雪圍 U (参)         




 番町は、千代田の城と隣接する土地柄であり、番方の旗本屋敷が軒を連ねると云う意味合いをも兼ねて、この名がつけられたと云う経緯がある。
道の脇に整然と並ぶ家屋敷も、大名屋敷かと見紛ごう大層な敷地を有するものもあれば、民家のそれを体裁良くした程のものまで、数を上げればきりが無い。
だがそれらの家のどれもが、未だ一日の営みを始める前の静けさの中にある。

 堀内家から試衛館のある牛込柳町までは、そう大した距離では無いが、一度下り坂になり、そして又上り坂になる。
その下りの道を、先を行く土方との距離が開くのを嫌い、宗次郎は足を急がせている。
が、坂が終わろうとする直ぐ手前で、堀内家を出てから、無言のまま背中だけを見せていた土方が、不意に立ち止まり後ろを振り返った。
この思いもかけぬ突然の挙措には宗次郎も驚き、泥濘(ぬかるみ)の泥が跳ねぬよう気をつけながら進めていた足を、慌てて止めた。

「熱を、出したのか?」
優しさも労わりも無い代わりに、土方の声には嘘を許さぬ厳しさがある。
「・・・もう、引いた」
一度否と首を振りかけたが、身動きすら封じ込めてしまうような鋭い双眸に射抜かれて、やがて色の失い唇からぽつりと漏れたのは、どんなに隠した処で、些細な偽りなど、いとも容易く見破られてしまうだろう事への、観念と覚悟だった。
だが土方は、そんなぎりぎりの譲歩など全く意に介さず大股で歩み寄ると、驚きに身を硬くする宗次郎には構わず、怯んで後ずさろうとする身の腕を掴むや、右手で大きく見張られた瞳の上の額に掌を翳した。
そして間をおかず、その端整な面が忌々しげに歪んだ。
宛てた掌からは、尋常で無い熱さが伝わってくる。
多分そうなのだろうと云う予感は、顔を見た時からあった。
だがひとつ歩を進める度に、後ろについてくる宗次郎の不調は、土方の裡で確信となって行った。
そしてどうにも気になり確かめてみれば、己の杞憂は違(たが)う事無く現のものであった。
「・・嘘つきめが」
舌打ちでも聞こえてきそうな苛立たしげな低い声に、見上げていた深い色の瞳が、気弱に伏せられた。


――偶さか入った金で遊びに行った吉原で、馴染みとも云えぬ女に誘われ、それも憂さ晴らしになろうかと思い居続けを決めてはみたものの、外を騒がす嵐にも似た風雨の激しさは、土方の気を妙に漫(そぞ)ろにさせた。
原因は、つまらぬ事だった。

昼間、伊庭道場へ行くと云う宗次郎を送り出す時、吹く風の中に雨催いを感じさせる湿り気があるのを気に掛け、傘を持って行けと云った自分に、今日は何処かへ出かけるのかと、深い色の瞳の主は問うた。
そんな事は分からぬと素気無くいらえを返したが、その刹那、錯覚だと見紛うほんの一瞬、小さな面輪に何とも寂しげな色が湛えられた。
その事が、妙に心に残っていた。
ただそれだけだった。
だが最近の宗次郎は、それと似たような、不意に沈んだ表情を見せる事が侭ある。
そしてそれは、突然地に水の礫を打ちつけたかと思うや、たちまち辺りを暗黒に染め替える驟雨の激しさにも似て、土方を酷く落ち着かなくさせる。
 つまらぬ思い過ごしだと、一度は打ち捨ててみたものの、一度囚われた懸念は、まるで時を貪り食うように際限無く膨らんで行き、やがて気づいた時には、腕枕で横臥していた床を立ち上がり、着て来たものを纏い始めていた自分がいた。
 横で添うように寝ていた女が、客の突然の挙措に驚き、どうしたのかと聞く声すら適当にあしらい大門を出たのは、尤も雨風が酷い時だった。
横殴りのそれに、ともすれば傘は煽られ、前を見定めるのも難儀する程だったが、しかし土方は一度も立ち止まる事無く、嵐の中へ走り出していた。

そうして吉原から、牛込柳町まで――。
試衛館に着いたのは、明けの七つにもなろうかと云う頃合だった。
 僅かな物音を聞きつけ起きて来た近藤が、土間で身を拭っていた土方の、水を潜り抜けてきたと云うに相応しいずぶ濡の体(てい)を見、流石に驚きに目を丸くした。
そしてその近藤の口から、宗次郎は、昨日は伊庭道場から戻らず、そのまま堀内家に泊まっているのだと知らされた。
まだ眠りにある家人への配慮から、声を殺しての会話のつもりだったが、その内気配を察した井上もやって来た。
だが此方は濡れた土方を見るや、俄かに思い出したのか、夜が明けたのならば、替えの衣類を持って宗次郎を迎えに行く、その仕度をせねばならないと慌て出した。

結局のところ。
土方自身がその役を受け、こうして迎えに来たのは、宗次郎が堀内家に着いたと聞かされた時刻に、どうにも腑に落ちぬものがあったからだった。
堀内家からの使いが来たのは、もう日が暮れてずいぶん経ち、あまりに遅い宗次郎の帰りを案じた近藤が、自ら探しに出ようとしていた矢先の事だったと云う。
だが神田和泉橋に近い伊庭道場から、堀内家のある番町までを歩くにしては、幾ら人ひとりを案内しながらの道程とは云え、あまりに時が掛かりすぎている。
しかも出掛けても、必ず日暮れ前までには帰る宗次郎である。
昨日とて、いつも通り井上の手伝いに間に合うよう伊庭道場を後にしたと思えば、更にその疑問は深まる。
八郎との間に何かがあったのか、それともその者と出会うまでに、或いは出会った後に、何かがあったのか――。
 当人の無事を聞いても、その時のずれに妙な拘りを捨てきれず、又そんな自分に苛立ちながら、次第に上がり行く雨間から、夜が白み始めるのを待った土方だった。

が、堀内家で、平治の後から出て来た宗次郎を見た瞬間、胸にしこりとなって残っていた疑問よりも先に土方を捉えたのは、伏せがちにした細い頬に刻まれた、濃い疲労の翳りだった。
天は宗次郎に天凛とも云える剣の才を授けたが、同時にその代償のように、あまりに脆い肉体を与えた。
そしてどうやら昨夜の雨は、その宗次郎の脆弱な身体に、又しても酷な土産を残していったようだった。



案じていた懸念がもうひとつ、現となっていた事が、土方の苛立ちを煽る。
「おぶされ」
厳しい物言いの声は、促すのでは無く、否とのいらえを封じ命じるものだった。
だが屈み込んで背を向けても、宗次郎は動こうとはしない。
その様子に、不機嫌を露にして振り向いた土方の視線の先で、戸惑いに瞳を揺らしながらも、宗次郎は小さく首を振る。
「・・歩ける」
声音の調子は弱いが、相変わらず動かぬその姿勢には、頑なに己を貫こうとする強い意志がある。
「そんな顔で帰ったら、近藤さんが案じるぞ。試衛館が見えてきたら、下してやる」
近藤と、その名を出した途端、細い線の面輪が強張り、今度こそ隠しきれない狼狽が走った。
「・・近藤先生には・・」
「知られるのが嫌なら、早くしろ」
それが止めの一言だと十分に承知し言い放ち、再び見せた背に向けて、漸く重い一歩が踏み出されたのが、後ろを見ずとも、気配で察せられた。
やがて宗次郎の心そのもののように、おずおずと、か細い腕が首筋に回されるや、それを待っていたかのように、人ひとり背負うたにしては、あまりに難の無い動きで土方が立ち上がった。


「あいつ・・何と云ったか」
下り坂を終え暫くは平坦な道を行き、そして今度は上り坂にさしかかろうと云う段になって、それまでの気まずい沈黙を破り、土方が背中に向けて問うた。
「あいつって?」
だが即座に返ったいらえの迅速さは、此方から声が掛かるのを、宗次郎が如何に待ち望んでいたかをあからさまに物語り、又その事を隠す術を知らぬ稚さに、土方は胸の裡で苦笑せざるを得ない。
「お前が昨日、拾った奴だ」
「佐瀬さんです。・・でも拾っただなんて」
「なら、お前が拾われたか」
漸く交わし始めた会話ではあったが、あまりに遠慮も容赦も無い物言いに、今度は宗次郎が黙る。
「その佐瀬とか云う奴と、何処で会った?」
だがそんなささやかな抗いなど露ほども意に介せず、不機嫌な物言いは、更に強い調子でいらえを促す。
が、その土方も、それを質した途端、宗次郎の面輪が、硬く強張ったのまでは知る由も無く、俄かに出来た沈黙を、自分への不満の続きだと解釈した。
「どの辺りだったのか、覚えていないのか?」
更に強くなった調子は、不意に頑なな沈黙へと閉じ籠ってしまった者への、苛立ちの表れだった。
「・・・何処か、分からない」
「分からない?」
やがて漏れた声のあまりの気弱さに、流石に土方も歩を緩め、首だけを回して後ろを顧みた。
「雨がひどかったし。・・それに八郎さんの処を出るのが遅くなってしまって。・・・近道をしようとしたら、道に迷ってしまったのです・・だからどの辺りなのか良く覚えていない・・」
ぽつりぽつり語られる言葉の最後は、伏せた瞳と同じように曖昧に途切れた。
土方恋しさに、吉原へ足を向けたのだと――
秘め事を護る為の偽りは、それを是が非でも隠し通さねばならぬ分だけ、語尾が不自然に詰まる。

しかしそれを背中で聞いている土方は、己の胸の裡で、次第に激しくなって来る苛立ちを堪えるのに難儀せざるを得ない。
あまりにぎこちなく、しかも誰にも簡単に見破られる拙い偽りは、しかしだからこそ、真実を知られまいとする、宗次郎の必死を知らしめる。
しかも普段は、危ういとすら思わせる素直過ぎる宗次郎だったが、一旦そうなれば、驚くほどに頑固を貫き通し、遂には周囲の者に諦めの息をつかせる。
ならばどうして、本当を云わせようか・・・
そんな似合わぬ思案にくれる自分の弱気に、土方は忌々しげに舌打ちした。

「土方さん・・」
だがその土方の黙考を、躊躇いがちな小さな声が邪魔をした。
何とは問わず、僅かに視線を後ろに流すと、自分から呼んだにも関わらず、それに合うのを避けるように、深い色の瞳はつと肩口に伏せられてしまった。

「どうした」
殊更愛想の無い調子で応え、再び視線を前に戻してしまったのは、そうしてやる事で、宗次郎の胸の裡にある蟠りを解き放とうとの、土方なりの配慮だった。
「・・あの」
らしくもない事をと、一瞬胸の裡で苦く笑ってはみたが、しかしそれは確かに功を成したようで、今度は先程よりも多少強い調子の声が聞こえてきた。
「佐瀬さんの姉上さまが、吉原から居なくなってしまったのです」
前後を最初っから省いた、唐突と云えばあまりに唐突すぎる言葉に、流石に土方も呆れて振り向いたが、今度は宗次郎も真剣な視線を逸らさない。
「それとお前と、どう云う関係がある」
だが呆気ない程にさらりと返った不機嫌な物言いは、宗次郎に、次の言葉の行き場を見失わせる。
「・・土方さんなら、吉原のことを、詳しく知っていると思ったから・・」
圭吾の姉の事を打ち明けながら、その実聞き出したかったのは、やはり昨夜は吉原に居たのかと――
そう問えぬ、心のずるさの代わりのように、消え行きそうな声の調子と、遂には途切れてしまった言葉が、宗次郎の臆病を物語っていた。

「生憎だったな。俺は吉原で妓(おんな)の顔を覚える程、そうそう遊んじゃいない。それにあそこには、上から下まで、掃いて捨てる程妓はいる。しかも翌日になれば、又増えている」
ちらりと背中を見遣った其処に、思った通り、大きく見張られ此方を凝視している双つの瞳があった。
背に負うている主の、剣の才は天賦と云えど、その分世俗への関心を何処かに置き忘れてしまったような、心許ない様を苦く笑う土方だったが、しかし今宗次郎の胸の裡に、大きな安堵が広がっているのまでは知らない。
 馴染みが出来たのだと云った八郎の言葉に、心の臓を、棘の楔で締め付けられるような思いでいた宗次郎だった。
だが今の土方の何気ない一言は、雁字搦め縛っていたその縄手を、いとも簡単にとき解いてしまった。

「なら八郎さんに聞けば、分かるかな」
一度弾みがついた心は、問う声音にも明るさを戻す。
自分と一つ違いと云えど、土方とは既に良からぬ遊び仲間の八郎は、吉原ではもうそこそこに顔なのだと、以前食客の永倉から聞いた事があった。
それ故、宗次郎は躊躇う事無く、次の希(のぞみ)を其処へ託した。
「どうだかな。足抜けした女の事など、聞いた処で不審がられ、挙句痛くも無い腹を探られるのが落ちだ。伊庭とて、関わりたくは無いだろうさ」
だが容赦の無い土方の言葉は、又しても宗次郎に現の厳しさを教える。
「お前も、余計な事には首を突っ込むな」
更に続けられたのは、命じると言った方が良さそうな強引さで、再び宗次郎を沈黙に籠らせる十分だった。


 上り坂に足を進める土方の歩みの早さは、宗次郎が背にいる事など露ほども意識させ無い。
だが次第に辺りの様子が馴染んだ家屋敷の風景となり、やがて試衛館のある甲良屋敷を囲む板塀が見えてくると、それまで無言でいた宗次郎が身じろいだ。
「試衛館が見えたら、下してくれると云ったっ。自分で、歩きます」
近藤達に己の身の不調を悟られぬよう、その手前で下ろしてくれると云った、最初の約束を護れと訴える言葉の調子は強い。
が、土方は応えず、それまでよりも更に足を早める。
「土方さんっ」
「落ちるぞっ」
抗いの叫びを遮るのは、これも又怒声だった。
「でも、約束したっ」
「そいつの人探しを手伝ってやる、だから動くなっ」
身を捩り、何とか背から下りようとする動きを封じる為、咄嗟に口をついて出てしまった言葉ではあったが、云ってしまったその途端、それが自分でも意外なものであった事に、土方は苦々しげに舌打ちした。
だが己にとっては忌々しい限りの失言でも、宗次郎には即座に効いたようで、背中の動きがぴたりと鎮まった。
「・・本当に?」
そうして問う言葉は、声に出して確かめる事で、今耳に届いた契りが、まるであぶくと消えてしまうのでは無いかと疑うように、恐る恐るの体(てい)で紡がれた。
「破られるのが嫌ならば、暫く大人しくしていろ」
愛想の欠片も、優しさの微塵も無く、不機嫌に云い切ったその刹那、回されていた細い腕が、しがみ付くように土方の首筋に絡んだ。

「熱が、下がってからだぞ」
それを鬱陶しいとは思わず、むしろ縋りつかれた腕に籠もる強さを、妙に愛しいと思う己の不思議を持て余し、背に負う者を戒める土方の声音が、殊更素気無く、まだ朝靄の切れぬ町の静寂に響いた。




 霜月が終わり、師走に足を踏み入れれば、あとはもう一足飛びに、凍てる季節へと景色は様変わる。
そして気の早い江戸の人々は、過ぎ行こうとしている年を振りかえり、その続きのように、今度はすぐ其処まで来ている新たな年を語り始める。
年の瀬を迎えようとしている気忙しさは、場末の小さな道場でも例外では無く、この頃合になれば試衛館にも何とは無しに人の出入りが多くなる。

そんな慌しさの中、出入りする人の足音を、自分とは遠く掛け離れたもののように聞きながら、宗次郎は急いで身繕いを整えた。

 結局あの後、宗次郎は三日床に臥すのを余儀無くされた。
張っていた気は、試衛館につくなり緩んでしまったようで、その直後に又高い熱が出、それがまた中々下がらず、漸く一昨日床上げをしたばかりだった。
臥している間に一度八郎が遣って来たが、宗次郎を見舞うと、直ぐに帰ってしまった。
が、先日の別れ際から胸に重く圧し掛かっていた拘りは、もう八郎の様子からは微塵も感じられず、常と変わらぬ遠慮の無い揶揄に、不満を装いながらも、胸の裡で安堵の息をついた宗次郎だった。

又堀内家には、宗次郎が戻ったその日のうちに、厄介を掛けた事を詫びながら、近藤自らが礼に出向いていた。
その時宗次郎の不調を聞き、堀内も圭吾もひどく案じ、見舞いに行きたいと申し出たが、ひたすら恐縮する近藤の顔を立てる形で、今回はどうにかその場を引いた。
そんな経緯もあり、元気になった姿を見せれば堀内も安堵するだろうと、その人柄を敬服している近藤の言葉に、一も二も無く頷いて、あれから初めて、今日宗次郎は堀内家に圭吾を尋ねる事と成った。
あまり遅くなるなとの井上の言葉に頷いて、門を潜ろうとした宗次郎の足が、しかし見なれた人影が上ってくるのを見止めるや、少しばかり、上半身を前に傾がせるようにして止まった。

――八郎は、驚きに瞳を見張っている宗次郎に気付いても、進める歩の早さは変えず、やがて直ぐ傍らまで来ると、漸く其処で足を止めた。
「堀内さんの処だろう?同道するよ」
声に気負う様子は些かも無く、一言だけ伝えるや、いつもと変わらぬ洒脱な身ごなしで踵を返した背を、宗次郎は暫し呆気に取られて見つめていたが、やがてその姿が、坂の勾配のきつさと比例するように急速に小さくなって行くと、慌てて止めていた足を踏み出し後を追い始めた。

「土方さん、いないんだろう?」
漸く追いついたは良いが、今度は坂を駆け下りた勢いがまだ邪魔をし、歩調を整えるに難儀している傍らの宗次郎には目をくれず、前を向いたまま、八郎は何気ない口調で問う。
「・・いや、あの人の事じゃ、もう堀内さんの処か」
そのいらえも戻らぬ内に、今度は何をか含むような物言いに、宗次郎の瞳が、怪訝に八郎を振り仰いだ。
「何故そんな事を、八郎さんが知っているのです?」
衒う風も無く淡々と語る八郎の横顔を凝視しながら、酷く神経を尖らせる何かが、今宗次郎を、裡から雁字搦めにしてゆく。
「昨夜吉原で会ったのさ。・・その時に、夜が明けたらそのまま、堀内さんの処に寄ると云っていた。帰って来なかったんだろう?あの人」
声を置き忘れてしまったかのように、沈黙の砦を高くしている隣の主をちらりと見遣り、八郎は更に言葉を重ねる。
「・・・吉原。・・土方さん、吉原で八郎さんと一緒だったのですか?」
心の臓が、どくりと音立てたその高鳴りを、知らぬ顔して遣り過ごし言葉を紡ぐと、宗次郎は戦慄く唇の震えを堪えるように、今度は直ぐにそれを噛み締めた。
「いや、会ったのは偶然だ。あの人も、吉原から足抜けした女の事を、探していたんだろうよ」
更に驚くべき事実を、然も無い事のように、八郎は告げる。
 圭吾と、彼が姉を探している一件については、二人の出会いが伊庭家からの帰り道であった事でもあり、見舞ってくれた折に、宗次郎は、八郎に簡単に事情を説明していた。
だがもう水のひと滴(しずく)も残っていない、乾いた喉に貼り付ついてしまった声は掠れ、宗次郎の激しい動揺を意地悪く露にする。
「佐瀬さんの、お姉さんの事を探してくれていたのかな・・」
「らしいな。志乃とか云っていたな・・そいつの姉」
相変わらず視線を前に置いたまま語る八郎の横で、宗次郎は無言で頷いた。

――確かに。
土方は、探すのを手伝ってくれると約束した。
そしてそれを聞いた寸座、思いもよらぬ嬉しさに、負われた背の首筋に強く縋りついてしまった自分だった。
が、その時、事を調べるに当り、土方が吉原に足を向けなければならない事柄を、ただ悦びひと色に染められてしまった宗次郎の思考は、見事に弾いてしまっていた。
考えてみれば、それはごく自然の成り行きであるのに、そんな事すら失念していた自分の愚かさに、宗次郎は唇を噛み締めた。
昨日土方が戻らなかったのは、吉原に居たからなのだと・・・
改めてそう知れば、息苦しい程に胸が痛い。


「佐瀬志乃・・吉原での名は里乃。元は富屋と云う中見世の遊女だったそうだ。・・が、その後何度か店を変わっている」
だが俯き加減に自分の足元を見て歩く、横の主の心にある鬱積を知ってか知らずか、八郎は遠慮無く先を続ける。
一瞬自分の思考に籠もってしまった宗次郎だったが、又しても衝撃的な言葉に、慌てて隣の八郎を仰ぎ見た。
「八郎さん、聞いてくれたのですかっ?」
中見世と教えられても、宗次郎には何の事だとは分からない。
だが先日見舞いに来てくれた折に、ほんの一言か二言、圭吾とその姉の事情を話したそれを忘れずにいてくれたばかりか、もう手がかりを得て来てくれた八郎に、宗次郎は感謝よりも先に驚きの目を向けた。
しかもその時、吉原は広いのかと問うた自分に、つまらぬ事を聞くなと、八郎はうんざりと嘯(うそぶ)き顔を顰めた。
だから宗次郎にとって、あれだけ露骨に、関わる事に嫌そうな態度を取りながらも、煩わしい手間暇を掛けて聞いてくれたのであろう八郎の好意が、俄かには信じ難い。
信じがたいが・・・
何よりも嬉しい。
「が、今年の春先に、其処を足抜けしている」
「佐瀬さんも、同じ事を言っていた」
面倒そうに告げる、端正な横顔を見上げた宗次郎の声が弾む。
「お前、足抜けと云う意味を、知っているのか?」
だが邪気の無いいらえは、そのまま、この者の、あまりに疎い世間を八郎に知らしめ、憂鬱の溜息をつかせる。
それが、つい言葉の調子に出た。
「足抜けってのはな、見つかりゃ地獄の釜で焚かれるよりも、惨い仕打ちが待っている。逃げる途中でしくじり、捕まって現の修羅を見るならばと、自ら喉を突く女もいる」
無残な現実を告げる言葉に、宗次郎の面輪がみるみる強張るのが、前を向いたままの八郎の視界の端に映る。

「・・けれど」
しかし一度息を切り、そして再び見上げた深い色の瞳が、しかと八郎を捉えた。
「佐瀬さんのお姉さんは、逃げ切れたのでしょう?」
「らしいな。相手と上手く逃げたのだろうよ」
「・・相手?」
「足抜けしたのは、惚れた男と一緒になりたいが為だったらしい」
今度こそ息を呑んだまま言葉の無い宗次郎を、漸く八郎が、視線だけで捉えた。
「驚く事じゃないだろう。遊女が足抜けしたんだ。裏に男がいて当然と、誰もが思う事だ。お前、世間知らずも大概にしろよ」
ひとつ年下とは到底云い難い宗次郎の、ある種危うい程の世間への疎さを、八郎はそんな言葉で揶揄した。

「・・佐瀬さんは、知っているのだろうか」
だがそれすら届いていないように、やがてぽつりと淡い色の唇から漏れた言葉は、真実を知った時、圭吾が受けるであろう衝撃を案じるものだった。
「今頃土方さんが、話しているだろうさ。あの人もこの程度の事は探れた筈だ」
佐瀬圭吾と云う男の心中を慮り、憂いを隠さぬ想い人に、俄かに憤る己を抑えつつ、八郎は殊更素気無いいらえを返した。
が、八郎によって告げられる土方の名も又、圭吾を案じる宗次郎の胸の裡に、鋭い針となって突き刺さる。
吉原でどんな手蔓を使い、どんな言葉で口説き、どんな風に笑い、そして誰の口からその事を知りえたのか――
心の臓まで止まってしまいそうな息苦しさを、面に出すまいと、今宗次郎はそっと唇を噛み締める。
そしてその宗次郎の硬質な横顔に浮んだ一瞬の変化を見逃さず、八郎も同時に、己の苛立ちを強くせざるを得ない。

――あの日。
宗次郎が家を出たのは、夕刻にはまだ十分に時がある頃合だった。
そして佐瀬圭吾と云う輩と出会い、それを案内しながら番町の堀内家に着いたのは、既に暮れ六つを過ぎていたと、土方は云った。
そのあまりに長い時の経過を、土方は不審としているらしかったが、聞いた途端、八郎の裡で、嫉妬の熾き火は業火となり、それが天を舐める勢いで燃え立った。
宗次郎は、吉原に行ったのだと。
土方恋しさに、矢も盾もたまらず、足は泥濘を蹴り、水飛沫を上げながら吉原へ向かったに相違無いと――
それをすぐさま確信に変え、そして宗次郎が唯一追う背は土方であると云う、改めて突き付けられた真実に、憎悪に近い嫉妬を覚えた八郎だった。
そしてその残り火は、今も胸に燻るり続ける。


互いに交わす言葉も無く、暫し無言の道程が続いていたが、何を思ったか、ふと宗次郎が立ち止まった。
「どうした」
それに気付いた八郎が、もう下りも仕舞の坂で、同じように足を止めた。
「佐瀬さん、この間、お姉さんからの便りは、今年の夏が最後だったと云っていた。それならば、足抜けしたずっと後だ」
「無事に、男と暮らしているのだろうよ」
八郎のいらえは、相変わらず気が無い。
「でも佐瀬さんのお姉さんは、佐瀬さんの勉学の為に吉原に身を売ったのです。だから其処を逃げても、佐瀬さんの事をずっと気に掛けていた・・けれどどうして、その後文が続かなかったのだろう・・」
「苦界に身を堕したのは弟の為とは云え、好いた男が出来ればそれに靡くのは、仕方の無い事だ。男に金が必要となれば、其方を優先するだろうさ」
身も蓋も無い、あまりに容赦の無い云い様に、常とは違う八郎の何かを感じ取り、宗次郎は次の言葉を捜しあぐねる。
だがそれが、こんな風にでもして不機嫌を装う他、胸に逆巻く嫉妬を隠しきれない八郎の若さだとは、宗次郎に知る術は無い。
「急がないと、土方さんとすれ違いになるぞ」
常と少しも変わらぬ涼しい顔をして、恋敵の名を出すのがせめてもの矜持と、己のつまらぬ意地を自嘲しながら、八郎は止めていた足を踏み出した。


 後を追って来る主の、深い色の瞳が映し出しているのは、視界に在る自分の背では無く、今は此処にはいない人間のものだと思えば、裡に燻る嫉妬は、再び八郎に恋情の焔を煽りたてる。
この修羅は、一体いつまで続くのか。
大事にしてやりたいと、慈しんでやりたいと、そう相手を想う心を時に大きく超えて、若い身は、本能のまま欲情の滾りを迸らせようとする。
宗次郎の身を裂き、猛る侭に己を刻み込み、お前は自分のものなのだと、そう知らしめてやりたいと――
否、振り向こうとしないのならば、無体を承知で掌中に仕舞い込んでしまいたいと――

ともすれば若い欲望に負けてしまいそうになる自分を封じるように、八郎は歩み足を早くした。








きりリクの部屋   雪圍U(四)