雪圍U (壱) 「もう、止まない」 試衛館とは比べものにならない数多(あまた)の門弟達の稽古を、道場の隅に端坐し一心に見入っている後ろから、不意に掛かった八郎の言葉は、しかし宗次郎には唐突すぎたようで、意図を判じかねた細い面輪が、声の主を怪訝に振り仰いだ。 「雨が、さ」 その宗次郎に、格子に掛けた指をつと引き、窓の目隠しを一杯に開いて教える八郎の、額も首筋も、肌蹴た稽古着の間から覗く胸元も、滲んだ汗が、若い膚を猛々しく光らせている。 それが今しがた終えたばかりの、八郎にしては珍しく荒い稽古の名残だと知る深い色の瞳が、外からの淡い明かりを受け、眩しげに細められた。 「泊まって行け」 視線を降る雨に止めたまま背中で告げた声に、間を置かず否と首を振られたのが、後ろを見ずとも気配で分かった。 「この雨は酷くなる。試衛館には使いを出せばいい」 「ありがとう。でも今日は帰ります」 おもむろに視線を戻しながら頑固を咎めても、宗次郎は笑うだけで頷こうとはしない。 「濡れるぞ」 「この位、大丈夫」 強引とも思える物言いの相手を双つの瞳で捉え、笑みを浮かべたままの唇は、又も拒む言葉を紡ぐ。 「ならば勝手にするがいいさ」 だがそれを聞いた寸座、まるで吐き捨てるかのようにいらは返り、苛立ちを露わにした乱暴な所作で、八郎は踵を返してしまった。 そしてそのあまりに突然すぎる不機嫌に、残された宗次郎は、広い背の後姿が門弟を掻き分けるようにして遠ざかるのを、ただ呆然と見送っていた。 伊庭家の玄関は、北側に面している分陽が入りにくく、広い割にはあまり明るいとは云い難い。 特に今日のような霖雨の日は、余計にその感が強い。 道場では無く、家人の私宅である母屋の玄関に履物を脱いでいた宗次郎は、ひっそりと沈む静寂を破らぬよう音を殺し、上がり框から式台へと下り立った。 が、馴染んだ下駄に足を通し、立てかけてあった傘の柄に手を伸ばした時、後ろから遣って来る人の気配に、一瞬動きを止め、次にゆっくりと振り返った。 誰とは察していながら、わざとそうする事で時を稼いだのは、先程八郎が見せた態度が理解できず、その事に拘りを捨てきれない宗次郎の躊躇いがさせたものだった。 雨とは云えど、僅かなりとも外の明光を捉えていた目は屋内の暗さに慣れず、相手の様子を捉えにくいのか、宗次郎は歩み来る八郎の姿を瞳を細めて見つめる。 その宗次郎の心中を知ってか知らずか、八郎は上がり框の縁まで来ても足を止めず、無言のまま式台へ下り下駄を履くと、敷居際に佇む宗次郎の直ぐ傍らまでやって来た。 「帰るのか」 念押しするように問う声が、いつもよりもずっと低い。 それが八郎の不機嫌は未だ続いているのだと、宗次郎に教える。 「夕餉の支度を手伝うのに、間に合わなくなる」 その相手を見据えるようにして応えた宗次郎だったが、自分の何が気に入らないのか分からぬまま、一方的に責め立てられる事への理不尽に対する憤りが、自ずと声を硬くする。 「そんなものは、誰かにやらせろ」 「八郎さんとは違う」 売り言葉に買い言葉と云えど、宗次郎の何時に無い険のある物言いに、今度は八郎の面が色をなした。 が、云ってしまった後、宗次郎自身も、自分の口から滑り出た言葉の激しさに驚き狼狽したのか、慌てて瞳を伏せ身を外に向けると、手にしていた傘を、勢いのまま開いた。 「・・土方さんは、帰っちゃ来ないぜ」 だが交わす言葉を失くして雨の中へ踏み出そうとした背を追うように、不意に掛かった声に、宗次郎の動きの全てが止まった。 雷(いかずち)に打たれたように、その場に立ち尽くしている後姿を、其処に表れるどんな些細な変化をも見逃すまいと、八郎の双眸は捉えている。 やがてその視線に堪えきれぬように振りかえった面輪が、水の礫(つぶて)が邪魔する視界の中でも、酷く強張っているのが分かった。 「吉原の小見世に、新しい馴染みが出来たのさ」 だがそれを見ても、八郎の、宗次郎を鞭打つ言葉は止まらない。 「二三日前、金が入ったと云っていたのを覚えているか?それを元に暫く居続けると、昨夜吉原で会った時に、そう云っていた」 瞬きも忘れたように此方を凝視している深い色の瞳が、己の姿を映し出しているのをしかと見つめながら、もうとことんまで宗次郎を痛めつけねば気の済まない自分を、八郎は抑える事が出来無い。 ――今年。 あれはまだ樹木を覆う雪圍も取れぬ、早春の頃。 突然齎された養子話に動揺した宗次郎は、自ら江戸川の濁流に身を投じようとした。 その少年の心情を、くだんの話しを断ることが、師の近藤の出世を阻む事になると思い詰めた一途さ故の衝動だったと、周囲の者達は哀れんだ。 だが其処まで宗次郎を追い込んだ本当の理由(わけ)を、八郎だけは知っていた。 それは、土方と離れたく無いのだと、離れる位ならば、我が身ひとつ葬る事に些かの躊躇いも無かった、あまりに激しすぎる、宗次郎の土方への恋情だった。 だがその一件は又同時に、八郎の裡に渦巻いていた宗次郎への想いを、嫉妬と云う感情を糧に、身を焼き尽くしても尚足りぬ情炎にまで変えてしまった。 宗次郎が追い求め、追い続けているのは、土方の背だけなのだと、決して自分を見ることは無いのだと。 その想いの深さを知れば知るほど、もう二度と土方の名など紡げぬまでに、容赦無く宗次郎を打ちのめしてしまいたいと、若い肉体は、叶わぬ恋に猛り狂う。 こうしている今にも、薄い肩を鷲掴み、無垢な身を己が楔で引き裂き、その全てを掌中に握りしめてしまいたい衝動を、八郎は辛うじて堪えている。 「そう云う事だ」 それをぎりぎりの瀬戸で押し止めて放った捨て台詞は、奔流のように迸る己の恋慕を堪える八郎の、精一杯の矜持だった。 だが床を軋ませ荒い音を立て去って行く後姿を見つめながら、又も宗次郎には分からない。 何故これ程までに、八郎が自分に突っかかるのか・・・ 降りしきる雨の中、宗次郎は言葉も失くして立ち竦んでいる。 しかし今自分を、息する事すら苦しい程に打ちのめしているのは、八郎の分からぬ態度では無く、土方に新しい馴染みが出来たと告げられた、その一言である事を、宗次郎は承知している。 否、それこそが、心の臓が張り裂けそうな痛みで自分を苛んでいる、魔物の正体だった。 土方に触れるのは、白粉の匂いのするたおやかな指なのだろうか。 笑いかけるのは、艶やかな紅い唇なのだろうか。 それに土方は、どんないらえを返し、どんな眼差しを送るのか・・・ 心に突き刺さった刃は、更に宗次郎の傷を抉る。 胸に手をやり、痛いと、そう呟けば、この苦しさは和らぐのだろうか。 雨しずくを垂らす天に向け、喉首を仰け反らせ、嫌だと、声の限りに叫べば、この辛さはたちまち霧散するのだろうか。 だがその全てが叶わぬ願いだと云う事も又、宗次郎は知っている。 土方を好いていると、その想いを知られる事は、肉の一欠けらも残さず、骨の一粉すら風塵となり、この世に我が身が在った証の全てが消え行くまで、許されぬのだと・・・ 逆巻く想いを閉じ込めるその代わりように、宗次郎は小さな息をつくと、緩慢な動きで建物に背を向け歩き出した。 ――次第に強くなる雨が、ただですら狭い視界を霞ませても、玄関の脇の廊下に造り付けられた格子窓の僅かな隙から、八郎は、頼りない背が小さくなって行くのを見ている。 やがてその後姿が門の外に消え行きても、暫く残影を求めるかのように其処を動かずにいたが、それも叶わぬ愚かと知るや、指の先だけで面格子を閉じた。 一遍に暗くなった廊下は、足の裏から冷たさばかりを這い上がらせる。 「・・畜生」 漏れた呟きは、そのつれなさへの八つ当たりなのか、それとも一度も振り向く事の無かった想い人への憤りなのか、或いは己自身への自嘲なのか・・・ そのどれともつかぬ苛立ちに、八郎は顎を反らし目を閉じると、気だるそうに壁に背を凭らせた。 神田和泉橋近くの心形刀流伊庭道場から、試衛館の在る牛込柳町までは通いなれた道だった。 だが宗次郎は今、帰るべき道を行かず、その逆の、見知らぬ街へと歩みを急がせている。 最初から、そうするつもりでは無かった。 脳裏に刻み込まれた吉原と云う名の花街が、此処からそう遠い距離では無い事にふと思い当たったのは、伊庭家を出て直ぐの、藤堂和泉守の屋敷の土塀に沿って歩いていた時だった。 その瞬間、足は地に縫い付けらたように止まり、振り向いた視界の中で、背にして来た道は、まるで誘うかのように一本の白い筋を敷いていた。 辿れば、其処が土方の居る吉原へと通じる道だった。 そう思った刹那、何かに憑かれたように足は踏み出され、傘で凌げぬ雨飛沫が頬を濡らすのすら、最早宗次郎には知覚の外の出来事だった。 吉原とは、江戸市中で幕府の公認した唯一の遊郭を云う。 始め芳町に作られたそれは、江戸と云う土地が大きく開けるにつれ、町の中心で風俗を営むには適さぬと、今の浅草寺裏手に移された。 四方を『おはぐろどぶ』と呼ばれる水路で囲み、大門を唯一の出入り口とし、中に五つの町を有するこの花街は、徳川家康によって整備され、誕生以来四つの年号の変遷を見届け、実に三百年余に渡り灯をともし続ける不夜城だった。 そのおはぐろどぶの遙か手前、出入りの客に親しまれる見返り柳すら、視界に捉えるには覚束ぬ遠い処で、先程から宗次郎は身じろぎもせずに佇んでいる。 土方の口からその名を聞けばただ辛いだけだった吉原は、氷雨の向こうに威容を誇示し、臆病な心を更に怯ませる。 ――自分は一体何処に、何をしに行こうとしていたのか。 そんな事すら今頃気づいたように、ただ呆然と、微かに望む事の出来る大門を、宗次郎は見つめている。 土方があの門の向こうの、何処にいるのか分からない。 それどころか、どうして姿を探して良いのか、その術すら知らない。 否、例え探し当てたとしても、それからどうするつもりだったのか・・・ 声を掛ける事など、出来る訳がなかった。 「・・ばかだ」 瞬きもせずいる瞳の中に黒い門を捉え、そして小さく自分へと呟いた声の最後の韻が、共に漏れた白い息と共に敢え無く消えた。 それでも暫く宗次郎は其処に立ち尽くしたままでいたが、窪みに溜まった水を跳ねながらやって来る幾多の足音が、遠く後ろから聞こえて来ると、慌てて道の端に寄り背を向けた。 やがて客を乗せた駕籠が脇を走り去るのを見送ると、小さな息を漏らし、それを切りの無い愚行を仕舞う切欠とするように、漸く緩慢な動きで踵を返した。 こんな漫ろ雨の日は、地に息吹くもの全てを何処かに閉じ込めてしまうかのような閑寂さが、心の奥底までを重い湿り気で覆ってしまう。 ぼんやりと雨に煙る情景を視界に捉え、歩みを鈍くしていた宗次郎の耳に、しかし突然、その怠惰を諌めるような鐘の音が響いた。 そしてそれが七つのものだと判じるや、忘れていた現の焦燥が走った。 ただですら日暮れの早い、霜月の終わり。 あと判刻もすれば、辺りは雨すら包み込んで薄闇色に覆われてしまうだろう。 しかも吉原から試衛館までは近い距離では無い。 八郎の処へ出かけたのだとは、近藤も井上も承知しているが、あまり遅くなれば要らぬ心配をかけてしまう。 それが、俄かに宗次郎を焦らせる。 やがて急(せ)く心をそのまま動きにしたように、まだ鐘の音も鳴り止まぬ中、袴の裾から覗くか細い足首が、泥濘を跳ね駆け出した。 煙雨の中に白い息を切らせ、一体どれ程走ったのか――。 袴に飛ぶ泥すら顧みる余裕を失くして急がせていた足が、大きな通りを曲がり幾分道幅が狭くなった処で、しかし突然止まった。 そうして通り過ぎてきたばかりの後ろを振り返ると、今沿って来た寺の塀と、隣の塀との間に、道とは云い難い細い通路がある。 その挟間に、身を隠すようにして蹲る人らしき影が、宗次郎の足を止めた原因だった。 朧に霞む像をより鮮明にしようと瞳を細めたが、雨雫の帳は、そんな些細な行為すら邪魔をする。 だがそれが、悪い視界の中で僅かに動いた。 その刹那、宗次郎の足は再び地を蹴り、差している傘より先へと乗り出した華奢な身が、人影に向かって走り出した。 蹲っていたのは、若い男だった。 しかも濡れ鼠と云う表現ではもう到底及ばぬ程に、全身雨と泥に塗れている。 「あの・・」 が、大丈夫かと、そう声を掛けるよりも早く相手は顔を上げ、その途端、覗くようにしていた宗次郎の面輪が、硬く強張った。 向けられた其れは、片頬に、明らかに殴られたのだと分かる紫の痣を作り、端に血を滲ませた唇が、宗次郎を見上げて何かを云い掛けたが、ついて出たのは言葉では無く小さな呻き声だった。 「大丈夫ですかっ?」 咄嗟に伸ばした手から傘が離れ、それが後ろへと舞い落ち、円い縁取りを輪にして転がる様すら知らず、宗次郎は相手と同じ目線になるよう屈み込んだ。 「・・大丈夫・・です」 案ずる声に、ようよういらえを返し、今一度上げられた顔は、間近で見れば思いの他若く、自分とそう歳も変わらないだろうと思う親しさが、宗次郎から躊躇いを捨てさせる。 「何処かで、雨を凌がなくては」 「大丈夫です」 まだ体の全部を起こすには敵わず、塀に凭れて泥水の中に座り込んでいる若者を、己の身で雨から庇うようにして、辺りを見回し呟いた宗次郎に、今度は先程よりもずっとしっかりした声のいらえが戻った。 「・・ご心配をおかけし、申し訳ありません。もう大丈夫です」 更に若者は、自分を凝視している瞳に向かい、微かに笑いかけた。 「でも、こんなに怪我をしている」 「今はやられたばかりで思うようには動けませんが、その内痛みも引くでしょう」 だがそう気丈に応えた寸座、直ぐに顔は顰められ、端が紫に腫れ上がった唇からは、先程と同じ呻き声が漏れて、不器用な偽りはすぐさま透ける。 「駕籠を拾って来ます」 「いえっ・・」 云うなり立ち上がりかけた袖を、咄嗟に掴み発せられた必死の声が、宗次郎の動きを止めた。 「本当に大した事は無いのです。・・それに」 まだ痛むのであろう唇を無理に動かし、若者は又もぎこちない笑みを作った。 「駕籠に乗るなど、そのような金は持ち合わせてはいません」 少々照れくさそうに、それでいて屈託無く告げる笑い顔は、見つめる宗次郎からも、身の内に張詰めていた緊張を緩やかに解いて行く。 そして更にそれは、時を置かずして、相手への慕わしさに変わる。 「そういえば、私も持っていなかった。それに駕籠だなんて、どうやって拾って良いのか分からない」 相手に教えられるまで、そんな事すら失念していた自分の動転を、可笑しそうに笑う主の言葉に、流石に若者も面食らった様子でいたが、やがて堪えきれないように、一緒に声を立てて笑い始めた。 「・・すみません、失礼をしました」 それでも直ぐに無礼と気付いたのか、急いでこうべを垂れ詫びたものの、込み上げる笑いは中々に抑える事が出来ないようで、声音はその名残をありありと残している。 だが不意に吹いた風が、置き去りにされたように後ろにあった傘を、輪を描いて転がして行くのを視界の端に捉えるや、慌てて視線を其方に移した。 「あ、気づかずにいて、申し訳ありません。何も貴方までが、濡れる事はない」 「私の事は気にしないで下さい。そんな事よりも、早く怪我の手当てをしなければ・・・」 未だ転がり続けようとする傘の柄を捉えながら、傷ついた身がこれ以上氷雨に打たれる事を案ずる宗次郎の言葉に、若者は首を振った。 「本当に大丈夫なのです。これしきの傷、どうと云う事はありません」 「でも・・」 「けれどひとつだけ、もしも知っておられたなら、教えて頂きたい事があるのですが・・」 相手の憂慮を取り払うかのような明瞭な物言いで、若者は宗次郎を見上げた。 「此処から番町と云う処は、遠いのでしょうか?」 「番町・・でしょうか?」 「はい。神道無念流の斉藤弥九郎殿の道場がある近くと、聞いているのですが・・」 若者の口調が、己の記憶の曖昧を懸念してか、不意に頼りないものになった。 「斉藤さまの錬兵館なら、帰る道と同じ方向です。それにあの辺りならば、私にも少しは分かります。探している場所まで、ご一緒します」 だが逆に宗次郎は、訪ね先が自分の知識の範疇であった事に自信を得たようで、それまでの幾分躊躇い勝ちだった声音が、明るいものになった。 「助かります」 そしてそれは同時に、若者にとっても大きな安堵に繋がったようで、浮かべられていた笑みが、満面に広がった。 「実はその近くに、私の剣術の師のお住まいがあると伺っているのですが。・・何分今日江戸に入ったばかりの田舎者。番町と云う場所どころか、千代田の城の方角すら分かりません」 「剣術の・・師?」 「そうです。師と云っても、私ばかりがお慕い申し上げている、謂わば押しかけ弟子のようなものなのですが・・。しかも腕の方は、師も呆れる程にとんと上がらない」 宗次郎の小さな反復に、苦笑がてらのいらえが返った。 「ですが師は、柳生流を極められ、誰もが認めるご立派な方です。今も国元の藩では、剣術指南役としての席を、師の為に空けたままなのです。そしてその師の人柄に強く惹かれた私は、自分の技量をも顧みず、こうして不肖の弟子を通しています」 語り始めた最初は己の師への憧憬、そして仕舞いは、そんな自分に満足している風な、熱の籠もった物言いだった。 「番町に住まわれて、・・・柳生流を極めて・・?」 だが聞き終えるや宗次郎から漏れたのは、それに相槌を打つと云うものでは無く、もしやと己の胸に過った思いが、そのまま滑り出してしまったかのような、心許無い呟きだった。 「あの、・・その方のお名前は、何と云われるのでしょうか?」 「堀内左近様と、申されますが・・」 閃いた符号を一致させようと、不意に急(せ)いて問う宗次郎の様子を、流石に異なものと感じ取ったのか、少々怪訝そうに告げられた名は、しかし深い色の瞳を大きく見開かせるのに十分過ぎた。 「・・堀内さま」 やがて形の良い唇から零れ落ちた声音は、驚きをそのまま形にしたような、呆然としたものだった。 「ご存知なのでしょうか?」 だが若者は、右も左も分からぬ見知らぬ地で、師の名を知る人間に見(まみ)える事の出来たこの類稀な僥倖を、すぐさま喜びに変えたようで、頷く宗次郎に向けた声が、逸る心を隠しきれずに弾んだ。 「堀内さまが、貴方の剣術の師なのでしょうか?」 が、宗次郎自身は、未だその偶(たま)さか信じられないのか、繰り返し問う調子には不思議そうな響きが籠もる。 「そうです、柳生新陰流の、堀内左近様が私の師なのです」 だがそれへのいらえは、心底嬉しそうな笑みと共に返った。 「申し送れました。私は佐瀬圭吾と云います」 相手が己の師と面識のある者だと分かった途端、まだ名乗っていない事に気付いたのか、若者は慌てて告げると、凭れていた壁から身を離し、まだ痛む身を庇いながら立ち上がろうとした。 「ありがとうございます」 それを助けようと差し出した宗次郎の手を今度は断らず、佐瀬圭吾は、どうにか己の二本の足で地を踏みしめた。 「私は沖田宗次郎です。堀内さまには、時折稽古をつけて頂くこともあります」 すっかり身を縦にした圭吾の背丈は、一緒に立ち上がった宗次郎のそれよりも高く、その関係で目線の位置があべこべになったが、自らを語る声音は屈託が無い。 「貴方も、剣術をやられるのですか?」 云われて細い腰を見遣れば、確かに其処に重たそうに有るのは、紛れも無く二本の大小だった。 が、初めて相手の形(なり)を見た時に承知していた筈のその事が、改めて驚きの対象になる程に、目の前の主と剣術と云う言葉の噛み合わぬ感に、問う声には、何処か合点の行かぬ風な響きが紛れていた。 だが失言ともとれる言葉を、宗次郎自身は然して不愉快とも思わなかったようで、大人しげな面輪が嬉しそうに頷いた。 「それよりも堀内さまのお屋敷までは、此処からではまだ距離があります・・本当に大丈夫なのでしょうか?」 立ち上がった事で開けた視界の広さは、宗次郎に再び憂慮を齎せたようで、笑みを引いて問う声には、圭吾がそれに耐える事が出来るのかを案じる心を隠せない。 「幸か不幸か、殴られたのは主に顔や胸で、足腰は何ともありません。それにこんな傷、国元ではしょっちゅうです。怪我の内になど、入るものではありません」 憂い顔の相手を安堵させるように笑いながら告げた目には、それが偽りでは無いと信じさせる強さがある。 「ならば良いけれど・・でも、あの・・」 それにつられるように、一旦は安堵の息をついた宗次郎だったが、直ぐに又別の懸念が生じたらしく、更に問い掛けたが、しかし唇は先を紡がず、言葉は曖昧に途切れた。 「誰にやられたのか、・・でしょうか?」 そのまま戸惑いの沈黙に籠もってしまった主に返した、圭吾の含み笑いのいらえに、前髪からしたたる滴で濡れた面輪が、今度は躊躇いがちに頷いた。 「姉が・・」 端に血の滲む唇をゆっくりと動かしながら、圭吾は大路に顔を向けると、更にそれを後ろへと少し捻り、宗次郎の視線をも促した。 「姉は志乃と云いますが、あの吉原に居る筈なのです。だが尋ねていった其処では、もう半年以上も前に足抜けして行方が分からぬのだと云われ、更に身内ならば居処を知っている筈だと、質された挙句がこのざまです」 理不尽な仕打ちを受けたその事については然程こたえている風も無く、告げ終えるや、圭吾は再び宗次郎へと視線を戻し笑いかけた。 「姉上さまが・・?」 「はい。姉は私の勉学の費用を捻出する為に江戸に出、そして遊郭に身を売りました。ですがこの夏に便りを寄越したきり、音沙汰が無くなってしまったのです」 慕う師の近しい者と判じたのか、それとも異な事から縁を持ち、短いやりとりの中で警戒すべき者では無いと判じたのか―― つい今しがた出遇ったばかりの見知らぬ人間に、これ程までに明け透けに己の身の上を語る自分に驚きつつ、聞かされた話の重さに、気の毒な程狼狽している相手の真摯に、圭吾は親しげな視線を向け目を細めた。 「案内を、お願いできますでしょうか?」 良く通る声と共に低く下げられたこうべに、慌てて頷いた宗次郎が、雨滴を跳ねさせている肩に向け、手にしていた傘を大きく差し掛けた。 堀内左近の屋敷は、千代田の城の外堀を境にして、試衛館とは丁度北と南に分かれた処に位置する。 神道無念流斉藤弥九郎道場の練兵館の東北、歩兵屯所の裏に構えた屋敷の敷地は広く、嘗ては大身の旗本であった堀内家の盛隆を知らしめる。 だが今の主の左近が家督を継ぐや、病気療養を理由に全てのお役御免を願い出、爾来下働きの一切を取り仕切る平治と云う老爺と、まるで隠居生活のような気侭な二人暮らしをしている。 その堀内家との縁は、まだ木も芽吹かぬこの早春、宗次郎を養子に欲しいと、左近が願い出た事に始まる。 結局希は果たされる事無く終わったが、それからも縁は切れる事無く、左近はふらりと試衛館にやって来ては、宗次郎と手合わせを楽しんだり、又宗次郎自身も堀内家を訪れ、親しい付き合いは続いていた。 しかしその左近も、珍しく慌てた様子で呼ぶ平治の声に、何の騒ぎかとやって来た玄関で、宗次郎と、これは又思いもかけぬ圭吾の姿を見た寸座は、流石に驚きが勝り、暫し言葉も無く二人の姿を凝視していた。 一応傘を手にしているものの、それが一体何の役に立ったのかと疑う程に、二人はずぶ濡れの体(てい)で、しかも圭吾の顔は傷だらけで、その圭吾を、本人は支えているつもりなのだろうが、寒さからか蒼い頬をした頼りない造りの宗次郎は、堀内の目に、どちらが庇われているのか分から無く映る。 「風呂を焚きましょう。旦那さまは、お二人に何か拭く物を」 が、こう云う場に遭遇した時には、平治の方が余程にしっかりしているらしく、主を叱る声が左近を現に戻した。 「そうであったな」 「あのっ・・」 急ぎ踵を返そうとした堀内を、宗次郎の声が止めた。 「私は、帰ります」 「何を莫迦な事を。そのように濡れたままで帰せるものか」 「けれど遅くなってしまったから、きっと心配をしています」 堀内の叱責に、珍しく宗次郎は食い下がる。 先程、九段の坂を上りながら、暮れ六つの鐘を聞いた。 無論辺りは人の顔貌も判じられぬ程、暗くなっている。 夕餉の支度を手伝うに間に合わなかったばかりか、こんな頃合になっても戻らぬ自分を、近藤や井上は案じているだろう。 圭吾を何とか此処まで送り届けた安堵が、そのまま宗次郎の焦燥に変わっていた。 「帰す訳にはゆかぬ。平治、風呂は私が焚こう。お前は試衛館に走り訳を話し、今宵は宗次郎殿を当家で預かると、そう伝えてくれ」 「堀内さまっ」 「愛弟子の、そのように濡れ鼠の様を見たら、近藤殿とて胆を冷やされるぞ」 抗いの短い叫びに返した苦笑がてらのいらえは、ようよう戻った堀内の余裕でもあった。 宗次郎の困惑を、逆らえぬ師の名を出し封じておいて、堀内はもうひとり、薄暗い玄関の土間に佇む者に視線を向け、目を細めた。 「圭吾、よう来たの」 掛けられた声音にある温もりに包まれるよう、圭吾の面一杯に、安堵の笑みが広がった。 |