…腕に残る肌の感触が、消えない。
『眩暈』 -下-
気付けば薄暗かった部屋の中にも既に薄日が射し込み、夜明けを告げていた。
「…--------」
夢と現の狭間を行き来しているのか、辛そうに閉じられた瞳が浅い眠りの間に薄く開く。
そして細いその手は何かを探すように宙を探すのだ。
その手を取る。
両手でそっと包み込むように握り締めると弱い力ながらも確かに握り返してくる白い指。
「傍に居るから…」
低く、一言一言噛み締めるように呟いた。
熱に浮かされ潤んだ瞳が、声の方を向き安堵の表情で細められる。
そのまま、また眠りに落ちるのだ。それを、何度も繰り返して。
総司が、自分を認識しているのかは知らない。しかしこの際、そんなことはどうでも良かった。
どうでも良いと、思い込んだ。
握っていた総司の手を布団の中に戻そうと手に込めた力を緩める。
反射的にか、その離れようとする手に総司の手が縋った。
斎藤は、その総司の反応に少し苦笑し己の手の中に在る白い手をそっと自分の頬に寄せた。
この手が縋るのは誰か。縋りたい手は、誰のものか。
思って、斎藤は総司の手をそっと布団の中に戻す。
「…お前の夢の中に居るのは誰だ…」
応えのあるはずの無い問い掛けを。
お前の心を、捉えて離さないのは。あの、背中。
分かっている。
深いため息を付いた。
汗で、頬に張り付いた黒髪を掻き上げてやる。
「総司」
一瞬触れた頬の熱さに、眉を顰めた。
渇いたその口唇から忙しなく繰り返される浅い呼吸。
枕元に膝を寄せ、総司の顔を覗き込む。
「…総司…?」
微かに、睫毛が揺れた気がして斎藤は静かに呼び掛けた。
「っ…」
薄く開いた口唇から苦しそうな吐息がひとつ零れ、それから睫毛が震えてゆっくりと瞳が開く。
闇の色をした瞳が、ぼんやりとしながらも確かに斎藤を認めた。
「…水……」
空気のような声。斎藤は総司の肩口に腕を差し込み横たわる身体を少しだけ起こした。
総司の口許に水の入った碗を差し出し、ゆっくりと傾けて総司に碗の水を飲ませる。
少しずつ何口か水を咽喉に流し込んでから総司は軽く吐息を付いた。
斎藤は総司の身体を支えながら、目の前に調合された薬の包みを差し出した。
「今、飲んでおけ」
その言葉に、総司が困ったような表情で斎藤を見上げる。
「そんな顔をしても駄目だ。熱が下がらん--------飲め」
「……」
「飲まないなら無理やりにでも飲ませるぞ」
薬包を開きながら言う斎藤が、総司の顔を見つめた。
その視線から逃げるように総司が瞳を逸らす。
そんな様子の総司に斎藤は深いため息をひとつ付くと、開いた薬包の中身を口の中に入れ
手に持っていた碗の水を口に含んだ。
顔を逸らした総司の頤を掴み、口唇を重ねてそのまま流し込む。
総司の咽喉が動いてから、斎藤は口唇を解放した。
「…これが嫌なら次は自分で飲むんだな」
耳元に口唇を近づけて低く囁く。
らしくないと内心苦笑しながら斎藤は傍に置いてある寝着の替えに手を伸ばした。
すっかり俯いてしまった総司の肩を軽く揺らす。
「…おい」
顔を覗き込んで声を掛けた。瞬間、斎藤は瞠目した。
先程以上に上気した総司の頬が目の前にあった。耳朶まで紅く染まっている。
「顔が紅い」
「…気のせいです…」
心なしか揺れた声音が腕の中で吐き出されて。
斎藤は自然と浮かぶ苦笑を噛み殺した。
「あぁ、きっと熱のせいだ」
言って、寝着の替えを総司の膝元に置いてやる。
「大分汗をかいている、着替えろ。後から湯で身体を拭いてやるから…取り合えず今は
手拭いで汗を拭いておこう」
少しの間を置いて総司は頷くと、素直に寝着から腕を抜いた。
「すぐ済むから暫くそうしてろ」
手早く総司の腕や背中の汗を拭う。
一通り斎藤が汗を拭うと、総司は帯を解いて着物を脱ぎ、替えの寝着の袖を通した。
裾を正すのに少し身体を動かしただけで呼吸の乱れる総司の様子を見て斎藤は吐息を付く。
「俺に凭れていると良い…帯を結ってやる」
半ば強引に総司の頭を自分の胸に持って来てその身体をそっと凭れ掛けさせた。
総司に目をやると、胸に頭を寄せ瞳を閉じ苦しそうな吐息を零している。
「まだかなり辛そうだな」
「…大分楽になりましたよ」
「またそう言って嘘をつく」
胸に凭れ掛かる身体を抱き込むようにして帯を結う。
ふいに、腕の中にいる総司の肩が揺れた。乾いた咳を何度か繰り返す。
総司の指先が、斎藤の着物の襟の辺りに縋る。
帯を結う手を止め、背を擦った。肉付きの少ない薄い背が、咳のたびに揺れる。
しばらく続いた咳の残りを吐き出すかのように総司はひとつ大きく息を吐いた。
「…すみません」
淡く微笑んで総司は斎藤を見上げる。
僅かに潤んだ闇色の瞳が綺麗だと思った。
先程のようにして斎藤は総司の身体を抱き込んで帯に手を掛ける。
「一さん」
帯を結い、総司の身体を横たわらせようと肩を抱くのと同時に斎藤を呼んだ。
視線を総司に向けて斎藤は静かに寝具に総司を寝かせる。
「…ありがとう」
柔らかい微笑と声音に斎藤もそっと微笑んだ。
「その言葉はすっかり治ってから聞かせて欲しいものだな」
「ふふ…意地悪なんだから」
「…知らなかったか?」
言って総司の頬に手をやりその肌を撫でた。
答えずに微笑みを浮かべる総司を見つめる斎藤の瞳は穏やかで。
「おしゃべりは仕舞いだ…たくさん寝て早く治せ」
総司は頷くと、徐に布団の中から右手を差し出した。
そして斎藤の手に軽く触れる。
「…随分と大きくて甘えん坊な子供だ」
総司の手を軽く握り締めた。
「知りませんでしたか…?」
ゆっくりとした口調で総司が言う。頬には相変わらず柔らかい微笑。
「…十分に知っているさ」
低く呟く。
両手で、総司の掌を包み込んだ。
斎藤の言葉に、総司は彼を暫く見つめてから瞳を閉じる。
「知っているよ」
触れたこの手が、せめて今だけでも傍に在るように。
斎藤は白い手を包む両手にそっと力を込めた。
「あれ」
障子を開けて永倉が顔を覗かせた。
布団に横になった総司が、永倉の方に顔を向けて穏やかに微笑む。
「起きていたのか?…斎藤は?」
左腰に差した大刀を抜きながら永倉は部屋に入り、総司の枕元に胡坐をかいた。
「冷たい飲み水を持って来てくれると言って」
言いながら身体を起こそうとする総司を永倉の大きな手がそっとそれを止める。
「いいから寝てろ」
「…今、お帰りですか?」
隊服を身に纏ったままの永倉に総司が問うた。
巡察に行ってきたところなのだろう。
「あぁ。お前が心配でな、真っ直ぐにここに来た」
笑みを浮かべて永倉が言う。冗談交じりに言う永倉だが、彼の義理人情に厚い人柄は総司も
よく知っている。
「すみません」
笑うと少し幼く見えるその永倉の顔を見、総司は改めて年上のこの男の何気ない優しさを垣間
見た気がして嬉しくなった。
「馬鹿。謝るところじゃない」
軽く総司の額を小突く真似をして、永倉はまた笑った。
「巡察の帰りにな、葛切を買って来た…お前、好きだろう」
「本当ですか?嬉しいです」
「今は無理でも、もう少し良くなったら食べな」
「ありがとうございます、永倉さん」
永倉は総司の額の手拭いを桶に入れ冷やし、固く絞った後にまた額に戻した。
「早く良くなれよ。お前に元気がないとどうもいけねぇや」
「今だって一さんに無理やり寝かし付けられてるんですよ。もう平気です」
枕元に座っている永倉を見上げて強がる総司に永倉は苦笑する。
「まだ顔色があまり良くないぜ、無理はいけないな」
「…無理なんてしていないのに」
総司の言葉にも永倉は口唇の端を上げるだけで。
「土方さんも心配してる。とにかく今はゆっくり休むんだ」
昨日の土方の様子を思い出しながらゆっくりと言い聞かせるように永倉が総司に言う。
「…はい」
軽く頷いて総司が微笑んだ。
「っと、長居はいけねぇな。じゃあ俺もそろそろ戻るか」
言って永倉の手が右に置いた大刀に掛かると同時に障子が開く。
斎藤が立っていた。
「…永倉さん。帰ったのか」
「さっきな。ちょうど今戻ろうと思ってたんだが」
立ち上がり、永倉が斎藤に近付く。
「昨日言った通り土産買って来たぜ。お前の分は無ぇけどな」
斎藤が何かを言う前に永倉が続ける。
「じゃあ総司、ちゃんと薬飲んで寝ろよ」
手をひらひらさせながら廊下を歩いていく永倉の背を見送って斎藤は軽く吐息を付き、
部屋に入った。
「まるで子供扱いだと思いませんか、一さん」
総司の枕元に腰を下ろしながら斎藤は総司の言葉に苦笑した。
盆に置いてあった吸い口の付いた水入れを総司に見せて、肩を抱き身体を少し起こさせる。
総司の口元に水入れを差し出した。
数回口を付けて咽喉を潤した総司が小さなため息を付き、肩を支える斎藤を見上げて微笑った。
「…冷たくて美味しい」
「そうか」
ゆっくりと総司の身体を布団に再び寝かせる。
「永倉さんも皆…試衛館の皆さんは私をいつまでも子供だと思っている」
先程の話をまた口にする総司が可笑しくて斎藤はそっと微笑んだ。
斎藤の表情の変化を敏感に悟って総司が軽く頬を膨らませる。
「大切に思われている、そう思えば良い」
静かに告げる斎藤を、総司がじっと見つめて。
それから闇の色をした大きな瞳を細めて微笑む。
「…一さんは不思議だ」
「…何故?」
「一さんが言うと、素直にそうなんだと思えてしまう」
込み上げてくる苦笑を噛み締めて、斎藤はそっと総司の頬に触れた。
「それは大変だ」
「…どうしてです?」
「迂闊なことをお前の前では言えたものではないな」
「いいえ」
斎藤の手に、総司の手が重なる。いつもよりも熱い体温が妙に心地良かった。
真っ直ぐに見つめてくる総司の視線から瞳を逸らさずにそれを受け止める。
「私はもっと一さんと話がしたい」
「…総司」
「もっともっと、一さんを知りたい」
斎藤は、総司の頬から手を離してその手で自分の手に重ねられていた総司の手を握り締めた。
その手を布団の中に入れて、空いた手で斎藤は総司の黒髪を指先で梳いた。
「…ならばなおのこと早く治さなければならないだろう?」
斎藤が自分でも驚くくらいに穏やかな声。
何度も、艶やかな黒髪を指で梳く。
「疲れたらまた夕方から熱を出す…話し過ぎたな」
無言のままで首を振る総司の口元には変わらず淡い笑みが浮かんでいる。
「少し…眠ります」
一言言うと総司は瞳を閉じた。
髪を梳く手を止めて横顔を見つめる。すると徐に総司が口を開いた。
「昔ね…まだ、試衛館に行く前に…小さかった私が熱を出して寝込んだりすると今の一さん
みたいに姉が髪を梳いていてくれましたっけ…懐かしいなぁ…。ふと思い出しましたよ」
「…そうか」
また、髪を梳いていた指先を黒髪に絡める。ゆっくりと、撫でるように指を滑らせる。
やはり熱の下がらない身体はかなり疲れているのか、すぐに総司は眠りに落ちた。
その後もしばらく斎藤はその指を総司の髪に遊ばせる。
「ゆっくり…眠るんだ」
総司の髪の一房を手に取りそれにそっと口付けた。
日も暮れた頃。
「…良いんですか?」
「良いといっているだろう」
枕元に置かれた桶からは湯気が立っている。先程斎藤が沸かしてきたのだ。
目覚めた総司がかなり汗をかき、着替えるにも気持ち悪そうにしていたからである。
「昨日よりも具合は良くなったようだし、昨日も熱のせいで風呂にはいれなかっただろう?」
「そうですけど…申し訳ないです」
「遠慮なら不要だが」
上半身を布団に起こし、その身を斎藤に支えられた状態で総司が斎藤を見上げた。
「折角沸かしてきた湯が温くなる。…それとも無理やり脱がされたいか」
「…っ」
瞬間顔を上気させ、総司は斎藤を見てそして俯いた。
冗談交じりに言ったつもりが、そうは聞こえなかったのかと思い斎藤はそっと苦笑する。
すると、総司は寝着から肩を抜き細い肩を露わにした。
「こんなことまですみません…一さん」
浸しておいた手拭いを絞って、それを両掌に乗せ数回叩いてから総司の肩にそっと触れさせる。
「…熱くないか」
「いえ、丁度良いです」
首、肩から腕、それから胸と、総司の華奢な身体の汗を斎藤は丁寧に拭いていった。
総司はと言うと、気持ち良さそうに瞳を細めている。
何度か絞り直して腕や胸を拭いてやり、そして薄い背中を拭った。
「はぁ…気持ち良いですね」
ため息と一緒に総司が呟く。
総司の付いた吐息が斎藤の腕を掠める。--------まだ、熱い。
「それは良かった」
白い肌が全体的に上気しており、その身体にまだ熱が残っているのは見た目に明らかだった。
また、夜に熱が出るのではと思い斎藤は眉を顰めた。
「…本当にありがとう、一さん」
答えは返さず、頬に淡く笑みを浮かべると総司もそれに気付いて斎藤に微笑み返す。
斎藤は総司の肩を支えながら枕元に置いた寝着に手を伸ばした。
「寝着なんだが、お前の替えがもう無い。大きいだろうが俺のを着ていると良い」
総司に差し出しながら斎藤が言う。
「…一さんのですか?」
少し驚いたような表情をした総司に斎藤は少し笑って。
「不満か?」
「いえ」
微笑みながら総司はそれを受け取った。それに袖を通そうとした時、障子越しに声が掛かり
障子が開いた。
廊下に立っていたのは土方である。
「…土方さん…」
総司がまず口を開く。そして両袖を通して襟を右手でそっと掻き合わせた。
土方は廊下に立ったまま部屋には入って来ず、枕元に置かれた桶を一見して二人を見た。
「その格好…これから黒谷へですか?」
斎藤は総司の肩を支えつつ自分の身体を少し土方の方に向けて問うた。
一瞬の沈黙の後、土方がようやく口を開く。
「…そうだ。多分今日は帰れねぇだろう。近藤さんも一緒だ」
新選組の鬼副長と言われるその表情で淡々と告げる土方を斎藤は見つめた。
その斎藤の視線を真っ向から受けて暫しそのまま土方の斎藤を見返したが、先に土方が瞳を逸らす。
「…総司」
「は、はいっ」
徐に声を掛けらた総司の肩が揺れたのが、それを支えていた斎藤にも伝わってくる。
「少しは良くなったのか」
「この通りです、もう平気です」
微笑みを浮かべて土方を見上げる総司を斎藤は見つめた。そして土方を見る。
険しい表情を崩さない土方だが、総司はそれでも微笑を浮かべたままに土方を見上げている。
「…強がりはよせ。まだ辛そうだ」
「もう平気ですってば」
拗ねたような表情をする総司に、土方の表情がやっと少し和らいだ。
「馬鹿。…俺には強がらなくていいんだよ」
穏やかな声音と共に、土方が微笑んだように見えた。
総司もまた瞳を細めて微笑んでいる。
「行って来る」
「お気を付けて、土方さん」
総司が柔らかい声音で言った。それに応えて土方は頷いて見せた。
「…斎藤、留守を頼む」
「承知しております」
軽く頭を下げる。土方もまた軽く頷き、障子をすぐさま閉めた。
そのまま廊下を歩いて行く音が聞こえる。
「…最近、忙しいみたいですよね」
「あぁ、浪士に不穏な動きが見られるらしいからな」
言いながら斎藤は総司の身体を自分の方に引き寄せながら帯を結う。
総司もされるままに斎藤に身を委ねて瞳を閉じた。
「ふふ…寝込んでる場合じゃないなぁ。…情けない」
呟くように言う総司。
「疲れていたんだ…これからのための丁度良い休養だと思っておくことだ」
「…そうですね」
帯を結い終わり、身体を離した総司を斎藤は見つめた。
総司は今袖を通した寝着を見て微笑んでいる。
「どうした」
「…いえ、袖がね」
そう言った総司の手元を見ると、寝着の袖から総司の手がほとんど隠れて指先が少し
見えるだけであった。
「随分長いから」
総司の右手の指先が、左袖の辺りにそっと触れた。何度かそれを撫でて。
「一さんのなんだなぁって、思って」
「……」
「何だか、不思議な感じで嬉しくて」
「…可笑しな奴だな」
斎藤の言葉に総司が微笑む。本当に楽しそうに笑う彼を見、斎藤は少し瞳を細めた。
「着替えたことだし横になれ…嫌という言葉は聞こえんからな」
言葉と同時に斎藤は総司を横にならせて布団を掛けてしまう。
総司は、何か言いたそうに口を開きかけたがそれをすぐに噤み、クスクスと笑い出した。
「もう…本当に一さんには敵わない」
「…そうでもないさ」
呟くように。
総司にはよく聞こえなかったようで、きょとんとして聞き返してきた。
「何です?」
「何も言っていない」
「…嘘」
「いいから寝るんだ」
諭すような口調になっているのに自分で気付きつつも言葉を発する斎藤の頬を、総司の手が触れた。
触れられた頬から、熱が伝わって来て微かに火照りを感じる。
不意に、初めて総司の手に触れた時のあの熱さを思い出した。
飛びかけた意識を、総司の声が引き戻した。
「一さんは、月ですね」
「…何?」
「何気なく、そっと包んでくれる…そんな優しい光」
闇色の瞳をほんの少し細めて総司が微笑い、その瞳で斎藤を見つめる。
「暗い闇を照らす、柔らかくて穏やかな光です」
「…買い被りだな」
苦笑を浮かべる斎藤向かって総司はゆっくりと首を振った。
「そんなことはありません」
耳に残る穏やかな総司の声を聞きながら、斎藤は総司の手に自分の手を重ねた。
そのまま軽く握り締める。
「…月か」
呟いて、総司の手を自分の口唇が触れるすぐ傍にまで持って来る。
血管の薄っすらと浮いた白い手の甲に微かに口唇を触れさせてから、その手を両手で包み込んだ。
暫くそうしてから、布団の中に細い手を仕舞い込む。
僅かに顔を横に向けて見つめて来る総司を、斎藤は見下ろした。
そして昨日したように総司の目元に手を当てる。
「…俺が月なら」
ゆっくりと口を開いて。
「お前は…一体何だ?」
問い掛けてみる。隠されていない総司の口元が微かに綻んだ。
思ってもいなかった問い掛けに、困って苦笑しているのかも知れない。
それを認めて、斎藤はそっと瞳を伏せた。
「…お前は、太陽だろうか」
沈黙を破ったのは、総司の言葉。
「何故…?」
伏せていた瞳を戻して、斎藤はふと背にある障子越しの空を仰いだ。
「太陽は」
もう、外はすっかり日が落ちて暗くなって来ている。
それを仄かに照らすのは、他でもない月だ。
部屋に差し込む月の光は言いようも無いほどに頼り無く。
「…全てを照らす光」
...知っているだろう。
月は、それだけでは輝けないことを。
闇を照らす月が、輝く所以を。
--------なら、俺は。
どうなのだ。
「月は…太陽が無ければ輝かない」
囁いて、総司の目元を覆っていた手をそっと外す。
瞬間、二人の視線が絡んで。
そして総司は綺麗に微笑んだのだ。
初めて出逢った時と変わらない笑顔がある。この世の醜さを写しても穢れることをまるで
知らないような闇の色をした瞳がある。
きっと初めて逢ったあの時に、自分はこの笑顔と瞳に惹かれたのだと思う。
…輝く月に届く一筋の光が、見えた気がした。
腕の中で穏やかな寝息を立てる総司を、斎藤は呼吸を潜めてそっと見つめた。
抱き締めた腕から伝わる身体の温度はまだ少し熱い。
それでも、熱に起因した悪寒から来る震えが治まっていることに安堵のため息を付いた。
寒いと言って震えていた総司を抱え込んで同じ布団に入ったのは一刻ほど前のこと。
斎藤の胸に頬を押し付けるようにして眠りに落ちている総司の寝顔を伺う。
半ば無理やりに飲ませた薬が効いたのか、その表情と呼吸は安らかで。
頬にかかる一筋の髪を指先で掻き上げる。
右肘を立てて自分の頭を支えながら、もう片方の手で総司の背を抱く。
こんな状態を土方に見せたらどうなるのかと思いながら斎藤は障子に瞳をやった。
そんなことを思う自分に苦笑する。
闇に染まる障子をぼんやりと照らすのは淡い月光。
己で輝けない月が欲するものは何だろう。
月が本当に照らしたいものは何だろう。
思って、ひとり自嘲する。
視線を総司の顔に戻して背に回した腕に少し力を込め、抵抗しないその身体をそっと引き寄せる。
まだ微かに熱感のある総司を腕に抱き瞳を閉じたら、久々に深い眠りにつけそうな気がした。
「……」
瞳を開けてまず眼に入ったのは総司の艶やかな黒髪。
少し目線を下にずらすと、眠りについた時と同様に自分の胸に頬を寄せた総司の寝顔があった。
背に回していた手を、総司の額に当ててみる。ほとんど熱も下がったようだ。
自然と斎藤の口元も綻ぶ。
夜のように右肘を立て、自分の頭を支えた。
これ以上動いたら総司が起きるだろうと思い、取り合えずその場に留まった。
大分、陽が高くなってきたのか障子越しに光が差し込み出す頃、廊下を歩いて来る足音がする。
あまり音を立てないようにしている様子が伺えるが、この歩き方は永倉だろうと思った。
「斎藤」
声を潜めて障子越しに呼び掛けてくるのはやはり永倉だ。
「起きている」
声を押し殺して応えれば、音も無く障子が開いた。部屋を覗くと同時に永倉が瞠目する。
その表情のまま部屋に入って来て、抱えていた桶を置き右肘で頭を支えたまま横になっている
状態の斎藤の背の傍に座った。
「オイッどうなってんだ、これ」
思い切り潜めた声で永倉が尋ねて来る。
「…見ての通りに」
言葉少ない斎藤であるが更に反応の薄い様子に永倉は苦笑しながらも、彼なりに総司を起こさないよう
気遣っているのだと思い瞳を細めた。
「…しかし随分可愛いもんだねぇ」
総司の寝顔を見て、笑いを噛み堪えながら永倉が言う。
優しい光を宿した瞳が斎藤の肩越しに総司を見つめている。
「水汲んで来たぜ。…後からまた来る」
言って、忍び足で永倉が部屋を出て行く。その様子が可笑しくて斎藤は口の端を上げた。
障子が閉まり、足音が遠のき聞こえなくなった辺りで総司の睫毛が揺れる。
「…ん…」
ゆっくりと瞳が開き、闇色の瞳が斎藤を見上げた。
まだぼんやりしているのか、じっと斎藤を見つめてくる。
「…目が覚めたか」
「…ッ」
驚いた表情をし、頬を紅く染める総司の背を軽く抱いたまま斎藤が口を開いた。
「おっ…おはようございます…」
耳朶まで紅く染まった総司に苦笑して、斎藤は無言で頷く。
「私…あのまま寝てしまったんですね…?」
「…そうだな。--------で、身体はどうだ」
起き上がろうとする総司の肩を抑えて斎藤が問う。
「もう何だか本当に平気…みたいです」
総司が寝ていた時と同じように額に手を当てて熱を測ってみた。
そんな斎藤の様子を総司は少し上目遣いで見つめて、されるままにおとなしくしている。
「…熱は下がったようだな」
それだけ言って、斎藤はゆっくりと布団から身を起こす。
総司も続いて、ゆっくりと起き上がり斎藤の目の前で正座した。
目の前の頬の色は、数日前とは打って変わって良くなっていて改めて安堵の吐息を付いた。
「はい、もうすっかり良くなりました」
微笑みを浮かべて斎藤を見る総司に、同じく微笑い返した。
「それは良かった」
「一さん、本当にありがとう」
斎藤の腕が総司の後頭部に伸びて、そのままその頭を自分の胸の方に引き寄せた。
「…はじめ…さん?」
後頭部の手を肩に滑らせて、細い肩を数回軽く叩き一言呟く。
「…良かった」
その斎藤の頬には穏やかな微笑。総司は軽く瞠目してから、嬉しそうに頷いてまた微笑んだ。
徐に斎藤は立ち上がり、障子を開け放つ。
「良い天気」
眩しそうに瞳を細めて総司は中庭に瞳をやった。
「天気も良いし暖かい。縁側で髪を結うか」
中庭を見つめたまま言う斎藤の横に、総司も立ち上がり並んで立つ。
そして廊下に出て大きく一つ伸びをした。
そこに、永倉がやって来る。
「あれ、総司もう良いのか」
「永倉さん。えぇ、もうすっかり」
総司に並んで永倉も立ち、総司の頭を少し乱暴に撫で付けた。
「心配したぜ。顔色良くなったな」
「すみませんでした」
部屋の中から桶と髪結いの道具を持って出て来た斎藤に永倉が歯を見せて笑った。
「お前の看病あってだな」
永倉の言葉に、瞳を少し細めながら斎藤は総司を縁側に座るよう促す。
座った総司の横に並ぶように永倉も座り、総司を覗き込んだ。
「…随分大きな寝着だな?」
袖の辺りを軽く摘まみながら永倉が総司に向かって言う。それを聞いた総司が苦笑を浮かべて
髪を梳かす斎藤を振り返り見上げた。
「動くな」
「ハイ」
クスクス笑って前に向き直し永倉に総司が笑う。
「これ、一さんのなんです。私の替えが無くなってしまって」
「道理でこんなに袖が長い訳だ。…そりゃ仕方ねぇ」
永倉が、思い切り瞳を細めて可笑しそうにカラカラ笑った。
「あぁ…おい総司、お前腹減ってないのか?」
「…少しだけ」
「粥でも作ってもらうか」
「あ」
「何でぇ」
「永倉さんが買って来てくれた葛切、まだ食べてないです」
にっこり笑って総司が永倉を見、また斎藤を振り返った。
「…動くなと言っている」
斎藤が総司の振り返った頭を両脇から手で押さえて前を向かせる。
「それは喰うしかねぇな。おい斎藤、どこにしまってんだ」
「台所の氷置き場で冷やしているが」
「よっしゃ、俺が今から美味い茶を淹れて持って来てやる。待ってろ」
「…病み上がりにいきなり甘い物を食べるのか」
「嫌だなぁ一さんったら。病み上がりだから大好きな物を食べるんですよ、ねぇ?永倉さん」
「違いねぇ。よし、待ってろ」
言うが早いか、永倉は廊下を小走り進んで行く。
今度は斎藤の言う通りに顔を動かさず目だけで永倉の背を追い、総司はまた笑った。
「永倉さん、元気ですねぇ」
「…少し分けてもらうと良い」
丁寧に総司の髪を櫛で梳かしながら斎藤がため息混じりに言う。
ふと、総司は横に置いてある髪結いの道具の箱の中に在る元結に目をやり一本のそれを取り出した。
「ね、これ一さんのですか?」
薄紫の元結。総司はそれを指先で瞳の高さまで持ち上げる。
「綺麗な色ですね」
「…そうか」
「こんな色のもあるんですねぇ」
「気に入ったのか」
「えぇ、とても」
前を向いたままの総司だが、声音で顔一杯にあの笑顔を浮かべているのが分かる。
動くなと言った自分の言葉を守っている総司に、斎藤は苦笑する。
そして後ろから総司の持っている元結に手を伸ばしそれを取り上げた。
「ならばこれで結ってやる」
「本当ですか?」
「だが俺も今同じ元結をしているが?」
「いいです。実は昨日ね、一さんがしてるのを見ていいなぁって思ってたから」
細かい所を具合の悪い日の夜目にも見ているのだと思い、斎藤は多少驚きながらも無言で頷いた。
綺麗に纏め上げた総司の髪を、その元結できつく結い上げる。
「きつくないか」
「平気ですよ」
余った元結の端を少し鋏で切り落とす。
「終わった…永倉さんが来る前に着替えてくると良いさ」
「ありがとうございます」
嬉しそうにニコニコ笑って総司は立ち上がり、部屋に入って行く。
背後で障子が閉まる音を聞きながら斎藤は髪結いの道具を仕舞い込んだ。
そして縁側に腰を掛ける。
本当に良い天気だと、空を見上げる。
雲ひとつ無い青空の眩しさに、斎藤は片手を翳して瞳を細めた。
暫くして総司がきちんと袴を着けて部屋から出て来て、斎藤の隣に座る。
「お揃いですね」
斎藤の顔を覗き込むようにして言う総司の表情は、本当に無邪気な子供そのものだった。
「…揃いだな」
言って、立ち上がる。
「袴を替えてくる」
髪結いの道具の入った箱を持ち、部屋に戻った。押入れにそれを戻し、綺麗に折り畳んである袴を着ける。
「総司」
永倉の声がする。戻って来たようだ。
袴の紐をしっかりと締め、脇差を差して部屋を出る。
縁側に永倉と総司と並んで座っている後姿が目に入り斎藤はつい笑ってしまった。
そして総司の右隣に座っている永倉とは逆に、斎藤は総司の左隣に座る。
「ほらよ」
永倉が、総司の背後から腕を伸ばして盆を斎藤に差し出した。
盆の上には、湯気を立てた茶と握り飯二つが載せられている。
ふと永倉の横を見ると、その横にも皿が置いてあり握り飯が同じく二つ。
総司は嬉しそうに右側に湯飲みを置いて、手元に葛切を抱いている。
「…これは」
握り飯を示して永倉を見ると、彼は歯を見せて笑う。
「台所行ったらな、源さんが丁度居てよ。話したら作ってくれたんだ」
そして握り飯を美味しそうに頬張る。
「俺のはついでに、ってな。あ、茶ぁ淹れたのは俺だぜ」
永倉の言葉に、総司も源さんらしいと言って微笑んだ。
「…ありがたい」
一言告げて茶を啜る。濃さも丁度良くて、美味だった。
ふぅ、と穏やかな吐息を付く。
横に座る総司は、本当に嬉しそうにつるつると葛切を頬張っている。
視線をずらすと、総司の様子を同じように見ていた永倉と目が合い二人苦笑した。
奥の方から大きな足音がこちらに近付いて来る。隊服を着た原田と藤堂だ。
「何だよ、良い物食ってんな」
言うと同時に永倉の皿の上の握り飯に手を伸ばし大きな一口を頬張ってしまう。
「匂いに誘われて来たか」
らしい原田に苦笑しながら永倉は自分の横にしゃがみ込んだ原田の頭を小突いた。
「あぁ?源さんが総司が元気になったって言うから巡察前に来たんだろうが。 …なぁ、平助」
二口ほどで半分になった握り飯の残りを藤堂に差し出しながら原田が言う。
藤堂は、総司と斎藤の丁度中間辺りに膝を付いている。嬉しそうに差し出されたそれを受け取る。
「そうだよ、良くなったみたいだね総司。安心したよ」
「ご心配をおかけしました」
総司の言葉に頷きながら握り飯を頬張る藤堂が、斎藤に向かって笑い掛ける。
表情を変えない斎藤の背中を軽く叩いて立ち上がり、まだしゃがみ込んでいる原田に瞳で
行こうと促した。
「じゃ、行ってくるからな」
立ち上がり様言って歩き出す二人を総司は笑顔で見送った。
斎藤も、永倉も握り飯をすっかり食べ終わっているのに総司はまだ一人葛切を口にしている。
「…美味いか」
「えぇ、とても」
にっこり笑って頷くと、総司は永倉に向かって葛切を摘んだ箸を口元に差し出す。
永倉はそれを一瞬見てから、ニッと笑って口を開く。
「ん、美味ぇ」
頬張りながら笑って言う永倉を嬉しそうに総司は見つめて頷いた。
それから斎藤に振り返り、食べますかと微笑む。
「…甘い物は好かん」
「この黒蜜はそんなに甘くなくて美味しいですよ」
「いらん」
「いいから食わせてもらえよ。総司に食わせてもらったらお前の嫌いな物でも存外美味いかも
知れないぜ」
永倉を味方に付けた総司は葛切を器用に箸で摘み斎藤の口元に運んだ。
その頬には飛び切りの笑顔が浮かんで。
「ほら一さん、黒蜜が垂れてしまいますってば」
斎藤は口元に差し出された葛切を一瞥してそれから総司を見た。
総司は小首を傾げて斎藤を見つめ微笑んでいる。
総司の肩越しに永倉も歯を見せて笑っているのが見え、斎藤は内心舌打ちをした。
そしてようやく重い口を開く。嬉々として総司はそっと斎藤の口に葛切を頬張らせた。
「…美味しいでしょう?」
ふわりと広がる黒蜜の甘さ。確かに、そんなに気になるほど甘くはないが苦手な物であるには
変わりない。飲み込んでから茶を口に含む。それを飲み干してから反応を待つ総司に苦笑する。
「お前が言うなら美味いんだろうさ」
「…ふふ」
三人、縁側で和んでいるところに隊士がおどおどと近付いて来た。
「どうした」
永倉がそれに気付き声を掛ける。その若年の隊士の強張った表情が一瞬和らぐ。
「土方副長がお呼びです」
「…誰をだ」
「永倉先生、沖田先生、斎藤先生をです」
「分かった、すぐにゆく。ご苦労だったな」
よほど副長の機嫌が悪いと見たのか、隊士は身体を強張らせている。
永倉はその肩を叩き軽く笑って見せた。
「…だそうだ。ゆくか」
一目見て不機嫌だと分かる表情を浮かべて部屋に入って来た三人を土方は見た。
「随分おっかねぇ顔だな、土方さんよ」
「…地顔だ」
土方の向かいに腰を下ろしながら永倉は言い、その土方の返答に苦笑を浮かべる。
三人並んで土方の前に座った。
「最近、浪士たちの不穏な動きが目立っている。会津藩から巡察に更に力を入れるようとの
お達しだ。近々何かあるやも知れねぇ」
「監察方が随分と忙しそうだしな。心得てるぜ、土方さん」
永倉の言葉に、険しい表情を崩さないまま土方が頷く。伏せていた瞳を上げて総司を見た。
「…総司」
低く呼び掛ける。
「はい」
「もう良いのか」
「平気です」
微笑んで言う総司を真正面から見つめる。真っ直ぐに見つめてくる闇色の瞳の奥に土方は己の
瞳を凝らした。
「お前はいつもそう言う。無理だけはするな…いいな、総司」
「はい」
やっと土方の目元が微かに穏やかになる。それはすぐに消え、土方は険しい顔で三人を見回す。
「永倉、お前夕刻の巡察組だな。回ってもらう料亭がある、後から島田から詳しい地図を
渡されると思うが頼むぞ」
「任せてくれ」
「斎藤と総司は、明日からまた巡察組に復帰だ。いいな」
斎藤と総司を交互に見て土方はいつもの副長の口調で告げる。
こんな感じに言われては、先程の隊士の表情の強張りようも理解できると永倉は思う。
平気なのは、試衛館時代からの土方を知っている自分たちくらいだろう。
土方さんも損な性格だと内心で笑った。
「はい」
「承知しました」
二人を見て土方は頷き、言葉を続けた。
「以上だ。戻って良いぞ」
「おぅ」
永倉と総司が立ち上がる。斎藤は座ったままで。
「…斎藤?」
声を掛けると斎藤は永倉を見上げて口を開いた。
「副長にお話がある。先に行っていて欲しい」
「ん?…あぁ、そうか分かった。戻ってようぜ総司」
何とも言えない斎藤の雰囲気の変化を察知したのか、永倉は不思議そうな表情をした総司の肩を
抱きその身体を促した。そのまま部屋を出る。
「…話とは何だ」
二人の足音が離れて行くのと同時に土方が口を開く。
「副長の方が俺に話があるように思えましたので」
「…ふん」
鼻で軽く笑ってから、低く土方はそうか、とだけ呟いた。
「斎藤、ご苦労だったな。世話を掛けた」
「いえ、大したことは何も」
斎藤は正座した自分の膝の辺りの置いた手の甲を見つめて言う。
一瞬の沈黙。
「…昨日はよく眠れたか?」
静かな口調で、それでいて低く響く声で土方が告げる。斎藤は伏せていた瞳を上げ土方を見る。
土方も、伏せていた瞳を戻し斎藤を真正面から見据えた。土方は昨日の晩のことを言っているのだ。
永倉が原田あたりに何気なく言ったのが何かの流れで
土方の耳に入ったのか。それとも、土方自身が見たとでも言うのか。
どちらにせよ関係は無いと斎藤は内心笑った。
「…言葉の意味を図りかねますが」
「…そうか」
微かに声音に笑みが含まれているように聞こえたのは錯覚か。
「は」
「つまらんことを聞いたな」
「…副長」
今度は、斎藤が呼び掛ける。
土方は返事を返さず、伏せていた瞳をまた斎藤に向ける。
「一昨日の夜…熱にうなされていた彼が、俺の腕の中で呼んだのは誰の名だと思いますか」
斎藤の言葉に土方は軽く瞳を見開き真っ直ぐに見据えてくるその瞳を見返した。
その視線を受け、斎藤は軽く会釈し立ち上がる。そのまま、襖に手を掛けた瞬間。
「…斎藤、お前」
ゆっくりとした所作で、斎藤は土方を振り返った。険しい表情をした土方を見据えて口を噤む。
沈黙を、先に破ったのは土方。
「…いや、何でも無い」
「副長」
口を噤んでいた斎藤が静かにその口を開く。低いがよく通る声で、一言一言噛み締めるように。
「もしもいつか…俺が不要になる日が来たら…俺が、新選組を--------貴方を裏切ったら」
斎藤は一瞬視線を足元に落とした。
「俺を斬りますか」
視線を戻し、土方を見る。揺るぎ無い炎を宿した斎藤の瞳が土方を射る。
長く感じる沈黙が重い。
噛み締めるように堅く閉ざしていた口唇を土方が開く。
「…斬らねぇよ」
「……」
「お前が不要になる日など来ない。…ましてお前が俺を裏切ることも、無い」
端整すぎる土方の顔が、確信に満ちた声音で言葉を綴る。決して外れることは無いと言うような口調。
斎藤は土方の瞳の奥に蒼い炎を見た気がした。
「何故言い切れるのです」
「お前は総司だけは裏切らない…そうだろう」
今度は斎藤が瞠目する。
土方が言う意味はきっとこうだ。
お前は総司だけは裏切らない--------総司が、土方を裏切ることは決してない。
土方を裏切ると言うことは、彼を信用しついてゆくと言う総司をも裏切ることにもなるだろうと。
あくまでも、隊士としての話ではあるけれど。それを土方自身理解して言っているはずである。
「だから俺がお前を斬ることはねぇ」
土方が、二重の切れ長の瞳を更に細めて斎藤を見た。まるで、刃に引かれた感覚が襲って来る。
「何より…お前を斬ったら総司は泣くだろうよ」
弾かれたように土方を見つめた斎藤に、土方が薄い口唇の端を上げて笑って見せた。
一文字に引き結んでいた口を、斎藤は淡く綻ばせる。
そしてもう一度会釈をし、今度こそ部屋を出た。
「あ、一さん」
縁側に戻ると、永倉と総司が中庭に居た。特に何をするでも無く話していたのだろう。
「おい斎藤。ちょっと散歩に行くぜ」
見ると、斎藤の草履がすでに用意されている。斎藤は縁側から降りて草履を履いた。
小走りに先を行く総司の小さな背を永倉と二人並んで歩きそれを見守る。
「病み上がりなんだからあんまり走るもんじゃねぇよ」
「平気ですよ」
何度か後ろを振り返って楽しそうに歩く総司に、斎藤はそっとため息を付いた。
「天気良いなぁ本当によ」
眩しそうに瞳を細めて永倉が空を見上げる。斎藤もそれに倣った。
先程の土方の様子と斎藤の様子に永倉も何か思うところあったようだが、あえてそれに触れて
こない永倉に斎藤は彼の思慮深い性格を実感する。
「…総司は光だな」
永倉の突然の言葉に、斎藤は昨日の総司とのやり取りを思い出して彼を見つめた。
「あいつの周りにはいつも人が集まる。…光だよ」
「…光…」
斎藤の相槌に頷きながら、永倉は更に言う。
「お前は、闇だな」
無言で見つめ返す斎藤の目の前で、永倉は右手を振って否定する。
「お前が暗いとかそう言ってる訳じゃねぇからな、言っとくけどよ」
「…確かに明るくは無いな」
苦笑する斎藤の背中を永倉の掌が少し痛いくらいに叩く。
「馬鹿野郎。総司を光とするとお前は闇だって言いてぇんだよ」
真顔になっていた表情を崩して、永倉は人懐っこい笑い顔を見せる。
「光だけじゃだめだし、闇だけでもだめだろ」
抽象的に表現する永倉の、次の言葉を待つ。
「光の無い処に闇は出来ないし、闇の無い処で光は見つけにくいだろう」
「光と…闇」
「相反してるようで、実は互いに存在し合わねぇと成り立たない…昨日のお前ら見ててな、
そんな感じがした」
「…永倉さん」
陽と陰。…総司と、斎藤。
光の無い処に闇は出来ない。闇が無ければ光も見えない。
光と闇、たとえ相容れないものであっても互いが存在しなければその各々の存在さえ無くなる。
光のためには、光り輝き続けなければならぬそれを隠す闇が必要で。
闇のためには、漆黒に染まり続けなければならぬそれを照らす光が必要で。
光を包むのは闇であり、また闇を包むのも光なのだ。
「お前にも心休まる場所が出来たのだと…そうであって欲しいと思った」
永倉の声が、何処か遠くで響く。
巡察があるからと、先に屯所に戻る永倉を見送って総司がまた再び歩き出した。
「一さんっ、どこまで行きましょうか」
少し先で立ち止まり振り返る総司。丁度逆光になってその表情は見えないが、あの白い頬には
いつもの笑顔が浮かんでいるのを想像するのは困難なことでは無い。
太陽の光を背に立つ総司を斎藤は瞳を細めて見つめた。--------光だと、思う。
眩い、光。暗闇を照らす、一筋の光だ。
きっと、江戸を離れるあの日に彼の元へ歩いたのはそのせい。
愚かにも、血で染めた己の手を彼の光に照らされたなら、いくら洗っても流せなかった
あの血の感触が少しは薄れるのではと思っていたのかも知れない。
いや、きっとそう思いたかったのだ。
…今更になって気付くなんて。
「一さんったら」
総司が、斎藤に向かって走り寄って来る。そして斎藤の腕に自分のそれをまるで子供が甘える
ような仕草で絡めた。
見上げて来る笑顔は綺麗。
斎藤はすぐ傍にあるその微笑を、眩しそうに瞳をゆっくりと細めて見つめた。
紅い口唇を横に薄く開いて楽しそうに微笑う総司に、そっと微笑み返す。
視線の端で、薄紫の元結に結われた総司の艶やかな黒髪が靡く。
可笑しいくらいに、全てが眩しく見えた。
「病み上がりだから…あまり遠くへは行けないぞ」
「平気ですってば。もう、一さん心配性なんだから」
「無理をするとまた熱を出す」
斎藤の言葉に痛いところを突かれた、と言いたいような苦笑を総司が浮かべる。
「…もし、一さんが熱を出したら今度は私がしっかりと看病しますからね」
「逆にお前に伝染して、酷い状態になったのをまた俺が看病する羽目になりそうだな」
「もうっ、そんなにひ弱じゃあないですよ」
絡めた腕に力を込めて、総司が怒った表情で斎藤を見上げた。
「…そうか」
「そうですよ」
言葉と共に浮かぶのは、穏やか過ぎる微笑。
「なら、頼りにするとしよう」
苦笑を頬に滲ませて斎藤も笑う。
「私も…頼りにしてます、一さんを」
眩い光を見つけた。
闇が、永久に続くその漆黒を拭い去れと祈るように。
光に恋焦がれて。光を求める、漆黒の闇。
光を包み込めるのは他でも無い、闇なのだとしたら。
眩暈にも似たこの感情。
--------今は、例え届かなくとも構わないと思った。
「…失くしたくないから」
総司の耳には、届かないように。
「--------守ると決めた」
低く、呟いた。
…光を失いたくないと思うのは、きっと罪じゃないから。
----------元治元年。京都の夏を彩る祇園祭まで、あと二ヶ月…。
終
HOUZOU-NOVEL