雪圍U (八) 昌平校学問所とその敷地を共にする湯島聖堂は、千代田の城をぐるりと囲むように張り巡らされた、江戸川用水路の外、やや勾配のきつい坂の途中にある。 そして後方には神田明神が位置するが、其の裏手の、鬱蒼と繁みを作る木立を抜けた辺り――。 此処に寺があったのかと、近くに住む者にすら分りずらい地形を利用して、里乃が葬られたと云う勧善寺はあった。 そして今、煙雨に湿る墓石の群を背に、佐瀬圭吾は、自分に不敵な笑いを向けている男と対峙するようにして、佇んでいる。 「里乃からの預かりもの、返して貰う」 闇と細い雨が邪魔をし、相手の顔貌も覚束かぬ視界の中、姉の情人であった田中新左衛門の唇が、酷薄そのものに歪められたのが、圭吾にも判じられた。 「これは、貴方のものなのだろうか」 しかし懐から油紙に巻かれた包みを取り出し問う圭吾の声は、陰湿な闇には似合わぬ明瞭なもので、その意外さに、田中がくぐもった笑い声を漏らした。 「そう云う人を疑わぬ馬鹿正直な処、里乃と良く似ている」 「姉は、貴方の事を好いていたのでしょうか」 「らしいな」 「では貴方は、姉の事を好いてくれたのでしょうか」 「さて、どんなものか・・・。一緒にいれば多少の情も移ろうが、それとて月日を重ねれば鬱陶しいだけ」 「・・鬱陶しい?」 真っ向から見詰め問う圭吾の視線を逸らさず、肉付きの薄い田中の片頬が、再び皮肉な笑みを浮かべた。 「里乃は、確かに都合の良い女だった。何も知らず何も聞かず、惚れたと優しく耳打ちする男の為に、ただひたすら貢いでくれた。・・それでもその内、あいつも自分が利用されているだけだと気付いたらしい。そして唯一の身内であるお前の将来(さき)を、何とか護らねばと焦った挙句が、今回の厄介の発端だった。・・全くとんだ面倒を起こしてくれたものさ」 吐き捨てるにも似た乱暴な調子で、言葉を放つ田中を見つめていた圭吾だったが、その饒舌が一旦途切れるのを見計らっていたかのように、再び唇を開いた。 「では姉が、この短筒を何処かへ盗み隠したと知った貴方は、その在り処を知るが為に、わざと奉行所役人に姉を捕らえさせたのでしょうか?・・貴方と手を組んでいる、其処の石崎と云う役人に」 圭吾の声は怒りを滾らせるのでも無く、憎しみをぶつけるのでも無く、それどころか、煙る雨に溶け込むかのように、静かなものだった。 「頭の作りは、良いらしいな」 名指しされて応えたのは、田中の後ろに控え、それまで一言も発する事のなかった、もう一つの影だった。 「貴方達に利用されているだけだったと知り、奪った短筒を私の元に送った姉は、その後直ぐに逃げようとした筈です。それが姉だけが、容易く役人に捕らえられてしまった。・・貴方達が手を組んでいるなどとは、考えずとも分かる事です」 「お前の事を話すとき、里乃は謡うように楽しげだった。情の欠片も湧かない女だったが、そんな姿を見せつけられれば、不思議な事に、嫉妬のひとつふたつ感じたものさ。・・・が、あいつが自慢した、それだけの事はある。確かに出来の良い弟らしい」 過ぎ去った昔を懐古するにしては、あまりに横柄な物言いだったが、其処に籠められた思いは本当だったのだろう。 抑揚の無い物言いに終始していた田中の声が、その時だけ、ほんの微かに調子を違えたのが、圭吾にも聞き分けられた。 だがそれは同時に、この男の勝手に振りまわされ続け、そして儚くして散った、姉への憐憫に繋がる。 しかし今は、紅く燃え盛る憤怒の火柱すら、静かに揺らめく蒼い焔に変え、圭吾は更なる真実に迫る。 「捕らえられた姉は、短筒を私の元へ送ったと、そう云って死んだのでしょうか」 石崎に双眸を据え、躊躇い無く核心に触れた声には、少しの乱れも無い。 「いや・・」 が、その若い挑戦から逃れるのでもなく、石崎の唇が歪む。 「仕置きで吐かせてやろうと思ったが、あまりに強情で難儀した。その内にこいつが・・」 暗闇の中で、蛇のように細い光りを放った石崎の眼が、顎をしゃくりながら田中に向けられた。 「里乃が、国元に宛てて何かを送った事を突き止めて来た。それが短筒に違いないとは、他に気働きも出来ないあの女の事だ、直ぐに分かったさ。そうなればもう里乃には用は無い。あいつもあれ以上痛い思いをせず、早々にあの世に渡れて、今頃喜んでいるだろうよ」 「姉を、殺したのですね」 「情を、かけてやった」 皮肉に嘯く男達の挑発にも、圭吾は眉根ひとつ動かさず、そぼ降る雨が、風の騒がせる葉音すら包み込み、一際静寂を深くしているような闇の中、身じろぎもせず佇んでいる。 「では宗次郎さんに傷を負わせたのも、貴方の仕業か」 「頑固な小僧だったさ。最後まで、自分が佐瀬圭吾だと言い張りやがった。・・・里乃は死んだと教えてやった時、咄嗟に向けた勝気な目は、いっそ其処で息の根を止めてやろうかと思う程だった。それが途中、お奉行から差し止めが入り命拾いした。・・全く運の良い奴さ。が、お陰で生きたまま、あの小僧を放免しなければならなくなった俺は、今度は奉行所から追われる立場に早代わりだ」 悪びれる様子も無く、むしろ宗次郎が助けられ、生き証人と云う存在が出来た事で、己の立場が危うくなった顛末を、忌々しげに語る男を凝視している圭吾は、堅く唇を結び、沈黙を崩さない。 「知りたい事は、全て聞き終えたろう。冥土への土産は、あまり沢山で無い方が身軽で良い・・・その手にあるもの、そろそろ返して貰う」 二人の遣り取りを聞いていた田中が、少々苛立ちを孕んだ声で告げ、刀の柄に手を掛けたのを見ても、やはり圭吾に動ずる風は無く、暫し自分と相対している者達を見据えていた。 が、田中が腰を落とし攻める、抜刀する体勢を見せると、ゆっくりと掌中にあった油紙の包みを解き、中から、闇に鈍く反射する鋼の凶器を取り出した。 「・・この短筒は、今は国内に二丁しか無い阿蘭陀製のもの。幸いな事にその内の一丁が私の師の元にあり、その関係で、この銃の仕組みや構造を詳しく解いた書物を手にする事が出来ました」 誰に伝えるでも無い、まるで独り語りのような淡々とした物言だったが、しかし右手に持ち替えた短筒の引き金に、人差し指を絡めた圭吾の動きは、その銃が火を吹く瞬間を、一度は眼に刻んでいる田中と石崎の身を強張らせた。 だがそれも一瞬の事で、直ぐに田中の面に、余裕ともとれる笑みが浮かんだ。 「それがどうした。弾が無い短筒など、竹光程も役には立たん」 その言葉も終わらぬ刹那――。 圭吾の手に在る短筒が、突然火を吹き、同時に、地をも揺るがす爆音が、しじまを裂いて森をざわめかせた。 闇に、再び元の閑寂が戻るまで――。 驚愕の時は、如何ばかりのものだったのか。 火の華を放った銃口は、仄かな白煙を、名残のように宙に揺らめかせる。 「見よう見真似で作った弾ゆえ、装填したは良いが、暴発しては先に私の命が絶えてしまう。だがそれでは本懐を成就出来ず、困ったものだと思っていましたが、どうやら仇の一人二人撃つ事を、天は許してくれたらしい」 目を見開き、全ての神経の末端までも硬直させてしまったように、動けぬ男達に向かい告げる声は少し上ずり、それがこの若者に、ようよう感情と云うものが戻って来た事を物語っていた。 「姉の志乃は、私にとって、誰よりも大切で、そして何よりも護らねばならぬ者でした。少しも早く一人前になり、姉を迎えに行く。その事だけが、今日まで私を支えて来ました。・・・貴方達を討てば、私は地獄と云う修羅に堕ちるでしょう。そうすればあの世で姉と見(まみ)える事は出来ません。ですがきっと姉は、この愚かな弟を許してくれる筈です」 語りながら圭吾は、恐怖に固まり、身じろぎ出来ぬ相手との距離を、ゆっくりと詰める。 髪を、頬を、衣を濡らす煙雨の冷たさすら、熱い怒りに変えて、一歩一歩、確実に縮める。 そして、今正に相手の胸元に向け、引き金を引こうとしたその刹那――。 凄まじい勢いで地を轟かせ来る蹄の音と、けたたましいまでの馬の嘶きに、圭吾の動きがびくりと止まった。 「圭吾っ」 堀内左近は、呆然と仰ぎ見る圭吾と、動けぬ二人の男達の間に割るようにして入り込むと、見事な手綱捌きで、前足を立て逸る馬を鎮めた。 「その引き金、引く事はならんっ」 「先生っ、お許し下さいっ」 「許さんっ」 左の鐙に掛けた足を軸に、馬に少しの傾きも与えず、流れるような半円を描いて真正面に降り立った堀内に、圭吾が僅かに後ずさりした。 「ならんっ」 振り続ける雨は、精悍な顔(かんばせ)をより峻厳なものにし、短筒を求め、ゆっくりと差し出された手の平からも、水の礫が零れ落ちる。 そして其処から少し離れた位置で、その師弟を、土方と八郎が見守る。 「・・圭吾」 まるで地に蔓延る蔦に、足を絡め取られてしまったかのように動けぬ圭吾に、更に一歩近づこうとした堀内だったが、しかし突然、宙を切り裂くような鋭敏さで振り向くや、上段から振りかざしてきた田中新左衛門の刃を、鋭い一太刀で跳ね除けた。 ――時を刻む事すら敵わぬ一瞬。 鋼と鋼がぶつかり合い、闇の中で飛んだ火柱は、先程短筒から放たれたそれよりも、細く青く、しかも激しい。 しかしその一撃で、堀内は守りから攻めへと、瞬時に態勢を変え、些かの不自然も感じさせぬ、流れるような動きで、相手の懐に飛び込んでいた。 その寸座、修羅の形で刃を振り下ろした男は、呻き声ひとつ漏らす事無く、もんどり打って地に転がった。 瞬く間も無い出来事に、堀内の技量を初めて目の当たりにした土方の眸が細められ、又堀内と云う人間を、改めて剣術の先達として認識した八郎の面にも、僅かな緊張が走った。 だが堀内の刃は、二人が一瞬の忘我から脱した瞬間には既にもう一人の敵、石崎公之真の首筋に吸いつき、かの者は、刀の柄に手を掛けたまま、動きの全てを封じられていた。 刃を突きつけられた喉元から、皮膚一枚を通して伝わる鋼の冷たさが、石崎を凍りつかせる。 が、恐怖は長くは続かず、不意にその刃が返されるや、闇に銀の弧が描かれ、次の瞬間、それはぴたりと一箇所で静止した。 胴を払ったのだと・・・ 土方と八郎がそう判じた時には、石崎の上体は大きく揺らぎ、そぼ降る雨が奏でる静けさを少しも邪魔する事無く、身は地に沈んだ。 「圭吾、柳生の教えは、斬る技にはあらず。・・覚えておるな」 ゆっくりと太刀を鞘に収めながら、身じろぎもせず凝視している圭吾に語り掛ける堀内の声音は、静かではあるが、迷いにいる者を救い導くが如く、確固として強い。 「よって殺す技にもあらず。・・・志乃殿がお前にその短筒を託したのは、誰を殺す為でもなかった筈。いや、そのような事は思いもしなかったろう。志乃殿は、お前がその短筒を勉学の糧にし、前を向いて生きる事を、ただただ願った」 右手に短筒を握り締めたまま、見開かれた圭吾の眸は瞬きもしない。 「私はお前に、姉の仇への恨みを忘れよとは云わぬ。だが恨み続ける心は、人を其処に縛り付け、その先へ進ませようとはしない。・・・圭吾、今は恨みを振り返らず、強くなれ。 いつかその事を己の糧と出来る日まで、振り返るな。志乃殿が身を挺し、最後まで願われた事、叶えてやって欲しい」 責めるのでは無く、戒めるのでも無く、堀内の声はただ静かに弟子を説く。 「志乃殿の願い、叶えてやって欲しい・・」 再び願い促す声は、肌に纏わる細い雨よりも、柔らかくそして哀しい。 しかと視線を据え逸らさぬ堀内を、圭吾は暫し呆然と見つめていたが、やがてその面が不意に伏せられた。 「・・先生」 やがて途切れ途切れに聞こえて来た声は、微かに上ずり、それが今圭吾の頬を濡らしているものが、雨ばかりではないのだと、見守る者達に知らしめる。 「・・指が、・・指が、離れないのです」 無防備に差し出された右手は、短筒の引き金に指を掛けたまま、微かに震えている。 「・・・離れないのです・・」 繰り返す声は、もう激しい感情の隆起を隠さない。 それが、悔しさなのか、怒りなのか、痛みなのか、それとも哀しみなのか切なさなのか・・・ その心衷を問わず、堀内は無言で己の掌を圭吾のそれに重ねると、鋼の凶器に絡まる指のひとつひとつを、ゆっくりと解いてやって行く。 そうして全部を剥がし終えた時、自分の手の内に短筒を収め、今度は開いたまま雨に打たれる圭吾の五指を、もう片方の手の平で、上から包み込むようにして閉じさせた。 「・・強うなれ」 今一度、同じ言の葉を繰り返す堀内を仰ぎ見た顔が、しかし又すぐに伏せられ、やがて低い嗚咽が、堅く結んだ唇から漏れ始めた。 だがそれは間を置かずして、抑えきれぬ迸りとなり、煙る雨に絡むように、辺りの閑寂に棚引き消えた。 「佐瀬さんは・・?」 「無事だ」 元結を外した濡れ髪を無造作に拭いながら、襖を開けた途端掛かった声に返したのは、凡そ素っ気無いいらえだった。 ――つい先ほど、俄かに慌しくなった表の様子を見てくると、硬い顔で室を出て行った近藤は、そう間を置かずして戻って来た。 そして瞬きもせずに見上げている宗次郎に、帰って来た者達皆の無事を伝え、もう何も案ずる事は無いと、大きく頷いて見せた。 ただ八郎だけは、激しすぎる心の振幅を経た圭吾を慮かったのか、馬を下りる事無く、そのまま和泉橋に帰って行ったと云う。 そして土方は、今堀内の着物を借り着替えているのだと、話の先を強請る愛弟子に教える声は、近藤自身、安堵を掌中にして出来た余裕からか、待つ事を強いられていた時よりも、ずっと和らいだものになっていた。 そうして待ち望んでいた土方は、襖を閉めるなり夜具の際までやって来ると、物憂い仕草で腰を下ろした。 堀内からの借り物の結城は、多少地味目ではあったが、しかしそれが、濡れ髪に覆われた、この男の端整な造作を際立たせている。 「落ち着けば、あいつも顔を見せるだろう。お前の事を、ずっと気にかけていた」 相変わらず無愛想な物言いだったが、とって付けたような最後の一言が、不安にある宗次郎の心を、せめて慰撫してやりたいと願う、土方なりの配慮だと知れば、この友の不器用を垣間見るようで、近藤には可笑しい。 「でも・・・」 が、籠められた心の機微を、短い一言で悟り得るには、まだ少年の域を抜け切れない宗次郎には無理だったようで、深い色の瞳は、土方を見上げたまま不安に揺れる。 「仇討ちも、終わった」 だがその宗次郎の戸惑いに知らぬ振りして、更に続けられた言葉に、細い面輪が一瞬の内に強張った。 「では、本懐を?」 張り裂けてしまいそうに瞳を見開いている宗次郎の代わりに、身を乗り出すようにして問うたのは近藤だった。 「あいつにとっては、それが本懐だったのかどうかは分からん。が、田中新左衛門と、石崎公之真は、後から来た南町奉行とその配下に捕らえられた」 「南町奉行所に?」 「元々春の一件の片付けは、南町奉行所の仕事だったらしい。しかも田中等、襲撃浪士を密かに逃していた石崎は、其処の役人だ。・・あいつらにも、立場と云うものがあるのだろうさ」 石崎と、その名を口にした時、土方の声がほんの僅か、錯覚と聞き違える程の一瞬、低くくぐもった。 その変化を土方に齎せたものが、今自分達の目の前に横たわる蒼白な頬の主を、ここまで傷つけた輩への憤怒だとは、近藤にも知る事が出来た。 そしてその事は、胸の裡に、未だ怒りの熾き火を消す事が出来ずにいる己とて、同じ事だった。 「ならば佐瀬さんは、本当に無事だったのですね・・」 が、その土方や近藤の思惑を知らずして、宗次郎にとっては、仇討ちの成就よりも、圭吾の無事がまず優先すべき事柄だったらしく、無言で頷く土方を見ると、深く翳りを刻んだ面輪に、漸く安堵の色が広がった。 「全ては、あいつが自分で話すだろうさ」 無事である事実だけを伝え、後は圭吾自身から聞けと云う言い分は、些か乱暴なものの様にも思えたが、その者が受けた傷を、他人である自分が語る事を控えた、これも土方と云う男の、不器用な労わりの術だった。 「お前、熱は?」 だがその土方も叉、あの渦中にあっても病人の事は頭を離れなかったようで、大まかな経緯を語り終えると、幾分丈の短い袖から延ばした右手で、宗次郎の乱れた前髪を掻き揚げ白い額に触れた。 が、そうして全部を曝け出されてしまうと、細い線で縁取られた顔貌(かおかたち)の繊細さは、見守る者達に、このまま消え行きてしまいそうな、酷く落ち着かない危うさ脆さを印象づける。 「・・まだ、高いな」 一瞬胸を過ぎったそんな不吉を強く打ち払う、苦々しげな舌打ちが聞こえた途端、片方の手の平で、その大方を覆ってしまえそうな小作りの面輪が、気の毒な程に萎れた。 「・・・けれどもう、何処も痛くない・・」 それが宗次郎の、精一杯の気遣いとは分ってはいても、現実を付き付けられた目には、拙い偽りも頑なさも、逆に苛立ちを増す糧にしか成り得ない。 「あの医者の寄越した薬は?」 だがそんな己の癇性を、不安げに見上げている病人にぶつける訳にも行かず、その矛先を、不機嫌な物言いに籠めて、土方は近藤を見遣った。 「あと二つほど残っているが・・」 が、近藤の実直さは、宗次郎の下がらぬ熱を、枕辺についていてやりながら、何も出来ずにいた己の責に置き換えてしまったのか、慌てて応えた調子が、少しばかり狼狽していた。 「なら今夜の分はあるな」 それを察したのか、流石に先ほどよりも険しさを消した声に、くくり枕の上の面輪も、漸く強張りを解いた。 近藤の云った通り、小さな包みがふたつ。 眠らせる事で痛みから開放し、身体に残っている力を温存させるのだと教えた、あの若い医師の処方した薬は、多分蘭方で用いられるものなのだろう。 だが確かにそれのお陰で、少なくとも今日一日、本来ならば耐え難い激痛を、宗次郎は夢寐に居てやり過ごすことが出来た。 そして又、同じ口で、頻繁に用いれば毒になるとも告げた医師は、二度宗次郎を助けてくれた、異な縁の者でもあった。 だが果たして三度目の縁を、天は用意しているものなのか――。 が、何故かそうあって欲しくは無いと、土方の裡は漣(さざなみ)立つ。 そしてそう思う先には、宗次郎の脆弱さが、最近では己の胸の裡に、重い翳りを落とすほど、大きくなりつつあると云う杞憂があった。 更にこの事は、この少年の類稀な剣の天凛が、研ぎ澄まされればされる程、理由の分らぬ胸騒ぎとなって、土方を落ち着かなくさせる。 ――もしも。 もしも天から下されたこの不羈(ふき)の才が、やはり天が与えた宗次郎自身の命脈を糧にして、伸びて行くものだとしたら・・・ そんな愚考に振り回される己に苛立ち、しかし自嘲だけでは仕舞いに出来ない不安定な何かをしこりに残したまま、土方は触れていた白い額からゆっくりと手を離した。 「近藤さん、あんた帰らなくていいのか?」 その己の裡に渦巻いた重苦しい感情を断ち切るように、土方は近藤に視線を向けた。 「お前が戻ってきたら、帰るつもりだったが・・」 それは嘘では無いのだろうが、遠慮の無い物言いは、今度は近藤に、素直に頷けぬ癇癪の虫を起こさせたようだった。 応えた声に、あからさまな不満がある。 「ならば、玄関まで送って行く。・・こいつの待ち人も、来たようだからな」 その言葉に、はたと近藤が耳を澄ませてみれば、確かに音を忍ばせてはいるが、此方に来る人の気配がある。 現に宗次郎は、土方の言葉の終わらぬ内に、細い喉首を精一杯反らせて、外と内を隔つ襖に視線を止めている。 「宗次郎、では又明日来る」 その様に、強引に促す言葉の裏には、宗次郎と圭吾を二人にしてやろうとの、土方の意図があったと知った近藤が、立ち上がりざま、不安げな瞳を向けた愛弟子に、片笑窪を作って笑いかけた。 「開けても、宜しいでしょうか」 やがて出て行こうとする二人の広い背を、床の中から見送る宗次郎の耳に、待ち望んでいた声の主が、律儀に伺いを立てた。 朝から振り続いていた雨は、再び夜を包み込むのかと思っていたが、意外にも四ツの鐘を聞く頃にはその帳を開き、更に雲の合間からは月華が覗き、闇に塗られた地を蒼く彩り始めた。 だが天の気紛れは、その置き土産に、肌を切るような冷たさをも、夜気の中に忍ばせて行った。 「人と云うものは、導く者の力で、何処まで強くなれるものなのだろうな」 室を出てから、何とはなしに互いに無言でいたが、そのしじまを、ふと破る近藤の声に、並んで歩いていた土方が胡乱に横を見遣った。 「いや、佐瀬君の事だ」 その視線を受け、厳い顔に照れ臭そうな笑みが浮かんだ。 「今度の事で、彼はいつ癒えるとも知れぬ傷を、心に残してしまった。が、堀内殿は、必ず佐瀬君がそれを乗り越えられると信じ、その上で師として導き見護ろうとした」 「それがどうした」 近藤らしからぬ、切れの悪い曖昧な物言いに、流石に土方もその心中を測り兼ねて足を止めた。 「宗次郎が・・」 同じように足を止め、一度言葉を切り、宙に視線を据えた近藤の顔(かんばせ)を、月灯りが照らす。 それは土方が初めて見る、友の硬い横顔だった。 「宗次郎が、懊悩に在った時、或いは迷いに在り、もがき苦しんでいる時、俺は必ずあいつを護り導かねばならん」 四角く張った口から発せられる言葉は、己自身に刻み込むかのように、明瞭な韻を踏み土方に向けられる。 「それは、あんたにしか出来ん事だろうな」 その友を、土方は暫し無言で見ていたが、やがてゆっくりと踵を返した背は、短い一言だけを残して歩き出した。 「そうだろうか」 慌てて追いつき後ろから問う近藤の声に、心なしか弱気が籠もるのを、土方は知らぬ振りをして足を進める。 「俺にしか、出来ん事だろうか」 「あいつが師と決めているのは、あんだだけだ」 自分こそが宗次郎の師であると、あれだけ強く云いきったにも関わらず、それを聞いた途端、近藤の緊張が緩むのを背中で察し、土方は唇の端に、苦笑ともつかぬ笑いを浮かべた。 だが近藤にそう告げるその一方で、何処かが落ち着かない胸の裡を、今土方は持て余していた。 奉行所の冷たい床に、打ち捨てられたように横たわっていた宗次郎の姿を目にした時、一瞬にして己の身にある血潮が引き、そして次の瞬間、それは熱い憤怒となって唸りを上げ込み上げてきた。 否、あれは怒りや憤りと云う、生易しい感情では無かった。 あの時。 己の腕に抱えた宗次郎を奪おうとする者があらば、きっと自分は容赦無くその者の息の緒を断ち切っていただろう。 例えそれが誰であろうとも、肉を裂き、骨を砕き、人形(ひとがた)など止めないまでに、修羅の相で切り刻んでいただろう。 近藤は、宗次郎を護り導かねばならぬと云った。 だが自分は違う。 護るとか、導くとか、そう云うものとは違う感情が、あれからずっと土方の裡に渦を巻くようにして離れない。 ――護ると云う言葉でひと括りにしてしまうには、何かが邪魔をする。 ――慈しむと云う言葉で仕舞いにするには、何かが燻る。 だがそれを何と容(かたち)つければ良いのかが、分からない。 その曖昧さを嫌うように、月が姿を隠し始めた天空を見上げると、土方は闇にひとつ息を吐いた。 「・・冷え込みそうだな」 そしてそれが今佐瀬圭吾との語らいに、心傾けているのであろう宗次郎の身の禍にならねばと、そう思いを戻す事で、漸く訳の分からぬ己を断ち切った。 |