邂 逅
芙沙 さま
「あれが、蝦夷ヶ島か...」伊庭八郎は夜明けの薄闇の中にひっそりと浮かび上がる
黒い島影を見つめていた。
骨の髄まで凍り付くような冷気の中で、黒い島影は少しずつその形が顕になってゆく。
「やっと来たな」隣で本山小太郎が感慨深げにつぶやいた。
この友は北の果てまで自分に付き合って着いてきてくれた。
元遊撃隊の仲間と合流し共に最後まで戦いたい、自分は彼にそういった。嘘ではない...
しかし他にも口にしていない目的がある。
自分のもう一つの本音を知ったら張り倒されても文句が言えないな...八郎は密かに自嘲した。
自分はこの最北の大陸に居るはずのある人物に用がある。
いや、その人物に何が何でも聞きたいことが有る為にここまで来たのだ。
八郎にそんな裏があるとは知らない本山に、心裡で頭を下げたい思いだったが
これだけは譲るわけには行かなかった。
その相手、かっては京の都で尊攘浪士たちを震撼させ、その実力と共に京の町の人々さえも恐れをなした新撰組の副長を務めた男だった。
土方歳三というその男は旧幕府海軍を率いる榎本武明と共にこの北の果てにある
蝦夷に来ているという風の便りを耳にしてここまでやってきた。
その男に問い質したい事が有る。
「八郎、小舟が出てきたぜ。一人で乗れるか?」箱根の激戦で隻腕となった八郎を、本山は何かと世話を焼きたがる。突然に不自由になった身体を慮っての事だろう。
「いい奴だね、お前は」揶揄するような口調で本山に返すと、それでも人に甘える事を赦さない矜持が本山の差し出した手を払いのけた。
「有り難いが、これからは自分で何でもしなけりゃならねぇんだ。手出しは無用だぜ」
「相変わらず可愛げの無い奴だ、だが確かにそのとおりだな。俺がお前の身の回りを世話していたんじゃ他の奴らになめられる」幼いころから竹馬の友として八郎の気性を知り尽くしている本山は、別段気を悪くするでもなくむしろその剛毅さを安堵するように苦笑した。
縄梯子は登るより降りる方が厄介だ。まして隻腕の八郎には残った右手を離さず、少しずつずらしながら降りていく事は相当な難儀だった。
この寒さの中で額に汗を浮かべながら一言の苦渋も漏らさず、黙々と至難の作業に取り組む八郎を本山は黙って見守っていた。
人の何倍も時間を掛けようやく小舟に降り立つと八郎は上に残っている本山に笑いかけた。
まだ日の昇りきらぬ浜には、二人を今か今かと待ち焦がれていた元遊撃隊の仲間である人見勝太郎と岡田斧吉が出迎えに来ていた。
四人は久闊を叙すると互いの無事に肩を抱き合い目を潤ませながら再会の旨を喜びあった。
旧幕軍を代表する榎本武明は八郎の旧知の間柄である。
四人の前に進み出てくると八郎や本山と挨拶を交わし、歓迎の席が設けてあるからと申し出てくれた。
八郎はその申し出に頭を下げて応じ、その場に集まった人々を見回した。
集まった多くの人並みの中に、如何にも無理やり引っ張り出されたと言いたそうな皮肉な目つきで八郎を見ている男がいる。
土方歳三だった。不敵な笑みを浮かべ厄介もんが来たという顔をしていた。
八郎は、そのまま土方の所まで歩み寄るとこれもまた皮肉な目で笑った。
「久しぶりだな土方さん、色々と噂は聞いているぜ。ずいぶんとご活躍だそうだな」
「よく来たななどと言うつもりはない」土方は相変わらずの口調でそう言ったが八郎の左手の袖の揺れに気が付くとさすがに驚きを見せた。
「その腕どうした?」
「箱根三枚橋の戦闘で不覚を取った、医者が切らねぇと拙いって言うんで切っちまったのさ」
そう遠い過去ではないのだろうに、その顔から剣士として片腕切断という致命的な打撃を受けた弱さは見えない。土方は伊庭八郎が健在なのを見て取った。
「懲りない奴だな、その身体で何故ここまできた?」片腕では戦闘も思わしくなかろうという含みがあった。八郎は新形刀流宗家の嫡子である。潜伏し頃合を見計らって後に心形刀流の後継を勤める事なら片腕でも十分に出来る。まして八郎はその才を兄弟の誰よりも強く受け継いでいた。好き好んでこんな北の果てまで来る必要はあるまいと土方は言いたかった。八郎が将軍至上主義で無い事を土方は知っている。
「あんたに聞きたいことがあってね」
「.....」八郎が土方に尋ねたいことなど一つしかあるまい。そしてそれは土方にとって触れたくない事であることも...が八郎のそれに対する執着の強さは同じ思いを抱いてきた土方には一目瞭然だった。
「お前に話すことなど無い」
「あるさ、俺はそれだけの為にここまで来たんだからな」
一瞬、目を瞠った土方に挑むような目を向けながら八郎は勝ち誇ったように続けた。
「酒宴が終わったらあんたの部屋へ行く、話すことがあるはずだ」
久々の仲間が揃った事もあって酒宴は思いのほか長引いている。
格好を崩して酒を煽りながらも八郎の心裡は複雑な思いに揺れていた。
本山も人見も岡田も八郎にとっては気の置けない仲間である。本山に至っては竹馬の友と言っていい。
此処まで来た以上、彼らを裏切るつもりはさらさら無かったし、土方に何を聞こうとも一度決めた道を翻す気はない。
が、心の半分を常に占めている狂気は聞けばたとえ年来の友を踏みにじってもその場に駆けつけたいと荒れ狂うことだろう。それを抑える事に自分はさぞかし苦労することだろう。
横浜に潜伏していた当時にそれを知ったなら、おそらく自分はここへは来なかったかもしれない。自ら追い込んだ二つの選択の狭間で八郎はひとり苦悩していた。
表面上は和気藹々と飲んでいる八郎の逡巡に本山は気が付いていた。
その内容までは分らぬが、見た目ほど楽しんでいる訳ではないらしい。
何か悩みがあるなら相談に乗るのにと、気さくなくせに心の奥を曝け出さない友の頑固さに呆れもしていた。
大方の事は己の裁量で片付けてしまう友が心の弱みを打ち明ける事などありえない。
明け方から始まった酒宴も昼を過ぎると疲れと共に殆どの者が酔いつぶれ、惰眠をむさぼるようになっていた。極寒のこの地では酒を絶やす事が出来ないという。
歓迎される側としては仕切り無しに酌をしていたが、実際、八郎はたいして飲んではいない。
元々酒が余り好きでない土方は早々に座を辞して部屋に戻ってしまった。
主役の自分が後を追うわけにも行かず、そのまま場を取り繕っていたが、自室に戻った土方は逢いしがたに自分が投げかけた波紋にさぞかし渋い顔をしている事だろう。
あの男が気分を害すると心地よいのは相変わらずの事だと八郎は苦笑した。
割り当てられた宿舎に赴き荷物を置いてから、強かに酔って呂律の回らない本山を寝台に寝かせると、八郎は出口に立っている見張り番らしき者に土方の部屋の場所を聞いて其処へ向かった。
土地勘の良い八郎は初めての所でもたいして迷わずに目的の場所にたどりつける。
窓から見える背丈の低い常葉樹が陽を反射させてきらきらと揺れている。雲ひとつ無い空は目に映る全てのものが吸い込まれそうなほどに青々としていた。
土方の部屋の前で声を掛けると応えと共に内側から扉が静かに開かれた。
「入れ...」応えはともかく土方本人が扉を開けてくれるとは思わなかった。
土方の見慣れない行動に、少々戸惑いながら部屋に進み入ると、中央の机の上に見慣れぬ酒瓶とぎやまんの入れ物に入った赤い飲み物がおいてある。
八郎の視線を追って、土方はそのぎやまんの入れ物に眼を移すと僅かに笑った。
「お前も飲むか?」そう言って同じ入れ物を戸棚から出してきた。
机の上にあった酒瓶からその赤い液体を注ぐと八郎の目の前に音を立てずに置いた。
「驚いたな、あんたがこんなものを飲むとは思わなかった」
「意外か?初めは榎本さんに薦められた...慣れてみると俺にはこれの方が酒より口に合う」そう言って、その液体を一口含む。
「これだって酒だろう?」八郎の知る土方らしくない態度に、不自然さを感じながらも揶揄するように笑って自分もそれを口に含んだ。
「このぎやまんの入れ物は英語でグラスって言うんだ、ちなみにぶどう酒の事はワイン...」八郎の言葉に土方も意外そうな目を向けた。
「よく知っているな。ああ、お前にはもともと学があったな」
「そうじゃない、横浜で英語塾を開いている人の世話になっていた」
「ほう、で、そこでエゲレス語を習っていたのか?」
それには応えず、八郎は僅かに口元に笑みを作っただけだった。
通辞で英語師範の尺振八の家で潜伏する間、暇に任せて英語の手ほどきを受けていた。
振八は八郎の筋が良いと褒め、このままここで修行を続けてはどうかと進めたが八郎は即座に断っている。
尺家に潜伏している間に江戸が東京と変わり、そこへ八郎は姿を変え政府軍の目を掠めて何度か足を運んでいた。神田和泉橋にある西洋医学所、日野へも野宿をしながら行って来た。だがそれは全て無駄に終わっている。
「土方さん!」そろそろ埒の無い世間話に終止符を打つべく、八郎は改めて土方の名を読んだ。土方を見つめる目が真摯なものに変わっている。
「やはりそれか?」土方も真剣な目つきになり真っ向から八郎を正視していた。
もともと世間話などすることのない土方がそれに乗ったのは、八郎の聞きたい話を遠ざけたい本能からだった。
「そうだ、総司はどうした?」ここへ来て初めてその名を口にした...
名を口にするだけで、閉じ込めていた激しい想いが蘇ってくる。
それは土方も同じだった。心に枷を施した想いを掘り起こされるのはたまらない。
八郎は土方が心に暗示をかけ、別の現実だけを見つめることによってようやく保っていた均衡を容易に打ち砕いてしまう事の出来る人間だった。
土方は八郎の鋭い視線を真っ向から受け止めて沈黙していた。
「ここに連れてきたわけじゃあるまい、伏見で別れた後、こっちは全くの音沙汰無しだからな」
「当たり前だ、そんなことはお互い様だろう」
「無事...なのか?」八郎の言葉の最後がかすれた...自分は今、一番知りたくて知りたくないことを尋ねている。
心の蔵が早鐘のように鳴りだし、それでいて頭の中は何処か醒めているのが分った。
土方は応えない。八郎の視線を外すことなく目に強い光を滾らせて沈黙を続けている。
暫くそのまま睨みあいが続いた。
先ほどの柔軟さはすでに影を潜めている。窮地に立ちて、更にその底力を見せる土方の頑強な精神力が隙無くその身を覆っていた。かっての新撰組鬼副長の姿そのものだった。
精神力なら負けない自信はある、しかし今の八郎の目的は土方をやりこめることではない。
「あんたが応えたくないのは俺を恐れているからか?それとも....」一度息を吐いて続けた。
「その事実を自分一人の物にしておきたいからか?」
土方の独占欲を指摘する八郎の言い様に僅かに体制を崩したが、それはやがて余裕とも見える皮肉な笑みに変わった。
唯一無二の想い人に抱く気持ちはどちらも違えることが無い。土方の独占欲を指摘する八郎のその内も裏を返せばまた同じだと。
「もういい...」八郎よりも幾分年を経てきた土方の方から口を開いた。
八郎の言うとおり、総司に関しては全てを恋敵に伝えるのが惜しいという自分の稚気に土方は気が付いていた。
「総司とは四月に江戸で別れた。田坂さんに託して置き去りにした」置き去りという言葉に力を込めたのはそのまま土方の無念を物語っていた。
「江戸の何処に?」
「千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅の離れを借りて潜伏療養させている」
「千駄ヶ谷...」九月に横浜から品川芝を通り四谷を経て和泉橋の西洋医学所まで尋ねて行ったことがある。が、其処では何も知ることが出来なかった。おそらく政府軍の捜索が届かぬように万全の処置が施されたのだろう。総司を潜伏させる事において土方に抜かりなどあるはずがない。
あの時、通り過ぎてきた四谷から目と鼻の先に総司はいたのか?
「その後、田坂さんから何か?」
「いや、全く..この時勢だ、送ったとて届くほうが奇跡だろう、俺とて会津から先の事は決まってなかった」
今はすでに11月...半年以上の月日が過ぎている。江戸で、京で、僅かの間も総司を手放せなかった男が良く持っているな...自分の想いに比較して考える事こそ滑稽だと八郎は思った。
「ありがとうよ」決して諦める事の無い恋敵である自分には、総司のどんな情報もあたえたくなかった事だろう。土方とは長い付き合いだけに心うちが手に取るように理解できる。
それだけを言うと八郎は踵を返し扉に向かって歩き始めた。
「伊庭」突然土方が八郎を呼びとめる。
「なんだえ?」その声に振り返り、顔を見つめなおした八郎は土方に今しがたまでの険が無くなっていることに気が付いた。
「総司の消息を知ってお前はどうする?」
「どうするかねぇ、出来れば江戸に舞い戻って総司の傍に居てやりたい...が、あいつはそれを望まないだろうな...」
「そうか...」それを聞いて土方は少しばかりの溜息をついた。その肩から力が抜けたように見えたのは見間違いでは有るまい。
「土方さん、あんた俺が江戸に行くのが怖かったんだろう?」八郎はわざと軽い調子でからかい半分に笑って言った。
「俺が何故お前を恐れねばならん?」
「ま、そういう事にしておいてやるさ」それだけを言うと口元に笑いを浮かべたまま、今度はそのまま振り返ることもなく八郎は静かに部屋を出て行った。
音も無くゆっくりと扉が閉まってゆくのを見詰めながら土方はグラスに残ったワインを一気に流し込んだ。総司の事を思い出すと抑えきれなくなる自分の激情をもう一度鎮めねばならない...それにはどうしても一人になる必要があった。聞くだけ聞いてさっさと引き上げた八郎の気持ちが我事のように土方にも理解が出来た。八郎が江戸に戻らぬと聞いて何処かでほっとしている自分を認めざるを得なかった。
直ぐに宿舎に戻る気など端から無い。土方の部屋を後にした八郎はそのまま宿舎の外に出て一人で気の向くままにぶらぶらと歩きまわった。戸外は身を髄まで凍らせるほどの寒さだったが今の八郎にはそれさえも苦にならない。己が裡に燃え滾る身を焼きかねない熱い感情を極寒の寒さが静めてくれるような気がした。
目の前にある土手を登り、今自分が踏みしめている場所を確かめるように見回してみる。視界を覆うのは紺碧の空に囲まれた何処までも果てしなく広い大地ばかり...
目を閉じてみれば最後に別れた時、目に焼き付けてきた総司の面影を即座に想い浮かべる事が出来る。業病の辛さをおくびにも出さず黒瑶の瞳を潤ませて精一杯の笑顔で送ってくれた。あの時自分は、家も家族も立場も武士としての矜持さえも、何もかも捨ててその場に留まりたいとどれほど思ったことか。
予測していたこととは言え総司の消息を知った今、八郎は自分の裡のやっかいな欲望や狂気と戦わねばならなかった。江戸に戻りたい...総司が誰よりも望む者が自分でなくてもいい...卑怯者と謗られても武士としての風上に置けぬと罵られても構わない...それが掛け値ない本心だ。
しかし、総司がもし生きていたとしても、自分が果たすべき義務を振り切ってまで駆けつける事は決して望みはしないだろう。自分の存在が周りの者の足を引っ張る事を何よりも疎む奴だった...
それが土方であれば尚更である。本心はどうあれ己が土方の後ろ髪を引く存在となる事を総司は命を懸けてでも拒んだに違いない。
土方もそれを知っている、だからこそ生木を裂かれる程の辛苦を堪えてここまで転戦してきたのだろう。土方が総司の事にかけては全てに優先する事を八郎は何度もこの目で見てきていた。自分の夢である新撰組や近藤さんへの想い、部下に対する立場や責任など総司が望みさえすればそれらの物を全て振り切ってもあの人は総司を選ぶ...それをしなかったのは総司の覚悟がそうさせたのだろう。全ては想像でしかないが事実とさほど差が無い事には自信があった。
...お互い地獄を彷徨っているな...
かって、京で土方と遣り合った時に、自分は何を捨てても総司一人を選ぶと土方に宣言した。それを聞いて一瞬土方の目に恐怖の色が浮かんだ事を八郎は忘れてはいない。
八郎に総司の消息を応えるに臆した背景には、そのことが引っかかっていた事は否めまい。
だが、自分も総司の矜持を守りここに留まろうとしている。何のために?
これから暫くの間は夜も眠れぬ日が又続くだろう。いや、総司を思い始めてから今日まで
一度として本当の安らかな眠りなど無かったのかもしれない。
宴席で耳にした土方の此処での評判を不思議な気持ちで聞いていた。
「京では鬼の土方と言われていたそうだが、ここへ来るまでに少しずつ人間が出来てきてて今では部下にもたいそう慕われているそうだ」
自分が見ても京にいた頃の土方と今の彼は確かに違う。だがそれは人間が丸くなったわけでも出来たわけでもないと八郎は思う。
単に土方の支えだった総司がここにはいないだけのことだ。
総司が傍にいたからこそ彼は京で鬼の土方でいられたのだ。
唯一、総司の心を手にすることの出来た男がその支えから離れて自分と同じ北の果てにいる。
どれほど欲しても手に入れられなかった自分と、思うままに手に入れながら離れなければならなかった土方とどちらが辛いのか...。
守るはずの者から守られていたと土方はいつ知ったのだろう。
そして自分も...総司の存在に守られていたのかも知れない...。
今、総司がどうしているのか八郎には分らない。この世で会うことは叶わぬだろうが、だが、もし次の世でまみえることが出来るならば、必ず聞いてみたいと思った。「俺もまたお前に守られていたのか?」と........。
紺碧の空に想い浮かべていた想い人の顔が自分に笑いかけたような気がした。それが次第に薄くなってそのうちに澄みいるような青の中に消えて行った。一人佇む八郎の頬を弄って行く風が突き刺さるように冷たい。凍った風を受け止める木々が足らぬほど広い、この最北の大地で、この世で果たせぬ想いに身を焦がした若者が一つの想いを次に託して歩き出して行った。
邂逅 了
宝 蔵
|
|