昔  日
                                


                                   あさぎ こと 様




降れ、降れ、花よ――。
慈雨のように、淡雪のように。
降れ、降れ、想いよ――。
愛しさ込めて、憎しみ込めて。 


白い肌に散るのは、朱い花びら。
紅の唇を飾るのは、清冽な白い花。
ひらひらと血の色のような、雪のような花弁が降り積もる。
水戸から来たと言う偉そうな男は、何が楽しいのか、抱くたびに沖田総司の上に花を降らせた。
梅、さんざし、こでまり、桜――。
菖蒲、撫子、女郎花、萩、桔梗。





初めて出会ったのは、梅の香る頃。中山道のどこかの宿場では、場違いなほど見事な花が咲いていた。総司が風呂上りに薄着のまま、その花に見入っていると、後ろから、もう一枚、パサリと羽織を着せ掛けられたのだ。
「坊主、風邪を引くぞ」
丈高く、肩幅の広い、精悍な感じの美丈夫だった。確か、彼の名は、芹沢鴨。暴れん坊の酒飲みと、土方歳三が吐き捨てるように言っていた男だ。山南敬助は、勤皇の士だと、もう少し、彼のことを買っているような口調だったのを思い出す。
「名は?」
「沖田です。沖田総司。試衛館・近藤勇先生の道場の塾頭です」
「そうじ? どういう字だ?」
「総てを司る」
「ふん、ご大層な名だな」
 小馬鹿にしたようにそう言って、手にしていた鉄扇をパチンと総司の首筋に当てた。そして何を思ったのか、その反対の手で梅の一枝を折り、
「匂う花が悪いのか、手折る輩が悪いのか」
花盗人の戯言一つ。
そのくせ、瞳は獲物を追い詰める猛禽の鋭さで、総司を落ち着かなくさせた。
 射すくめられたように、その場を立ち去ることの出来ない総司の上に、風に吹かれ花が散る。
「香る梅花に罪がないとは言わせぬぞ」
「…どういう意味ですか?」
「知らぬ方が幸せということもあるだろうさ。…沖田、お迎えのようだ」
 芹沢は、にやりと笑い、その場を後にした。
「総司、今のは」
 顔を見せたのは、土方歳三。総司の兄代わりの男だ。
「ああ、芹沢さん。…鴨はねぇ、葱じゃなくて梅がお好みらしいですよ。豊玉宗匠も梅に惹かれてやってきたんですか?」
 この男の顔を見ると、つい、からかいたくなる。総司の悪い癖だ。
「馬鹿野郎。どこかのガキが風呂上りにフラフラしているから、迎えに来てやったんだろうが。すぐ熱を出す癖に、手間をかけさせるな。…その羽織はどうした?」
「あ、返さなきゃ。芹沢さんが貸してくれたんですよ」
「はん、奇特なことだな」
「ホントにね」
くすくす、笑い出す。
「総司、笑いごとじゃねぇぜ。あいつには近づくな」
「わぁい、歳三さん妬いてる」
「馬鹿」
 ごつんと拳骨が総司の前頭部を襲う。
「痛いですよ」
「世の中にはな、物好きってぇもんがいるんだぞ」
「あ、知ってます。蓼食う虫も好き好きって言うんですよね」
 得意そうに言うその顔は、初めて出会った童の頃と少しも変わらない。土方は心の中で盛大な溜息をついた。
「…総司、はっきりと言わねぇ俺が悪かった」
「?」
「いいか、よく聞けよ。鴨の野郎はお前に興味を持ったようだ。決して、甘いことを言われても付いて行ったら駄目だぞ。…あいつは好色な男だ。俺の勘は当たるぜ」
「同じ匂いがするんですか?」
「あんなのと一緒にするな」
「わぁ、ごめんなさい、土方さん」
 拳を振り上げる土方に、総司は素直に詫びる。
――くしゅん。
「そら、もう行くぞ」
 総司のくしゃみに慌てた土方が、彼の肩を抱いて宿の中に戻ったが、それを見つめる瞳があったことに二人は気付かなかった。

総司の願いは小さい時から変わらない。
 近藤と土方の役に立ちたい。ずっと一緒にいたい。
――そのためならば、何でもする――
 それが、総司が唯一、自分に課した枷であり、願いだったのだ。
  






壬生浪士隊。
近藤勇をはじめとする試衛館の一党7名と、芹沢鴨を筆頭とする水戸派6名は壬生に屯所を置いたことから、そう呼ばれた。将軍警護のために集められた浪士隊が江戸に帰る時、本体から離れ、残った13名は何の後ろ盾もないまま、最初に世話になった郷士の家の招かれざる客から、邪魔な同居人になったのだ。  

芹沢が、総司を気に入っているのは傍目にも明らかだった。
宴席には必ず、声をかけられる。無碍に断ることも出来ないので、近藤に頼まれ、酒の好きな原田左之助や永倉新八が、総司と一緒に芹沢の供をすることが多かった。
総司はそんな周りの心配を他所に、芹沢に懐いている様に見えた。
彼は純粋に芹沢の剣の強さに惹かれた様だ。何度も稽古を強請り、庭先で時折、木刀を交える姿が見掛られたのだ。
芹沢も満更ではないようで、普段は酒を飲んでばかりいる傍若無人な男が、誘われるままに稽古の相手になっていた。陽光のもとで、芹沢ににっこり笑いかけ、溢れ出た汗を拭く総司に、土方は馬鹿野郎と罵りたくなった。そんなことも、1度や2度ではない。
「何を考えているんだ、お前」
「別に何も。土方さんこそ、何を怒っているんです」
「芹沢に近付くな。そう言ったはずだ」
「私は強くなりたいんです。近藤先生と土方さんの最強の刀になりたい。それには強い人に稽古を付けて貰うのが一番です」
「だからと言って、あいつは危険すぎる」
「…殺されそうになったら、逃げますよ」
 土方は総司の性格をよく知っている。
「負けず嫌いのお前が逃げるものか」
「だったら、相打ちに持ち込みます」
討ち取るではなく、相打ちに持ち込むと、この可愛い顔をした天才剣士は言ったのだ。
「…芹沢は強いか?」
「はい。でも、手加減してくれているようですよ。まるで、子供相手のお遊びのようですからね。…本気で立ち合ったら、多分、怪我だけではすまない…」
「だったら、なおの事。あいつには近寄るな」
「折角の土方さんからのご忠告だから、心に留めて置きます。…心配をおかけして、ごめんなさい」
 ペコリと頭を下げ、そう殊勝な様子で言いながらも、結局、総司は芹沢との距離を置こうとはしないに違いない。素直なようでいて、実は天邪鬼。それも、そういう顔を見せるのは、決まって土方にだけなのだから、質が悪い。
「何かあった後じゃ手遅れなんだぞ」
 苦い表情で呟いた。
 土方は総司の強さを知っている。だが、それ以上に危うさも知っているのだ。
 総司は昔から、自分のことは二の次で、近藤や土方のためなら命さえ惜しまないようなところがあったのだから――。


まだ12、3歳の時、宗次郎(総司の幼名)は盗賊に遭って怪我をしたことがあった。
道場の経営が立ち行かず、困り果てた近藤の使いで彼の親戚の家に借金の使者に立ったときだ。しかし、必要な額は望むべくもなく、やっと工面してもらった3両を胸に帰路を急いでいる時、災難はやってきた。付けていたのか、金子を持っているものと確信したように賊が襲ってきたのだ。そのとき宗次郎は一人だった。近藤はまた別の親戚の家を回って頭を下げていたからだ。
宗次郎は暗くなっても帰ってこなかった。
たまたまその時、家業の薬の行商の途中で試衛館に立ち寄った土方は、宗次郎を心配していた近藤とともに彼を探し回ったのだ。
山道で、血まみれになった小さな体が倒れていたのを見つけた時は、血が一気に凍えたような気がした。その傍に、冷たくなった男が倒れているのを発見した時は背筋がゾクッとなった。
袈裟懸けに一太刀。男は自分が斬られたことも知らずに絶命したようだ。手元の火で照らすと、顔に苦痛の色はなく、ただ、獲物を嘗め回すような下卑た笑みが残されていた。
「しっかりしろ!」
2、3度、体を揺すると、宗次郎は目を開けた。
「…ああ、若先生。お使いの帰りが遅くなって、ごめんなさい。お金は3両お借りできました」
 こんな時でも、近藤からの言いつけの方を優先する。
「いや、俺の方こそ、すまなかったな。痛いところはないか? 怖かっただろ、宗次郎」
 近藤は小さい体を壊れ物でも触るようにソッと抱きしめる。
「勇さん。早く宗次郎を連れて行け。俺は、ここを何とかする」
 転がっている死体を、人知れず、どうにかするつもりなのだろう。
「一人で大丈夫か? 歳さん」
「ああ、行ってくれ。宗次郎のやつ、怪我をしているようだ」
 その言葉に、近藤が慌てて、宗次郎の体を調べ出す。もう血は止まっていたが、ちぎれた袖からのぞく腕に1寸ほどの刀傷があった。
 その間、土方は何やら、その倒れた男を調べている。
「歳三さん…。その人、死んでいるんですか?」
 小さな声がする。
恐る恐る聞いてきた宗次郎の声は震えていた。きっと顔は、泣きそうに歪んでいたに違いない。
「大丈夫だ、心配するな。どんなことがあっても、俺たちがお前を守るから」
「歳さんの言うとおりだ。お前は何も心配することはないぞ」
 そのまま、宗次郎を背負い、暗い中、帰路を辿る。道場に戻り手当てをしてくれた近藤は、片時も離れず弟弟子の傍にいてくれた。
まだ幼い宗次郎は疲労困憊していた。握ってくれる暖かい手に、初めて人を斬った高ぶりよりも、安堵によって導かれた睡魔の方が勝ったようだ。
 一刻ほど経ってから、土方が宗次郎の部屋に顔を見せた。目を凝らせば、所々、着物が土で白く汚れていた。
「歳さん、ご苦労だったな」
「ああ。そっちはどうだ?」
「やっと眠ったよ。少しばかり熱っぽいようだが、大丈夫だろう」
「そうか。…あんた、末恐ろしい弟弟子をもったぜ。その細っこい腕で骨まで断ち切っていたよ。…俺にこの腕があったらと、正直、妬ましかった」
 土方にしては、あまりにも素直な心情の吐露だった。
「まったく末頼もしい弟分だな」
 近藤が人を惹きつけるのは、その楽天的で、前向きなところだ。
「この宗次郎の天稟は、俺たちとこいつをきっと幸せにしてくれるさ」
その天からの贈り物が宗次郎を不幸にすることがあるかも知れぬと、不安に思う自分とはまるっきり反対の見解を示す。そこが、土方が、近藤にもっとも好意をもつところでもあるのだが――。
「ああ、そうあって欲しいものだ」
 土方は宗次郎の額にかかる癖のない前髪をサラリと掻きあげた。
「本音を言えば、俺はこれ以上、こいつに強くなってもらいたくねぇんだよ」
「兄貴ぶって、威張れねぇもんな」
「そんなんじゃねぇよ」
 愛情の形は違っていた。だが、末っ子に生まれた二人の男にとって、他人の中に放り込まれたこの幼い少年が、掛け替えのない存在であることだけは同様のものだったのだ。

 ほんの少し前まで群雲に隠されていた月が顔を出した。その僅かに赤みを帯びた色が、どこか禍々しく、土方には感じられた。
美しい晩だった。
――いつにないその彩りに、先ほど嗅いだ血の匂いが蘇ってきたような気がした。
「歳三さん」
 後ろから聞こえたのは、近藤に添い寝されるように眠っていたはずの宗次郎だった。
「どうした? 勇さんの鼾でもうるさかったか?」
 縁側に腰掛け、空を眺めていたその背に、宗次郎が後ろから抱きつく。
「どうした?」
 もう一度、問い掛ける。
「私は、近藤先生と歳三さんの剣です。強くなります。ずっと傍にいて、お二人を守ります」
「お前は人だ。剣になる必要はねぇよ」
「刀になれないのなら、…人だったら、何の価値もない。だって、私はいらない人間だから…」
「宗次郎…。誰がそう言ったんだ?」
 そう尋ねながらも、そんなことをいう人物など一人しか思い浮かばなかった。事あるごとに宗次郎に辛く当たる女。道場主の近藤周助の4度目の妻の冷たい顔が脳裏をかすめた。
「宗次郎、お前は俺と勇さんの大事な弟だ」
 膝の上に抱き上げて、腕を背後から回してやると、そこに頭を摺り寄せてくる。
「お前が刀でなくても、俺たちはずっと一緒だ」
「ほんと? ずっと一緒?」
「ああ。そら、指きりしてやるよ」
 ところが宗次郎は嫌々をするように首を振る。
「宗次郎?」
「私は、やっぱり刀がいいです。…痛いから」
「……?」
 斬られた傷でも痛むのかと思った。
「人だと、…胸が痛くなるから」
だが、宗次郎はそう言ったのだ。良心の呵責に苛まれているのだろうか。
初めて人を殺めたことが辛いのだろうか。
命を与えるより先に、奪うことを知ってしまった魂が負った傷は、いつの日にか癒えることがあるのだろうか。
「宗次郎」
 名を呼んでやるしか出来なかった。
その呼ばれた相手は細い肩を震わせて、土方の腕をギュッと掴んできた。
「刀になれば、痛くはねぇと思うのか?」
 こくん、と頷く。
宗次郎は、幼いなりに自分のあるべき道を決めてしまったようだ。ならば、今、自分がどうこう言うことでもないだろうと、この時、土方には思えたのだ。
「そうか。…じゃあ、刀になれ」
――子供は変わるものだ。
変わらなかった自分のことは棚に上げて、自身をそう納得させたのだった。
「どうせなら、強かで美しい刀になれ、宗次郎。俺好みのしなやかで鮮やかな、骨太で、よく斬れる刀に。俺を惹きつけて離さぬ、剣舞を舞ってみせろよ」
「…私は盆踊りしか知りません」
「馬鹿。ものの例えだ。本当に踊れとは言ってねぇよ」
「じゃあ、踊れなくても嫌いにならないですか?」
「あたりめぇだ」
「よかった。踊りは苦手だから」
 そんなところが宗次郎の可愛らしさだ。その頑是無さが、何物にも替え難く、いとおしい。
「踊りは下手でも好きだろう? 縁日でも祭でも、どこへでも、好きなところに連れて行ってやるぜ」
 そう言って笑った土方に、宗次郎もやっと笑みを返した。

 刀の話をしたのは、あとにも先にもその時だけだった。だが、総司が忘れたわけではないことを、彼の剣術に対する真摯な姿勢から、あるいは激しさから、推し量ることが出来た。
 剣を握ると、まるで鬼だ。――そう言って、あからさまに敬遠する門弟もいたのだから。
 そして、二人を守る刀になるという総司の決意は、今も決して色褪せてはいないのだろう。




  
 壬生浪士隊に転機が訪れたのは、花咲く春のことだった。
この時期、京都の治安を守るため、京都所司代とともに京都守護職が置かれていた。その役についているのは、天皇の信任も厚い会津藩主・松平容保侯。
元水戸藩士である芹沢の実兄と会津藩の用人が旧知の間柄で、その伝で、会津侯との目どおりが叶うかもしれない可能性が出てきたのだ。残留した者たちは望みをそこに繋いだ。
 当の芹沢は、今日も総司を連れて、酒を飲みに行くと言う。どこから工面したものか、彼の懐にはいつも潤沢な金子が忍ばせてあった。
取り巻きを連れ、当たり前のように妓楼の座敷を貸し切る。
女を侍らせ、酒を飲み、頃良い時を見計らって、それぞれ相方を伴なって別室へと向かう。総司はそういうことは苦手だったので、さっさと帰路につくのが常だった。
「…お前に伽を命じようか」
ところが、今宵、スッと差し出された手が掴んだのは、太夫の白く滑らかな手ではなく、竹刀だこのあるほっそりとした手だった。
「芹沢先生、お戯れを」
 総司が牽制すると、彼はにやりと笑った。
「俺が好色な男だというのは知っていたはずだ」
「それは存じています。でも、私は男です」
「お前は女を知らぬとか」
「はい」
「ならば、男とは言えぬであろう。一皮剥けば、実はおなごかもしれぬ」
「確かめたいと?」
「ほんの座興だ。おふざけに付き合え」
この日は、原田が一緒だったのだが、早い時期に酔いつぶれて寝入っていた。もしかしたら、薬を一服盛られたのかもしれないと、今ごろになって気がついた。
「来い、総司。近藤や土方、お前の仲間が大事ならば」
「拒めば、何かすると?」
「…一人ずつ斬り捨てていくのも愉快だが、そんなことを望むお前ではあるまい」
 芹沢の強さは、木刀とは言え、立合った総司が一番よく知っている。天然理心流宗家である近藤とは互角かもしれないが、だからと言って、ほんの僅かの危険にでも、彼らを巻き込むことは御免だった。それに、今は会津藩と知遇を得られるかどうかの大切な時期である。ここで刺し違えたとしても、誰も喜ばぬことは知っていたし、どうせ死ぬのなら、近藤や土方の役に立って死にたかったのだ。
 総司の大切な人達が世に出るための、芹沢は大事な布石だ。それも頑丈で巨大な。そのうち邪魔になって破砕せざるをえないかも知れぬが、それは今日ではない。
 今の自分が、彼らにとって、守り刀どころか、何の役にも立たないことを総司は知っている。その反対に、芹沢の存在が今の二人にとって、どうしても必要なことも知っていたのだ。ならば、自分は、巌のような芹沢に及ばぬまでも、小石になる覚悟が必要だろう。
路傍の石は人に踏まれようと、蹴られようと、何も言いはしない。耐えているのか、それとも痛みなど感じないのか、総司には分からない。
けれど、刀も石も、心を封じ篭めることには変わりないだろう。この瞬間、ここで、二人の刀であることを望んだ自分が、自身を惜しんでどうなると言うのか。
それに、総司はこうなることを心のどこかで知っていたような気がする。
土方に忠告されながらも、芹沢の傍にいたのは、彼の思いを利用できるという、どこかに打算があったからではなかったか――。
「芹沢先生。…私は刀です。抱けば、貴方を傷付けずにはおかない」
「望むところだ」
 芹沢は満足そうに笑った。





 総司の様子がどうもおかしいと最初に気が付いたのは土方だった。
顔色も悪く、食も細い。夜中にのぞくと、魘されている事があった。
昔から、そんなに頑健な体質ではなかったので、この京の気候に馴染まぬせいかと思っていたのだか、どうもそうではなさそうだ。
それは、偶然、衿元から見えた赤い痕を見たとき、疑心に変わった。
――まさか――
 その可能性を思い浮かべた時、土方の心の中にカッと燃え盛る暗い焔があった。
 総司の態度はいつもと変わらない。自分たちに対する態度も、芹沢に対する態度も。いつも酒席に同行する原田や永倉からも、何か変わったという報告も受けていない。
 だが、心に引っかかるものが常にある。自分の勘が、殊、総司に関することで働く勘が鈍るなどとは到底考えられぬ土方だったのだ。
「芹沢先生、今日は俺もお供させて頂きます」
 そう言ったとき、芹沢は口角を少し上げて笑みの形を見せた。酷く癇に障る笑いだった。
「これは珍しい。明日は土砂降りかもしれないな」
 そう嘯いて、見上げた空には、星が瞬き、大きな月が出ていた。 

 土方は注意深く、座敷での二人の様子を監視する。
「土方、貴様は酒が苦手だと思っていた」
 何を思ったのか、芹沢が問いかける。
「苦手ではありません。嫌いなだけです」
「では、どういう風の吹き回しだ」
「飲みたい時もあります」
「自分を苛めたいか? 自虐的だな。……総司は」
「は?」
 いつもは苗字を呼ぶのに、敢えて名を呼んだ芹沢の意図するところが分からず、問い返す。
「総司は酒が強くなった」
「そうですか」
「酔わせたいと思っても、酔うてはくれぬ。…つれない奴だ」
「……」
「まるで、冷たい刀を抱いているような心地がする」
「!」
 サッと土方の顔色が変わる。
「ふん、熱くなるな。戯言だ」
 そう言って、空の杯を差し出す。土方は、徳利を取り、それに酒を注いだ。
 芹沢は水のように、酒を喉に流し込む。
「そら、貴様も飲め、土方」
 ついでの様に猪口に満たされた酒を、土方は不味いと思いながら口に運ぶ。
それを、総司が心配そうに見つめていた。

 そんなに酒を過ごした訳ではなかった。
殊更、酒に弱いというわけでもない。 
だが、目を覚ました時、土方は、静かな座敷に寝かされていて、傍には女のたおやかな白い顔があったのだ。
「総司は? 連れはどうした?」
「へぇ、お連れはんやったら、それぞれ、別のお部屋においでどす」
 女はしな垂れかかってきた。だが、土方はその女を突き放し、廊下に出た。
 ――見上げると、この夜の月は赤かった。
「血の匂いがしそうだな」
 そう呟いた時、背後の障子がガタッと音を立てて開いた。
「総…」
 中から出てきた人影を見て、一瞬、息を呑んだ。
「総司!」
「…ああ、土方さん。お目覚めですか?」
 後ろ手で、戸を閉め、着物の衿を慌てて掻き合わせた。そして、いつものように笑顔を作ろうとした総司だったが、それは叶わなかったようだ。声も気の毒なほど掠れている。
「お前、どうした?」
「何でもないです」
「……血の匂いがする。それと噎せる様な梅の香。お前、まさか」
「まさか、何です? 私がこういう場で遊んではおかしいですか?」
 今にも倒れそうな様子で、それでも口調は強気を崩さない。
 土方は月明かりの中、総司の姿を上から下まで、それこそ獲物を追い詰めるような目で検分する。
「来い!」
 腕を掴み、今し方、出てきたばかりの部屋の中に、乱暴に連れ込む。そこには、まだ、芸妓がいたが、その女に対し、お湯と布を持ってくるように依頼し、追い出した。
「何を突っ立っている。そこに横になれ。熱がある」
「…調子に乗って、遊びすぎました。きっと、知恵熱でしょう」
 荒い息の下から、それでもそんなことを言ってくる。
「俺の前では強がるな。歩くのも難儀するような、いったい何をされたんだ、お前」
 総司はその問いには口を固く結んで答えようとしない。
どれほどそうしていたのか、女の遠慮がちな声がした。招き入れ、湯の入った盥と布を受け取ると、人払いを命じ、再び、女を退出させた。
「手当てをするから着物を脱げ」
 行燈の灯を手元に寄せ、そう命じた。しかし、頑なに衿をぎゅっと掴んで離さぬ総司の態度に、業を煮やした土方は乱暴に彼の着衣に手をかける。
「何をするんです」
「……」
 薄闇の中、血臭が濃さを増している。
「土方さん!」
「手当てと言っただろ! お前がそんな態度だと、芹沢を斬りに行くぞ!」
 そう脅すと、総司は途端に大人しくなった。唇を堅く引き結び、閉じたその眦から、光るものが頬を伝って零れ落ちた。

 土方が自分の体を見ている。
穢れ切ったおぞましい体を、その手で清めてくれている。
土方まで汚してしまいそうで、総司はこの場から消えてしまいたかった。
「畜生。芹沢の野郎、許せねぇ!!」
 両の手首には擦過傷が痛々しく残っていた。総司の体を拭った布は朱に染まり、透明な水は薄紅に染まっていく。白い肌に鮮やかに咲いた梅花は熱を持ち、それを指でなぞると、細い体はビクンと震えた。土方は暫し、その花を凝視していたが、結局、何も言わず、傷薬を患部に塗り込め、風邪を引かせぬように着物を着せて、布団をかけてやった。
「どこへ行くんです?」
 突然、スックと立ち上がった土方に、総司が問い掛ける。
「知れたこと。あいつを斬ってくる」
 先ほどまでの激昂はなりを潜め、その代りに青白い焔が土方の回りに揺らめいているように見えた。
「止めて下さい。土方さん、こんなこと、何でもないのです」
「何でもないことがあるか」
「私はおなごではありませんから、こんなことは何でもありません。どうか、事を荒げないでください。私たちの夢のために、あの人はまだ必要です」
「だが!」
「…犬に噛まれたと思えばいい。ただ、それだけのことです」
「俺は許さねえ。絶対に、あいつだけは許さねえ! 俺がこの手で」
「あなたが手を汚すことはありません。それは刀である私の役目です。…でも、今は駄目です」
「…近藤さんに何て言えばいいんだ? 大事なお前を傷ものにされて…」
「言う必要はありません」
「総司」
「先生は何も知らなくていいんです」
「……」
「これでもね、こんな汚い私を、たった一人だけ、見せたくない人がいるんですよ。…子供のような無邪気なままの私だと思っていて欲しい人が」
「近藤さんか?」
「……。お願いです、土方さん。近藤先生には言わないで」
「言えるわけがねぇだろう。近藤さんが、泣いちまう」
「じゃあ、指切りしてください」
「総司」
「そうすれば、あなたと私は共犯者です」
 その必死な瞳にほだされて、差し出された熱い指に己がそれを絡めてやる。
「いいか、総司。その代わり、俺には何事も隠すな。お前の心を俺にだけは隠さないでくれ」
「はい」
 本当は、芹沢に抱かれている事実を隠しておきたかったのは、近藤にではない。
何時の間にか、兄からそれ以上のものに昇格した男。優しい男。誰よりもまっすぐな、少年のような瞳で夢を語る男。――愛しい男。
「そんな目で見るな」
「え?」
――抱いてしまいたくなる。
 だが、今は自分の恋情を優先することは最善の方法ではない。
「そんな情けねぇ面をするなって言ってるんだよ」
「昔から、私はこんな顔です」
「ああ。ガキの頃から全く変わらねぇよな」
「少しは大人になりました」
「…あんまり急いで大人になるな」
――そうしたら、すぐに我慢できなくなるから。
 いつか近い将来、総司を手放せなくなるだろう自分を予測する。
どこが自分を惹きつけるのか。どうして、こうも惹かれあうのか。
絡まる視線が互いを求めていることは疑いようもないのに、それを敢えて否定する。
まだ、その時期ではないから――。その時期が来たら――。聞こえぬ合言葉のように、二人の心に刻まれる思い。
「大人になったら、…いつの日か、お前を貰うぞ」
 来るべき時への誓いなら、構わぬだろうか。
 瞬間、総司の顔が歪む。大きな瞳を潤ませ、それでも女々しく縋るまいと唇を噛む。
「ああ、お前はどうしようもないガキだ」
 声を出して泣くことさえ知らぬ。悲しみを和らげる術さえ拒む。
 土方は、強引にその胸に総司を抱き寄せた。




 
 芹沢が総司を抱くのは、決まって月の美しい晩だ。
その日は決して、総司は土方と視線を合わせない。土方も、総司を見ようとしない。
「また喧嘩でもしたのか?」
 そんなことには何故か目ざとい近藤が、能天気に訊いてくる。
「まぁ、そんなところだな。…近藤さん、また、俺に稽古を付けてくれねぇか」
 月夜の晩は、近藤を巻き込んで、我武者羅に木刀で叩きあう。
 近藤は苦笑しつつも、何も言わずに幼馴染みの我儘に付き合ってやるのだ。
 もしかしたら、近藤は何もかも知っているのではないかと思う事がある。だとしたら、この善良そうな顔で人を騙す大悪党かも知れぬ。
「俺も総司も、あんたを守りたい。俺たちの大将はあんただけだ、近藤さん」
「何を言っているんだか。お前たちがあっての俺だよ」
「あんたは、…稀代のタラシだぜ」
「何を言う。そら、歳さん、もう1本、いくぞ」
 こうやって近藤と木刀を交えていると、試衛館にいた頃のような気がした。
あのぬるま湯のような生活から逃れたくて、こんなところまで来てしまったが、それはもしかしたら間違いではなかったか――。
どうしようもない繰言を、こんな夜はつれない月に呟いてしまうのだ。
「歳さん、会津中将様とのお目通りの日が決まったぞ、もう少しの辛抱だ」
「近藤さん」
「総司やみんなにも教えてやってくれ」
「本当か?」
 近藤は大きく頷いた。



 抱かれる夜、総司は聞いてみる。
「なぜ、こんな明るい夜に、私を抱くのです」
 花に埋もれた半裸の総司を、見下ろす男は、うっすらと笑みを浮かべた。まるで、愛しいものを見るように。この世で一番、美しいものを眺めるように――。
腰の辺りまで肌蹴られた淡い色の着物が、まるで大振りの花弁のように、総司の白い肌を飾る。黒髪を下ろさせ、その素直な髪に血のような赤い花を散らす。
「無邪気な童子から、娼婦に変わるその刹那が、俺を昂ぶらせる。…総司、会津侯との目通りが叶うぞ」
「本当ですか?」
「嘘を言ってどうする。俺はお前にだけは嘘をつかん」
「ほら、それが嘘ですよ」
「その生意気な口が俺を煽る」
 今日は芹沢は珍しく素面だ。酔っていない時のこの男は、とても優しい。
取り巻きも遠ざけて、月と芹沢と総司だけで戯れるのだ。
「俺は絵描きになりたかった」
 そう寝物語のように聞かせてくれたのは、何度目に同衾した時だったか――。
サラサラと手慰みに描いた絵は、なぜか美しい花の絵が多い。それが写実的で、その香が匂ってきそうなほど見事なものだった。
体に刻まれた花もきっと見事に咲いているのだろう。だが、その主である総司自身が、その忌まわしい花を見たことはないし、この後も、見ることはないのだろう。
「俺は美しいものが好きだ。花。刀。人。総司」
「……」
「それ以上に、俺は醜いものに惹かれる。妬み。嫉み。欲望。金。そして、憎悪。…土方」
「え?」
 思いもかけぬ名が出てきて、総司は問いたげな目を相手に向けていた。
「土方の殺意に満ちた眼で見つめられると、とても心地よい。…お前を犯しながら、あの男のあの目を想像する」
「土方さんには手出しは許しません」
「惚れているのか?」
「……そうかも知れません」
「臆面もなく言うものよ。だが、誰にもやらん。死ぬまで、お前は俺のものだ」
「私は誰のものでもありません」
「その気の強さ、俺は気に入っている」
 月の光の中で自分に溺れる男を、いつかこの手で殺す日が来るのだろうか。
けれど、その姿を月にだけは見られたくない――。
男に突き上げられながら、なぜか総司はそう思ったのだった。こんなにも頑なな思いがどこから来るのか、総司にはわからなかった。



いつの日か、求められる日が来るのだろうか。
そう総司は思う。
求め合う日が来るのだろうか。
そう土方は想う。

そして、全てを昔日と割り切って、幸せな未来を二人で語り合えることを願う。
 それなのに、そんな日は多分、来ないのだと、どこかで囁く誰かがいた。
 それは予感。赤い月が血の様だから――。
自分達はもう人には戻れないから――。
好きになりすぎたから――。


                                        完





                 宝蔵