥ずかしそうに俯き、土方のシャツの裾を指さきで握りしめた。
「……ごめんなさい。ぼく、てっきり……」
「てっきり、誰だと思ったんだ?」
「女の人かと……ごめんなさい。誤解だったんですね」
総司の言葉に内心ぎくりとしつつも、土方はそれを必死に押し隠した。
「……わかってくれて嬉しいよ」
にっこり笑いかけながら、背を押すようにして ショウケースの方へ押しやった。店員を呼んで、似合うものを見繕ってくれるように頼む。
ようやく機嫌を直し、楽しそうに買い物を始めた総司を見ながら、土方は安堵の吐息をもらした。
総司にバレるのも怖いのだが、それよりも本当に恐しいのは、芸妓たちと遊びまくった彼の過去を知られた時の反応だった。
素直で心優しいが、その一方、とても勝ち気で潔癖性の少年だ。
あんな軽はずみで放蕩三昧の日々を知られれば、いくら過去の事とはいえ嫌悪されてしまうかもしれなかった。軽蔑されて「土方さん、不潔!」とか何とか罵られ、挙げ句、実家(近藤家)へ帰られてしまう──そんな悪夢も現実にありえない事ではないのだ。
それに、総司はもともと少年である己自身にコンプレックスが強く、彼が女性と結婚しない原因となった事に、後ろめたさを覚えていた。その罪悪感は彼自身が何度打ち消しても拭いされない程の強さで。だからこそ、そんな総司のためにも、なるべくこういった事で煩わせたくなかったのに……。
「……マジで過去やり直してぇ」
思わずそう呟いた土方に、総司が「え?」とふり返った。なぁに?とその大きな瞳が問いかけている。
それに慌てて笑いかけ、土方はまた携帯電話を取り出した。
総司がこちらを見てないのを確認してから、ちらりと視線をやったが、まったく何の音沙汰もない。
土方の眉間に深い皺が刻まれた。
(穏便かつ速やかに、解決しろと云っただろうがッ! いつまで待たせりゃ気が済むんだっ)
ぎりぎり歯がみしたくなる苛立ちを抑えながら、それでも土方は幸せそうに笑いかけてくる総司に手をふり、一方で、背中に隠した携帯電話をバキバキ音が鳴るほど握りしめたのだった……。
さて、こちらは再び、警視庁キャリア専用官舎。
先ほどの玄関より15mほど上った8階の廊下。殺風景でたいして広くもないそこに、男女計5人が立っていた。
むろん、場所は土方の部屋の前だ。
クーラーなど勿論きいてない屋外であるそこは、都会の暑さに満ちていた。
「……いい加減、諦められたらいかがです」
欠伸でもしそうな口調で、斉藤が云った。
何度もくり返した台詞なので、いかんせん張り合いがない。そろそろ辺りには夕陽の茜色が満ちようとしていた。
傍から永倉が口を出した。
「姉さんたちだってさ、わかってんだろ? 今更どうこうしたって仕方ないって事はさ」
「それは、そへんですけど……」
君菊は睫を伏せ、淋しそうに呟いた。その憂いにみちた美女の横顔に、普通の男ならぐっとくる処だろうが、生憎ここにいる三人は普通ではない。
その中でも、一番普通でない恋愛経験をもつ斉藤がビシバシ云った。
「とにかく、ここで待っていても二人は帰ってきませんよ。それとも何ですか、この暑い官舎の廊下で野宿でもされる訳ですか」
「そないな事、斉藤はんに云われる筋合いはあらしまへん」
ぴしゃっと云ってのけたのはむろん、おとなしやかな君菊ではない。その妹分にあたる小楽だった。
先ほどから、この小楽と斉藤はさんざん毒舌満載の応酬をくり返している。
「たいがい、斉藤はんに何の関係がおますのや。それとも、何どすか。斉藤はんは、土方はんの所行が正しいと思おてはるのどすか」
「正しいとは思いませんが、あれは酒の席での戯れ言でしょう。男の言葉の本気かどうか見分けもつかないで、よく芸妓などやってられますね」
「何どすて!? そへんなら、おなごは何を頼りにしたらえぇ云わはりますんやっ」
小楽がきりりっと柳眉をつり上げた。
どんどんヒートアップしてゆく口論に、島田などは壁にへばりつかせた巨体を縮めこみ、たらたら冷や汗を流しまくっている。
斉藤は胸の前で腕を組み、ふんっと顎をあげた。
「だから、そういう男を頼りにする人生観がおかしいと云ってるんですよ」
「そへんなに云わはるんどしたら、その土方はんの恋人はんは、男はんを頼りにせんお人どすやろな!?」
怒り狂った小楽の問いかけに、斉藤の鳶色の瞳が不意に真剣な色をうかべた。
「むろん、そんなみっともない姿は見たことありませんね。あの子はとても強いし、どれだけ周囲が守ってやろうと手をさしのべても、必死に一人で戦い生きてゆこうとしている。だからこそ、その強さゆえに美しいんです」
斉藤はあからさまな嘲笑をうかべた。
「どこかのじゃじゃ馬芸妓とは、えらい違いですよ」
「……っ」
小楽が絶句した。
キーッと叫び出しそうな彼女に、斉藤はにやっと勝利の笑みを見せた。初めて小楽の口を封じたのだ。
思わず、勝った!とガッツポーズ。
しかし、それもつかの間、すぐ我に返った。
こんな口喧嘩で勝っても、何の利益にもならないのだ。
ますます事態はドロ沼化の一途を辿っているし───
(……あぁ、オレのマランツSA-15SI……)
遠い目になってしまった斉藤を前に、小楽がキリキリ歯ぎしりした。草履を履いた小さな足でバンバン地団駄踏みながら、叫んだ。
「そやったら、尚のこといぬ訳にはいきまへん!」
「小楽ちゃん……もうその辺で……」
「こへんな事まで云われて引き下がったら、芸妓の恥どす! うちは絶対帰りまへんえ」
「では、ご勝手に」
斉藤は冷たく云い捨てた。
「あなたがここで野宿してその綺麗な着物が埃だらけになろうが、ヤブ蚊に食われまくろうが、知ったことではありませんからねぇ」
つけつけ云った斉藤の腕を、永倉がさすがに引っ張った。
「おいおい、おまえ、火に油注いでるって。全然、穏便じゃねーじゃん」
「もう穏便解決は諦めました」
「CDプレーヤーは諦めたってか」
「……それ云わないで下さい。口惜しさで涙が出そうなんですから」
斉藤はため息をついてから、携帯電話を取り出した。そして、ある提案をするため、君菊と小楽に向き直ったのだった……。
「あーあ、すっごく疲れちゃった」
総司はカフェのソファに坐りこむと、ふうっと息をついた。
都心のおしゃれなカフェだ。さんざん買い物をし終えた二人は、お茶でも飲もうとここへ入っていた。
奥まった席なので、ふかふか白いソファに小柄な躯を沈める可愛い総司を見られるのは、その恋人である土方だけだ。
それにちょっとした満足を覚えながら、手をのばした。柔らかく白い首筋から頬を掌で包みこみ、撫であげてやる。
「少し引っぱり回し過ぎたな……ごめん」
「あ、そんな謝らないで下さい。ぼくも楽しかったんだし」
隣のソファには、買って貰った服の包みやら何やらが山積みになっていた。しかも、そこには本日中にお召し上がり下さいのシールが貼られた、お総菜やらケーキの包みまでもがある。先ほどまで総司は大好きなデパ地下に潜り込み、さんざん買い込んでいたのだ。
それを、土方は複雑な心境で一瞥した。
「やっぱり……今日の夕食、外で済ませないか? それで、いっそのこと泊まりとか……」
「だーめ」
総司はにっこり笑い、ごそごそと大きな袋を取り上げた。それは何と丸ごとアジの袋詰めだった。むろん、しっかり保冷剤でくるまれてある。
「これでねー、おいしいご飯を作るんです♪ 南蛮漬けとかもいいけど、すっごく新鮮だからお刺身にしてもいいし……」
「いや、別に今日でなくても」
「……土方さんは、ぼくのつくったご飯、食べたくないの?」
たちまち、総司の大きな瞳がうるうるっと潤んでしまった。悲しそうに視線を落とし、しゅーんと肩を落としてしまう。
それに、土方は慌てて手をのばし、その肩を抱いた。
「すげぇ食べたいよ! おまえの作ってくれる飯は、最高だ」
「じゃあ、楽しみにしてて下さいね♪」
ぱっと顔をあげ、嬉しそうに総司は笑った。
「早く帰りたいなぁ。ね、お茶したらすぐ帰りましょうね」
「あ、あぁ」
内心焦りまくりながら、土方は頷いた。
が、未だ斉藤から解決したという電話もメールもかかってこない。官舎へ帰ってしまえば全てがバレることは必定なので、土方も気が気ではなかった。
少しでも時間稼ぎしようと、口を開いた。
「な、ここのケーキ、おまえ好きだろ? 食って帰るか?」
「えっ、ほんと? 嬉しい!」
「じゃあ、入り口のとこにあるショーケースでどれがいいか見てこいよ。ゆっくり選んでいいからさ」
「あ、それは大丈夫です」
あっさりと総司は答えた。
「ぼくね、おいしそーだなぁって入った時に見てたから。クープド・フーダンがいいです」
「……」
「ここの甘さ控えめだから、きっと土方さんも少しは食べれますよ。ね、見てきて下さい」
そう云われ、土方はしぶしぶ腰をあげた。自分が行く事になってしまったが、これでも少しは時間稼ぎは出来るだろう。
重ね着していたシャツは脱いでいたのだが、そこに大事なものは全部入っていた。だが、それを移すのもまた着るのも面倒くさい。
土方はそのシャツを総司のすぐ傍に置くと、店内をゆっくり歩いていった。
遠ざかるしなやかな長身を見送り、総司は紅茶のカップを手にした。甘い香りを味わいながら、それに唇をつけようとする。
その瞬間だった。
軽やかな電子音が鳴った。
「……あ、土方さんのだ」
どうしようかと思ったが、緊急なら困るだろうと一応開いてみた。すると、表示は斉藤だった。
総司はちょっとほっとして、通話を繋いだ。
斉藤なら、わざわざ彼を呼びに行く事もないだろうと思ったのだ。
「あ、さいと……」
自分だという事を意志表示するため、すぐに総司は口を開いた。
だが、斉藤はその暇をあたえなかった。通話が繋がったとたん、いつもの彼に似合わぬ勢いで一気に話し始めたのだ。
『土方さんですか? もうオレはこの件から手を引きますからね! 申し訳ないが、ドロ沼化してしまいましたよ。やはり、あなた自身が相手しない事には、君菊さんも小楽さんも納得しないみたいです。何しろ、もう何年も前になりますが、あなた自身が結婚の約束までしてしまった間柄ですからね』
「…………」
『聞いてます? それでですね、とにかく二人には何とかホテルに帰って貰いましたので、そこへ行って直接話をつけて下さい。Rホテルの2808号室です。今夜のうちに来ないと、また官舎へ押しかけると云ってますので。では、ちゃんと伝えましたよ』
斉藤は云うべきことだけ云うと、さっさと電話を切ってしまった。
それを、総司は呆然と聞いていた。
携帯電話をもつ手が震え、やがて──体中が震えだした。
初めは頭の中が真っ白だったが、だんだん意味が飲み込めてきたのだ。不可解だった土方の行動の理由も。
(……じゃあ…何? 今日のデートも、ぼくをその二人から引き離すためだったの?)
大きな瞳が見開かれた。
(結婚の約束までしたって……そんな! 君菊に小楽って、名前からいくと芸妓さん? じゃあ、きっとすごく綺麗な女の人なんだ。ぼくなんか、絶対叶わないくらいの……っ)
遠く、こちらへ向かって戻ってくる土方が見えた。それに、総司は慌てて携帯電話を閉じると、彼のシャツの中へ仕舞い込んだ。
やがて、戻ってきた土方はソファに腰を下ろしながら、肩をすくめた。
「やっぱり、甘いものは苦手だな」
「……そうですか」
懸命に気持ちを抑えながら答えた総司に、土方は不審そうな目をむけた。
そっと手をのばし、頬にふれてくる。
「どうした? 気分でも悪いのか? 何か……えらく顔色が悪いが」
「そ、そう……? 大丈夫ですよ」
総司は視線をそらし、カップを取りあげた。そのまま紅茶をごくごくーっと飲みほすと、不意に立ち上がる。驚いて見上げる土方に、云った。
「帰りましょう」
「え? おまえ……ケーキは?」
「もういいんです。家に帰ってから食べる方がいいし」
「けど……」
戸惑いながら立ち上がる土方を、総司は大きな瞳でじいぃっと見つめた。
「それとも、何? 帰りたくない理由でもあるの?」
「──」
びくっと土方の肩が揺れた。
総司にむけられる黒い瞳も、明らかな不安にみちている。それを、総司は注意深く見つめながら、言葉をつづけた。
「そんなこと、ある訳ありませんよね? 自分の家に帰りたくないだなんて」
「……あぁ」
「じゃあ、早く帰りましょう。ぼくも荷物持ちますから」
にっこり笑ってみせると、総司はさっさと踵を返した。土方も諦めたのか、黙って後を追ってくる。
カフェの会計を済ませてから駐車場に向かった。だが、車はビルの5階に駐められてある。
土方は総司の手から荷物を受け取ると、云った。
「ここで待っててくれ。車を回してくるから」
「はい」
こくりと頷いた総司に背を向け、土方は足早に去っていった。
やがて、その恋人の姿が駐車場のビル内に消えてゆく。それを確かめた総司は、とたん、くるりと向きを変えた。
もの凄い勢いで表通りに走り出ると、手をあげて通りかかったタクシーを停めた。シートに身を滑り込ませながら、ある場所の名を告げる。
「……Rホテルまで」
総司は唇を噛みしめると、何かを決意したように両手をぎゅうっと握りしめた。
ベルを押すと、しばらくの間の後、女の声が応えた。
高級ホテルらしく赤絨毯が敷き詰められた廊下に、柔らかな京都弁が響いた。
「──どなたはんどすか?」
それに、総司はこくりと喉を鳴らした。
できるだけ落ち着いた声で云った。
「沖田総司といいます。土方さんのことで、訪ねてきました」
「……」
また、しばらく沈黙が落ちた。
やがて、別の声が答えた。
「申し訳ありまへんけど、おなご二人の部屋にお通しする訳にはいきまへん。下のロビーラウンジで待ってておくんなはれ」
「……わかりました」
それも尤もだと総司はエレベーターへ戻った。
指定されたロビーラウンジで窓際の席に腰かけ、きゅっと目を瞑った。思わず縋るように、何度もあのブレスレットを掌で撫でてしまう。
やがて、二人の着物姿の女が入ってきた。手をあげると気づいたらしく、こちらへ歩み寄ってくる。
それに、総司は僅かに息を呑んだ。
(やっぱり、すごく美人だ……)
二人ともそれぞれ魅力となる点は違うが、まるで咲き競う美しい花のようだった。仕草一つも優雅そのものだ。
が、負ける訳にはいかない!と、総司は両手を握りしめた。
席についたとたん、小楽が問いかけてきた。
「……声からすると男はんみたいせやけど、ほんまにあんはんが総司はんどすか?」
「そうです。ぼくが沖田総司です」
答えた総司に、小楽はどこか小馬鹿にしたような表情で笑った。
「何や、そへんゆう事どすか」
傍らにひっそりと坐る君菊へ、ちらりと視線をやった。
「これやったら、君菊姉さん、楽勝どすなぁ。勝負かてなりまへん」
それに、総司はカッとなった。
大きな瞳で二人を見据え、きっぱり云いはなった。
「土方さんは、ぼくの恋人です!」
「そへんかて、あんはん、男はんでっしゃろ」
「確かにそうだけど、でも、土方さんはぼくを愛してくれてるんです。そして、ぼくも土方さんを愛してる。この気持ちだけは誰にも負けません」
「こっちの君菊姉さんは、土方はんと結婚の約束までしてはるんどすえ」
「昔はどうあれ、今は、土方さんはぼくの恋人です。ぼくが土方さんの……正妻です!」
思わず叫んでしまってから、総司は頬をかあぁっと紅潮させた。
とんでもない事を云ってしまったと思ったが、今更ひく訳にはいかなかった。それに、我慢できなかったのだ。彼を他の誰かに取られるなんて、絶対に嫌だった。
目の前の女性と寄り添う彼の姿を思い浮かべただけで、激しい怒りと嫉妬でくらくら目眩がした。自分でも信じられない程の独占欲に、躯中がものすごく熱くなる。
「土方さんのことは諦めて下さい。土方さんは、ぼくだけのものなんです。ぼくの大好きな大切な旦那さまなんです」
もうなりふり構わず、総司は言葉をつづけた。
「あの人だけは誰にも渡しません。どんな事があっても何と引き替えにしても、絶対絶対誰にも渡さない……!」
そう叫んだ瞬間だった。
不意に、後ろからふわっと腕がまわされた。
え?と驚いたところを、背中から優しく柔らかく抱きすくめられる。
耳もとに吐息がふれた。
「……俺もだ」
低い声が、優しく囁いた。
「たとえ殺されたって、俺はおまえを他の誰にも渡さねぇよ」
「!」
大きく目を見開いた。
慌ててふり返ると、土方がその黒い瞳で静かに見下ろしていた。どうやら走ってきたらしく、僅かに艶やかな黒髪が乱れている。が、それでもすらりとそこに立つ彼は、誰もが見惚れるほど魅力的だった。
「土方さん……!」
叫んだ総司に、土方は僅かに苦笑してみせた。呆気にとられるうち、ひょいっとその両腕に抱きあげられてしまう。
それに思わず細い両腕を男の首にまわし、縋りついた。安堵感に、じわっと涙がこみあげてくる。
そんな総司の様を察したのか、ぽんぽんっと背中をかるく叩いてやりながら、土方はじっと見上げる君菊へ視線をむけた。
「……君菊。悪いが、こういう事だ」
ゆっくりと静かな口調で云った。
「俺たちも半日さんざんふり回された。もう、このあたりで勘弁してくれねぇか」
「そんなに、そのお人が大事どすか」
「あぁ、世界中の何よりもな。他の何にも代えられねぇ、俺の大切な愛しい宝物だ」
「……」
しばらくの間、君菊はかつて関係をもった男を見つめていた。
やがて僅かに目を伏せると、その白い頬に小さく笑みをうかべた。
「しょうがおへんなぁ」
ため息まじりに呟いた。
「こないに変わってしもた土方はんを見せられたら、もう何も云えまへん」
「……すまない、君菊」
「謝らんといておくれやす。うちかて、何も本気であの約束を信じとった訳やおへん。ただ……信子はんから、どなたはんかと幸せに暮らしてはる聞いて、すこおしだけいけずしとうなっただけどす」
くすっと肩をすくめるようにして、君菊は笑った。それは、あの頃のままの癖だった。
土方は一瞬だけ目を細めたが、そのまま背を向けた。総司を両腕に抱きかかえたままロビーを横切り、正面玄関から出ていく。
ガラス戸の向こう、停めてあった車の助手席に少年を下ろす男の姿が見えた。やがて、紺色のスポーツカーは静かに走り去っていった。
それを見送っていた小楽は、大きくため息をついた。
「……君菊姉さん、嘘つきどすなぁ」
「そやろか」
小首をかしげながら訊ねた君菊に、小楽は肩をすくめた。
「あの約束かて、ずうっと信じてはった癖に。今でも、ほんまは土方はんのことが好きなんどすやろ?」
「……」
君菊は目を伏せた。
その長い睫が涙に濡れているように見えたのは、気のせいではないだろう。
容姿も美しく気だてもよいのに、とことん男運の悪い姉代わりの彼女を、小楽は痛ましげに見つめた。
しばらく黙っていたが、やがて、ぽんっと両手を打ち合わせた。
「ほな、これからディズニーランドにでも行きまひょか!」
「ぇ…えぇっ!? 小楽ちゃん、今6時……」
「夜のパレードには間に合うはずどす。今夜は遊んで遊んで遊びまくりますえー!」
おーっと拳をあげて誓った小楽は、まだ躊躇う君菊を無理やり立ち上がらせた。
そして、ホテルの玄関口から、TDL行きの高速バスに飛び乗ったのだった。
──1時間後。
思いっきり遊ぶはずの東京ディズニーランドで、小楽が、あの後すぐ本庁へ戻り小規模テロの恐れで訪れた斉藤とばったり出会ってしまい、またまた仁義なき毒舌の戦いを繰り広げる事になったのはまた別の話……。
車の中、沈黙が落ちていた。
思わず総司がごそごそ身動きしてしまう程の、気まずい沈黙だ。
しばらく運転する土方の様子を伺っていたが、彼の方はホテルを出てから一言も口をきいてくれない。
総司はしゅんとなってしまった。
「……怒ってるの?」
小さな小さな声で訊ねかけた。
それに、土方がちらりとこちらへ視線を流したのを感じた。
「土方さん……怒ってる?」
「さぁ、どうだろうな」
「ごめんなさい! 勝手にあなたの携帯電話を開いた事や、斉藤さんの話を聞いた事、悪かったです。それに……」
「総司」
不意に、土方が低い声で遮った。
「車を駐車場から出してきて、そこにおまえがいない事を知った時の俺の気持ち、想像できるか?」
「……ごめんなさい」
「事故にでもあったんじゃないか、また事件にでも巻き込まれたのかって、目の前が真っ暗になっちまったんだぞ」
「でも……じゃあ、何でぼくの居場所がわかったの?」
「わかって当然だろうが」
土方は手をのばし、ぴんっと指で総司のブレスレットを弾いてみせた。
「タクシーで移動中だとわかって、すぐさま追いかけたが、途中斉藤から電話が入ってさ。路肩に停めて話したら、さっきも電話したって云うじゃねぇか。それで、だいたい状況がわかったんだ。バレちまったんだな……と」
「……」
黙り込み、俯いてしまった総司に、土方は云った。
「すまない、おまえに嫌な思いをさせちまった」
「……っ」
ふるふるっと総司は首をふった。
土方は車を路肩に寄せて停めると、その細い肩をそっと抱き寄せた。
「初めからちゃんとおまえに話せば良かったんだな……」
「……その方がよかったです」
「あぁ。けど、俺も不安でたまらなかったんだ」
「不安?」
不思議そうに見上げた総司に、土方は苦笑してみせた。
「おまえが俺の過去を知ったら、不潔だとか云って俺から逃げ出しちまわねぇかってさ」
「そんな事ある訳ないでしょう!?」
思わず、総司は叫んでしまった。両手を握りしめ、懸命に抗弁する。
「それは確かにあんまり嬉しくない話だけど、過去が気にならないって云ったら嘘になるけど。でも! ぼくは今のあなたを愛してるんです。過去の出来事なんかで、この気持ちが揺らいだりするはずがありません」
「総司……ありがとう」
土方は微笑み、総司の手をとると優しいキスを落とした。そのまま頬にも口づけてやりながら、囁きかける。
「すげぇ嬉しいよ。俺も……今のおまえを愛してる」
「土方さん……」
二人は車の中であることも忘れ、甘く甘く口づけあった。深く唇を重ね、互いを求めあう。
だが、がたんっとシートを倒された瞬間、総司はハッと我に返った。
ここは路上で、しかも東京のど真ん中で、車の中なのだ! 幸い、人通りの少ない場所だったので大丈夫みたいだが、それでもこんな処で色々致すなんてとんでもない事だろう。
「土方さん!」
慌てて男の胸を押し返した総司に、土方は不満そうな表情で顔をあげた。
「何だ」
「何だって、ここ……路上っ! 路上ですよ!」
「そんなもの見ればわかるさ。別に構わねぇだろ」
「あなた、刑事でしょう! 駐禁でつかまってもいいんですかっ?」
そう云ったとたん、土方の手がぴたっと止まった。しばらく総司の躯をぎゅーっと抱きしめていたが、やがて身を起こすとため息をついた。
ちゅっと額にキスを落としながら、呟いた。
「まったく、しっかり者の奥様だな」
「だ、誰が奥様……っ」
「おまえだろ?」
土方は悪戯っぽい瞳で笑いかけた。
「おまえ自身がさっきそう云ってたじゃねぇか。自分は俺の正妻だって。俺はおまえの大好きで大切な旦那さまだって」
「ど、どこから聞いてたんです!?」
かあああっと顔を真っ赤にしながら叫んだ総司に、土方はにやっと笑った。
「さぁ、どこからだろうな」
「土方さんの……意地悪!」
「意地悪でも大好きなんだろ? 俺は、おまえだけのものなんだろ?」
とろけそうなほど優しい声で、土方は問いかけた。
めちゃくちゃ幸せそうだし、ものすっごく嬉しそうだ。
実際、総司の強い独占欲が嬉しくて、あの場でも思わず抱きしめてしまったぐらいだった。やきもち焼いてあんな事まで云ってくれた総司が、可愛くて可愛くてたまらなかったのだ。
「……っ」
一方、総司はあらためてこみ上げた羞恥に俯いてしまった。耳柔までピンク色に染まっている様が、何とも可愛らしい。
「愛してるよ……総司」
のばした手でくしゃっと髪をかきあげ、もう一度だけ唇に甘いキスを落とした。
見上げた総司に優しく微笑みかけてから、土方は運転シートに躯を戻した。パーキングからシフトレバーをドライブへ入れ替え、ゆっくりと車を滑り出させてゆく。
次第に加速してゆく車の中で、総司はだい好きな恋人の横顔を見つめた。
愛しい愛しい彼。
世界中の誰よりも、大好きで。
この人を自分だけのものにできるなら、もう何でも出来るくらいで。
こんな凄い執着や独占欲が自分の中にあるなんて、彼に逢うまで知らなかったけど。
でも、それぐらい好きってことだから。
それぐらい、彼のことだけ愛してるって事だから。
もっともっと独り占めしたくなっても、許してくれるよね?
「……だい好き! 土方さん」
総司は彼の肩に小さな頭を凭せかけると、そう囁いた。
でも、だけど。
甘ったるい声で、ちょっとだけ念押ししておいた。
「絶対、他の誰にも心を奪われないでね。いつまでもぼくだけのあなたでいてね」
そう云った総司に、土方はちょっと驚いた表情になった。
が、すぐに小さく笑うと、総司の細い肩を抱き寄せた。
「あたり前だろう?」
信号待ちの間に、優しい抱擁と甘いキス。
そして。
土方は総司の耳もとに唇を寄せると、囁いたのだった。
「おまえという花だけで、俺は手いっぱいだよ」
彼への返事は
幸せいっぱいの
花のように可愛い恋人の笑顔───……