雪圍 U (四) 「・・何方か、いらっしゃらないのでしょうか?」 「待たせしてすまぬ、すまぬ」 前よりは少し大きくして伺いを立てる声に、ようやっと奥から堀内のいらえがしたのと、もうひとつ、これとは別に小刻みな足音が、此方は建物の外から聞こえて来たのが同時だった。 「宗次郎殿ではないか。もう出歩いても大事無いのだろうか?・・・今日は、伊庭殿もご一緒か?」 相手が宗次郎と知ると、堀内は質すように声を厳しくしたが、それも一瞬の事で、すぐに土間に佇んでいる華奢な身の主と、更にその後ろに立つ若者の姿を捉えている眸を細めた。 が、今度はその言葉も終わらぬ内に、何やら仕事の最中だったらしい平治が、庭を回って駆け込んできた。 「平治、すまぬが茶をふたつ、座敷に運んでくれんか。どうやらこれで皆が揃ったようだ」 その平治に鷹揚に告げると、堀内自身はこうなる事を承知していたのか、やがてゆっくりと二人に視線を戻した。 「さぁ、二人ともそんな処に立っていないで上がられよ。土方殿もお待ちかねだ」 浮かべた笑みはそのままに、穏やかな語り口で云い終え、続きは奥でと暗に告げる堀内の同じ口から出た、土方と云うその一言に追い立てられるよう、宗次郎の足がつと前に出た。 堀内が先に立って案内する客間は、手入れの良い中庭に面する廊下を、ぐるりと回って行く。 其処は滅多に他人を通す事は無いらしく、幾度か訪れた事のある宗次郎も、そんな処に部屋があったのかと改めて知る、建物の奥まった場所にあった。 「そろそろ雪圍の支度をせねばならぬ故、今日はその前の、剪定に来て貰っている」 歩きながら、時折聞こえてくる規則正しい音の正体が、どうやら庭木を剪定している鋏のそれだと気づき、ではその庭師を見つけようと、つい視線を巡らせた宗次郎の様子を、広い背中は難無く察したのか、ゆるりと振り返った堀内が、和やかな眼差しを向けた。 「雪圍?」 「左様。江戸の降雪は、雪国のそれには及びもつかないが、それでも大雪になれば細い枝は重みに耐えかね折れてしまう。他に比べれば、ずいぶんと簡単なものだが、春に花を愛でたいと思えば、この位の手間暇は致し方の無いこと。が、自分がやる訳では無いから、そう偉そうにも云えぬが・・」 「ではあの櫻も?」 雪圍をするのかと、宗次郎が問うたのは、この家の裏庭の、欅の大木の陰になり凡そ日当たりの悪い位置に在る、細い櫻の木の事を指していた。 その櫻の花見に、今年卯月も終わろうかとしている頃、土方と二人で招かれ遣って来たのが、この屋敷の門を潜った最初だった。 傍から見れば、春の仕舞いに間に合わなかった狂い咲きかと笑われそうな遅い櫻は、蕾も花も、全てが白と見紛う薄く淡い色合いだった。 しかし絢爛と云うには程遠く、真昼でもろくに陽の当たらぬ日陰に、ひっそりと忍ぶように花を綻ばせているその櫻の靭さを、宗次郎はある種の感慨を持って、飽く事無く見つめていた。 そしてその時の思いは、未だ昨日の事のように覚えている。 「勿論。あの櫻にこそ、念入りに冬の支度をしてやらねばならぬ。前のような事には、ならぬようにな」 その宗次郎を、今一度肩越しにちらりと見遣り、含み笑いで返ったいらえは、それが昨年の丁度この時期、たまたま出入りの植木職人が腰を痛め、堀内自らがその櫻の木に雪圍を施した事を云っていた。 が、所詮素人の見よう見まね。結局汗をかいての努力は何の役に立たず、挙句の果てに、雪の重みに耐え兼ねた細い枝のひとつが折れかかり、ようよう繋げて貰ったと云う、惨憺たる結果に終わってしまった。 苦笑にも似た笑いは、その己の不器用を自嘲するものだった。 「又来年、花を咲かせた姿を、宗次郎殿に見て欲しいと、櫻も思うている事だろう」 照れ隠しにも似た、今度は豪快な笑い声に、宗次郎の面輪にもつられるような笑みが浮んだ。 渡り廊下の突き当たりにあるその室は、他の座敷のように襖で繋がってはおらず、ひとつだけ土壁で仕切られている所為か、丁度離れのように独立し、こじんまりとした静かな趣がある。 そして外に向け開け放たれた障子からは、満遍なく陽が室に入り込み、その明るさが、中の者に、一種安寧とした開放感を与える。 ――閉鎖と開放。 本来ならば相反する筈のその二つが、何故か心地良い調和を醸し出している不思議を、ぼんやりと思考の隅に置きながら、今宗次郎は、男二人が吉原で得てきた話しを、緊張の中で聞いている。 「では志乃殿が吉原から姿を消した時は、ひとりでは無かったと云われるのか」 土方と八郎によって得た全てが語り終えられた後、一瞬できた沈黙の狭間を、堀内が静かに裂いた。 そしてその声には、横で面差しを硬くしている佐瀬圭吾へ、逸らす事の出来ぬ現の真実を知らしめる厳しさと、同時に、それによって受ける衝撃を、己の掌中に包んでしまうかのような大きさがあった。 「俺に教えた相手は、里乃・・・佐瀬さんの姉上殿の吉原での名だが、その里乃が吉原を抜けたのは、弥生に月が変わって直ぐとの事だと云っていた。が、一緒に逃げた相手とは、多分昨年の秋頃から、関係ができていたのではなかろうかとも云っていた」 己の目で耳で口で知り得て来た、一言一言を、思慮深く言葉にしたのは八郎だった。 「相手の事を、もっと詳しく知る者はいないのだろうか?」 その八郎に、堀内は、更に広く確かな情報を求める。 「里乃と云う女、・・どうやら、そいつを匿っていた節がある」 「匿う、とは?どういう事だろうか」 淡々と告げる土方の低い声に、堀内の眉根が、その先を憂慮して寄せられた。 「女の方が男を匿い、貢いでいたとのでは無いかと云う者がいた」 「では相手は客ではなく、志乃殿とは、純粋に恋仲であったと云われるのか」 「だろうな。客としての馴染みならば、店の者は元より、他にも知っている人間は多いだろう。しかも足抜けした後になっても、男の正体は誰も知らず、何の手掛かりも得られない。・・・言換えれば、それ程までにして、男は己の正体を隠さねばならず、里乃も又、男の存在を外に知れぬようにしなければならなかった」 土方と八郎、そして堀内の遣り取りを聞きながら、宗次郎は、先程から身じろぎもせずにいる圭吾に、一度視線を移した。 そしてそうする事で己を鼓舞するかのように、形の良い唇が躊躇いがちに開いた。 「佐瀬さんの姉上さまが吉原を抜けたのは、春先の事でしょう?けれど佐瀬さんの姉上さまは、佐瀬さんへ宛てた文を、今年の夏に送っているのです。だから吉原を去った後も、きっと無事でいられる筈です」 それ故案ずる事は無いのだと、圭吾を励ます声音は、力の籠もる分だけ上ずる。 「それは、真(まこと)か?」 堀内の問いに、圭吾が無言で頷いた。 「今年の夏の終わりにあったのが、最後の便りでした」 「その間は?春からこっち、何か便りがあったんだろう?」 「二度ありました。・・一度目は春の終わり。吉原から居なくなった頃と符合します。そして二度目は梅雨の季節でした」 衒いの無い八郎の物言いは、互いに今日が初めての顔合わせであっても、不思議と相手の緊張を解かせる。 更に同い年の親しさか、語る声音は、それまでの硬さから幾分開放され、何処か柔らかさすら感じさせた。 「その文の中で、何処か変わった様子は無かったのかえ?」 「姉は、元々文字を書くのが、得手ではありません。ですから寄越すものはいつも、仮名を幾つか並べたような短いもので、その中から不審を察する事までは出来ませんでした」 自分の姉の浅学を、臆する事も無く、又恥じる素振りの少しも無く、圭吾は八郎の問いに真摯な面差しで応える。 初めて遇ったあの日、圭吾は、早くに両親を亡くし、姉弟二人で、その日を食べて行くに精一杯の境遇の中、不意に訪れた弟の僥倖を必死に護ろうと、姉の志乃は江戸に働きに出、遂には吉原に身を売ったのだと宗次郎に語った。 その圭吾にとって、どのような境遇に身を堕とそうが、姉はいつまでも憧憬であり、誇るべき存在なのだろう。 そして同時にそれは、宗次郎の裡にある、自分の姉達への思いと全く同じものだった。 だから宗次郎には、姉を案じるあまり、遂に国元を飛び出してきた圭吾の焦燥と不安を、我が身と重ね合わせて知る事が出来る。 「匿っていた・・か」 だがその宗次郎の感傷を、八郎の低い声が断ち切った。 「しかも廓の人間が、一様に男の存在すら知らなかったと云う。・・不自然すぎるな。・・相手に、人の目に晒されるに、不都合があったとしか思えない」 宙に視線を据え、初め物憂く呟いた独り語りは、次に黙している者達へと視線を戻した時には、揺るぎ無い確信となり、同時に、八郎の面に浮かんでいたのは、その事情を簡単なものでは無いと判じ憂慮する色だった。 「事情・・・とは、その者が誰かに追われているか、若しくは、身元や顔を知られてはならない状況にあったと云う事だろうか?」 「ひとりだけ、確かな事は分からぬが、相手は武士だったのでは無いかと云った奴がいた」 己の思考を纏めるかのように、ゆっくりと問う堀内に応えたのは、八郎では無く、意外にも土方だった。 「武士?」 訝しげな反復には軽く頷き、そのまま土方は、ちらりと圭吾に視線を流した。 そうして視界の端で捉えた若い面差しが、この先、例えどのような事実を告げられようが、凛として受け入れられる強靭さを秘めているのを確かめると、徐に口を開いた。 「俺にそう教えたのは、里乃がいた店の下働きの爺さんだ。・・・二度その男を見た事があると云っていた。一度目は昨年の暮れ、店の裏手で里乃が金を渡している処を、偶然見たそうだ」 もう幾度も耳にした筈なのに、里乃と云う名で呼ばれる度に、姉はこの江戸で、自分には知り得ない世界にいたのだと、改めて突きつけられる現実に、圭吾の面が僅かに強張る。 が、それも錯覚かと見紛う一瞬の事で、直ぐに涼しげな双つの目が、新たな真実を求めて、土方に向けられた。 そしてその覚悟を待っていたかのように、再び土方の唇が動いた。 「二度目は、今年弥生三日。使いで偶さか通りかかった日比谷門近くで、血刀下げて走り去るその男を見たと云った」 「・・弥生三日。・・ではっ」 思いも掛けぬ言葉に、片膝立ちになった堀内に、土方は視線だけを動かすと、浅く顎を引き是と頷いた。 「・・・井伊大老が、殺られた日か・・。ならば相手の男は、水戸か薩摩の浪士だったと云う事か」 其処に行き着くとは、流石に思ってはいなかったようで、呟いた八郎の声音も俄かに緊張したものになった。 ――万延元年、弥生三日。 開国へと踏み切った大老井伊直弼による攘夷派の一掃、そしてその攘夷を強く唱える水戸藩等への弾圧を不服として、一部の水戸浪士と、同じ志を持つ薩摩浪士が、大老襲撃と云う暴挙に走った。 この日早朝、登城すべく井伊家上屋敷を、直弼を乗せた駕籠が出た寸座、合図の短銃の音と共に白鉢巻白襷の、数にして二十人足らずの浪士達は、総勢八十余人の行列に向かい、白刃を片手に雄叫びを上げながら突進した。 やがて紅い血潮を白く塗りつぶしてしまう雪の中の惨事は、天から降りる氷の礫が、地に染み入る間もない、あまりの呆気なさで終焉を告げ、彦根藩主である大老井伊直弼は暗殺された。 そしてこの事件を切欠に、幕府の本質的な瓦解と、そして幕末と云う時代の動乱が始まったのだった。 此れが後の世に云う、桜田門外の変である。 「幕府は、かの事件に加担して生き残った襲撃浪士達の行方を、今血眼になって探している」 堀内の言葉の重さにあるものは、己の寓居と然して遠くは無い、否、むしろ近いと云える場で、幕府に牙向く殺戮が、白昼堂々と行われた事実を、一旗本として、憤り憂えるものだった。 「だとしたら、相手の男の正体を、里乃が必死になって隠していたと云うのも合点がいく。・・・襲撃に加わった浪士達は、あの一件を成就させるにあたり、かなり以前から江戸に潜み、緻密な計画を練っていたらしい。だが幕府も、手をこまねいて悔しがるばかりの莫迦じゃない。逃げた奴等の事は、既に散々調べ尽くしているだろう。だから巻き込まれてしまった里乃も、相手の男が捕縛される前に、共に姿をくらまさざるを得なかった」 己の脳裏の中で、絡まった糸をひとつひとつ解きほぐし、そして又絡ませ・・・ 其処から如何に動くべきかを探り出そうとしているような、八郎の慎重な呟きだった。 「・・いずれにせよ、早いとこ見つけ出さねば、ならないだろう」 そして更に重ねられた堀内の言葉は、これまでの話の経緯(いきさつ)から、多分まだその男を匿いながら、共に逃亡を続けているのであろう、志乃が置かれた立場への危険を危惧するものだった。 庭を包み込む、煌く光の柔らかさに、暮秋の閑寂さを包み込んだ陽射しの中、規則正しく刻まれる小気味の良い鋏の音が、室を支配している重い沈黙に、不思議と違和感無く響く。 だがその穏やかさは、自分の心に、堪えようも無く圧し掛かる不吉な懸念と、何と相反するものである事か――。 そんな事を思いながら宗次郎は、聞かされた全てを、今必死に光ある先へと変えようとしているのであろう、佐瀬圭吾の硬い横顔を見つめていた。 緩やかな坂道の、丁度この辺りで、あの背に負われたのだと―― 振り返らない後姿に続きながら、たった数日前のそんな事すら懐かしいと思えてしまうのは、又ひとつ、自分の裡に拘りが出来てしまったからなのなのだと、宗次郎は先を行く広い背に視線を止めたまま瞬きひとつしない。 例えその理由が、圭吾の姉の一件を探る為に、否、自分の希を叶えてくれるが為のものであっても、昨夜土方が帰ってこなかったのは、吉原で誰かと共に居たからなのだと知れば、宗次郎の胸の裡は、鋭い獣の爪で抉られ、引き裂かれるような辛さに苛まれる。 だが一番忌み嫌うべきは、こんな時ですら嫉妬に駆り立てられずにはいられない、おぞましく強欲な自分だった。 「お前が案じても、どうにもならん事だろう」 だが自虐の中に己を閉じ籠めてしまっていた宗次郎を、強引に現へと呼び戻したのは、何時の間にか足を止め、此方を振り返っていた土方の声だった。 その刹那、今の今まで渦巻いていた、おどろおどろしい己の心を見透かされたのでは無いかと怯んだ宗次郎の瞳が大きく見張られ、心の臓が、どくりと冷たい音を刻んだ。 「何を驚いている」 その場に縫い付けられてしまったかのように身じろぎせず、面輪を強張らせている様に、流石に土方も眉根を寄せた。 「・・・急に、立ち止まるから・・」 ようよう唇をついて出た言い訳は、まだ早鐘のように打つ鼓動が邪魔をし、声が掠れる。 「どんなに案じた処で、所詮俺達が出来る事には、限りがある」 うんざりと漏れた土方の調子は、堀内家を辞してから此方、宗次郎が黙りこくったままなのは、全ての思考を、佐瀬圭吾の姉志乃の一件に集めている所為だと、判じた為らしかった。 「では土方さんは、佐瀬さんの姉上さまは、見つからないと云うのですか?」 つい今しがたまで囚われていた拘りを隠して問う言葉は、胸に秘めるものが重い分だけ、それを悟られまいとの焦燥が、調子を強くする。 「見つからないとは云っていない。だがその役を為すのは、お前では無いと云う事だ」 もうこれ以上は問うなと云わんばかりの突き放した物言いに、抗いをあからさまにして、宗次郎の瞳に勝気な色が浮かんだ。 「行くぞ」 だがそんなものなど全く意に介する風も無く、土方は背を向ける。 それでも暫く、その背を見つめていた宗次郎だったが、土方にもう振り返る意志の無い事を知ると、漸く緩慢な仕草で、止めていた足を踏み出した。 近藤の妻女ツネの実家の父で松井八十五郎から、先日川崎の大師まで詣でてきた土産だと、薄皮の饅頭が届けられたのは、その翌日の事だった。 それには、誰もが将来を嘱望する天凛の持ち主でありながら、その頼りない見かけ故か、はたまた剣術家として名を馳せるにしては、大人しすぎる気質故か、未だ少年の風情を抜け切れぬ内弟子へとの添え状が付いており、包みを見ているだけで、八十五郎の人の良い笑い顔が目に浮ぶようだった。 元は一ツ橋家の家臣であった八十五郎は、娘婿である近藤の気質と将来(さき)を大層買っていたが、その愛弟子である宗次郎には、そう云った堅さを越え、例えれば、身内の世話をやくような親しい接し方をしていた。 今日の饅頭も、そんな日頃の顕れだった。 だが貰ったばかりのそれを、宗次郎は迷う事無く、堀内家に居る圭吾にも届けたいと、近藤に願い出た。 そしてその願いを、近藤は厳つい顔に笑みを浮かべ、即座に承知した。 この試衛館で年上の者ばかりに囲まれての生活は、宗次郎から、同じ年頃の者と接する機会を、知らぬ内に削ぎとっていた。 そう云う意味では、ひとつ上の八郎は、いずれは心形刀流の後継者と目される立場からか、年よりも大分大人びており、共にいる姿を見るにつけ、宗次郎がひどく幼く思える。 そんな感傷もあり、宗次郎が圭吾と云う友人を得た事は、師として、そして幼い頃から宗次郎を見守ってきた者として、喜ばしい事だった。 二つ返事で頷いたのも、常に胸にあった懸念の裏返しだった。 だが近藤は、昨日土方と八郎から聞かされた事実に、圭吾が受けたであろう衝撃を憂慮している宗次郎が、どうにも落ち着かぬ自分を持て余していた処へ、丁度もたらされたこの出来事を、これ幸いに都合の良い理由に使ったとまでは知らない。 そうして。 偽りを言う後ろめたさに少々気後れしながら、宗次郎が試衛館を出たのは、まだ昼も過ぎたばかりの、天道が一番高い位置に在る頃合であった。 昨日、行きは八郎と並んで下り、帰りは土方の後ろについて上った坂を、今日は独りで行く宗次郎の心の裡にあるのは、如何ばかりに沈んでいるであろう圭吾の胸中と、その姉の行方を案じる思いだけだった。 昨日はろくに圭吾と話す間も無く、堀内家を辞さなければならなかった。 そうした後悔と焦燥が、宗次郎の足を急がせる。 が、その歩みが不意に緩んだと思うや、今度はそれから暫くも行かぬ内に立ち止まってしまったのは、辺りの閑静を邪魔するでも無く、何処(いずこ)からかしら聞こえてくる、聞き慣れた音の所為だった。 屋敷が連なるこの辺りは植木屋が枝を剪定している鋏の音など、然して珍しいものでは無いが、宗次郎が気に留めたのは、確かにその音に聞き覚えがあったからだった。 規則正しく几帳面な、それでいて時折大胆に枝を切る音は、昨日堀内家で聞いたものに紛れも無かった。 何を根拠にと問われれば応えに窮するが、しかし宗次郎の耳は違(たが)える事無く、今聞こえてくる音と、昨日のそれが、同一の者の手からなるものだと判じ分けた。 音を作り出す者の姿を探そうと経た時は、二度三度視線を宙に巡らした、ごくごく僅かな間だったが、しかしそうして相手を見つけた処で、一体何と声を掛け、何を会話するつもりだったのかと・・・ はたと気付いた途端、己の浅慮に、宗次郎は耳朶まで朱に染めた。 そんな自分の愚かさに八つ当たり、苛立つように乱暴に踏み出そうとした足が、しかし再び止まった。 やがて今度は行き場を決めていたかのように、真っ直ぐに斜め上を振り仰いだ深い色の瞳が、塀を越え、見事な枝を往来にまで伸ばしている楓の木の上から、此方を見ている人の影を捉えた。 梯子に昇っている関係で、二人の間に高低差は有るが、距離はそう離れている訳では無い。 それが宗次郎を、不思議な親しさと安堵感へ誘う。 「あの・・」 意を決して掛けた声に、此方を見ている、五十も半ばかと思われる職人が、目を瞬くのが分かった。 「昨日堀内さまのお屋敷に、いらっしゃらなかったでしょうか?」 初老の男は、見知らぬ少年からの突然の問いに、流石に面食らったようで、暫し目を丸くして宗次郎を見下ろしていたが、直ぐにそれが、番町の堀内左近の屋敷の事だと気付くと、慌てて梯子を降り、木戸を潜って往来にまで出て来た。 「良くお分かりなすった」 腰に付けていた手拭を取りながら笑いかけた顔は、目尻に深く刻まれた皺が、どちらかと云えば頑固者の風情を、たちまち人懐っこいものに変えてしまう。 「時々、大きさは違っていても、鋏の音が、いつも同じ間合いで音を刻んでいたのです。だから昨日聞いた人のと同じだと、分かりました」 自分の勘が当たった事を嬉しそうに語る宗次郎に、男が驚きの目を向けた。 「ほぅ、そんな風に聞こえましたかい?」 それに又笑いながら頷く面輪を、男は、今度はしげしげと見つめた。 何処をどう贔屓目に見ても、目の前の少年は、それ程研ぎ澄まされた観察力、洞察力の持ち主だとは思えない。 それどころか、笑みを浮かべている面輪からも、見るからに頼りなげな風姿からも、射す陽の耀さ強さに負けてしまうかと思う程に、儚い印象を受ける。 「今日は、堀内さまの処には行かないのですか?」 だが相手のそんな胸中など知る筈も無く、どうにも合点の行かぬ不思議さに囚われたまま、難しい顔で考え込んでしまている植木屋を、宗次郎の屈託の無い声が現に呼び戻す。 「・・へっ?堀内さまの処ですかい?」 「はい」 笑って頷く顔には、何処までも邪気が無い。 「堀内さまの庭の手入れは、今度はもう少し先になりやす」 「ではその時に、雪圍をするのですか?」 「良くご存知で」 胸に在る興味を隠せず急(せ)いて問う様の、これは容姿と相まった稚さなさに、皺の目立つ面が、漸く破顔一笑した。 「堀内さまの裏庭にある桜にも、霜が厚く降りない内に施してやりたいんですが、何分今日から五日は動きが取れませんでねぇ」 それが何とも忌々しいらしく、植木屋の顔が顰められた。 「植木屋同士の義理ってのがありやしてね。どうやら今年の冬は寒くなりそうだってんで、吉原の植木の手入れを先にやる事になっちまって・・それにあっし等みたいなもんも、借り出されるんですよ」 話し出せば気さくな質らしく、植木屋は更に不満げに自分の仕事を邪魔される文句を連ねた。 「吉原・・?」 だが宗次郎の瞳が、その言葉を聞いた途端、大きく見張られた。 「植木屋さんは、吉原へも仕事に行くのですか?」 「・・へぇ」 突然、身を乗り出すようにして問う宗次郎の勢いに呑まれ、植木屋のいらえが戸惑う。 「いつもいつもって訳じゃありやせんが、これも仕事仲間から頼まれりゃ、嫌とは云えない浮世の義理って奴でっさ。春夏秋冬・・ひぃふぅみぃよぉ・・一年に、嫌でも四回は足を運ばなけりゃなりませんや」 「あのっ・・佐瀬志乃さんっ・・いえ、里乃さんと云う女の人を知らないでしょうか?吉原で働いていたのです」 説明するのももどかしげに、宗次郎の問いは性急だった。 「坊ちゃん、吉原って処がえらく広いのは、ご存知でやしょう?あっし等みたいに、一年に数える程しか足を踏み入れない職人に、あそこで働く人間の、ひとりひとりを覚えろってのは、逆立ちしたって無理な話でっさ」 まだ世間の何たるかを、経験では無く、人の言の葉でしか知らないのであろう少年に諭す口調は柔らかい。 「里乃・・とか云いましたかい?店は何処か分かりやすか?」 それでも、これきりで話を仕舞いにしてしまうには気の毒と思ったのか、植木屋の形ばかりの問いに、萎えた花のように気落ちした風情で首を振る宗次郎を見るや、横に張った大きな口から、諦めの小さな息が漏れた。 「それじゃ、見つけるのは無理ってもんでっさ」 「いえ、吉原にはもういないのです。半年前に、足抜けをしたと云うのです」 「足抜け?」 戻ったいらえの意外さに、植木屋の幾分白いものが混じった眉根が怪訝に寄せられ、同時に、声が険しくくぐもった。 「その後二度だけ文があったのですが、夏からは全く手がかりが掴めなくなってしまって・・。だからもしも植木屋さんが里乃と云う人の事を知っていて、何処かで見かけていたらと思ったのです」 何とか偶然の僥倖を掴もうと諦めず、宗次郎は執拗に食い下がる。 「里乃・・ねぇ」 そのあまりの必死は、相手にも十分に通じたようで、植木屋は腕を組み、どうやら自分の思考をその名に集めてしまったようだった。 「どんな小さな事でも良いのです、里乃さんは・・」 更に畳みかけるようにして、言葉は宗次郎の唇から零れ出たが、しかしそれが不意に止まり、その寸座、植木屋が一瞬驚きに息を呑む程の俊敏な身ごなしで、華奢な身体が後ろを向いた。 だがつられるように、其方へ視線を向けた植木屋の目が捉えた像に、皺の刻まれた顔が強張った。 何時の間にかやって来ていたのは、役人だった。 「元吉原の遊女、里乃。懐かしい名を聞いたものだ。・・お前とは、どう云う関係だ」 十手を手にした同心は、ゆったりとした足取りで、後ろに岡引とめぼしき小柄な男を従え、そうする事で殊更相手を威嚇するような、高圧的な物言いで此方に近づいて来る。 例え役人と云えど、本来ならば見知らぬ相手には警戒を解く事など無い宗次郎が、この時ばかりは、相手から発せられた里乃と云う名に我を忘れた。 「里乃さんを、知っているのですかっ?」 「知らなくも、無い」 問うた宗次郎に、相手は唇の端だけに薄い笑みを浮かべた。 「里乃と云う人を、探しているのです。知っていたら、教えて下さい」 「そう云うお前は?何故里乃を探す?」 声に、何処か陰湿さが孕まれているのを、掴みかけた手掛かりを逃すまいと必死の宗次郎は気付かない。 「あの・・」 途端に口籠ってしまった様を、男は何かを探るような目で見ている。 「弟なのです」 「弟?」 訝しげに繰り返えされた声に、硬い表情の面差しが、躊躇いがちに頷いた。 咄嗟に漏れた言葉は、宗次郎自身でも驚くものだった。 だが全くの他人と応えるよりは、弟と名乗った方が、少しでも詳しい真実が語られるだろうと、宗次郎の焦りはぎこちない偽りを続けさせる。 「佐瀬圭吾と言います、姉は佐瀬志乃です。吉原では、里乃と云われていました」 そして何よりも宗次郎から警戒を削ぎ取ってしまったのは、相手が役人であると云う安堵感であったのも、否めない事実だった。 が、天中に在る天道が、不意に流れて来た雲に隠され、それまで満遍なく降り注いでいた陽が、突然切りとられたように地を翳らせるのにも似て、何気ない日常の狭間にこそ、思いも寄らぬ歪があるのを、宗次郎はまだ知らない。 「姉の事を知っているのならば、教えて下さい」 食い下がる宗次郎を、男は、暫し値踏みするように見ていたが、やがて手にしていた十手を腰帯に差すと、浮かべていた笑みを引き真顔になった。 「里乃の一件に関しては、俺にも色々と関わりがあってな・・・立ち話も何だ、取合えず番所で聞こう」 云い終えるや向けられた背の主は、相手は必ずやついてくると決め付け、ゆっくりと先へ歩を踏み出した。 「・・坊ちゃん」 植木屋の主は、宗次郎を見、そして難しげに首を振った。 ついて行くなと、暗に告げるその眼差しを、だが宗次郎は見ぬ振りをした。 「仕事の手を止めてしまって、申し訳ありませんでした」 丁寧に腰を折った華奢な身が、形の良い礼をすると、植木屋が更に止める言葉を掛ける間も無く、薄い背は、黒羽織の下に黄八丈を着流した後姿を追って走り始めた。 |