宵山の日に


                                芙沙さま




ツンツクテンツンツクテン・・・

祇園祭の宵山のお囃子と喧騒が、風に乗ってこの西本願寺の屯所まで届いてくる。
非番の日の夕刻、総司は一人で自室の壁にもたれて、灯もつけずにぼんやりと想いにふけっていた。

新選組の名を京洛に轟かせた、池田屋事件から今日でちょうど一年・・・
様々な出来事を乗り越えて、再び祇園祭のお囃子を聴くのは、どこか複雑な想いがある。
池田屋での激闘のさなか、突然の喀血に見舞われ、己の命運も最早これまで・・・と、瞬時に覚悟したあの時と、いま静かに自室で宵山の喧騒を耳にしている自分とは、なんと言う違いがあるのだろうと・・・。

あれからの自分は、様々な思いに、時には安堵し時には絶望して、秘めた想いと相絡まって、ようやく一つの現実を受け入れるところまで辿り着いた。
ただ・・・
その現実を乗り越える手段として、自らに言い聞かせた決め事は、今でもこの胸の奥深く、断固として横たわっていたが・・・。

あの日、その正体をあからさまにした宿痾は、その後は急激な進展を見せず、一部の親しい人達の庇護もあって、よそ目にはなんら変わりがないように見えているのだろう。
日常における体調の様々な弊害は、まだ自分ひとりの裁量で十分に隠し通すことができた。
だが日が落ちると、必ずといってよいほど微熱が出て身体がだるくなる。
そんな自分を人目に晒したくなくて、病を気づかれる事を懼れて、夜勤のない日は夕餉を済ませると早々と引き上げ、自室でぼんやりしている事が多くなったかもしれない。


ツンツクテンツンツクテン・・・

少し風が弱まって耳に届いてくるお囃子の響きも、幾分小さくなってきた。
同時に・・・この土地特有の、じっとりと湿気を含んだ篭るような暑さが、じわじわと戻ってくる。
微熱のある身体には、それが殊更きつく感じられた。
「いつまで...」
なんでもない振りをしていられるのだろう・・・

「何がだ?」
つい、一人漏らした愚痴に、還るはずのない応えが後ろから返ってきた。
驚いて振り返ると、そこに土方が立っていた。


総司はその相手を認めると同時に、気配も感じとれなかった迂闊さに、やや赤面しながらも、いつもどおりの軟らかな笑顔を土方に向けた。

「土方さん、いつから其処にいたのですか?」
「今しがただ。それよりも、人の気配にも気が付かないとは、あまりにお前らしくないな」
「この暑さで、一寸ぼんやりしていただけです。」

愚痴の一部を聞きとめられて・・・総司は止まってしまった風を待つような仕草で、開け放たれた窓の外へ、すっと視線をずらした。
そんな総司の心の動きに、気がついているのかいないのか・・・
土方はそのまま部屋に入ってくると、慣れた手つきで灯をつけ、総司の前に腰を下した。

「ぼんやりとな、灯もつけずに何を考えていた?」
「何も・・・」
「それとも暑さで具合でも悪いのか?」と、そう尋ねる。
「いいえ...」

表情から何も見抜かれまいとする本能なのか、
首を振る総司の笑顔が、さらに明るいものに変わった。

土方はいつも総司の不調や不安を、即座に読み取ってしまう。
この屯所の中で、よそ目には分らない自分の全てを即座に見抜くのは、この人だけだろう・・・総司はそう思っている。
おそらく自分が一番知られたくないその人が、誰よりも敏感で、誤魔化しを許さない。
反面、それは誰よりも総司の事を気にかけているということだった。
人知れず狂おしいほどの想いを抱いている土方に、方向違いであっても、自分の事を気にしてもらえることは嬉しい・・・しかし、己の不調を気取られて心配をかけてしまうことは何よりも嫌だった。

「我侭な...」
ふと、知らずして総司の口から漏れた音のない言葉さえも、やはり土方は即座に聞き咎めた。
「我侭とは何がだ? さっきから独り言ばかり口にして・・・お前、本当に具合が悪いのではないのか?」
逡巡することもせず直裁的に質を返してくる土方に、またもや聞かれたと思った総司は僅かに体裁を崩していた。
漏らした言葉の意味が不明で自分が狼狽すれば、土方は必ず追及してくる。
いいえと、それを取りつくろいながらも、頭の中でそれにふさわしい答えを必至で探していた。

そんな姿に不安と苛立ちを感じたのだろう・・・土方はそのまま近づくと、ごく自然に総司の額に手をあて熱を測ろうとした。
だがその瞬間、総司は反射的に身を翻すようにして、その手を払いのけていた。

総司のいつに無い行動に、土方の目が驚愕に見開かれる。
子供の頃から脆弱で熱を出すことの多かった総司は、土方の兄代わりとしてのそういう行為には慣れていた。
もちろん上京し、新選組という組織を運営する立場ともなれば、土方とて一番隊長である総司に対して、処構わず身内のような態度を取るわけではない。
それゆえに、二人だけの時は時おり自然と出てしまう土方の、それらの行為も躊躇すること無く受け入れていたのである。

土方の手をとっさに払いのけた・・・それは、総司自身にとっても思いもよらない無意識の行動だった。
微熱を気取られる事を怖れたのではない、手が触れようとした瞬間、心の中の全てを、土方の掌から読み取られてしまうような錯覚を起こして払ってしまった。
一瞬、心の中で悔やんだがすでに後には引けない・・・
土方の不審を買ってしまっただろう・・・
直ぐには言い訳が思いつかないまま、土方の鋭い眼に晒され、体が徐々に強張ってくるのを感じていた。


「どうした? 熱があるのを誤魔化しているんじゃないのか」
土方は払いのけられた不機嫌さも含めて、今度は真っ向から総司を問い質してくる。

「ちがいます! 熱などありません」
「ならば、何故避けたっ!」
「ちがうのです、本当に!」
「では、何を悩んでいるっ!」
「何も! 何も悩んでなどいません」
「・・・・」
強張ったまま、追及を阻む強い意思を秘めた眼で、追い詰められながらも必至に反論してくる総司に、しばらく言葉をなくしたように見つめていたが、総司の眼の中に揺るがぬ強さを見出した時、土方はようやく諦めて溜息をひとつついた。

総司が言わぬと決めたことは、どれほど問い詰めても脅しても本当を明かさない。
土方はそれを長い付き合いで知っている・・・
しばらく総司の様子を眺めていたが、それ以上は口を開こうとしないのを潮にして、土方の方から改めて疑問を問いかけた。

「具合が悪くないと言うならそれでいい。 だが、灯もつけずに部屋に引き篭もっていれば勘ぐりたくもなる。 何かあったのか?」
「何もありません、具合が悪いのでもない・・・ただ・・」
「ただ?」
「お囃子を聴くのに、夢中だったので・・・」
「囃子?」
「祭り囃子を聴いていたので・・・灯をつけ忘れたのです」
「・・・・」

そういえば、微かに祇園祭の囃子が耳に届いてくる・・・
先ほどまでは自分の耳にも確かに届いていたそれを、いつの間にか聞く事をやめてしまっていたらしい。

言葉どおりではないにしても、今日の総司は高熱を出しているようには見えない。
自分に知られたくない何かがあるのだろうが、今それを聞きだすことは不可能だろう。
総司に隠し事をされると、土方はいつも憤懣たる思いに翻弄され、その心のうちを何が何でも暴きだしたくなる・・・。
自分の知らない事柄を、総司の中に置いておく事が許せなかった。
そういう自分の身勝手な癇癪を甚だ大人気ないと叱咤しながらも、それを抑えるのに一苦労する。
総司が絡むといつもそうだった。
そのほかの事は、即座に心から除外されてしまう・・・
すでに二十歳を超えた弟のような者に対する干渉もいささか行き過ぎるかと、土方は己の訳の分らぬ執着を自嘲するように口元を緩めた。
・・・己が頭を冷やしながら、諦めたように力を抜いて今度は諭すように言った。

「今しがた、お前が漏らした我侭とは何のことだ? せめてそれだけでも分るように納得させろ」

「土方さんは今宵はお忙しいですか?」
「・・・・」
土方の態度が軟化してゆく間に、少なからず余裕を取り戻していた総司は、先ほどの頑なな態度はすでに和らぎ、ぎこちないながらも僅かに笑みを浮かべ、しかし突然素っ頓狂な事を言い出した。
「俺に暇な時などない」
見当違いな応えに呆れながらも、話をかわされた苛立ちを隠しもせず、土方はぶっきらぼうに応えた。
「では、やはり我侭ですよね? 祇園祭に連れてって欲しいなどというのは・・」
「・・・・」
「子供の頃のように、土方さんと祭りに行きたいと思ったのです・・でも忙しいのに我侭かな?・・・と」
「・・・・」
「忙しいのでしょう?」
「総司・・・」

土方はすでに二度目の溜息をついていた。
我侭の意味を説明しろと言われ、祭りを出す事で、必至で辻褄を合わせたのだろう。
仮にそれを問い質しても、総司は本当だと言いはることは知れている。

「・・・連れて行ってやる、仕度しろ」
そう言って決心したように土方は立ち上がる。
えっ!と一瞬、総司の笑顔が固まった。
ややたじろいでいる所を見ると、土方の返答がよほど意外だったらしい。
「祭りに連れて行ってやると云ったんだ。 仕度ができたら俺の部屋まで来い」
「・・・はい」
それでも嬉しそうに頷いて応えを返す総司を見ながら、土方は思った。
祭りなど本当はどうでもいいのではないかと・・・



 自分の部屋まで戻って見習いの隊士にひと言指示を与えると、土方は羽織を取り換え、大小を取り上げるだけの仕度を整えて、腰を下して総司の現れるのを待つ。

祭り囃子を聞いていた・・・総司はそう応えた・・・。
一年前、総司は池田屋襲撃のさなかに大喀血をして、一時はその命脈を危ぶまれた。
あれから初めて聴く同じ祭りの囃子の中で・・・ただぼんやりしていたなどと言うことは在り得ないことぐらい直ぐに分る。
そのさなかに耳に届いたであろう祭囃子と、今日、丸一年を経て聞く祭囃子と・・・
総司の心に響く囃子の音は、比べるに言い尽くせないものがあるに違いなかった。

その鬱積を、何故自分に打ち明けてくれないのか?
土方の憤懣の元は、そこにある。
総司がそういうことを打ち明けて甘えられるような気質ではないことは、誰よりも理解していたが・・・

だがそれでも、辛い記憶を胸の奥に仕舞いこんで、一人で耐えて行こうとする総司の重荷を、少しでも取り除いてやりたいと思う自分がいた。
その執着の意味が何かは分らないが、総司が何かを胸に秘める度に癇癪を起こす身勝手な自分もまた、同じところに潜んでいる・・・。
捉えどころの無い想いを持て余しながらも、せめて総司の言葉に乗せられて、祭りの賑わいで気晴らしさせてやる事しか出来ぬ自分が無性に情けなかった。



連れて行ってやる・・・

総司は土方の言葉を、心の中で何度も繰り返していた。
祭りのことなど持ち出して、それが嘘だと知られているであろう事は分っていた・・・
素直になれず、自分の身を案ずる好意さえ跳ねつけて、土方には申し訳ない気持ちで一杯だった・・・
自分を慮ってくれる気持ちが痛いほど分る。
それなのに、怒らせてしまった・・・
嘘と知りつつもその怒りを抑えて、自分の嘘に乗ってくれた土方の優しさが、身に沁みて嬉しかった・・・

それでも・・・
否、それだからこそ、言うことは出来なかった。
己の命運を知ったとき、土方についていけなくなる自分を呪った・・・
いつの日か、土方の足枷になってしまう日が来る事が、何より恐ろしかった・・・
それくらいならばいっそと、自らの命を絶つことさえも考えた・・・

調べの無い囃子を耳にしながら、土方の部屋へ向かう。
今、自分は幸せそうな顔をしているだろうか・・




「祭りに行きたいなどと強請るのは、子供の証しだ・・・」
人ごみの中を並んで歩きながら、時おり夜店を冷かしては喜ぶ総司に、土方はからかうように言った。

「ひどいな・・・」
笑いながら一寸不満そうに口元をすぼめる総司を、土方は複雑な目をして見ている。
そんな土方の視線に気づくと、心配を掛けてしまった事が酷く悔やまれた。

今は思う・・・
自分の行く末が変えられぬものならば、せめてそれを受け入れることと引き換えに土方の僥倖を願いたいと・・・

それが叶うかどうかは定かではない。
けれど、誰よりも・・・自分の命よりもずっとずっと大切な人に、自分の命を糧として揺るぎない行く末を授けてくれるのならば・・・
もし、そうであれば・・・・・
総司は、心の中で呟いた。

「たとえ・・・どれほど苦しんだ末に命が尽きても、それを遥かに凌駕するほどに私は幸せだと、そう思えるのです」


前を歩く土方に、今の呟きが読みとられることは決してない・・・
潤んだ瞳に揺れるその人の後姿を、何故かいつまでも見つめていたいと、総司は思った。






                                      了





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