雪圍 (七)




「何か、言ってはいなかったかえ?」
八郎の問いかけに、平治は、己の記憶の淵に沈んでいる、どんな小さな痕跡も逃さぬよう、白いものの方が多い眉根を寄せ、暫し沈黙に籠もった。


――宗次郎が伝えたもうひとつの真実は、驚くべくものであったが、土方と八郎は、即座にそれを確かめるべく、佐瀬圭吾の室の襖を開けた。
が、其処に目当てとする姿は無く、静まりかえった中の様子は、そのあまりの閑寂さが、圭吾が此処を離れてから、長い時が経た事を物語っていた。
それを知るや、今度はすぐさま堀内を探したが、その姿も又見当たらず、漸く平治を捉まえて問い質せば、主の堀内は昨日の件について、南町奉行からの使者を受け、一刻程前に奉行所へ出掛けたとの事だった。
だが圭吾が姿を消したと云うのは平治をも驚かせ、今この老僕は、土方と八郎を前に、手がかりになるものを、必死に思い起こそうとしている。

「堀内さんが出掛けた時には、あいつはいたのか?」
「はい。旦那さまを、玄関でお見送りなさいました」
問う声は、焦る心を隠さず鋭かったが、それに臆する事無く、平治は毅然と土方を見上げて応えた。
「では姿を消したのはその後か・・だがあの人、江戸の町には不慣れと云っていたな。それで道に迷い、宗次郎と出遇ったのだと・・だとしたら、出掛けた先も限られる筈だ」
ゆっくりと思索しながら呟いた八郎の脳裏に、吉原のその近くで圭吾と出遭い、この屋敷まで案内して来たのだと教えた時の、宗次郎の、何かを秘するような硬い面持ちが浮かぶ。
そしてその言葉を、焼き尽くされるような嫉妬の中で聞いていた自分だった。


「・・あっ」
だが情炎渦巻く過去へ引き摺られかけた八郎を、辛うじて小さな叫び声が止めた。
突然のそれは、平治本人にすら止められずに、思わず口を突いて出てしまったと云うような、何処かぎこちないものだった。
「何か、思い出した事があるのか?」
相手を落ち着かせるつもりが、八郎の声も、先知りたさについ急(せ)く。
「旦那さまをお見送りされたその後、ふと圭吾さまが、湯島と云うのはここから遠いのかと聞かれたのです」
「湯島?」
「はい。確かに湯島と仰られました。不思議な事を聞かれるものだと思っておりましたら、学問の礎である孔子廟を祭ってある湯島聖堂には、一度参ってみたいものだと仰ったのです」
早く告げなければと焦る心は、常に穏やかな物腰を崩さない、平治の語調を乱れさせる。

 人の記憶と云うものは、それが余程に印象的なもので無ければ、まず脳裏に刻まれる事無く、時の経過と共に薄れ行き、やがて川の水が海原の果てへ押し出されるように、意識の外へ流れ出てしまう。
きっとその時の平治が、そうだったのだろう。
佐瀬圭吾にとって、湯島聖堂に詣でたいと願うのは、至極当然の事だった。
だから平治は異なものと思わず、其処で仕舞いにしてしまった。
 この屋敷のある番町から湯島聖堂までは、四半刻も掛からずに行く事が出来る。
仮に目的の地が湯島聖堂で無いとしても、それを目安に出来る処ならば、圭吾の出掛けた先はそう遠く無い。

「堀内さんを見送ったのが一刻前。その直後にここを出たとしたら・・・、もうとっくに着いているな」
八郎の、苛立ちを含んだ呟きを聞き流しながら、土方は横の平治を見下ろした。
「堀内さんが出た後、あんたは一度もあいつの姿を見ていないのか?」
「いえ」
土方の問いに、いらえは即座に返った。
「今から半刻程前に、火鉢の炭を足しに参りました時には、圭吾さまは何か熱心に書きものをされておいででした。ですから出掛けられたのは、その後です」
「書きもの?」
訝しげな反復に、平治は硬い面持ちで頷いた。
「気になるな」
八郎の不審が言葉を作る間もなく、土方の広い背が、廊下に飛び出した。




 人の事情がどのように変わろうが、主のいない室は、先程と同じように静謐な気を湛え、再び無遠慮な訪問者を迎えた。
障子を開け放し、今度は直ぐには足を踏み入れず、暫し視線だけで室の中を一巡していた土方だったが、突然その目が或る一箇所で止まり、更に像を鮮明にせんが為に細められた。
そして次の瞬間、身を動かすが早いか、広い背は、座敷の隅の文机の前まで行くと、其処に方膝ついて屈みこんだ。

角を合わせ、きちんと重ねられた書状は二通。
「誰に宛てたものだえ」
背後に立つ八郎の問いには応えず、そのまま土方は、二つの書状を手に取ると裏を返して宛名を確かめる。
ひとつは、堀内左近へ。
もうひとつの其れには、宗次郎の名が認められていた。
そして土方の手は、躊躇う事無くその後者宛てのものを、はらりと開く。
つんと、まだ少しばかり饐えた墨の匂いが、浅黄かかった紙面から匂い立ち、墨跡も鮮やかな文は、しかしその几帳面な文字を追って行く、土方の顔(かんばせ)も、八郎のそれをも、次第に硬く強張らせて行くのに、十分な内容を孕んでいた。


――文は。
厳しい残暑が、まだまだ夏の仕舞いを告げぬ頃、姉の志乃から、小さな包みが届けられた事に全ての端が発していたと、其処から始まっていた。

 行方の分からなかった姉からの便りに、胸の高鳴りを抑えて開けた紙包の真中に、思いもかけず鎮座していたのは、物言わぬ冷たい鋼の短筒だった。
そしてこの短筒を金に替え学問を続けるようにと、此方は確かに姉の字で、短い添え状が付されていた。
だが姉の環境とあまりに不釣合いなそれは、驚きよりも先に、圭吾の胸の裡を不吉な重苦しさでたちまち覆った。
しかも幾ら読み返しても文はその一行だけで、差し出し先は記して無く、そして何より、何故このような物を姉が持っているのか、それが圭吾にはどうしても納得出来ず、不安だけが悪戯に膨らんでいった。

そうしている間にも、短筒の形、刻印されている外国文字と数字から、これがどのようなものであるのか、その筋には殊更学識が深い自分の師に尋ねた処、かの短筒は、横浜の貿易商人で水戸浪士の援護者でもあった中居重兵衛により、阿蘭陀国から買い入れられた二丁であると分かった。
しかもその折師は、二丁のうちの一丁は、自分が入手して手元に有ると見せてくれ、そしてもうひとつは、どうやら井伊大老襲撃の際に使われ、その銃弾が大老の致命傷となったらしいと、驚く圭吾を前にして淡々と語った。

その時受けた圭吾の衝撃は、身に震えが走る程に激しいものであったのだろうが、几帳面な文字は己の感情の一切を排除して、少しも乱れず、ひたすら事実だけを綴って行く。
だが知ってしまった真実は、懸念と不安を増幅させるばかりのもので、しかも姉からの便りはその後一向届かず、遂に意を決して長岡を発ったのは、短筒を受け取ってから二月余りを経た、霜月半ばのことだったと、江戸に出てくるまでの経緯を語る筆は、止める寸でまで墨を枯らせる事無く、一気に認めていた。
 そして幾らか行間を空けて再び走り始めた筆は、江戸で宗次郎に出遭う事が出来た僥倖を、佐瀬圭吾と云う一人の青年に戻り、若さの迸るまま、飾り気の無い言の葉で、綿々と書き綴っていた。
 しかしやがてその文も仕舞いに近づこうかと云う段になり、読み進めていた土方と八郎の面が、又も険しくなった。

 今朝、誰もが宗次郎の枕辺に居た早暁、独り室で吉報を待つ自分の耳に、雨風とは違う、何か異質な音が聞こえた。
急ぎ雨戸を開け薄闇の中に目を凝らしてみたが、別段不審は無く、気の所為かと再び閉めかけたその時、踏みしめていた濡れ縁に、明らかに投げ込まれたと分る、小石を包んだ文が落ちていた。
それは姉を利用し、井伊大老暗殺によって幕府から追われる身である水戸浪士、田中新左衛門からのもので、文の内容は、短筒と金との取引を示唆したものであり、そして自分はその交換条件を呑んだのだと――。
其処に触れた時、それまで淀みなく流れていた筆圧が、少しだけ強くなっていた。

そして最後に。
堀内への詫びと、宗次郎とまみえたその事が、これから仇討ちに向かう自分に、唯一天が手向けた餞(はなむけ)だったと記され、文は結ばれていた。



「堀内さん、奉行所と云っていたな」
読み終えて、又元の通りに巻き戻しながら、驚きに浸る一瞬すら己に与えず、土方は後ろの八郎を振り返った。
「平治さんに、使いに走って貰っている。直ぐに戻るだろう」
ここから南町奉行所までは、然程距離は無い。
あの時点で平治を走らせたのならば、奉行所の堀内の元へは、間も無くこの急は伝わる事だろう。否、或いは既に伝わっているのかもしれない。
だとしたら今それぞれが単独で動き出すよりも、堀内を待ち、行動を共にする方が得策だと、土方の思考は瞬時に判断した。
そしてその傍らに立ち、動こうとしない八郎も又、同様の選択をしたらしかった。

「・・短筒か」
「それで姉の仇を、討つつもりなのだろう」
再び二通の文に視線を戻し、ふと漏れた八郎の呟きに、土方の、如何にもこの怜悧な男らしい、余計を省いたいらえが返る。
「だがまさか、あの井伊大老襲撃の一件で使われた凶器を、佐瀬さんが持っていたとはな」
八郎の調子には、記憶の残影になりつつある過去の事件が、不意に息を吹き返して迫り来るような、緊迫感があった。
「情人と行動を共にし、その内利用されていただけの自分の立場を知り、更に身の危険をも感じ始めた里乃が、何とか弟の行く末だけは護ってやりたいと、そう必死に念じて辿りついたのが、あの短筒だった」
だが憶測を語る土方の声は淡々と、それによって揺れ動く感情と云うものは無い。
「田中と云う輩、余程大事に隠し持っていたのだろう、その短筒。だから貴重なものだと、里乃は単純に思った。確かに・・・金に替えれば、それ相当にはなってはいただろう。だがこいつにが、既に短筒と云う本来の価値を超え、一部の人間達にとっては、酷く厄介な代物になっていた事までは、流石に里乃も知らなかった。それ故、里乃は命を落とさねばならなかった」
八郎の声には、無知ゆえの一途を哀れと思う柔らかさと、無知がゆえに恐れを知らぬ大胆さへの畏怖と・・・その両方を、同時に籠めたような複雑さがあった。
「・・・これが見つかれば、易々主君を討たれたのは、飛び道具を使った相手の卑怯と、井伊家家中は、何とかそれで面目を立たせようとするだろう」
そして続けざま、その井伊家の思惑を苦々しげに語る口調には、どのような経緯であれ、起こった事への言い訳を潔しとしない、八郎の、侍としての若い矜持がある。

――尤も。
八郎の言は又、井伊家への皮肉だけに留まらず、実際、もしその短筒が証拠として見つかれば、それにより、今井伊家への処分として、石高の削減を如何すべきか頭を抱えている幕府にとっても、一つの指標となる事を示唆していた。
しかし井伊家への処罰の軽減は、積怨晴れること無い水戸徳川家にとっては、どうしても阻みたい事柄でもある。
譜代筆頭井伊家か、御三家水戸徳川家か。
その両方が、家名を賭け、この短筒の行方を追い、それを掌中にした方へと、幕府の天稟は傾くと言って過言ではなかった。

「男に騙され、それを悔やんだ処で、もう後戻りは出来無いと知りながらも、里乃は残される弟の行く末に死にも狂いだった。その短筒がどれ程重要なものかも知らず、ただただ弟の役に立てば良いと、それだけを願ったのだろう」
低い声で語る土方の脳裏に、里乃が失踪してから後、何か便りは無かったかと問うた時、この一件を隠し、姉は文字を書くのが不得手故、あまり文が届く事は無かったと、静かに語った佐瀬圭吾の顔(かんばせ)が思い浮かぶ。
あの時圭吾の胸の裡は、届けられた短筒が、姉と如何な結びつきがあるのか、何か事件に巻き込まれているのでは無いのか・・・
決して他人には語れぬ、押し潰されそうな不安のみに覆われていたのだろう。
そして。
遂に姉の安否を求めて長岡を飛び出し、辿りついた江戸で知った残忍な真実は、圭吾を打ちのめし、怒りのままに暴走させた。


――全てがひとつの線に繋がった今、一刻も早く佐瀬圭吾を探し出し、その行動を止めなければならない。
でなければ圭吾は、むざむざ敵の手に落ちるだけになろう。

 ひっそりと、音を殺すようにして降る時雨へと視線を移した土方の胸に、まだ戻らぬ堀内を焦れる苛立ちが募る。
「ここに里乃の本当の弟が居る事を田中に教えたのは、奉行所の石崎と云う奴か」
それを雨湿りの重さに紛らせ、双眸を庭に据えたまま、感情と云うもを削ぎ取ったかのような低い声が漏れた。
「だろうな。・・宗次郎を佐瀬さんと間違え、短筒の在り処を吐かせようとしたが、人違いと分かった。しかし佐瀬さんが此処にいる事は、その後の、堀内さんと南町奉行との話でも分かった。石崎と云うそいつが何を企んでいるのかは知らんが、田中と手を結んでいる事だけは間違い無い。奉行所の目から田中を隠し、逃しているのもそいつの采配だ。そして里乃の裏切りを知った時、今度は己の役職を利用し捕らえ、短筒の在り処を白状させようとさせた」
まるで吐き捨てるような八郎の口調だったが、それに応える前に、土方は文机の上の文に移していた視線を、つと上げた。
同時に、八郎のそれも、廊下の先へと向けられた。


 彼方からではあるが、聞こえて来るのは確かに人の声だった。
そして玄関で案内を乞うているそれは、土方の顔(かんばせ)から険しさを消し、歪めた片頬に、苦笑いを浮かばせるのに十分な人間のものだった。
「近藤さんか?井上さんは、近藤さんが戻ったら自分が代わって来るのだと云っていたが・・」
「帰ってはみたが、宗次郎の様子が気になって、叉その足で戻ってきたのだろうさ」
大方そうなるであろうとの予想を裏切らぬ友の行動を笑う余裕は、土方に、この男本来の冷静さと、素早い思考の回転を取り戻させたようだった。

案の定、日暮れと、降り続く小糠雨とが相俟って、普段よりも薄暗い玄関に立っていたのは、厳しい顔を崩さぬ近藤だった。
「宗次郎は?」
出て来た土方の顔を見るなり問うた太い声の性急さは、あまりに深閑と人気の無い様子を、それが病人の容態の変化とすぐさま結びつけた、近藤の焦燥と危惧だった。
「大丈夫だ」
それに短くいらえを返し後は何も云わず、土方は、目だけで上がるよう促した。
元々口数の多い男では無いが、何かを裡に秘める時、或いは攻撃の対象を定め、それに牙向ける態勢を整えた時、土方は極端に言葉数が少なくなる。
今がそれなのだと、長い付き合いで判じた近藤も又、黙って頷くだけで、上がり框に足を掛けた。




 けたたましい馬の嘶きと共に、堀内左近が戻って来たのは、宗次郎へ宛てられた文を、一枚岩のような頑健な背をびくりとも動かさず、近藤が読み終えた直後の事だった。
衣から雨雫を滴らせ、荒い息を白く濁らせながら室に飛び込んできた左近は、土方が差し出した自分宛ての書状を、濡れた手が墨を滲ませる事をも厭わず受け取ると、それを一気に解いた。
 やがて最後の一文字を眼に刻んでも、堀内は暫し無言で文を凝視していたが、不意に何かに思い当たったように、素早く其れを巻き直すと、後ろに立つ者達を振りかえった。

「・・圭吾にとって、これから為すべきは、覚悟の事。ならばその場所に、圭吾は湯島の勧善寺を名指しした筈だ」
「湯島の?」
ここから湯島は近いのかと尋ねたと云う、圭吾の言葉を重ね併せ、問う土方の声は訝しさを隠さない。
「其処に圭吾の姉、志乃殿が葬られている」
「姉上殿の、墓が?」
昨夜知った真実の残酷さを、再び現のものとして思い出したのか、厳つい顔を更に強張らせた近藤の声は、地に沈む雨音のように重いものだった。
「が、相手は、田中一人では無かろう」
「元南町奉行所同心、石崎公之真が一緒だ」
土方に返したいらえの、その早さ強さこそが、この二人に対する、堀内の憤怒を物語る。
「元?」
だが八郎は、敢えて繰り返し、その説明を求める。
「石橋は田中他、井伊大老を襲い、未だ捕まらぬ水戸浪士数名に、金で奉行所内部の探索の状況を漏らし、逃がしていた事実が判明した。尤もそれが分かった時には、既に石崎の姿は何処にも無かったそうだ」
淡々と語る堀内ではあったが、宙の一点に視線を据えている横顔には、迸しりかねない己の怒りを、そうする事で自ら律している厳粛さがある。

「南町奉行は私の旧知であるが、今日呼び出されたのは、今回の一件で、宗次郎殿が仕置きを受けている最中、何か石橋が漏らした不審を聞いてはいないかと、その事だった」
「今更っ、何を云うっ」
聞き終えるや、近藤の怒声が室に響き渡った。
常に豪放磊落なこの男にしては、珍しく吐き捨てるような皮肉な口調は、全てが後手後手に廻っている役人の怠惰と、それが故に、大事な者を巻き込まれた事への怒りだった。
「志乃殿の墓の在る勧善寺は、湯島聖堂の裏手界隈と聞く。だがあの周辺は場所柄、神田明神もあり、人目も多い。しかも田中は井伊大老を襲った水戸浪士。・・明るい内に姿を現す事は無かろう。圭吾が二人と対峙するのは、暗くなってからに限られる」
誰に伝えるでも無い独り語りの声音には、しかしその事に唯一の希(のぞみ)を託している、堀内の焦りが垣間見える。
「それは有り得るな。しかもあそこには、昌平坂学問所が在る」
そして八郎も又、その事には意見を同じくしながら、未だ煙雨に濡れる庭へと視線を移した。

 昌平坂学問所を有する湯島聖堂の礎は、代々幕府の大学頭を勤める林家の祖、林羅山が開いた私塾に始まる。
始め上野にあったそれは、五代将軍綱吉の時に、湯島に聖廟を建立し移転したもので、私塾とは云え、掛かる費用はすべからく幕府から出ており、半ば公的機関の性格を有していた。
その後、寛政年間、湯島聖堂は林家の私塾から脱し、幕府に収容され、以後昌平坂学問所と称し、長年に渡り幕臣教育の礎となってきた。
今堀内の言葉に八郎が同調したのは、そう云う幕府機関の間近にある場は、幕閣に叛旗を翻し追われる二人にとっては、極力避けたいと思う心理を突いたものだった。


「悠長にしている時は、無いだろう」
だが誰もが一瞬無言を決め込んだ、その狭間を狙ったように出来た沈黙の中、土方の遠慮の無い声が、再び周りの者達の裡に、現の時を刻み始めた。
「裏の倉に、馬がいる。私は今奉行所から騎乗して来たものを使う」
その言葉も終わらぬ内に立ち上がった堀内の意図は、それを使って自分を追えと示唆するものだった。
そうして云うや否や身を翻し、廊下へ走り出た背を、間を置く事無く八郎が追う。

「近藤さん、あんたは残ってくれ」
しかし同じように足を踏み出そうとした近藤を、八郎の後に続きかけた土方が、振り返り止めた。
「いや、俺も行く」
譲らぬ風情で顔を厳しくする相手の行く先を、真正面から阻むようにして立つ土方は、一度険しい双眸で近藤を捉えたが、意外にもそのまま静かに頭を下げた。
「宗次郎を、頼む」
宗次郎と、未だ身を苛む辛苦に呻吟している愛弟子の名を出された途端、前に出ようとした近藤の足が、勢いのまま、のめるようにして止まった。
「佐瀬と云う奴の、覚悟の上の仇討ちと知れば、宗次郎はどんな事をしても湯島に行こうとするだろう。・・・それを止めるのは、あんたの他には出来ない、だから頼む」
この友との長い付き合いの中で、自分に向けられた、初めてと云って良い真剣な眼差しは、それ以上近藤の口から拒む言葉を奪い去り、足はその場に縫いつけられてしまったかのように、動きを止めてしまった。
その近藤の様子をしかと眼(まなこ)に刻むや、土方は再び身を翻し、今度こそ二度と振り返る事無く、先を行く者達を追い始めた。

 そして己の視界の中で、瞬く間に遠ざかる男たちの背を、厳つい口を堅く結んだまま、近藤は複雑な思いの中で見守っていた。




 現在の当主左近は隠居同然と云えど、堀内家の家屋敷は嘗ての隆盛を止め、敷地は下手な大名屋敷ほどに広い。
その屋敷の裏手を、薄闇と氷雨の中、土方の俊足は少しも迷わず目的の馬小屋へと進む。

「良く知っているな」
客として迎えられるだけならば凡そ縁の無い場所を、少しも躊躇う事無く進む背に、八郎の、揶揄ともつかぬ声が掛かる。
「一度、花見に来たからな」
だが返る声も、それに輪を掛けて素っ気無い。
「花見?」
「もう少し行くと遅咲きの櫻がある。それを見に、今年の春宗次郎と来た」
「酔狂な事だな」
皮肉をそのまま声にしたような嘯きには応えず、漸く目指す建物の影を視野に捉えるや、額から伝う雫を厭うように、土方は眸を細めた。
その寸座、煙る雨の帳が、全ての物音を包み込んでしまったかのような静寂の中、遠くから高い嘶きが聞こえてきた。

「急ぐぞっ」
堀内が騎乗したのだと――。
そう知るや、後ろを顧みる事無く告げた土方の足が、泥濘を蹴って馬小屋へと駆け出した。




「目を覚まさせてしまったか?」
眠りを妨げる事を案じ、額にある濡れ手拭を、やつれた頬に掛かる髪の、一筋も動かさぬよう気をつけて外したつもりが、宗次郎はその僅かな感触を、機敏に察してしまったようだった。
が、薄く開けられた瞼の隙から覗く瞳は、深く翳りを落としている睫の所為で、それが意識の覚醒なのか、それとも無意識の仕草なのかを教えず、近藤を狼狽させる。
その事が、本来ならばまだ夢寐にある意識を、強引に覚ましてしまう事にはなりはしないかと、・・・二度目に掛ける声を、この剛毅な男に躊躇わせる。
「宗次郎?」
だが迷った末、再び名を呼んだのは、返る声を聞き、病人の無事を確かめたいと願う、抑えきれぬ欲求からだった。
そしてそれは確かに宗次郎の朧な意識を刺激したようで、虚ろに彷徨っていた双つの瞳の焦点が、一度宙で交わり、次にゆっくりと声のした方へ向けられた。

「・・近藤、・・せんせい・・」
籠もる熱は、身体から水気の全てを奪い去ってしまったようで、微かに喉が上下し、ようよう絞り出された声音は、その殆どが掠れ、気をつけて唇の動きを見ていなければ、聞き逃してしまいそうに弱い。
「苦しいのか?」
それを痛ましいと思いつつも、病人の目覚めを喜ぶ思いの方が、近藤には遥かに大きい。
その近藤を見上げながら、か細い首が、微かに振られた。
「・・そうか」
そしてそんな宗次郎の様子は、見守る厳つい顔から漸く硬さを解き、其処に初めて安堵の色を浮ばせた。

「・・せんせい・・」
だが宗次郎は、己の意のままにならぬ身に焦れるように、苦しげに近藤を呼ぶ。
「どうした?」
手の平ひとつで難なく隠れてしまう薄い肩を、その焦燥ごと包み込み、宥めるように問う近藤の声が柔らかい。
「・・させ・・さん」
夢寐にあっても現にあっても、その人物の事だけをひたすら案じていたのか、宗次郎の瞳が近藤を捉えたまま動かない。
「・・・佐瀬さんが・・姉上さまから、・・何か預かっているはず・・だと」
身に力を籠めれば痛みが襲い、声を途切れさせてしまう。
だが宗次郎は語りを止めない。
「そう、奉行所の役人が云ったのか?」
頷く仕草に力は無いが、その話の真意を圭吾から聞き出して欲しいのだと、深い色の瞳は訴える。

「・・佐瀬君が、彼の姉上から預かったものは、短筒だった」
あまりに意外な、そして衝撃的な近藤の言葉に、蒼を透かせた白い面輪が、一瞬にして強張った。
「しかもそれは、今年三月、井伊大老襲撃の時に使われたものだった」
更に、一言一言含むように続けられる言葉は、驚愕を大きく超えて宗次郎を混乱させ、やがて纏まらぬ思考は、焦燥と不安へ駆り立ててしまったようで、大きく見開かれた深い色の瞳は瞬きもせず、呆然と近藤を見上げている。
弱りきった身で受ける衝撃を慮り、出来るのならば、まだ安寧の中にいさせてやりたいと希(こいねが)いつつも、しかし今全てを知らねば、きっとこの者の精神は休まる事は出来ないのだと、近藤は己を鼓舞して真実を語り続ける。
それは近藤が、宗次郎の師として、自ら己に課した試練でもあった。

「佐瀬君は、短筒の元の持ち主であり、姉上殿の情人であった水戸浪士田中新左衛門と、お前を捕らえた奉行所役人の、石崎公之真と云う二人の輩と見(まみ)える為、湯島に向かったらしい。・・その短筒を携えてだ」
「・・ゆ・・しま?」
「その近くに、姉上殿が葬られている寺があるそうだ」
重く、静かな声に呼び戻されたかのように、我に帰り近藤を見る宗次郎の脳裏に、訊問の最中で知った無残な真実が蘇る。

圭吾の姉は、もうこの世にはいないのだと――。
そう刻んだ記憶が、覚えている最後だった。
だが同時に、あの時役人は、圭吾の姉は、騙され、利用されただけなのだと云っていた。
だとしたら、圭吾がその姉の無残を知り、最後は虫けら同然に殺した情人に会いに出向いたと云う事実こそは・・・
しかも全ての火種となった、その短筒を持って――。


「近藤先生っ・・」
思わず身を動かした途端、幾多の針で突かれたような鋭い痛みが全身を襲い、それを堪える為に、宗次郎は唇を噛み締めた。
「動いてはいかんっ」
だが叱る声にも首を振り、宗次郎は苦しげな息をひとつ漏らすと、ようよう瞳開き、それを近藤に向けた。
「・・佐瀬さん・・もしかしたら・・」
「仇討ちに、行ったのだろう」
骨ばかりがあたる薄い肩を、手の平に包み込んだまま、目を逸らす事の出来ぬ現実を教える声は、太く厳しく、そして優しい。
案の定、短い一言を云い終えるや、瞬く事も忘れたように見詰めていた瞳が、張り裂けんばかりに開かれた。
だが近藤に向けられた瞳の色は、あまりに深すぎて、今宗次郎の裡で何が弾けたのか、それすら推し量る事を拒む。
しかし、其処に映る、まるで音ひとつ無い淵のような深遠さ、ぎやまんのような硬質な透明さこそが、宗次郎が呑み込んでしまった哀しい叫びのように、近藤には思えた。

「案ずるな。佐瀬君はきっと無事に帰って来る。歳も、伊庭君も、直ぐに後を追った。そして何より、堀内殿が、必ずや、彼を護る」
「・・堀内さまが・・?」
宗次郎の力の無い声が、最後に近藤が告げた人の名を繰り返した。
「堀内殿は、彼の師だ。何があっても、彼を導きそして護る。お前は堀内殿を信じていればいい・・だが」
宙を睨むようにして、己の信念を確呼不抜に云い切ったその直後、ふと変えられた調子に、宗次郎が戸惑うように近藤を見上げた。
「彼は勝手な事をしたと、後で堀内殿に、こっぴどく説教を喰らうのは仕方があるまいな」
凝視している瞳の主を慰撫するように、近藤の面が緩み、片頬だけに出来た片笑窪が、この男の厳つい印象を、ひどく人懐こいものに変えた。
それが、不安に在るばかりの自分を案じてくれている、近藤の、ある丈の優しさなのだと、すぐさま察した宗次郎の面輪にも、つられるように笑みが浮ぶ。
だが何よりも、肩に置かれた手の平は、近藤の慈しみと温もりを、直截に宗次郎に伝える。

近藤は、圭吾の師である堀内が、きっと彼を導き護ると云った。
だとしたら自分も又、近藤に導き護られるのだろうか。
否、そうでありたいのだと。
いつの時も、どのような時も、果てる事無く、きっとそうあり続けたいのだと。
自分はこの師の背を、必ずや見失ってはいけないのだと――。

そう念じた途端、瞼を閉じる間も敵わず、宗次郎の眦を滑り落ちるものがあった。
「どうしたっ?」
急(せ)いて問う太い声が、ひどく戸惑い慌てている。
だが宗次郎には、応える事が出来ない。
声に出してしまえば、自分はもう堪えようが無く、この師に縋り付いてしまいそうだった。
「何処か、痛いのか?」
幾ら問うても、宗次郎は応えず、ただただ唇をきつく噛み締め、しゃくりあげる息を必死に堪えるている。

「宗次郎・・」
堅く閉じた瞼の隙から溢れ出るものを、武骨な指で拭ってやりながら、ほとほと困り果てた近藤の声が、顎の張った口から漏れた。








きりリクの部屋   雪圍U(八)