雪圍U (五) 「奉行所同心?」 植木屋松五郎を見捉えて問う堀内左近の双眸に、険しいものが宿る。 一旦は宗次郎の背を見送り、仕事に戻った松五郎だったが、どうにも落ち着かなく、気がかりは益々膨れ上がり、四半刻もせぬ内には、握る鋏の具合にも支障が出るまでになってしまった。 もうそうなれば一本気の気性の主は仕事など後回しで、やおら法被を脱ぎすてると、後は若い者に任せ、ねじり鉢巻もそのままに、其処からそう遠くない堀内家へと、事の顛末を告げに走り出したのだった。 「へえ、あれは確かに南町奉行所の同心でやした。南の奉行所に幾度か仕事に行った時に、顔を見て覚えておりやす。あっしもお止めしたのですが、あの坊ちゃんは、どうしても姉上さまの事が聞きたかったようで・・」 「自ら、佐瀬圭吾と名乗ったのか?」 「云った名前は、あまり良く覚えちゃいないんですが・・。吉原を足抜けした姉さんを探していると、そう云っておりやした。姉さんの名は確か里乃と・・それだけは覚えているんでやすが」 松五郎は自分の記憶の悪さを舌打ちして、忌々しげに一度言葉を切った。 が、直ぐにそれを補うように、早口で後を続けた。 「・・細っこくて優しげで、そりゃえらく頼り無げなぼっちゃんなんですが、これが又見た目からは想像できないような、すばしっこい身ごなしで・・・」 「宗次郎さんだ・・」 堀内の斜め後ろに立ち、一部始終を聞いていた圭吾が、呆然と呟いた。 「松五郎、それでその同心と宗次郎殿は、何処へ行くと云っていた?」 「ただついて来いと同心が云っただけで・・、ですがあの近くってぇと、やっぱり南町奉行所じゃねえでしょうか?」 縁に片膝をつき、そして身を乗り出し余裕失くして問う、嘗て見た事の無いこの屋敷の主の焦燥の様に、始め松五郎は驚きが過ぎて声も出せず立ち竦んでいたが、だが直ぐに、事は急を要するのだと気付き、他に手掛かりになるような事はなかったかと、記憶の淵を探り出した。 「・・奉行所の同心が、何故姉上の事を知っていたのでしょうか?」 「わからん。・・が、とにかく宗次郎殿を探し出さねばならぬ。平治、試衛館に走り、近藤殿でも土方殿でもどちらでも良い。直ぐに南町奉行所に来るように伝えてくれ。私は奉行の戸田越中守佐衛門丞殿に、直に目通りを申し込む」 傍の圭吾をちらりと見、案ずるなとばかりに頷くと、堀内は、この剛毅な人間にしては珍しく、己の胸の裡を酷く騒がせる何かに追いたてられるように、後ろの平治に性急な口調で告げた。 「分かりました」 静かに控えていた老僕は、息を詰めるようにして喉仏の辺りを上下させて頷くと、凡そその齢の者のそれとは思え無ぬ俊敏な身ごなしで立上り、直ぐに隙の無い背を向けた。 「先生、宗次郎さんは・・」 自分の名を語り、そうして姉の安否を確かめようと試みた宗次郎を案じる圭吾の面が、堀内の硬い横顔を見るや、云いかけた言葉を途中で呑み込み、更に強張った。 「・・強情な奴めっ」 忌々しげな言動は、短い舌打ちと共に吐き捨てられた。 荒縄で戒められ、両腕の自由を奪われた華奢な身は、支えている手を離された途端、前に崩れ落ちてしまうだろう程に、もう力無い。 だが深い色の瞳だけは、荒い息を繰り返しながらも、決して伏せられる事無く、声の主を睨みつけている。 「そう云う可愛げの無い処は、姉とよう似ている」 姉と、蔑むように告げて皮肉に見下ろした視線を捉えた宗次郎の瞳が、更に勝気な色を湛えた。 「こいつ・・」 が、見た目からは凡そ想像のつかぬこの強気な態度こそが、仕置きを為す者の加虐心を煽り立てる。 それは、例えば誰かの庇護が無ければ、羽ばたく事も敵わぬようなか弱い小動物に、思わぬ威嚇の爪を立てられたのと同じように、相手を理不尽に憤らせるのにも似ていた。 が、そのような人の心にある残虐性の裏をかき、保身に回れと教えた処で、不幸にも宗次郎は其処までの器用を持ち合わせてはいない。 儚ければ儚い風情であるだけに、それを裏切り頑なに刃向う意外が、相手の怒りを燃え立たせる。 今までさんざん打たれてきた、竹の先を細く裂いた鞭である箒尻が、再び男の手で高く掲げられ、それが勢いのまま振り下ろされた寸座、宗次郎の意識が其処で途切れた。 「しぶとい奴っ」 だが荒荒しい声は、意識を手放すと云う安楽すら許さず、直ぐに凍てるような冷たい雫が、頬を伝わるその感覚に、宗次郎の意識が現に引き摺り戻された。 箒尻で打たれ、敷石の上に放り投げ出された身に、水が被せられたのだと・・・ そう気付くには、まだ宗次郎の意識は混濁の内にある。 しかし次の瞬間、今度は束ねた髪が強い力で後ろに引かれ、それと共に細い頤が仰け反り、無理やり面輪が上を向かされた。 「田中新左衛門郎の行方、まだ云わぬかっ」 耳元で怒鳴られても、宗次郎の唇は、頑なに無言を通す。 片方の手の平で押えつければ、それだけで、骨を砕き気の道を塞げてしまいそうな細い喉首は、真っ直ぐに伸び、それが精一杯の抗い様のように相手には映る。 そしてその態度が、更に男を怒り立たせ、鞭を握り締める手に力が籠もる。 「姉と、同じようになっても良いのか」 わざと落とした低い、そして陰湿な声が、今度は耳朶に触れんばかりにして囁かれ、それが朦朧としていた宗次郎の意識を、俄かに覚醒させた。 「・・あね・・うえ・・」 「そうだ、里乃の処へ行きたいか?姉弟仲よう、あの世へ行かせてやっても良いのだぞ」 封じられた動きのまま、驚愕に見開かれた瞳に、男は、漸く満足げに笑った。 「・・姉上を、・・・殺したの・・ですか・・」 端に朱の色を滲ませた唇から、ようよう言葉を紡ぐ深い色の瞳が、今にも崩れ落ちそうな風情とは、相対する強靭な光りを湛えた。 「拷訊している最中に、敢無く逝った。全く頑固な女だった。我を張らずとも、さっさと己が情人の居所さえ吐けば許されたものを。どうせ捨てられ、置き去りにされたのだ。・・が、そのつまらぬ操とて、田中にしてみれば余分な義理立てだったらしいがな」 宗次郎の面輪に浮かぶ怒りが余程に愉快なのか、可逆心を煽られた役人の饒舌は止まらない。 「里乃も惚れた相手が悪かったのさ。田中があの大罪に関わってさえいなければ、こんな処で、おめおめ命を落とす事も無かったろうに。尤もさんざ利用されただけで、田中にはこれっぽっちの情も無いと知らずにあの世に行ったのは、当人にとっては、せめてもの幸いだったかもしれんな。・・だがあの女も、今頃はあの世で、薄情な男を恨んでいるだろうよ」 唇の端に浮かんだ薄笑いに、宗次郎の激しい眼差しが向けられた。 「何だ、その目は。どうやらもっと仕置きをしてやらねば、素直に話しては貰えぬらしいな」 残忍な笑みを浮かべた片頬を皮肉に歪ませると、男は後ろを振り向いた。 「水を用意して来いっ。肌を切るように冷たいやつだ。気を失って、楽になどさせてやるものかっ」 「しかし、石崎さま・・これ以上仕置きを続ければ、この者の命が・・」 「怖気ずいたか、ふがいない奴っ」 それまで後ろに控え、凄惨な尋問を見ていた者は、これから更に激しい修羅が繰り広げられる事に懸念の色を隠せなかったが、石崎と呼ばれた男は、薄ら笑いを浮かべただけでそれを一蹴し、動じる気配の欠片も無い。 「今年弥生三日の井伊大老の暗殺は、桜田門直ぐ近くに位置しながら、むざむざ水戸薩摩の浪士どものいいようにしてやられた、南町奉行所の汚点でもあるぞっ。如何にしてもこやつの口を割らせ、未だ捕まえられぬ不逞の浪士どもをひとり残さず探し出すのは、我等南町奉行所の意地っ、無用の仏心は捨て去れっ」 頭ごなしの罵声ではあったが、その一点を突かれれば、御用を預かる者として確かに正論と頷かざるを得ない。。 が、それでも男は、今一度躊躇いがちに宗次郎へと視線を流そうとしたが、石崎の鋭い視線に会うや、慌てて室を飛び出していった。 「さて・・」 その姿が視界からすっかり見えなくなると、石崎は不意に調子を変え、床に伏している宗次郎の肩を掴み、無理矢理向けた面輪を覗き込んだ。 「漸く邪魔者が消えてくれた。これからが本番だ。里乃が田中から盗み出し、お前へと送った代物、今何処にあるのか、それをどうしても教えて貰う」 「・・送っ・・た・・もの・・?」 相手の変容は、失いかけた宗次郎の朧な意識でも異なものと判じられたようで、小さな呟きと共に深い色の瞳が細められ、額から零れ落ちる冷たい汗を遣り過ごした。 「そうだ。今はお前だけが行方を知っている筈だ。それを、どうしても教えて貰う。・・・だが利用した女に隙を突かれるなんざ、田中も最後の最後で、油断してたものさ。流石のあいつも苦り切っているが、尻拭いさせられるこっちとて面倒この上ない」 億劫そうに嘯く眉間には、それが本当だと告げるように幾つかの皺が寄った。 「・・貴方と・・・田中と云う・・人は・・」 「若い頃からの、腐れ縁さ。尤も互いの性の悪さじゃ、三途の川まで一緒だろうがな」 薄ら笑いの声に、驚きに見開かれた瞳を見、石崎の喉が、更に愉快そうに鳴る。 「・・・ここにはもう俺とお前だけだ。手加減はせんから、覚悟しておけっ」 元々が、暴走する気質だったのだろう。 それが切欠のように、石崎は箒尻では無く、今度は板壁に立て掛けてあった木刀を手にすると、残酷な笑みを片頬に刻み、半ば崩れ折れるように傾いでいる宗次郎の前に立ちはだかった。 「どうしても、話さぬと云うのなら・・」 叫びながら振りかざした竹刀が、乾いた音を立て宙に弧を切り風を巻いた。 それが空を裂く音と共に、弓なりに撓ったその刹那、宗次郎の背に、骨が砕け散るような激しい衝撃が走った。 里乃は、もうこの世にはいないのだと――。 ただそれだけを、刻んだ記憶は、朱を滲ませた唇から、宗次郎に呻き声ひとつ漏らす間も与えず、一瞬にして漆黒の闇へと浚った。 「・・一体どれ程待たせるのだ」 時が掛かりすぎると、堪えきれない苛立ちが、つい近藤の口から不満を漏らす。 だが隣に座した土方は、堅く唇を閉じたまま、いらえを返さない。 それを見、近藤は一瞬不服の表情を作ったが、改めて声を掛ける事もせず、又険しい顔のまま沈黙に籠もった。 否、近藤を黙らせたのは、土方の横顔に、いらえを返す意志の無さ、厳しさを見取ったばかりでは無い。 今この男の裡で、ありとあらゆる神経が極限まで張詰められ、そのあまりの激しさが、声を掛ける隙を許さない緊張を作り出している事が、一番の原因かもしれなかった。 其れほどまでに、土方の面は、友として長年過ごしてきた近藤すら見た事の無い峻烈な様相を呈していた。 そして其処に居た誰もが、同じように物言わず、重い無言を己に強いていた。 堀内家からの遣いで宗次郎の危急を知り、まだ平治の話しの途中で走り出した土方の後を、これも又即座に近藤も追った。 そうして着いた先の南町奉行所の門前で二人を出迎えたのは、堀内と共に来、先に到着していた圭吾だった。 最初から話は通じていたのか、堀内の名を出すや奥に通され、其処で待つようにと云われた座敷には、やはり堀内の姿はなかった。 聞けばかの人物は、南町奉行戸田越中との折衝に臨んでいるとの事だった。 それを聞いてから、かれこれ、半刻が経とうとしている。 近藤の杞憂と焦りが頂点に達するのも、無理からぬ事だった。 ――江戸の町奉行所は、南町、北町の二つがあり、月番により交互に仕事にあたる。 尤も受け持ち月に起った事件は、月が変わっても、担当した奉行所が引き続き受け持つ事になっている。 その長である町奉行職は、三千石以上の大身旗本格の者が就任したが、世襲制では無い為、抜擢を受けた人材によっては、足りない禄高を一時的に増やしてその分を補う者もいた。 又、南北各々の町奉行の下には、与力各二十五騎、同心各百人を有したが、これらの者達は奉行所が直接雇う人間であった。 しかし己の直属の家臣で無い分、着任早々部下との摩擦を生じる事も多々あり、思う様に動かせぬ与力同心に、ずいぶんと苦労を強いられた町奉行もいたと云う。 堀内と戸田越中との折衝が長びいているのも、或いは、宗次郎を捕らえている同心と戸田の間に、そんな関係が災いしている所為なのかもしれなかった。 「堀内殿は、南町奉行とは、どう云う面識があるのだろう」 近藤の問い掛けは、傍らで無言を通す土方に向けられたものだったが、やはりそれに返るいらえは無い。 「南町の御奉行殿は、先生の知己であられると仰っていました」 「そうであったか・・」 末席に控えた圭吾の遠慮がちな説明に、改めてこの若者も居た事に気付いた近藤が、慌てて後ろを振り向き、ぎこちない笑みを浮かべた。 奉行職が世襲制では無く、その場その場で旗本格の人材を登用するものであるのなら、嘗ては千石の余を有した堀内家の当主であり、更に柳生新陰流の後継者と目された左近の過去を遡れば、その位の知人友人には辿り着けるのかもしれない。 強面から漏れた声音には、その縁に縋ろうが頼ろうが、今はどんな手段を使っても、大切な者を無事この手に返して欲しいと願う、近藤の心情をそのまま形にしたような、深い溜息が混じっていた。 が、その近藤が顔を上げたのと、それよりも一瞬早く、土方が黄ばんだ襖に視線を向けたのが、同時だった。 乱暴に障子を開けたのは、此処に案内した者より、少しばかり格上の役人らしい。 横柄な態度が、それを物語っていた。 が、その者は廊下に立ったまま中に入るでも無く、面倒そうに室の中を見回すと、徐に口を開いた。 「牛込柳町、試衛館道場の内弟子、沖田宗次郎。ご放免ゆえ、連れ帰るが良い」 早口の調子には抑揚が無く、平たい声には、ただ役務を遂行しているに過ぎないと云う感がありありとある。 「場所は案内するゆえ、ついて・・・」 だが形ばかりの口上が終わらぬ内に、ゆらりと立ち上がった土方の無礼を、役人はすぐさま見上げて顔を顰めようとしたが、その刹那、己に向けられた双眸にある鋭さ険しさに射竦められ、思わず身を引き、息を呑んだ。 「歳っ」 威嚇から、攻撃へと切り替えた殺気を纏い、今にも相手に襲いかからんばかりの背に、咄嗟にそれを止める、近藤の激した声が飛んだ。 まるで襤褸切れのように横たわる愛弟子を遠目にした瞬間、近藤は、地を這うような唸り声を上げて走り出し、微かにも身じろぎしない宗次郎の元まで来ると、声も出せず、呆然とその姿を見下ろした。 額からも頬からも朱(あけ)の雫を滴らせ、着けているものはずたずたに裂かれて元の形を止めず、身に絡まり付く布切れの残骸に過ぎない。 元結が取れ濡れた髪は、それだけが、唯一生あるもののように、艶やかさを湛えて板敷きに広がる。 膚ばかりのか細い両の手首すら、くっきりと紅い窪みが縄の後を刻んでいる。 「・・宗次・・郎」 言葉にして名を呼んでも、宗次郎は応えない。 もしやこのまま薄い唇は開く事無く、もう二度と、自分を呼ぶ声は聞けないのでは無いのかと・・・ 一瞬過ぎったその思いが、たちまち近藤を、狂気にも似た戦慄で包み込む。 「宗次郎っ」 闇雲に温もりを探ろうと伸ばした厳つい手は、しかし宗次郎に触れる直前で、何かに阻まれた。 それが何かと判ずる間も無く、次に近藤の視界を遮ったのは、覆いかぶさるようにして宗次郎を抱き上げる黒い影だった。 そしてその影が土方の背であると知るまでに、僅かの時も掛からなかった。 広い背は、放り出された人形のように動かぬ華奢な身を、己全部で包み込むようにして胸の中に囲う。 「土方殿・・」 「触るなっ」 後ろから掛けれた堀内の声に、激しい拒絶の叫びが飛ぶ。 「歳っ」 「誰も、触るなっ」 近藤の声にも、土方は振り向こうとしない。 己の背だけを砦とし、胸に抱く者を護るようにして動かない。 「・・畜生っ」 やがて、その背を見守る者達の耳に、吼えるように聞こえて来た唸り声は、まるで憎悪を容にしたかの如く、低く激しいものだった。 南町奉行所は、千代田の城の南方、日比谷御門と数寄屋橋御門の近くに位置する。 其処から堀内家は、近い距離にある。 だが試衛館では無く、一旦その堀内家へ宗次郎を運び込んだのは、怪我の具合が早急を急を要する状態に他ならなかったからだ 同じように近いとは云え、奉行所から試衛館では、堀内家の更にその倍はかかる。 が、日頃は短いと笑うその距離すら厭う程に、訊問とは名ばかりの拷問は、宗次郎の身に負担を掛けていた。 元々周りが危惧していた脆弱な身に為された激しい仕置きは、急いで呼ばれた医師の顔を、診ている途中から、みるみる難しくさせた。 全身に受けた打ち傷は、炎症による熱を齎せ、弱った身に掛けられた冷水は、五臓六腑に熱を籠もらせてしまった。 その両方の熱に苛まれた面輪は、映す色などもう何一つ無いと思わせる程に蒼く、口元に耳を宛てて、ようよう聞こえてくる息は細く、しかしそれとて、注意を逸らせたその瞬間止まってしまうのでは無いかと案じられる程に心許ない。 「傷の具合との兼ね合いもあり、本道よりも、西洋医術を学んだ医者に任せた方が良いかもしれん」 隣室にこの屋敷の主である堀内を呼び、初老の医師は、若い命を助ける為に、己の力の限界を告げた。 「しかし西洋医術と云うと、誰が・・」 「私の医者仲間の倅が、西洋医術を学び、丁度今その師の元から戻ってきている。差し支え無ければ、直ぐに呼びたいが・・」 知り得る限りの名と顔を脳裏に思い浮かべ、必死に該当する者を探しながら呟いた堀内に、医師は最初からその人物を推挙するつもりだったのか、即座にいらえを返した。 「どうか、お願いします」 「承知した。では直ぐに遣いを走らせては貰えんかの。場所は神楽坂の医師戸村推安宅。その息子順次郎に、至急来るようにと」 深くこうべをさげた堀内に、医師は用意していた名を告げた。 待ち望んでいた医師は、半刻もせぬうちに、使いに走った平治と共にやって来た。 大柄な医師は思いの外若く、歳の程は己とそう変わらないであろう姿形が、こう云う時には、経験の浅さを予感させ、迎えに出た近藤の裡に不安を植え付ける。 勝手極まりない言い分だとは十分に承知しているが、それでも大切な者を任せるとなると、その傲慢すら己に許さずにはいられない。 しかし近藤は、一度目を瞑り、そんな己の傲慢を叱咤した。 「熱は?」 形ばかりの会釈で挨拶を終えると、それすら急(せ)くように、若い医師は直ぐに患者の容態を問うた。 「このままでは心の臓が熱に負けてしまう。元々が、其れに耐え得る造りの身体では無い。・・如何せん細柳すぎる」 前を行く二人の医師の遣り取りを聞きながら、近藤の懸念は、更に坂を転がる雪の礫(つぶて)のように、膨らみを増して行く。 握り締めている己の両の拳に、我知らず力が籠もり、爪の先を肉に食い込ませているその痛みすら、今の近藤には知らぬ事だった。 だが襖が開けられ、室の中央に延べられた夜具に横たわる者の面輪を捉えた刹那、若い医師の双眸が驚愕に見開かれ、踏み入れるべき足は、まるで木の根に囚われたように敷居際で止まった。 「どうかされたか?」 立ち尽くしてしまった相手に掛けた老医師の調子が、流石に訝しげだった。 「・・いえ」 その声が、一瞬の忘我から若い医師を現に戻したようだったが、まだ視線は宗次郎に釘付けられ、動きは止まったままだった。 「変わった事は無かったかの?」 目を離していた、僅かの間の容態の変化を案じ、枕元に座している土方に問う医師の声は硬い。 「いや・・」 だが土方は、宗次郎に視線を止めたまま、短いいらえを返しただけだった。 やがて漸く先達の動きに促されるように、若い医師も夜具の際まで歩を進めると、ゆっくりと其処に腰を下ろした。 「・・久しぶりだったな、宗次郎」 そうして浅く息を繰り返す蒼白な面輪に向かい低く囁くと、どちらかと云えば厳つい顔に、親しみとも、慈しみともとれる柔らかな笑みを浮かべた。 「あんたが、あの時宗次郎を迎えに来たんだろう?」 あまりに予期せぬ言動に、横の土方が鋭い一瞥をくれたが、それをものともせず、戸村順次郎は、手にして来た薬箱から臓器の音を聞く為の、細く短い竹筒のようなものを取り出した。 「七年前の夏の夕方、俺の家に宗次郎を迎えに来た事があっただろう?水際立った良い男だったと、留守の者が云っていた。・・・眠っていた宗次郎が、幾度か土方さんと、人の名前を呼んだそうだ。さっき見たときに、それがあんたの事を云っていたのだと、直ぐに分かったよ」 若い医師の云っている事は、他の者には分からぬ事ばかりで、戸惑いの沈黙が辺りを包んだが、土方だけは、順次郎が何の事を云っているのかを即座に判じたようで、病人の胸元を肌蹴け、診察を始めた精悍な横顔を、改めて見遣った。 七年前。 近くに遣いに出た宗次郎が、放れ馬の暴走で崩れた人垣の煽りを受け、大男の下敷きになって怪我をしたとの知らせを受けたのは、まだ晩夏の残照が、地にうだるような熱を籠もらせていた夕暮れだった。 慌てて駆けつけた医師宅は、神田神楽坂近くの坂を上り切った閑静な屋敷町にあり、出て来た老僕は、主は留守にしているが、迎えが来たら帰すように云われていると、宗次郎の休んでいる室まで案内してくれた。 その帰り際、まだ目覚めぬ宗次郎を背負うた自分に、これも云われている事だからと、幾日分かの痛み止めを寄越した。 代金を払うと云った土方に、老生は、治療したのはこの診療所の若い倅で、まだ修行中の身ゆえ、報酬は受け取れないのだと、穏やかな笑みを浮かべて辞した。 その時の医師なのだと―― 土方の裡で、過去と、そして今が、鮮やかなひとつの線に結ばれた。 「この熱は、大方が、身体を傷つけられた炎症から発している。それは要らぬ菌が臓腑を攻撃するのを、身体自身が防いで護っている証でもある。故に熱が高いと云う事は、それだけ戦わねばならぬものが多いと云う事だ。今宗次郎は、あらん限りの力で、そいつ等と戦っている」 土方の、痛みすら感じさせるような強い視線を横で受けながら、戸村順次郎は、固唾を飲んで見守る者達の、少しでも励みになるよう、強い調子で語る。 だが確乎として説く医師が、その胸の裡で、丹念に細工された面輪に、今一人、違う者の面影を重ねている事は誰も知らない。 ――あの時。 すとんと落ちる日に、近い秋を忍ぶよりも、酷暑の名残だけを残して行く夏の忌々しさを呪った自分を笑った親友は、己にうりふたつの面輪の少年を見て、何を思ったのか――。 だが同じ夜、暮れる日よりも呆気なく、晩夏の陽炎のように束の間の命を燃やした友は、もうその答えを返してはくれない。 そしてあの時も瞳を見せてくれなかった少年は、友の逝った夏の幾つかを経て、まるで過ぎ行きた日々が夢幻であったかのように、何一つ変わらず再び己の目の前に現れた。 或いはこれも、短いと云うにはあまりに残酷すぎる生涯を、熾烈なまでの激しさで生き抜いた友が、自分に遣わせた残影なのか・・・ だが今度こそ、この瞼を開かせ、覗いた瞳に自分の姿を映し出させて見せるのだと――。 それが今、戸村順次郎の思いを占める、全てだった。 兵馬と・・・ 胸の裡だけで呟いて、順次郎は、厳しい医師の視線を蒼白な面輪へと据えた。 一刻おきに飲ませていた薬は、始め強さを加減していたが、やがてそれでは間に合わないと判じるや、戸村順次郎は、大胆に処方を変えた。 「熱が高ければ高い程、それに抗する薬は強いものになる。が、強ければ、同時にそれは毒ともなり得る」 誰に聞かせるでも無い独り語りのようでいながら、或いはそれで己自身を鼓舞させているのか、若い医師の調子は強い。 「毒となると云われるが、それで身体に大事無いのだろうか」 「分かりません。が、やらねば助かりません」 返ったいらえは容赦の無いものだったが、しかしそうして淡々と相対する事で、この医師が、自分自身からも気負いを抜こうとしているように、問うた堀内には思えた。 白湯に溶かした薬を入れた、やや大ぶりの湯呑を、無言の了解事のように、順次郎が土方に差し出したのは、先程からこの男が、病人に薬を与える役を、すべからく引き受けているからであった。 が、同時に、土方自身にも、この役を他の者と変わる気は無いらしい。 実際、己の口に含んだ液体を、宗次郎の唇を割らせ、土方は上手に飲ませる。 又意識は無くとも、宗次郎も土方の動きに従順に応えているかのように、順次郎には思える。 「これは阿蘭陀の薬ですが、場合によっては心の臓を止める事もあり得る程に、薬効が強いものです。しかし今はもうこれに頼る他、道はありません。・・が、これだけ弱っている身体には、負担が大きすぎる。それ故、本来ならば一度に飲ませる量を、幾度かに分け、様子を見ます」 それまでと違う、濃い褐色をした液体の入った湯呑みを土方に渡しながらの説明に、病人の容態の悪化を悟った周りにも緊張が走る。 だが受け取った土方は、無言のまま、すぐにそれを口に含むと、宗次郎の後頭部に手を当て、静かに喉首を持ち上げた。 そのまま覆い被さるようにして、己の口腔を満たしている液体を、少しづつ病人の唇の隙から流し込んで行く。 無体の跡が生々しく残る、白い喉が微かに上下し、やがて病人に覆いかぶさるようにしていた背が、ゆっくりと離れると、傍らで凝視していた近藤と堀内から、安堵の息が漏れた。 「次ぎは半刻後。目が覚めるまで続ける。忘れた時が、最後だ」 硬い口調で次げる医師の言葉を、何処か遠い処で聞きながら、土方は、宗次郎の唇の端から零れ落ちたひと滴(しずく)の液体を指で拭いとってやると、紫(ゆかり)の血管(ちくだ)を透かせた白い瞼に、全ての神経を縫い止めていた。 |