夕暮れは魔性の刻
真琴さま
明日はいよいよ京都…という夕刻。
浪士組一行は大津の宿へと腰を落ち着けた。
旅装を解き思い思いに寛ぐ者、仲間たちと道中の無事を祝いつつ酒を酌み交わす者。
そんな中、総司は宿を出て夕日を弾いてキラキラと輝く琵琶湖のほとりへと来ていた。
遠くへ来たんだなぁ、と思う。
総司が遠出する、といえば多摩に点在する天然理心流の道場へ出稽古に行く程度で、見知らぬ土地へ出かけることじたい初めてのことだった。
見るもの聞くもの全てが珍しく、幼子のように目を輝かせていた。
その中でも総司が一番驚いたのが、土方の自分を見つめる目がひどく柔らかいものだということだ。
浪士組への参加が決まった頃から、土方の目は獲物を狙う鷹のように、じっと前を見据えているような印象だった。
その土方の表情がふと緩むのが、自分を見つめる時だけだと気がついたのはつい最近のことだ。
「?」
その視線に会うたび総司は首を傾げてしまう。
土方も土方で、自分がどんな目で総司を見ているのか分かっているようで、ふっと視線をそらしてしまう。
京へ着いたら、まずそのそのことを土方に聞いてみようと思う総司だった。
一方、土方も総司に対する自分の視線や想いに気づきはじめていた。
いつまでも子どもっぽく見ているだけで危なっかしい総司を見る時は、自分でも信じられないほど優しい視線を送っていた。
だがその奥には、江戸で別れて来たお琴のように抱いてしまいたいという衝動があった。
その衝動を抑えるのに苦慮していた、と言ったほうがいいだろう。
“抑えるのは性に合わねぇんだよ”
欲しいものは奪ってでも手に入れる、が信条の土方だが、こと総司が相手だと上手くはいかないようである。
悶々としたものを抱えながら、姿の見えない総司を探して琵琶湖のほとりへやって来た。
「明日は京ですね」
背後に感じる気配に、背を向けたまま総司は話しかけた。
「何だ、気づいてやがったのか」
“ほら、やっぱり”
乱暴な口調の裏側に何とも言えない温かさがある。
「しかしおまえも物好きだな。何も好き好んでこんな吹きっ曝しにいるこたぁねぇだろう」
袖を合わせて背を丸め、心底寒そうに言う土方に、
「部屋からこの景色が見えたんです。すごく綺麗だなぁって思ったら自然に足が向いちゃって」
明るい笑い顔を載せて答える総司。
「すぐに風邪引くヤツの言うセリフじゃねぇな…」
言葉の最後は唇から放たれることはなかった。
夕日を弾いて輝く湖面を見つめる総司の、うすく開いた唇に目が釘付けになる。
手を伸ばせば触れることのできる距離にある唇を、何もかもを奪いたい衝動に駆られる。
もはやそんな邪な思いで土方が自分を見ているなどと考えない総司は、
「明日はどんな日になるんでしょうね?」
無邪気すぎる問いを投げかける。
「さぁな」
ゆっくり総司の背に触れるか触れないかの距離に立った土方は、総司の背後から腕を回してゆったりと抱きしめた。
「ひ…ひじかたさんっ!?」
突然のことに驚き声が裏返った総司の首筋に唇を押しつけ、大きく息を吸い込んだ。
水辺特有の湿った空気の中に、総司のどこかしっとりとした甘い匂いがまじっている。
胸いっぱいに総司の匂いを吸い込んだ土方は総司を見た。
するとそこには、顔を真っ赤にしてカチンという音が似合いそうなほどに固まった総司がいた。
“…しまった…”
これが土方の率直な感想だったろう。
「……」
「……」
しばらく2人の間に重い沈黙が横たわる。
「そ…総司…?」
「もーっ!!いきなり何するんですかぁっ!?」
あまりの重さに耐えられず土方が声をかけた時、腰に差した大刀を抜き放ち総司は逃げる土方を追いかけはじめた。
「寒いから暖めてやったんだよっ!!
無情にも振り下ろされる刀を避けながら、土方は言い訳めいた言葉を吐く。
琵琶湖のほとりで、土方と総司の虚しい鬼ごっこが繰り広げられている。
のちにこの2人は相愛になるのだが、この頃はまだ、互いの気持ちにさえ気づいていない。
総司が土方の行為の意味に気づくのも、まだまだ先の話である。
終
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