雪圍U (弐)




「あちらでは、じき雪も降ろう?」
風の勢いが増したのか、雨戸に打ちつける滴の音が次第に激しくなり、この季節には珍しい嵐の相を呈して来ても、堀内左近の声音には、荒れる外の様子すら気に留めさせない穏やかさがある。
「冷え込みが大分きつくなり、田畑には霜も厚く降り、時には白いものもちらつくようになりましたが、本格的に雪の降るのは来月に入ってからでしょう」
その堀内に、佐瀬圭吾は、まるで手習いの師に応えるかのような、几帳面ないらえを返した。
「越後の冬は、田も畑も、全てを凍らせてしまう」
遠い地の冬ざれの景色の厳しさを脳裏に思い浮かべたのか、静かに語る声に一瞬籠もった憂いを聞き逃さず、宗次郎の瞳が堀内を捉えた。
「越後には、当家の知行地がある」
その視線に気付いた堀内が、柔らかな物言いで、足りなかった言葉を付け足した。
「越後に?」
「左様。堀内家は、越後の知行地から頂戴する年貢米で、何とか息を繋いで来た。そしてその縁のお陰で、この変わり者にも、圭吾のような過ぎた弟子が出来た」
「とんでもありません。先生にお会い出来た僥倖は、私のような者にこそ、勿体無い事です」
「もう良い」
今にも膝を詰め寄らんばかりにして訴える若い勢いを、低い笑いが止めた。
「本当です」
「ならば、変わり者同士の相子と云う事にしておこう」
真摯な眼差しを真正面から受け、それをやんわりと交わした声が、遂に自嘲にも似た苦笑へと変わった。


――もう夜分にも近い頃合、ずぶ濡れの体(てい)で圭吾を送り届け、そのまま試衛館に帰ると云う宗次郎を左近は許さず、結局この夜は堀内家に厄介になる事となった。
ここ番町から牛込柳町の試衛館までは、確かにそう大した距離では無かったが、雨に熱を奪い取られ色を失くした面輪は、堀内に、宗次郎の脆弱な身を案じさせるに十分過ぎた。
だが当の宗次郎に躊躇いを捨てさせ最後に是と頷かせたのは、その堀内の危惧では無く、慣れぬ土地での困惑の連続に疲れ果ててしまったのであろう圭吾の、自分をに向けられた心細げな眼差しだった。

 堀内自らが沸かした風呂に浸り、借りた浴衣を身に纏う頃には、試衛館へ使いに行っていた平治も戻って来、若者二人の客人を迎えた堀内家では、珍しく賑やかな夕餉と相成った。
そして今はその夕餉も終えた安穏の一時を、宗次郎は、久方ぶりに見(まみ)えた師弟の間で交わされる会話を聞きながら過ごしている。


「では佐瀬さんは、越後にある、堀内さまの道場に通われていたのですか?」
「いや、私にあるのはこの家屋敷だけの貧乏旗本ゆえ、知行地にそのような大層なものは置いて無い」
不思議そうに問う宗次郎に苦笑しながら返ったのは、しかし現在の己のそう云う境遇を自嘲するでも無く、むしろ愉しんでいるかのような堀内のいらえだった。
「宗次郎さん、堀内先生とのご縁は、先生が知行地を見にいらした折、偶(たま)さか袋叩きにあっていた私を助けて下さったのが始まりなのです。その時に剣術を教えて欲しいと訴えた私の無理を、先生は聞き入れて下さっただけなのです。・・ですから私は、本当ならば弟子は取らない先生の、一方的な押しかけ弟子なのです」
「・・袋・・だたき?」
「はい、袋叩きです。けれどそんなものは、昔はしょっちゅうだった。だから先程受けた傷など、どうと云う事も無いと云ったのです」
驚きの中で漏れた宗次郎の呟きに向けられたのは、その無体さえ糧とし、若木が伸び行くにも似た力強さに代えてしまうような、圭吾の明るい笑い顔だった。
「圭吾は剣術よりも、此処が・・」
その後を引き継ぐように、これもやはり笑いながら口を挟んだ堀内が、人差し指で己の頭を差し言葉を切ると、宗次郎の視線を其方へと促した。
「頭の出来が、尋常では無い。其れゆえ学問では到底敵わぬ愚かどもが、つまらぬやっかみを起こす」
「そのような事はありません。・・まだまだ、修行中の身です」
何をかをも知り、そして包み込んでしまうような眼差しに合うや、浅黒い肌に朱の色を上らせて必死に異を唱える圭吾の語尾が、恥じ入るように小さくなった。
「だがその修行の成果を楽しみに、自分の片腕となって働いてくれる日を、まだかまだかと焦れている輩が、お前が藩校を終えるのを指折り数えて待っておるぞ」
「先生は、私を買かぶっておられます」
それが誰とは云わず目を細めた堀内に、硬い口調で抗い終えると、首筋までをも朱く染めた顔が、遂に伏せられてしまった。

「けれど・・・、今ではそんな風な暴力を振るう人は、いないのでしょう?」
近しくなった者の、もうひとつ知らなかった一面を垣間見、宗次郎は少々眩しげに圭吾を捉えた。
理不尽な無体が、類稀な才をやっかむものであったとしても、藩校に在籍し、将来を嘱望されるまでの若者に成長した今となっては、それも過去の出来事なのだろうと、圭吾を見る宗次郎の瞳には、自分の思い込みを信じている確かがある。
「私は、武士ではありません。私の生まれた家は、城下から遠く外れた山里の郷士でした。ですが郷士と云っても、内情は貧しい水呑み百姓と同じ。しかも両親(りょうおや)は早くに亡く、姉と二人きり、その日を凌ぐのが精一杯の暮らしでした。其れ故、本来ならば藩校に通うなど、有り得ない事だったのです。ところが三年前の秋、私が十五の時でしたが、
・・郷里に土地の測量をされに来た方のお手伝いをしました時に、それが縁で、その方が私を藩主様に推挙して下さったのです。そしてその方の計らいで、特別に藩校への入学を許されたのです。・・しかし姉は、それ以上、ご恩のある方にご迷惑をかけられぬと、私の学費を作る為に江戸に奉公に出、遂には遊郭に身を売ったのです。・・そんな経緯もあり、私の存在を面白く無いと思う人間は、藩校にも絶えません」
「・・そんな」
宗次郎の声が、圭吾へ齎される理不尽を、我が身に置き換えて憤るかのように強くなった。
「ですが私には、そのような事はどうでも良い事です。来春藩校を卒業して、少しでも早く尊敬する方のお役に立ちたいと、今はそれだけを念じているのです」
自分の為に真摯な怒りを迸らせる宗次郎に、慰撫するような笑みを向けて語る圭吾の声に、湿り気は無い。
「そして偶然にもその者が、これも又私の弟子と称する変わり者だった訳だ。が、天の下す人と人の繋がりとは、案外にそう云う不思議なものなのかもしれん」
圭吾の言葉を受け、愉快そうに笑う堀内の目が、もうひとり、同じように奇遇な出会いから縁を結んだ宗次郎を捉えて細められた。
そしてそのまま己の視線を、宗次郎から圭吾へと、堀内は二人を見比べるように移した。


 ひとつ違いの二人は、容姿も核(さね)を成す気質も、全てが異なる。
が、ひとつ共通しているのは、学問と剣術と云う違いはあれど、ともに稀有の才を、天から授けられていると云う事だった。
圭吾は若竹のようなしなやかさと、土に蔓延る根のような強靭さとを内に宿し、叩かれれば叩かれる程に、更に強くより高く、己の才能を伸ばして行く若者だった。
そして一時しのぎの浴衣の中で浮くように身を余らせ、見るからに頼りない宗次郎は、その儚げな外見を裏切る鋭い太刀捌きと、動きの俊敏さとで、常に自分を驚愕させる。
だがそれは人から打たれる事を許さぬ、或いは誰をも寄せ付けぬ、孤高の天凛だった。
圭吾の才は、例え打ちのめされても次には置き上がるだろうと予測させる強さを有し、傍で見護る者に安堵感を与える。
だが宗次郎の天分は、あまりに研ぎ澄まされているが故に、時に危うさ脆さを覚えさせずにはいられない。
それは己自身にも説明のつかぬ、堀内が抱く不安と懸念でもあった。
理由を述べよと問われても、言葉で補えるものでは無かったが、強いて云うのならば、宗次郎の剣才の開花が、まるでその命脈を糧に極められて行く、激しい奔流のような急速さを見せる所為かもしれなかった。


「・・けれど私は、そのお方へのご恩に報いるよりも、藩校を離れ姉を探す事を選んでしまいました」
そんな思いに囚われ、一瞬裡に籠もってしまった堀内の思考を、圭吾の声が現に戻した。
「もう何をもってしても、お詫びする事は敵いません」
語りを続ける調子が、それまでよりも一段重くなり、国元を飛び出し江戸に来てしまったその事が、圭吾の心を酷く苦しめているのだと宗次郎に教える。
「佐瀬さんの姉上さまは、きっと見つかります」
不安と苦悶にいる相手には、何の慰めにもならぬ陳腐な台詞と承知してはいても、他に掛ける言葉を見つけられない自分の不器用さを呪い憤るように、宗次郎の声音も硬くなる。
「左様。圭吾、お前と宗次郎殿が、こうして広い江戸の地で巡り遇う事の出来た縁(えにし)こそが、既にこの先の僥倖に相違ない」
その宗次郎の沈む心を見透かし引き上げ、尚且つ圭吾自身へも力を与えるような、堀内の強い物言いだった。
「はい」
そして師の言葉に応えた時、ようよう圭吾の顔にも、今は姉を探し出す事だけに心を堅めて迷いを吹っ切ったかのような、潔い笑みが広がった。
「だが・・・。人の縁は不思議なものとは云え、宗次郎殿が吉原界隈に居たと云うのは、過ぎた偶(たま)さか。こればかりは、天に感謝せねばなるまい」
穏やかな笑いと共に向けられた眼差しに、しかし宗次郎の面輪が一瞬強張り、次ぎには慌てて瞳が伏せられた。
「どうかされたか?」
その狼狽を見逃さず、問う堀内の声が怪訝にくぐもった。
「・・何でも無いのです。・・・あの、昨日は八郎さん・・いえ、伊庭さんの処で稽古を見せて貰っていたのです。けれど思いの他、遅くなってしまって・・」
「伊庭殿の?」
一度は黙って頷いた宗次郎だったが、偽りを続ける唇は束の間も置かず、更に戦慄くようにして動く。
「急いで帰らなければと思って、近道をしたつもりだったのに、道に迷ってしまって・・それで気がついた時には、あの辺りまで行ってしまっていたのです」
語尾を曖昧にして浮かべたぎこちない笑みは、それが偽りの拙さを曝け出すばかりのものだとは、今の宗次郎に推し量る術は無い。
伊庭道場から試衛館へ帰る道は、吉原とは全くの逆方向になる。
だがその不審を敢えて問わず、堀内は再び緩やかな笑みを浮かべた。
「ならば宗次郎殿と圭吾との縁は、天が始めからそう決めていたものと信じて良いらしい。宗次郎殿が迷ってくれなんだら、圭吾もこうして此処へ辿り着く事が出来なかったろう」
騙されてやる素振りを、少しも悟らせずに向けた笑い顔にある柔らかさにつられるようにして、宗次郎の面輪にも、漸く安堵の色が広がった。




――覆う闇の、他に色の見つけられぬ深さ。
音を、まるで別の世に葬り去ってしまったかのような静謐。
それが、此処が試衛館では無いのだと、宗次郎に知らしめる。
土方はいないのだと・・・
切なさだけを、寂しさだけを、宗次郎につきつける。

だが夜具を深く被りその中で背を丸め、口元に当てた手の甲で、止まらぬ咳を堪える苦しさは、時折は意識すら遠のかせ、そんな寂寞感をも曖昧にしてしまう。
それでもこの辛苦に翻弄されている方が、どんなに楽か。
胸の痛みも、息の出来ぬ苦しさも、土方を想う切なさに比べれば、些細な辛抱で遣り過ごせてしまう。
現の修羅に戻るのならば、いっそこのままで居たいと・・・
そんな思いを抱いて、うっすらと瞼を開ければ、闇を、闇で塗り潰したような漆黒だけが、瞳を覆う水膜の中で揺れる。
だがその刹那、夜具の上に突然何かが触れた僅かな感触に、宗次郎の神経の隈なく全てが張り詰められ、一瞬にして薄い身が強張った。

「宗次郎さん・・」
やがて掛かった圭吾の声は、狼狽の所為か、少々上ずり高い。
しかし相手のその余裕の無さが、逆に宗次郎を安堵させる。
それでも込み上げる咳は止まらず、いらえを返す事は敵わない。
「堀内先生を、呼んで来る」
返事の無いのを異変と判じ、強引に夜具を剥いだ圭吾が、片方の手で口元を塞ぎ、もうひとつの腕で己の身を抱え震えている宗次郎の姿を目の当たりにするや、急いで立ち上がろうとした。
だがその袖を、残された力を振絞るようにして伸ばした手指が掴んだ。
「・・大丈夫・・だから・・」
ようよう鎮まりをみせつつある咳の合間を辿り、荒い息を整えながら搾り出した声は、負担を掛け過ぎてしまった喉が掠れさせてしまい酷く聞きづらいが、宗次郎は語りを止めようとはしない。
「今だけの、事だから・・・」
大仰にしてくれるなと懇願する瞳は、夜目にも潤んでいるのが分かる。
それがつい今しがたまで苛まれていた咳の所為なのか、それとも骨ばった指に重ねた掌から伝わる、尋常とは云えぬ熱さの所為なのか・・・
そのどちらかとも判じかね、圭吾は為す術も無く、又も小さく咳込む背を、慌てて擦り始めた。


 闇の中で、ひとつ物事を念じて過ごす時は、然も無い僅かであっても、待つ身には、いつ果てるとも思えぬ長さに感ずる。
暫し圭吾は言葉も無く、骨の形のひとつひとつをなぞれるような薄い背を擦り続けていたが、やがて一際大きく、波打つように宗次郎の身が跳ねた。
しかし幸いな事に、それが最後の息の痞えだったらしく、漸く咳は治まりを見せた。
だが宗次郎自身は、今の動きですっかり力を失くしてしまったのか、忙(せわ)しい息を繰り返すばかりで、まだ言葉も紡げ無い。
自分の袖を掴んだままの宗次郎の指を、圭吾がゆっくりと離そうとすると、もう何処にも力の残って無いそれは、薄紙が、はらりと剥がれる様にも似て、呆気ない程簡単に手の内に包まれた。
そうして病人の落ち着いた様子を確かめるや圭吾は、冷たい手指を握り締めている片手はそのままに、もう片方の手で、近くの行灯を静かに引き寄せると、それに器用に灯を入れた。

 ぼんやりと点る灯でも、闇ばかりを見なれた目にはあざとい程に明るく、一瞬目くらましにあったような眩しさに、圭吾は眸を細めた。
だが直ぐに振り返り、薄い背を震わせ横臥している宗次郎に視線を戻すや、身を乗り出すようにして声を掛けた。
「やはり堀内先生を呼んで来る」
その強い口調にも、宗次郎は頑なに首を振る。
「・・朝になれば、治るから」
「しかし・・」
激しい咳の名残を、額や頬に乱れさせた幾筋かの髪に止めた宗次郎が、大儀そうに瞳を開け、圭吾を仰ぎ見た。
「・・佐瀬さんと、一緒なのです・・」
「一緒?」
怪訝に問う声に僅かに頷き、そうして浮かべた笑みの弱々しさは、それが今出来る宗次郎の精一杯の虚勢なのだと、圭吾に知らしめる。
「・・・風邪、直ぐに引いてしまうのです。けれど・・直ぐに治る」
先程よりは掠れも少なく、遥かに聞き取り易くなったとは云え、相変わらず力の無い声音で告げられたその意図が分からず、圭吾は宗次郎を見つめたまま暫し言葉が無い。
が、直ぐにそれが、理不尽な暴力には慣れているのだと、だから案じるなと告げた自分の言葉と重ね合わせているのだと気付くや、聡明さを宿す涼しげな双眸が、改めて宗次郎を凝視した。
「その事と、宗次郎さんのこれとは違う」
「同じです。私も、こんな事には慣れている」
慌てて異を唱えた圭吾に、今度は偽りでは無い笑い顔が向けられた。
「私などに付き合い、雨に濡れてしまったのが悪かったのだ・・」
労わりの言葉に首を振り、己を詰(なじ)って唇を噛み締めてしまった圭吾を、少しでも近くに捉えようとするかのように、仰臥していた姿勢から、宗次郎が喉首を仰け反らせた。
「・・あの時、私もわざと遠回りをしていたのです。・・だから佐瀬さんは、少しも悪く無い」
「わざと?」
驚いて問う声に曖昧に頷く面輪には、しかし本当を云うには躊躇い迷う色が見え隠れするする。
しかしそんな己の事情よりも、今は圭吾の自責の念を取り払う事が大事と心を決めたか、再び宗次郎の視線が、瞬きもせずに自分を見下ろしている硬い顔を捉えた。
「・・帰りたく、無かったのです」
「試衛館と云う処にですか?」
だが流石にこの直裁な問いには是と応えるのを言い淀むのか、いらえは戻らず、その代わりのように瞳が伏せられた。
が、その宗次郎の弱気は、相手を慰撫する余裕と云うものを圭吾に取り戻させたようで、足元に除けられていた夜具を肩まで掛け直してやるとそ、れだけで薄い背が安堵したように強張りを解くのが分かった。

「試衛館と云う処には、宗次郎さんの師が、おられるのですか?」
そしてそれ以上はこの事については触れず、間を置かず次ぎに掛けられた言葉に、深い色の瞳が、怪訝に声の主を見上げた。
「堀内先生が、ずぶ濡れの愛弟子の姿を見たのなら胆を冷やされると、そう云って貴方を脅していた」
堀内と宗次郎の間で交わされた短い遣り取りを、記憶の端から手繰り寄せながら語る圭吾の声には、その時の場面を鮮やかに蘇らせるような明瞭さがある。
「・・試衛館は、私の師である近藤先生の道場なのです」
「では宗次郎さんは、其処の内弟子なのでしょうか?」
頷いた途端面輪に広がった笑みは、それまでの躊躇いや戸惑いの一切を無くした、屈託の無いものだった。
「親御さまは?」
「佐瀬さんと、同じなのです」
笑みを消さず即座に返ったいらえだったが、しかし今度は圭吾の方が、己の失言を恥じ入るように視線を逸らせてしまった。
「申し訳の無い事を、聞いてしまいました」
「そんな事はありません。それに私にも佐瀬さんと同じように、育ててくれた姉がいます。けれど佐瀬さんと違って、心配ばかりを掛けている」
笑って告げる声音に、湿ったものは無い。
それが自分への気遣いだと察した圭吾が、伏せていた顔を漸く上げた。
そしてその動きを待っていたかのように、宗次郎の唇が再び動いた。
「・・佐瀬さんの姉上さまは、きっと見つかります。きっとご無事です」
ひと言ひと言を声にする事で、より確かなものにするように紡ぎ終えた時、細い線に縁取りされた面輪に浮かんでいた笑みは無く、代わりに圭吾を捉えていたのは、偽りの無い真摯な双つの瞳だった。
「きっと、見つかるから・・」
こんな言葉でしか相手を労わる術を知らない己の不器用さに焦れながら、しかし宗次郎は、それが天に、神仏に届けと、敵う限りの力で願いながら、今一度同じ言葉を口にした。

圭吾はその宗次郎を暫し黙したまま見つめていたが、やがて静かに腕を伸ばすと、くくり枕の上の白い額へと、己の手の甲を乗せた。
突然の所作は深い色の瞳を怪訝そうに揺らしたが、それには構わず、圭吾は宗次郎の身に籠もる熱を、己の甲で吸い取ろうとするかのように、中々それを離そうとしない。
そうして今度は、左の手に変え、同じように額を甲で覆う。
「小さな頃、熱を出すと、姉がこうしてくれたのです」
瞬きもせずにいる宗次郎に語り掛ける声音は柔らかい。
――秋も終わりの霖雨は、室の中に冷たさばかりを籠もらせる。
冷え切った手は、だがその芯に流れる血潮の熱が、ひどく安堵できる何かで、病人の心細さを包み込む。
「・・気持ちがいい」
微かな吐息と共に漏れた、呟きにも似た宗次郎の声音は、現を離れかけている意識の外で作られたものらしく、そのままゆっくりと瞼は閉じられ、それを縁どる睫は、頬に濃い翳りを落としたまま、もう開く様子は無い。

 闇を更に深くするような静謐は、きっと雨滴が、この世の音と云う音の全てを包(くる)んで、地に染み込ませてしまう所為なのかもしれない。
だが触れる甲から伝わる人の温もりは、それすら安寧なしじまに変えてしまう。
姉は無事なのだと、きっと見つかると、そう強く告げた宗次郎の面輪を、その眠りを邪魔せぬよう、圭吾は飽く事無く静かに見守っていた。




 一時は季節外れの嵐になるかと案じられた雨は、しかし夜半になって、辺りを憚るように静かに降る時雨となり、鶏鳴が暁を告げる頃にはそれもすっかり止み、昇り始めた天道が、泥濘に耀い光を煌かせる好天となった。

それが日課と決めている訳でも無かったが、堀内左近は、己が手で堅固な黒門を開くと、凛と張り詰めた早暁の冷気を吸い込んだ。
そうしてゆっくりと吐く息が白い霞みに変わる様を、暫し愛でるように見ていたが、不意にその目が細められ、薄靄の中、此方に向かって徐々に大きくなって来る、ひとりの人の像へと視線を合わせた。


「昨夜は、留守と聞いていたが・・」
やがて互いの顔貌(かおかたち)の細部までが克明になる程に相手との距離が狭まると、揶揄ともつかぬ低い笑い声が、堀内から発せられた。
「宗次郎が、世話になっているそうだが」
相変わらず無駄を一切省いた物言いは、この男の際立った端正な容貌と相俟って、時に冷淡過ぎる印象を人に与える。
「起きているのは、私ばかりだ」
だがその冷厳な容貌とは似つかわぬ性急さに、堀内から返るいらえには、又も含み笑いが籠もる。

 短い付き合いの中で、土方と云う男の、本来その裡に宿している気質が、苛烈なまでの攻撃性であると承知している堀内には、この素気無さも、燻らせている若い奔流の開放先を見つけられぬ、苛立ちの裏返しに思える。
そしてその土方が、己を抑え切れずに感情の起伏を直裁にぶつける唯一の相手が、まだ屋敷の一室で眠りにいるであろう少年である事が、最近では堀内の愉しみでもあった。
昨夜試衛館から戻った平治の話では、土方は留守にしていると云う事だった。
そしてそれを聞いた時、何故吉原界隈などに宗次郎が赴いたのかその理由(わけ)を、咄嗟に土方の事情に結びつけ苦笑した堀内だった。
果たしてこの男は、あの一途な者の想いに、何時気付いてやれるのか――

「案内しよう」
だがそれを問わず、又質さず、その先は己ひとりの愉しみと胸に仕舞い込んで、堀内は、隙と云うものが何処にも見つからぬ背を向けた。




 きっちりと閉じられた雨戸の隙から滑り込み、障子に陰影を刻んでいるのは、早暁の日の光なのだと・・
そこまで思考が働いた途端、ぼんやりと虚ろだった宗次郎の瞳が突然大きく見開かれ、それと同時に、慌てて身を起こそうとした。
が、重石を置かれたように、腰から下がびくともしない。
咄嗟に目をやった其処にあったのは、夜具の上から覆い被さるようにして眠る圭吾の姿だった。
それを視界に捉えた刹那、宗次郎の脳裏に、眠りにつく前圭吾と交わしていた、一番新しい記憶が蘇る。
あれから夜通し、自分の看病をさせてしまったのだと――
そう思い当たるのに、時はいらなかった。
だが宗次郎の動きは又、圭吾の意識の覚醒をも促したようで、言葉にもならぬ短い声がくぐもって発せられ、伏さっていた背が僅かに身じろいだ。
それが切欠となり体全部が目覚めたのか、夜具から顔を浮かせた途端、射し込んだ光に圭吾は眩しそうに片目を細めたが、次ぎの瞬間、弾かれたように重なっていた身を起こした。

「・・・私は、眠ってしまったのでしょうか?」
そのまま暫し辺りを見回していたが、やがて半身を起こしている宗次郎の瞳と合うと、漸く全ての状況を判じ得たのか、己の無様を恥じるように、小さな声が戸惑い気味に問うた。
「すみませんでした。・・私の為に、佐瀬さんに迷惑を掛けてしまいました」
「いえ、私こそ途中でこのように寝入ってしまい・・宗次郎さん、重くはなかったでしょうか?」
詫びる宗次郎に慌てて返すいらえは、それが圭吾の今一番の懸念だったらしく、声がひどく真剣だった。
「私は目が覚めるまで、圭吾さんが上に居る事に気がつかなかった」
屈託の無い笑い顔を向けられ、圭吾の面にも、漸く安堵の色が浮かぶ。
「けれど・・」
だが少し声を落とし続ける宗次郎の調子は、それとは逆に憂いに満ちていた。
「佐瀬さんは、寒くなかったのでしょうか?」
「あれしき、私にとっては、寒さなどと云うには笑える代物です」
破顔一笑した圭吾の力強い物言いが、彼が未だ知り得ぬ雪深い土地の人間であった事を、宗次郎に思い起こさせる。
「宗次郎さんこそ、熱は大丈夫でしょうか?」
「もう何ともありません」
案ずるなとばかりに笑う顔の色は、雨戸と障子の隙を縫って滑り込んで来る陽の、薄明かりの中ですら、そう芳しいものとは思えない。
「それよりも、試衛館に帰らないと・・」
だが宗次郎は圭吾の憂慮を他所に、夜が明けた途端、現の懸念に思考の全てが支配されてしまったのか、呟いた調子がひどく落ち着かなくなった。
「試衛館と云う処は、近いのでしょうか?」
「直ぐなのです」
即座に返ったいらえが、宗次郎の焦燥の深さを物語る。
「堀内さまに挨拶をして、・・もう起きていらっしゃるかな・・?」
「多分。・・私の知る内で、先生が越後にお出でになられたのは二度だけでしたが、その両方とも、まだ夜も明けやらぬ早朝に、稽古をつけて頂きました。ですからもう・・」
起きている筈だと云う圭吾の語りの全てが終わらぬ内に、宗次郎の瞳が不意に、白を蒼く浮き上がらせている障子へと向けられた。
その動きにつられるように、圭吾も又不審に其方に視線を移すと、やがて人の影が障子に淡く映った。

「・・・宗次郎さま」
「起きています」
憚るような遠慮がちな声に応える間も惜しむように、宗次郎が立ち上がった。
そのまま夜具を下り、歩み寄った障子の桟に手を掛けようとした寸座、だが一瞬早くそれは、平治の手によって外から開けられた。

「圭吾さまも、此方でしたか?」
其処に圭吾の姿をも見止めると、平治は一瞬不思議そうに目を瞬いたが、直ぐにそれには慕わしげな眼差しに変わった。
「・・夜通し、話しこんでしまって・・」
「お年の近いお二人です。然もありましょう」
ぎこちない言い訳に、老爺は素直に騙されてくれたようで、目を細めて頷く様に、宗次郎の面輪にも安堵の色が浮かぶ。
「あの・・平治さん、私に何か?」
だがそれが気懸かりだったのか、急(せ)いて問う宗次郎に、平治はそうであったとばかりに、今度は慌てて見上げた。
「土方さまが、お迎えにいらっしゃったのですが。・・・もしもまだお休みのようでしたら、今暫く待っていると仰って・・」
「帰りますっ」

言葉の途中で遮られた平治も、傍らで遣り取りを見守っていた圭吾も、そのどちらもが一瞬、細く丹念な線で縁取りされた横顔に視線を止めてしまったような、宗次郎の強い調子だった。









きりリクの部屋   雪圍U(参)