雪圍U (六)




 見守る者達の切願が、天に届いて形となったのは、冷え込みの厳しさを一層強く感じる、じき夜明けも近いと云う頃合だった。
待ち望んでいた僥倖に、最初に気付いたのは土方だった。
丹念に瞼を縁取る睫が、認めるに難しい程の僅かさで揺れた一瞬を、凝視していた双眸は見逃さなかった。

「宗次郎っ」
不意の声に、初めて病人の変化を知った周りの者達が、咄嗟にくくり枕の上の面輪に視線を向けたが、宗次郎の瞳は堅く閉ざされたまま、重なる呼びかけに応える様子は無い。
だが戸村医師は、迷う事無く病人の胸元を肌蹴ると、浮き出た鎖骨と鎖骨の間、喉元に近い辺りにある気付けの泉を、指で強く押した。
その刹那、白い面輪が苦しそうに歪められたが、固唾を呑み凝視する者達の目には、そんな仕草のひとつひとつが、今は先へと繋がる光明に思える。
「目を覚ませっ、宗次郎」
順次郎と連動するように、諦めを知らぬ土方の声が、病人の魂を揺さぶり此岸へと呼ぶ。
そうして二人ひとつになっての動きが、三度(みたび)繰り返されたか否か・・・
色を失くした唇から、微かな吐息が零れ落ちた。
だがその事が、宗次郎にとっての意識の覚醒の始まりだったらしく、やがてうっすらと開いた瞼の隙から、深い色の瞳が覗いた時、その僥倖を逃すまいと、白い晒しに埋まっている骨ばった指先を、近藤が、己の掌に包み込むようにして握り締めた。

「宗次郎っ、俺だ、分かるな?」
意識の半ばはまだ現に無く、掛けた声に頷き応じろと云うのは土台無理と承知していても、近藤は問わずにはいられない。
だが宗次郎の瞳は暫しぼんやりと一点に留められ、やがて何かを探し求めるように、狭い視界を彷徨い始めた。
「どうした?」
直ぐにそれに気づいた土方が、散漫な意識を拾う為に、戦慄く唇に触れんばかりにして耳を近づける。
「・・・佐瀬・・さんの・・姉上さま・・が・・」
震える唇から発せられるものは、声と云うにはあまりに弱すぎ、言葉として理解するには酷く難儀する。
それでもその口元に耳を寄せ、ひとつも漏らさず聞き取ろうとする土方には、必死に何かを紡ごうとしている宗次郎の一途が遣る瀬無い。

 里乃は、もういないのだと・・・
身を苛まれるものから逃れる術無く、呻吟の内で苦しい吐息を漏らし、だがその辛苦を超えて伝えようとしているのは、今は誰もが知ってしまった無残な事実であるのだとは――
今到底この場で、宗次郎に告げる事はできない。

「里乃の事ならば、もう案じなくていい」
言葉の意味が、ぼんやりと見上げている宗次郎に、果たして通じたのか否か。
それは土方にも分からない。
だが霞みがかかっていたように、鈍い反応しか示さなかった深い色の瞳が、ほんの僅かに揺れ、そしてそのまま又ゆっくりと瞼が閉じらようとした一瞬、宗次郎の面輪に浮んだ安堵の色に、それまで無言で見守っていた誰もが、深い息と共に、知らず籠めていた力を抜いた。


「これで気を許せたと云う訳では無いが、ひとまず峠は越えた。薬が効いている間は、眠り続けるだろうが、目が覚めたら此れを飲ませるように」
薬箱から白い粉の入った瓶を取り出すと、そのひと匙を小さな紙の上に乗せ、更に無骨な指に似合わぬ器用さで、それと同じ物を十ほど作ると、順次郎は土方に渡した。
「痛み止めだ」
差し出しされたそれを受け取りながらも鋭い視線は変わらず、自分と云う人間を、大して信じてはくれていそうにない相手に、順次郎は薬の説明と共に、人の良い笑い顔を向けた。
「この造りでは、これから先、まだまだ続く痛みと熱に、身体が先に負けてしまう。そうさせぬよう、痛みがある程度治まるまでは、なるべく眠らせてさせておき、少しでも体力の消耗を防ぐのさ。本来ならば、口から取る滋養が一番なのだが、この分じゃ、水を口にするのがやっとだろう。それ故、仕方無しの苦肉の策だ。これで俺も、無い智恵を絞って必死なのさ」
 語りながら土方から視線を逸らせ、そのままくくり枕の上の面輪を捉えた順次郎の脳裏に、重ねてはならぬ者の面影が宿る。

――友と最後に過ごした、晩夏の日暮れ。
まだ修行中の身であった自分の元に飛び込んできた怪我人は、年端も行かない少年だった。
呼んでも応えず、ただぐったっりと動かぬ少年に、何をどうすべきか往生していた時、左の腕の骨が外れているのだと、先に気づいたのは友だった。
あの時、もしも兵馬がいなければと、思い起こすだに、今も胆が冷える。
だがこうして苦く笑ってその時を思いだせる程には、自分はあの夏の日を、過去にする事が出来たのだろうか・・・
その問い掛けに、もう友は応えず、寸分も違わぬ面輪の主は、己の眼(まなこ)の中で浅い呼吸を繰り返す。

「生きろ」
若い医師の囁きは、唇だけが微かに動きかけた、誰にも悟られぬものだった。
だが声無き呟きは、もう二度といらえを返さぬ者への、果て無き思いと、今尚捨てきれぬ執着がなさせるものなのだと、皮肉にも順次郎自身に教える。
「・・生きろ」
それでも飽かず愚行を繰り返す己に苦笑する筈が、不意に何かが瞼の裏を熱く滲ませた。
思いも寄らぬその突然の感情の隆起を、順次郎は、乱暴に目を瞬くことで誤魔化した。




「・・・俺に力があれば、宗次郎はこんな事にはならなかった」
天井を睨みつけるようにして漏れた、独り語りに似せた近藤の呟きの核(さね)を形作っていたのは、己にその力を与えなかった天への嘆きや恨みでは無く、ただひたすらに、自分自身への若い憤怒の迸りだった。
それは即ちこの男が、胸に渦巻く悔しさを糧に、いつか自分の手で、欲するものを掴み取ると決めた、強靭な意志の現れでもあった。

 大切な者が理不尽な無体を受けていてる間中、ただ座して待つしか無かったあの時を思い起こせば、こうしている今も、足の指の先から頭髪までもが逆立つような、焦燥と怒りが蘇る。
そして同時に、全てを堀内に任せなければ、何ひとつとして己の力では無し得なかった悔しさと、情けない憤りで、近藤の身を震わせる。

「なるさ」
忙(せわ)しい息を繰り返す宗次郎の額から、濡れ手拭を外し、そうして今度は己の五指で、面輪全部を包み込むようにしながら、汗で張り付いた乱れ髪を除けいる土方の声が、低すぎて近藤には聞き辛かったのか、今一度、厳つい顔が横の友を見た。
「力のある人間に、なってやる」
その近藤の視線を受け、宗次郎に触れている手指はそのままに、土方がゆっくりと振り向いた。
「必ずなってやる。・・二本差しなど超え、誰にも俺達の行く手を阻ませず、邪魔させない、力のある人間になってやる」
無謀とも思える言葉の調子には、些かの気負いも衒いも無い。
だが近藤を捉えている土方の双眸には、まるで鷹が爪研ぐにも似た、或いは雷(いかずち)を受けて禍々しく光る龍の目の、狂気にも似た激しさがある。
それは一瞬近藤が息を呑むほどに、苛烈なものだった。
その土方を、近藤は凝視したまま動かない。
土方の云う力のある存在が、どのようなものを意味するのかは分からない。
だが近藤には、ひとつだけ、確かに分かるものがあった。
この男は、今、全身全霊を傾け、必ずや掌中にすると決めた標的を見つけたのだと。
誰にも指図されず、誰の命にも動かず――。
否、己自身が命じ動かす、頂点へと立ちはだかるのだと――。
それを、あの無念と憤怒の時の中で、土方は決意したのだ。

今はもう感情の名残すら留めず、宗次郎へ視線を落としている怜悧な横顔を、今一度、近藤は熱い昂ぶりを持って見つめた。




 夜明けとも思えぬ仄暗さは、夜半から降り始めた雨の所為なのだろう。
音も立てず、ひっそりと地に染み入る水の礫(つぶて)の静けさが、眠りにある病人への遠慮なのだと思えば、この秋霖とて意地らしい。
だが一瞬脳裏を掠めたそんな思いを即座に打ち消すと、堀内左近は、これから重い真実を伝えねばならぬ目の前の者の姿を、真正面から据えた。

「先生、宗次郎さんは・・」
しかしその堀内が口を開くよりも先に室に響いたのは、病人を案じる、圭吾の急(せ)いた声だった。
医師ですら眉根を寄せた宗次郎の容態を目の当たりにすれば、己を苛まずにはいないであろう圭吾を慮り、敢えて別室に控えさせていたが、独り過ごす時は、この若者にとって、焦りと不安ばかりを募らせる、残酷な仕打ちとなってしまったらしい。
そう後悔させる程に、無言でいらえを待つ眸は、神経の全てを張り詰めてしまったかのように、瞬きひとつせず堀内を見つめる。
「宗次郎殿は、大丈夫だ。きっと良くなる」
圭吾に向かい、そう断言して強く頷いたのは、或いはそうする事で、是が非でも現にせねばならぬ事柄を、堀内自身も胸に刻みたい為でもあった。
だが何よりも・・・
未だ闇に呻吟しているその宗次郎が、我が身を賭して得て来た真実は、身を硬くし次の言葉を待つ圭吾にとって、何と惨い内容であったことか――。
しかし今はそのひとつも隠す事無く、全てを伝えなくてはならない。
それは、圭吾自身がこの先強く生き行く為でもあった。
それでも天の齎したあまりに残酷な仕打ちを、今は黙って受け容れる他無い、人としての無念を封じるように、堀内は一度目を瞑ると、やがて静かにそれを開いて圭吾を見据えた。

「圭吾、先ほど宗次郎殿が目を覚ました」
険しく硬いばかりだった圭吾の面が、一瞬光り射すように和らいだ。
「そしてその時、宗次郎殿が最初に探したのは、お前だった」
「宗次郎さんが・・?」
意外な言葉ではあったが、その宗次郎の行動は何か故あっての事と、この聡い者にはすぐさま察っせられたらしく、若い面持ちが又も緊張した。
「宗次郎殿は奉行所で無体を受けながら、志乃殿に関する、ひとつの真実を知ってしまった。それをお前に伝えなければならぬ思いと、そうする事で、お前が心に受ける傷を案じていたのだ」
静かに、殊更ゆっくりと紡がれ行く語りを邪魔せず、圭吾は無言で堀内の言葉を聞く。
「志乃殿の相手は、大老井伊直弼殿の殺害に加わった水戸浪士、田中新左衛門と云う男だ。そして弥生三日、事の成就と同時に、田中は志乃殿を連れ逃走した。だがどう云う訳か志乃殿だけが町方に見つかり、田中の行方を問い質され、酷い拷問を受けている最中に亡くなられた」
 そうする事で己の感傷をも抑えるように、堀内の声音は、最初から最後まで僅かの乱れも無い。
そして圭吾は、繰り出されるその一言一句も聞き漏らすまいと、堀内を凝視している。
「長月も始めの、雨の続いた日の出来事だったらしい」
過ぎてしまった時を克明に辿り、そして其処まで立ち返らせる事で、堀内は無残な真実を、確かに存在した厳しい現実として、圭吾の胸に刻み込んだ。


 そぼ降る雨は、じきそれが白く姿を変えるのでは無いかと思われる程に、屋敷の中にも、座す畳にも、冷気を忍ばせる。
決して視線を逸らさず、瞬きもせず、ただ無言に籠もる圭吾の心中を慮れば、堀内には、今はその健気すら哀しく思える。

だがその圭吾の唇が、僅かに動いた。
「先生。・・・宗次郎さんは、その事を伝えたいと、目が覚めた時、私を探してくれたのでしょうか・・」
「朧ではあったが、意識が戻った時、其処にはいない誰かを、宗次郎殿は探していた。そしてそれは確かに、お前だった。・・・後に土方殿が、全ては皆承知している故案じるなと告げると、漸く安堵したように、再び眠りについた。だがきっと宗次郎殿は、事の真相を教えるその事よりも、それによってお前が受ける傷を案じていたのだろう。・・・瞼を閉じる直前、そんな風に私に思わせる、憂いを帯びた瞳を見せた」
それはあの場で堀内が確かに感じ得た、偽りの無い思いだった。
「・・後で、宗次郎さんに会うことが、出来ますでしょうか?私は大丈夫だと、案ずるなと、そう伝えたいのです」
まっすぐに見つめる若い眼差しには、真摯だけがある。
「なるべく体力の消耗を防ぐ為に、ここ一両日は薬で眠りに在る方が多いそうだ。が、それでもお前の声を聞けば、宗次郎殿も力が湧く事だろう」
一瞬にして、残酷な現を己の裡に封じ込めてしまった強靭な精神と、しかしそうせねば己自身の行方を見失ってしまうのであろう圭吾の胸中を察し、その姿を痛ましいと思いながらも堀内は、緊張を解かぬ面に向かい深く頷いた。


「先生」
見舞う事が出来るか、今一度病人の様子を見に行くと襖に手を掛けた堀内の動きを、後ろから圭吾の声が止めた。
「ご存知でしたら、教えて欲しいのです」
無言で振りかえった堀内に、端座したまま見上げている圭吾の声が硬い。
「姉は、何処かの寺に葬られたのでしょうか?」
唐突とも思える言葉だったが、しかし堀内は、それを問う事が、乗り越えなければならない哀しみに対し、圭吾自身が己に課した試練と判じた。
「墓は、湯島にある勧善寺と聞いた」
告げる調子には、僅かの感傷も見せない。
しかしそれが、泪ひとつ見せぬこの若者の気丈を、唯一堀内が褒めてやる事の出来る、慈しみの形だった。

「雨が止んだら、共に香華を手向けに参ろう」
深くこうべを下げた圭吾の頬に、今伝っているであろう雫を見ぬ振りをして、堀内は後ろ手で静かに襖を閉めた。




 広い屋敷の内には、普段よりも余程に人の数が多い筈なのに、それが雨の為か、それとも病人への配慮なのか、物音一つせず静まり返っている。
その不自然な静謐の中、八郎は案内の平治の背を見ながら、湿り気を含んだ廊下を踏みしめる。

――佐瀬圭吾に対する、宗次郎の熱の入れ様がどうにも気に入らず、試衛館へ向ける足を止めていた、馬鹿げた矜持も、結局の所は二日も持たぬ情け無いものだった。
 昨日から降り始めた七つ下がりの雨は、やはり朝になっても上がらず、水飛沫の帳の霞ませる情景が、ほんの数日前、理不尽な八つ当たりを受け、傘の下から自分に向けた宗次郎の勝気な瞳を、八郎に思い起こさせた。
そんな他愛の無さが切欠だったのか、それとも己の辛抱が限界だったのか・・・
多分、その両方だったのだろう。
気づいた時には、漫ろ雨の中、傘を手に玄関の敷居を跨ごうとしていた自分がいた。
そうして着いた先の試衛館で、出迎えた井上から、昨日からの一件を聞かされた。
ある程度の容態は伝えられていたらしかったが、それでも憂いは解けないようで、近藤が戻ったら、今度は自分が代わりに行くのだと云う井上の全部を聞かずして、試衛館を飛び出したのは、八郎の意識の外の事だった。
 後ろで何かを叫ぶ声がしたが、振り向きもせず、泥濘を蹴る足は、限りを知らぬように早くなり、やがて息を吸い込む事すら出来なくなっても、八郎の走りが止まる事は無かった。


 先を行く平治が、首だけを動かし、少しだけ後ろを振り返った。
「伊庭さまは、途中で近藤さまと、お会いにはなられませんでしたでしょうか?」
「いえ」
「ではすれ違いになられましたか・・又夜に来られると仰られて、先程一旦お戻りになられたのですよ」
「そうですか。・・では宗次郎の元には、今土方さんが?」
問う八郎の声音が、硬い。
「はい。時折旦那さまや圭吾さまも、枕元にお出になりますが、眠りの邪魔にならぬようにと、ご様子を見るだけにされておられます」
「宗次郎は、昨日奉行所から戻ってから、ずっと目を覚まさないのでしょうか?」
だとしたら、既に夕刻近い今、一昼夜かけても戻らぬ意識と怪我の具合が、八郎には懸念される。
「いえ、一度明け方に、目をお覚ましになられました。ですがここ一両日は薬で眠らせ、そうして熱や傷から消耗する身体の力を防ぐのだそうです。診て下さった西洋医術のお医者さまが、そのように申されました」
西洋の医学を否定する訳ではないが、眠り続ける宗次郎の様は、平治にとっても気掛かりであるらしく、物言いにも声にも、何処と無く憂いを隠せない。
だがそれを聞けば、後ろを行く八郎の胸の裡を、どうにも堪えきれぬ焦燥が襲う。
その今にも駆け出したい衝動をようやっと抑え、八郎は、凛と筋の伸びた平治の背に続いた。



「お前か」
音を憚るように静かに開いた襖へ、土方はちらりと視線を送っただけで、直ぐに又枕屏風の陰になっている一点へと、それを戻してしまった。
その見つめる先には、宗次郎が居る――。
それが、その時八郎を支配した全てだった。
伸べられた夜具の際まで僅か数歩。
だがその数歩が、八郎にはもどかしい。
 枕屏風を回り込み、焦がれていた主の面輪を両の眸がようやっと捉えた途端、琴線よりも強く張り詰めていた神経が、一気に緩むような錯覚に、思わず八郎は踏みしめる足に力を籠めた。
が、同時に、病人の、乱れた髪に縁取られた頬の蒼さ生気の無さは、骨の髄から寒気(そうげ)立つような戦慄を走らせる。
 宗次郎は、直ぐ傍らに自分が来た事も知らず、薄い瞼を開かない。
息はしているのだろうが、それはあまりに細すぎて、見る者をただ不安に落としめるに過ぎない。
ひとつひとつの造作を、細い線で丹念に描いたような面輪は、こうして意志無く無防備に晒されていると、それが元々儚い印象を与えるものであるだけに、このまま消え行きてしまうような不吉に掻き立てる。
一瞬でも目を離せば彼岸へと浚われてしまいそうな危うさが、八郎を、宗次郎から目を逸らさせない。

「こいつは、大丈夫だ」
だが衝動の侭に病人に触れようと伸ばしかけた手を、土方の低い声が止めた。
その寸座、投げかけられた鋭い視線に、気付いてはいるのだろうが、土方は宗次郎に目を向けたままの姿勢を崩さない。
「何故分かる」
必ずや助かると、そんな事は承知している。
しかし敢えて懸念を口にしたのは、この男だけにはどうしても譲る事の出来ない、挑戦にも似た八郎の意地だった。
「必ず、治る」
その八郎には一瞥もくれず、淡々と気負う風も無く、いらえは返る。

応えにもならず、理由にもならぬ短すぎる言葉の核(さね)にあるものが、土方の、宗次郎に対する揺ぎ無い信念であるとは、問わずとも知れる。
だがそれは同時に、八郎の裡に、常に蔓延る嫉妬の熾き火を、激しく焔立たせる。
この男は、何を見、何を悟り、何を知っていると云うのか――。
今土方に、自分の宗次郎への恋慕を、憚る事無く突きつけてやったら。
必ずや宗次郎を己が掌中にすると言い放ち、この男が知らずに過ごしてきた安寧の時を、塵すら残さず打ち砕いてやれたら・・・

「佐瀬さんの姉上の一件、何か分かったのかえ」
しかし八郎の矜持は、ぎりぎりの処で、己を押し止めた。
「源さんから、聞かなかったのか?」
「井上さんからは、何かの手違いで宗次郎が佐瀬さんに間違えられ、その姉に纏わる事で奉行所の調べを受けたと、そう聞かされた」
問う土方の低い声に、此方も素気無くいらえを返したものの、その一件に関し、外部に知られぬような未解決の出来事があったからこそ、今回宗次郎がこのような結果になったのだとは、八郎とて重々承知している。
「里乃は三月前役人に捉えられ、最後まで情人の居場所を吐く事無く、拷問の途中で死んだそうだ。・・・その事実を、こいつが掴んできた」

語りながら見つめる寝顔は、まだ色も戻らず、あちこちに巻かれた白い晒しから覗く指先や鎖骨が、元々華奢すぎる身を、更に儚くしているようで、土方には何とも落ち着かない。
友の姉の行方知りたさとは云え、無謀とも思える大胆さで、自ら相手の術策に飛び込んだ己の行動を、宗次郎は決して後悔はしていないだろう。
だが土方にとって、時に我すら忘れてしまう宗次郎のその一途さは、常に自分を焦燥と懸念の渦に巻き込み、安らぐ時を与えない。
ほんの一瞬寄せた眉は、それを止め様の無い、苛立ちの現われだった。

「その事実、佐瀬さんには?」
そんな土方の心中など知らずして、頬に翳りを深くして眠りにある者に視線を止めながら、八郎が問うた。
「堀内さんが、伝えた。その後すぐ、・・あれは明け方だったが、此処に来て、自分の事は案じるなと、眠っているこいつに告げて行った」
「そうか」
土方の物言いには、重い事実を伝えるに籠もる湿り気は無い。
だがそれが、真実を聞かされた時、我が身が受けた心の傷を隠し、宗次郎の安らかな眠りを願ったのであろう、佐瀬圭吾が見せた感傷に流されまいとする、この男の強気のようにも、八郎には思えた。

――待ち望んでいた希が形になったのは、その刹那だった。
病人の閉じた睫の先が、震える程の微かさで動き、それに気づいた土方が、うっすらと開けられ行く瞳に、覆いかぶさるようにして、白い面輪を覗き込んだ。

「宗次郎」
室に響く声音は、常と変わらぬ無愛想なものだったが、しかし病人に向けられた眼差しは安堵を宿し、この男にしては珍しく穏やかなものだった。
が、宗次郎の意識の大方は、未だ現には戻って来ないらしく、それに返るいらえは無い。
「宗次郎っ」
その心許ない様を目の当たりにして、思わず迸った八郎の叫びは、宗次郎が、自分が此処に居るのを知らずして、再び違う世に戻ってしまうのでは無いのかと、そしてそのまま二度と現には帰って来ないのでは無いのかと、一瞬の恐怖に囚われた故の焦燥だった。
しかしその強い声が、宗次郎の意識を揺り動かしたようで、虚ろだった瞳に、仄かではあるが、漸く意志の有る光が宿り、焦点がひとつに重なった。
そうして時を置かずして、見守る者達の視界の中で、白い喉首がゆっくりと上下し、乾いた唇が何かを伝えんと戦慄いた。

「・・佐瀬さ・・んの・・あね・・うえさま・・」
だが宗次郎が最初に言葉にしたのは、もうこの世では見(まみ)えぬ、不帰の人の名だった。
「里乃が、どうした?」
それでも土方は、宗次郎の唇近くに己の耳を持って行き、消えてしまいそうに弱い声を、何とか聞き逃すまいとする。
「・・佐瀬・・さんに・・預け・・たと・・」
ひとつ言葉を紡ぐたびに、その殆どを、白い晒しに覆われた薄い胸が大きく上下する。
それは宗次郎にとって、こうして声を出し言葉にして何かを伝える事が、どれ程の負担なのかを土方と八郎に知らしめる。
「預けた?」
だが土方は、その先を紡がせるべく、静かに促す。
それに微かに頷く面輪は、自分の知り得た全てを伝え切らねば安寧は得られぬと、勝気な色を瞳に湛える。
土方が言葉を紡ぐのを止め無いのは、宗次郎の気性を十分知った上での、仕方無しの策なのだろう。
病人の瞳の中に譲らぬ頑なさを見、今ばかりは恋敵と同じ術を取る他無いと、見守る八郎の唇からも、諦めの息が漏れる。
それでも、何時の間にか寄っている己の眉根を鬱陶しいと思いつつ、八郎自身も、黙ってか細い声音に耳を傾けた。

「・・奉行所の、・・石崎と、・・云う人が云っていた。・・佐瀬さんの・・姉上さまが・・佐瀬さんに・・送って・・預けたと・・」
其処まで伝えるのが精一杯だったのか、宗次郎はひとつ息をつくと、一度ゆっくりと瞼を閉じた。
「里乃が、弟に何かを送り預けたのだと、そう奉行所の役人・・石崎と云う奴が云っていたのか?そしてその在り処を、お前に教えろと迫ったのか?」
所々を繋ぎ合わせ、憶測を交えながら、話をひとつの線に繋げて問う土方に、白すら透けさせてしまいそうな面輪が、辛うじて残った力を振絞り、微かに頷いた。

「伊庭」
聞こえるか否か、それ程の低い声で、宗次郎に視線を止めている八郎に声を掛けると、後は目配せだけで、土方は外に出るよう促した。
既に宗次郎の意識の大方は、再び夢寐に戻ってしまったようだったが、これから告げる話が、万が一にも病人の耳に届き、神経の障りとなる事を、土方は厭うたのだろう。
それを察し、八郎も黙って頷くと、衣擦れの音ひとつさせず立ち上がった。



 病人が臥せている室は、屋敷の一番奥に位置し、世俗とは切り離されたような静謐さの中にある。
其処と襖一枚隔てただけのこの隣室は、中庭に面した廊下に向けて障子が開け放たれており、程よい開放感がある。

「石崎と云ったか。・・そいつが宗次郎が、厄介をかけた役人かえ?」
「南町奉行所同心、石崎公之真だ」
未だ降り止まぬ漫ろ雨に煙る庭を、見るとも無しに視界に入れながら問う八郎に、返ったいらえの声は鋭い。
「そいつ、里乃の情人のと云う水戸浪士とは、同じ穴の狢らしいな・・・。二人で何かを企み、その為に利用しようとした里乃に死なれ、今度は宗次郎をその弟と勘違いして巻き返しを図ろうとした・・・」
感情の掴み取れない抑揚を殺した物言いではあったが、庭に視線を据えている八郎の双眸にあるのは、憎悪を超えた険しさだった。
「らしいな。宗次郎を佐瀬圭吾と信じ込み、その代物を、石崎は役人と云う立場を利用して取り戻そうとした。・・・里乃が弟に送ったと云うのは、田中で無ければ分らない。又、共に逃げていた筈が、里乃だけが捕まったと云うのも不思議な事さ・・・奴等は、一蓮托生だ」
しかしその八郎も又、後ろで淡々と告げる土方の眸が、刃物よりも鋭利な冷たさを宿している事を知らない。

「ならば本人に、預かった代物の一件を問い質すのが先決か」
億劫そうな呟きと共に八郎が振り向いた時、二人の男の面を、その直前まで印象づけていた激しい感情の名残は無い。
「どうやら、其処が全ての始まりらしいな。・・佐瀬圭吾はそれを手がかりに、姉を探そうとしたのだろう」
「だがその一件に関しては、堀内さんもまだ知ら無いだろうな」
それが面倒だと謂わんばかりに、先に歩き出した八郎の呟きが物憂げだった。








きりリクの部屋   雪圍U(七)