恋泣き 真琴さま 「…土方、さ…ん」 眠りに落ちると、総司はいつも土方の名を呼んで手を差し伸べる。 この大阪城に入ってから毎晩だ。 普段は特に心細そうな様子など見せないが、一人慣れぬ部屋で眠る時は寂しさが先にたつようだ。 「歳は…総司を実の弟のように可愛がっていましたから…」 良順からそんな総司の様子を聞いた近藤の言葉だ。 “弟のように…たぁ言わないだろう、ありゃあ” 若い恋人たちのように誰憚ることなく睦まじいわけではないが、傍から見ていれば2人の関係は自然と知れる。 幾度か行き来する間に総司に魅かれ始めていた良順だったが、総司にとってあまりにも大きな存在の恋敵を前に、ついに思いを伝えることなく一人の医者として彼に接していた。 そしてこの大阪で再会した時、総司の病状は良順をもってしても手の施しようもないほど進行していた。 “あの時!!” 総司に思いを伝えると同時に、強引に江戸へと連れ帰り養生させることをしなかったのだろう。 今となっては取り返しのつかない、苦い思いが良順の中にある。 せめて今だけは… 心細さにただ一人を求める、この儚い想い人を… 布団の端を持ち上げ身体を滑り込ませると、 「…総司…」 普段の豪放磊落な良順しか知らない者が聞いたら驚くのでは、と思えるほど、限りなく切ない声で呼びかけ横たわる細い身体をその腕に抱きしめた。 逸る本能を理性で押さえつけ、少し苦しそうな呼吸を繰り返す背をゆっくりと撫でる。 ふと覗きこむと人肌の温もりに安心したのか、小さな寝息を立てる無防備な寝顔があった。 窶れが目立つ青白い顔が、押さえつけたはずの本能を揺さぶる。 「…総司っ」 目の前にある唇に触れるだけの口づけを与えると二度三度と唇を重ね、ついには総司を抱きこんだまま体重をかけないように上に乗ると、今度は零れ出す吐息さえ絡め取るような深い口づけを与える。 優しい口づけにうっすらと笑みを浮かべていた総司だったが、続けざまの深い口づけに綺麗な眉をよせる。 “いかん” 病人に対する行為ではない。だが一度走り出した激情は、すでに抑えることができない。 寝間着の襟を割って白い肌に口づけの雨を降らせる。 「…あ…っ」 赤く色づいた唇から零れる甘い吐息。 胸の小さな突起を口に含むと転がすようにしゃぶりつく。 結っていない漆黒の髪が桜色に上気した肌に散り良順の劣情に火をつける。 だが、 「こほっ…」 零れ落ちた小さな咳に、良順の顔が一人の男から患者の命を預かる医者の顔へと変わった。 「…良順、先…生…」 うっすらと開けた瞼の裡の瞳が静かに良順を見上げる。 「すまない…苦しかったか?」 いつもに似合わぬ気弱な良順の様子に総司は僅かに首を振った。 「……ありがと…ござ…ます…」 「沖田君…」 布団の外へ出ようとする良順の袖を力弱く握りふわりと微笑って、 「今夜は…このままで、いて下さい……」 総司の言葉に、息をつめ目を見開くしかできない良順。 「分かってるんです。ずるいことを言ってるって…。でも……」 「だがな…」 言葉の最後は、唇に触れた総司の細い指先に止められた。 「…お願いします。このまま……」 さきほどの行為のせいか発熱のせいか、潤んだ瞳はより扇情的だった。 そんな瞳で見つめられて、良順の医者としての顔が一瞬崩れた。 だが一度目を閉じ再び目を開けた時、浮かんでいたのは紛れもない医者の顔だった。 「…すみません。我儘を言いました…」 良順の変化を敏感に感じ取り項垂れる総司の頤を掴むと軽く触れるだけの口づけをした。 そして細く頼りない身体を両手で守るように抱きしめると、 「これで我慢するんだな」 耳元で呟いた。 総司が頷くのを確認すると、まるで泣き止まない子どもをあやすように頭を撫で、背骨の浮いた背をポンポンと叩いてやる。 すると諦めたのか安心したのか、総司は小さな寝息を立てはじめた。 ……ふぅ…… 良順は深いため息を用心深く吐いた。 隣で眠る人間を起こさないよう、細心の注意を払いながら。 小さな音一つ立てぬように布団を抜け出すと、そっと額に手を乗せる。 微熱があるのが気になるが、懸念していたほど高い熱に苛まれることなく済みそうだ。 子どものような寝顔を見つめる良順の表情は、ひどく複雑なものだった。 あの夜以来、一つ布団に入ることはあっても行為に及んでいない。 心も身体も重ね、快楽の高みへと駆り立てるのは、自分ではなく戦場で戦っている土方(おとこ)だけなのだ。 今ここにいない男に対する嫉妬心が湧き上がってくる。 「…ひじ、か…さ……」 待ち人を呼ぶ声はあまりにか細い。 良順はこれ以上、総司を見守ることに耐えられそうになかった。 鳥羽伏見で惨敗を喫した幕軍が続々と引き上げて来る。 今日、土方が戻って来なかったら、総司に対する思いを遂げようと決意した良順だったが、 廊下を曲がって来る精悍な顔に疲労を滲ませた土方を見つけた。 “…ああ!!” 思わずきつく目を閉じ天を仰ぎ、呼吸さえも忘れて立ち尽くす良順の方へとやって来る土方。 「無事で何よりだ」 動揺を隠して労を労う。 良順の右の襖の向こうで、この男の帰りを心待ちにしている想い人がいる――――。 我知らず感傷に捕らわれた良順の耳に、 ごほっごほっ 重い咳が襖の向こうから聞こえた。 はっと顔を向けたが、すぐに目の前の男に視線を戻した。 良順に目配せされ、埃まみれの土方が静かに襖の内へと入る。 土方の姿が襖の向こうに隠れるのを見送りながら、良順はきつく唇を噛んだ。 「大丈夫か?」 布団に手を差し込み震える細い背をゆっくりと擦る。 「ひじ…かた、さ…?」 背を擦ってくれている声に、苦しいはずの咳が止まり振り返った。 「ああ」 呆然と見上げる瞳を覗きこんで優しく微笑む土方。 「…っ!!」 手を伸ばし土方の逞しい首に両腕を巻きつけその存在を確認すると、総司は自ら土方に口づけた。 襖一枚隔てた廊下で、良順は幸せそうに微笑む総司を想像した。 これからは総司を思う一人の男ではなく、患者の病と戦う医者として接することに専念できる。 安堵の息を洩らして怪我人の待つ大広間へと向かった。 幾つの眠れない夜を過ごしただろうか。 できることなら、彼が息を引き取る瞬間まで傍にいたかった。 江戸の弟子から届けられた手紙を読み終えた良順は、目の前が真っ暗になるような錯覚に陥った。 ぐしゃっと手紙が握りこまれる。 良順の診立て通り、総司の命の炎は夏を前に消えた。 それにさえ気づかぬまま時を過ごし、生かせる命は幾つも救ってきた。 “だが――――” 愛する者の命を救ってやれなかったことが、医者としてではなく一人の男として良順の心を乱した。 『良順先生』 幼子のような懐っこい笑みを浮かべながら自分を呼ぶ声が耳に残る。 「…ちくしょう…」 握りこんだ拳が震える。 爪が食い込んで血が出るのではないかと弟子が心配そうに見ている。 動揺を隠すように一度強く目を瞑ると、 「こいつを……」 弟子に手紙を託そうと手を差し出した。が、 「…いや、いい」 思い直したように目を開け、目の前にいる怪我人の手当てを施したあと、 「ここを頼んだぜ」 額に流れる汗を拭きながらその場を離れた。 「どちらへ?」 思わず聞き返したくなるほど良順は憔悴していた。 「外の空気を吸って来る。ついでに土方の所にも行って来る」 良順の返事に納得した弟子は、自分も手当てに加わるべく手持ちの荷を置くと準備を始めた。 懐に入れた手紙がずしりと重い。 まるで自分の心そのもののようだと思うと意味のない笑みが浮かぶ。 会津の目に優しい遠景が今はぼうっと滲んでいる。 『良順先生』 あてのない思いを抱えた良順の耳に、すでにこの世にいない若者の声が聞こえる。 空耳だと思っていても振り返ってしまう。 頬を熱い雫が流れ落ちる。 恋泣き。 とめどなく溢れ続ける悔恨と、彼を恋うる心が良順を深い悲しみの淵へと誘う。 疲れ果てた旅人のように足取りはひどく重かったが、自分はこの報せを思いを同じくする者に伝える義務がある。 乱れる気持ちを抑えつつ、彼のいる宿へと歩みを進めた。 終 |