雪圍U (九) 「もう何処も、痛く無いのです」 不安げに覗き込む硬い面差しに、くくり枕の上の蒼い顔が、屈託の無い笑みを浮かべた。 だが熱で水気を奪われた喉を通ってくる声は、短い言葉を紡ぎ終えるその間にも、幾度か掠れ、しかも力の入らぬ分、圭吾にはひどく弱々しく聞こえる。 昨日の暮れ方、変り果てた姿で戻って来た宗次郎を見た瞬間、身に流れる血が、一気に地に吸い取られるような衝撃に、思わず握りしめた両の拳が震えた圭吾だった。 あれから見(まみ)えるのは、此れが二度目だったが、しかし一度目は、宗次郎は深い眠りの中におり、枕辺に座った自分に気付く事は無かった。 そして二度目の今、宗次郎の瞳は、身を苛む熱で潤み、映す像を微かに揺らめかせている。 それを眼(まなこ)に刻めば、嘘にくるまれた温もりが、圭吾の胸に、痛みを伴って染み入る。 「ならば、安堵しました」 その優しさに騙されるのが、宗次郎の労わりに応える唯一の術だと判じた圭吾の面にも、つられるような笑みが広がった。 「・・宗次郎さん」 笑みを消さず、静かに語りかけながら、だが少しだけ落とした声音が、これから圭吾が伝えようとしている真実の重さを宗次郎に知らしめ、見上げている面輪が、僅かに強張った。 「姉の墓は、湯島の勧善寺と云う寺にありました。其れは墓と云うにも覚束ない、小さな丸い石でした。・・そして私は其処で、姉の情人であった田中新左衛門と、その仲間の石崎公之真と云う、二人の人間に会ってきました」 それまでの経緯を、まるで他人事のように整然と語る圭吾を、宗次郎は言葉も無く見つめている。 だがそうして淡々と、最小限の短い言葉で伝える事で、圭吾は、姉がもうこの世の人では無いと云う惨酷な真実に乱れる心を、何とか堪えようとしているのだろう。 それを思えば、宗次郎の瞳にも、遣る瀬無い悔しさが走る。 しかし圭吾は、その宗次郎からふと視線を逸らすと、それを一旦宙に据えた。 「私は・・」 が、それも一瞬の事で、直ぐに又、無言で見つめている深い色の瞳に視線を戻すと、少しばかり困った風に言葉を止めた。 「・・私は、姉を利用するだけ利用し、その挙句、口封じに息の緒を止めた二人の人間を殺めるつもりでした。・・そうです、姉の仇を討つつもりで、私は勧善寺に行ったのです」 近藤から聞かされ、事の経緯は承知していても、いざこうして当人の口から直に告げられれば、圭吾を襲った怒りと悔しさが、今また新たな憤激の炎塊となって、宗次郎の胸に訴える。 「ですが私は、その本懐を成就させる事が出来なかった・・」 だが一瞬間を置いて、更に先を紡いだ時、それまで几帳面に調子を崩さなかった圭吾の語りが、ほんの僅か、聞き違えたかと思う程に乱れた。 それは果たせなかった仇討ちを、悔やみ憤ると云う激しいものではなく、むしろそう云う結果に辿りついた己のさだめを、安堵と無念、その二つのどちらに落ち着かせて良いのか・・・ 圭吾自身が決め兼ねている迷いのように、宗次郎には思えた。 そしてその事に圭吾が結論を出すのは、まだずっと先の事なのだろうと――。 それだけは宗次郎にも、何故か確かなものとして知る事が出来た。 「・・宗次郎さん、私は、姉が好きだった」 故意に話しの筋を違(たが)えたと分かる唐突な言葉だったが、宗次郎は黙って圭吾を見つめている。 「姉は、私にとって唯一護らねばならない、大切な人だった・・」 言葉尻がくぐもったと思った瞬間、それまで感情と云うものを一切表に出さなかった圭吾の頬を、滑るように落ちるものがあった。 そしてそれは、膝の上で握り締められていた拳の上で弾け、小な玉雫になった。 だがそれこそが、今の今まで堪え続けて来た、圭吾の魂が上げた悲鳴なのだと知るや、宗次郎は静かに目を伏せた。 「その姉を、私は護ってやる事ができなかった」 一度堰を切った情動の迸りは、圭吾から全てをかなぐり捨てさせる。 「・・私は、姉を護る事が出来なかった・・」 激情の吐露だけに全てを奪われた若い一途は、今己の頬に零れるものを、隠そうともしなければ拭おうともしない。 けれどそうしなければ、きっと圭吾の心は壊れてしまうのだろうと・・・ そう分りすぎる程分りながら、掛ける言葉のひとつも見つけられない己の不器用を、宗次郎は唇を噛み締め、今更ながらに呪う。 そのもどかしさの代わりのように、伸ばされた指先が、顔を伏せ肩を震わせている圭吾の膝に、躊躇いがちに触れた。 だがそんな意味の無い事が、今目の前で苦しむ圭吾の、一体何の救いになるのか・・・ 結局は何の力も無い自分の不甲斐なさ、情けなさを更に深く胸に刻みながら、それでも少しずつ、宗次郎は触れた指先を先へと伸ばす。 膝の上に、突然ふわりと置かれた感触に圭吾が顔を上げると、其処に甲の先までを白い晒に包(くる)まれれた、骨ばった指先があった。 驚いてその手を取り、夜具の中に仕舞おうとする圭吾に、見上げる深い色の瞳の主は、細い首を振って抗った。 「姉上さまは、きっと喜んでおられると思います。・・佐瀬さんが、江戸まで探しに来てくれたその事を、一番に喜んでいると思うのです。だから・・・」 伝えたい事柄を、上手く言葉に出来ず、蒼い面輪が、一瞬辛そうに歪む。 「姉上さまは、佐瀬さんが自分の事を護ってくれたのだと・・きっとそう思っていらっしゃいます」 ――圭吾の姉志乃は、先に光ある弟の為に、我が身を挺する事など、少しも厭うものではなかった。 その弟が、自分の危急を知り、何もかもを捨てて探しに来てくれた。 もしも志乃が生きていれば、後先見ずに無謀に走った弟を叱りながらも、きっとその事を、何にも変えがたい悦びとした事だろう。 そう信じ、それを伝えようとする宗次郎の必死は、焦りと、不器用な自分自身へのもどかしさばかりが先立ち、先の言葉を詰まらせる。 「だからきっと・・」 「宗次郎さん」 膝に置かれた宗次郎の手を取り、傷に触らぬよう、それを両の手の平で包み込み、圭吾はその先の言葉を静かに封じた。 「私には、姉が宗次郎さんと巡り逢わせてくれたとしか、思えてならないのです」 圭吾の声音には、先程見せた激しい感情の隆起はもう無い。 むしろ宗次郎の苛立つ心を宥めるかのような、穏やかな語り口だった。 そして同時に、濡れた名残を止める頬に浮かべられた笑みは、水面に射す陽が、漣(さざなみ)に戯れ光の波を織る、そんな午下がりの情景にも似た、優しいものだった。 「貴方がいなければ、私は姉の事を知ることが出来なかった」 「けれど私は、何の役にも立てなかった」 真っ直ぐに向けられた真摯な眼差しに耐えられぬよう瞳を逸らし、過酷な現実への遣る瀬無さを、宗次郎はそんな言葉で曖昧にした。 ――もしかしたら。 自分に遇う事がなければ、圭吾は何も知らずにいられたのでは無いのかと。 知らずに、姉は行方知れずと諦め国元に戻れば、一縷の希(のぞみ)を抱いたまま、日々を送る事が出来たでのではなかったのかと・・・ それは志乃の一件に纏わる真実を知ってから、宗次郎の裡に常に重く圧し掛かり、どうしても消し得ぬ憂苦だった。 「宗次郎さん、姉が一番に喜んでいるのは、私が貴方と出遇えた、その事だと思います」 だが圭吾は、握った手に少しだけ力を籠め、それで胸に有る思いを伝えるかのようにして、宗次郎に語り掛ける。 「私には今まで、友と呼べる者がいませんでした。それは私にそのような余裕がなかった所為もありますが、その前に、私自身が自分で友を作る事を禁じていたのです」 「・・自分で?」 意外な言葉に、訝しげに仰ぎ見た宗次郎に、圭吾はゆっくりと頷いた。 「そのような愉しみを、自分自身に禁じていたのです。・・好きな勉学をさせてもらい、その上、友を作り笑う日々は身に過ぎると、自分の為に苦労ばかりを掛けている姉に申し訳が無いと、いつもそう思っていました。私は少しも早く一人前になり、姉を楽にさせたかった。・・・だから友を作ることを、自ら禁忌としていたのです」 一言一句も聞き逃すまいと凝視している深い色の瞳に見詰められ、圭吾は自嘲するように、己の来し方を振り返った。 「私の存在が、癇に障ると映った者達の目には、つい出てしまった、そんな頑なな態度が不遜に思え、許せなかったのでしょう」 「けれど、それは佐瀬さんの所為ではありません」 「いいえ、私に驕りが無かったと云えば、嘘になります。私は力さえあれば、己ひとりの力でどうにでも生きて行けるのだと、そう思っていました。ですがそれこそが、自分を知らぬ傲慢でした」 「そんな事はありません。佐瀬さんにはその力があると、堀内さまは仰っておられました」 括り枕の上から、否と首を振る度に、項の辺りでゆるく束ねた宗次郎の髪が、艶やかなうねりを作る。 それが行灯の仄かな灯りを吸い、漆黒に絡む燐光が、幾重にも波を広げて行く。 その鮮やかな色彩の妙に、一瞬目を奪われた圭吾だったが、しかし直ぐに視線は宗次郎に戻され、引き締まった唇が、再び開いた。 「・・人が天から授けられた力は、人に導かれ、初めてその道に生き、そして数多(あまた)の人から護られ育てられ、漸く形になるのです。・・・私は、そんな当たり前の事すら、今まで知らなかった。それを江戸に来て、私は堀内先生や宗次郎さんに、教えて貰う事が出来ました」 「・・そんな事。私には何の力もありません」 瞳を伏せ、今一度苦しい心中を吐露するように呟くや、色の無い唇が噛み締められた。 そのまま、まるで自分への折檻のように、沈黙に籠もってしまった宗次郎を、暫し無言で見詰めていた圭吾だったが、やがて少し身を乗り出すと、か細い指を握り締めている手とは反対側の手の平を、前髪が左右に流れ剥き出しになっている白い額に当てた。 ひやりと、突然の感触に、伏せられていた瞳は一瞬驚きに瞠られ、不思議そうな色をたたえた面輪が、圭吾を見上げた。 その様子に、圭吾は笑う。 「宗次郎さんは、私を甘やかせてくれた」 「・・甘やかせて?」 されるがままになりながら、言葉の意図するところが分からず、宗次郎は戸惑いの中で問う。 だが額に置かれた手の優しさは、圭吾と初めて遇った日の夜、咳と熱に苛まれていた自分を労わってくれた、あの時とそっくり同じものである事に、宗次郎の胸の裡を、安堵と、そして何故かほろ苦い切なさが過ぎる。 「長岡を飛び出し、江戸の地に足を踏み入れ、漸く辿り着いた吉原であのような事になり、しかも姉の行方は分からず、途方にくれている時、身を打つ雨は酷く冷たかった。そんな時貴方に出遇い、更に堀内先生をも知っていると聞かされた時、それまで張り詰めていた神経が一気に緩み、私は腑抜けたようになってしまった。・・・いえ、泣きたい程に安堵したと云った方が、良いのかもしれない。そしてその時私は、漸く自分が心細かったのだと知ったのです」 圭吾の声に、微かに自嘲めいた苦笑が籠もり、だが直ぐにそれを隠すように、照れくさそうな笑みが浮んだ。 「・・・私は、自分と云う人間は、どんな我慢も辛抱も出来るのだと、信じていました。でも貴方はそんな私の驕りを、いとも簡単に打ち砕いてしまった。・・・あの後、傷の痛みが治まったら誰かに道を聞き、独りで堀内先生の屋敷を探すつもりでした。けれど貴方に遇い、幾つか会話を交わし、そして笑い・・僅かばかりの短い時を経た後、私は自分の力で立ち上がろうとする意気地を、すっかり失くしていた。・・・そうです、あの時私は、貴方に甘えたのです。・・・四肢をだらしなく放り出し、見栄も意気地もそんなものは全部捨て去って、氷雨に打たれ、姉と逢わせぬ天の意地の悪さに、拗ねてみたかったのです。そして私は、そんな自分を貴方に受け容れて欲しかったのです。・・・もう立ち上がる気力もなく、不安だけが臆病の虫を大きくしていた私に、あれ以上独りは寂しかったのです」 圭吾は自分の心中を、飾り気の無い言葉で、直截に宗次郎へ訴える。 時に川幅を削ぐ程に迸る流れのような激しさで、時に水面を煌かせ、たゆたうような柔らかな語りで、心の裡にあるものを、何一つ残そうとせず宗次郎に訴える。 「貴方は私を護ってくれた。私も貴方を護りたい。大切な友として、貴方を護りたい。・・だがそれは宗次郎さんにとっては、迷惑な事なのだろうか・・」 全てを伝え終えた時、それを相手に受け容れられるのか、拒まれるのか――。 そのどちらとも分からぬ不器用者の不安は、それまでの調子を、不意に気弱なものにする。 そしていらえを待つ身は、一瞬すら終(つい)の無い時へ変えてしまう。 硬い面持ちのまま、身じろぎしない圭吾を見詰めていた宗次郎だったが、やがてゆっくりと瞼が閉じられ、それと一緒に、無防備に投げ出されていた右手が、額に在る圭吾の手首の辺りに触れた。 「・・・気持ちがいい」 あの夜。 濡れ手拭の代わりに、圭吾が自分の手の平を、熱のある額に翳してくれた時、思わず漏れた言葉を、今また繰り返す唇が、嬉しそうに笑みの形を作る。 そうして開いた瞳が、まだ無言の圭吾を捉えた。 「・・咳が止まらなくなったり、熱で苦しい夜、目が覚めた其処に誰かがいてくれたら、とても安堵できるのです。・・・でもそんな事を思うのは、意気地の無い事なのだと、いつも自分を叱ってきました。だからあの時佐瀬さんが側にいてくれて、本当はとても心強かった・・・」 乾いた唇から言葉を紡ぎながら、しかしこんな風に本当を晒すのは、みっともないと、情けないと、胸の裡に執拗に引っかかっている見栄っ張りが、宗次郎を責め立てる。 「ならば、一緒だった」 だがそれを隠すように瞳を伏せかけた宗次郎の逡巡を、一瞬の内に明瞭な声が断ち切った。 「私ばかりが、貴方に甘えたかったのだと思っていました。だから自分がとても意気地のない人間に思えて、・・・実の所、本当を云うには、とても勇気が要りました」 けれどこれも又、不甲斐ない告白に相違は無いのだと笑った面に映る潔さが、負に傾きかけていた対宗次郎の心を、強く引き上げる。 「私も、こんな情けない自分を知られるのは、とても勇気が要りました」 「ではこれもお相子だった」 つられるように笑みを浮かべた宗次郎を見る、圭吾の声音が柔らかい。 「・・私は、佐瀬さんに甘えても良いのでしょうか?」 「友とは、相手を慮り、時に相対し、切磋琢磨して互いを高めて行くものだと・・・私はそのように、教えられました。ですが本当は、そんなに堅苦しく難しいものでは無かった。私にとって友とは、思い起こせば胸の裡に温(ぬく)い風が通り抜けるような、それでいて自分を支えてくれる、心強い存在でした。それを、宗次郎さんが教えてくれたのです」 屈託の無い笑い顔で語り終えた時、その圭吾を見つめていた深い色の瞳が、一瞬驚いたように見開き、しかし直ぐにはにかむような、小さな笑みが面輪に浮かんだ。 しかしそれも僅かばかりの事で、圭吾に向けられていた瞳は、自分の中で絡み合う、恥じらいと戸惑いをどう鎮めて良いのか分からず、やがて静かに伏せられてしまった。 だがその宗次郎が、今どんな思いの中にいるのか・・・ 言葉にならずとも、己の掌中にある骨ばった指先が、少しだけ力を籠めて握り返したその挙措で、圭吾には十分知る事が出来るように思えた。 ――あの時。 氷雨の中で掛かった声は、姉の行方知れずに途方にくれ、不安と、そしてもしやの慄きで、闇色の石を胸に抱いて沈んで行くような自分の心に、全く別の世界から射し込んだ、眩いばかりの閃光だった。 駕籠を遣う金など持ち合わせてはいないと云った自分に、同じだったと笑った顔は、萎えてしまった足を踏ん張り、其処から立ち上がる気力をくれた。 そして差し掛けられた傘は、凍てた身を、包み込むような安堵で覆い、支えられた腕から伝わる人肌の温もりは、この土地で独りではないと、再び先に進む力をくれた。 「姉は、貴方と云う友を、私に残してくれました」 圭吾の声音は、冷気を温もりへの糧にし、静謐を安寧への時へと変えて、宗次郎の耳に届く。 いつの間にかすっかり閉じてしまった瞼は、その内を熱くするものが、睫の際から滲むのを、慌てて堪える為だった。 そしてそれを隠す為に、額にある圭吾の手の平に、宗次郎は今一度自分の手を重ねた。 「・・気持ちがいい」 端麗な線で描かれた唇が僅かに動き、今宵二度目の言の葉を、柔らかな吐息が紡いだ。 「宗次郎?」 耳元で、囁くように名を呼ぶ声と、そして頬に触れた冷たい感触に、血管(ちくだ)を透かせた薄い瞼が微かに動き、それと同じくして、縁を覆う睫が揺れ、其処から鈍い色の光を宿した瞳が覗いた。 「宗次郎」 その変化を見逃さず、重ねて問う声にも、宗次郎の視線は焦点を合わせる事無く宙にぼんやりと置かれ、まだ意識は夢寐と現を交互に彷徨っているのだと、土方に知らしめる。 「又、上がったか・・」 だが土方は、いらえの戻らぬその事よりも、触れている病人の頬から伝わる、とても尋常とは云えない熱さに、端正な面差しを厳しくした。 傷を受けてから一昼夜が経ち、一旦は治まるかに見えた宗次郎の熱だったが、周りの者達の安堵の隙を突くかのように、深夜近くから再び上がる兆しを見せ始めた。 そして身を苛む辛さは、眠りにあっても宗次郎に安息の時を許さず、忙(せわ)しい息の間からは、時折切なげな呻き声すら漏れる。 「宗次郎、少し口を開けろ」 意識の核にまで届いてはいないと承知しながらも、土方はそう告げるや、宗次郎の貝殻骨辺りに腕を差し込み、それでくくり枕から僅かに頭が離れる程度に身を起こさせると、もの云えぬ唇に、湯呑みの端をあてがった。 そうして少しずつそれを傾け、器用にその中身を流し込む。 その一滴(しずく)が、つと脇に零れ、白い喉首に滑る。 ――白湯に溶けて琥珀の液体となった白い粉は、昼間、此れから下総佐倉へ帰る途中、病人の容態を案じ寄ってくれた、若い医師の置いて行った薬だった。 打ち身の痛みは、少し間を置いてから、叉一時的に激しくなる事があるから、そうした時に飲ませるように説明を受けたと平治は云い、大事そうに掌に乗せていた小さな包みを、土方に渡した。 だが全てを飲み終えるには、薬の量は多すぎたらしく、宗次郎はあと僅かばかりを残した処で大きく咽た。 喉から胃の腑へと流れる筈のそれは、脇に逸れて気管に入ってしまったらしく、宗次郎は苦しさのあまりからか、支える土方の腕を鷲掴むようにして、薄い胸を激しく波打たせる。 「宗次郎っ」 それをかかえ起こし、己の胸の内に掻き抱くようにし背を擦っても、一度起こった咳はそう簡単には治まらず、土方の面にも、流石に焦りの色が浮ぶ。 骨ばかりが触れる背に当てた手の平を、一体幾度上下させた事か。 この侭では気の道までをも塞いでしまうと。 その土方の焦燥が天に通じたのか、それとも宗次郎の身に残された力が尽きてしまったのか・・・ 咳はようよう治まりを見せ始めたが、しかし宗次郎は、土方の胸にぐったりと身を預けたまま、言葉も紡げず荒い息を繰り返す。 「まだ苦しいか?」 だが皮肉なことに、身体が受けた激しい負担は、半ば夢寐にいた意識に刺激を与え、更に耳朶近くで囁かれた声は、それに拍車をかけて、急速に宗次郎の覚醒を促したようだった。 「・・ひじ・・かた・・さん?」 「暢気な奴だな」 漸く返ったいらえに、安堵を隠し、呆れたように装う声が柔らかい。 「じき、薬が効く。そうしたら楽になる、少し辛抱しろ」 そう命じる声が、あまりの近さに聞こえるその不思議に、宗次郎の視線が一度宙を手繰った。 だがそれも一瞬の事で、我が身が土方の内に抱え込まれているのだと知った瞬間、薄い背に、雷(いかずち)のような衝撃が走り、心の臓がどくりと鳴った。 更に、いつからそうしていたのか、土方の袖を掴んでいる指に、不自然に力が籠もり震える。 身体は隅々まで強張り、広い胸に寄せた頬を離す事が出来無い。 自分は今どんな顔をしているのか――。 その事を知られるのが、怖い。 「どうした?」 その不審な様子に土方も気付き、伏せた面輪を覗き込むようにして問う。 「・・何でも無い」 湿り気を失ってしまった喉は、搾り出す声も掠れさせる。 だがそれは熱の所為ではなく、こうしている間にも、胸を突き破り爆(は)ぜてしまいそうに心の臓を脈打たせる、土方への想いの所為なのだと。 止まらぬ震えは、直に伝わる土方の温もりの所為なのだと――。 本当を告げる事など、出来はしない。 そう云えられずして、否、知られるのを恐れ、宗次郎は沈黙の砦に籠もる。 だが束の間出来た気まずいしじまは、直ぐに短く漏れた吐息に破られた。 「お前は、いつもそればかりだな」 頑なに閉ざされてしまった唇に掛けられた、諦めと、苛立たしさと、そして何処か遣る瀬無さを一緒にしたような声に、宗次郎が、おずおずと云うにももどかしげな動きで土方を仰ぎ見た。 「どうして、お前は本当を云わない?」 見据えられれば、一瞬にして相手の動きを封じてしまう、鷹の如き鋭い双眸が、今は切ない程に柔らかな色を湛え、自分を捉えているその事に戸惑い、宗次郎の面輪に逡巡が走る。 「俺では、頼りないか?」 「そんな事ないっ」 即座に返ったいらえだったが、しかし思わず迸った声の激しさに、一番驚いたのは宗次郎自身だったのかもしれない。 ただただ大きく見開かれた瞳は、絡みもつれ合ってしまった感情の糸を、どう解いて良いのか分からず、土方を見詰めたまま危うく揺れる。 「・・痛くて苦しくて、・・とても辛い。・・だから本当は、ずっと傍に居て欲しい。でもそんな事を云ったら、きっと意気地が無いと思われてしまう・・だから・・・」 堪えなければならないもの、裡に秘めなければならないもの。 それらを封じ込めようとする必死が何も見えなくし、心に在る本当を晒け出してしまっている事を、今の宗次郎に知る余裕は無い。 「・・だから」 その声が、段々に弱くなって行き、遂に途切れてしまった時、土方に向けられていた瞳も又、打ちひしがれたように伏せられた。 ――土方はこんな自分を、情けないと叱るのだろうか、それとも不甲斐ないと罵るのだろうか。 愚かな事を云ってしまったのだと、もう二度と顔を上げる事など出来ないと、そう唇を噛み締めた刹那、不意に宙に浮くような心許ない感覚に、宗次郎の瞳が驚きに見開かれた。 そしてそれが、二つの腕(かいな)に身体が掬われている所為だと知った途端、驚きの声を発する間もなく、膝の上にゆっくりと下された身は、先ほどよりも、より強くより深く、土方の胸の内に抱かれた。 「眠るまでだ」 らしくも無いと、自嘲のひとつも零れそうな己の気紛れを、不機嫌にくるんだ低い声が、耳朶に触れる程近くで聞こえる。 だが今度こそ、宗次郎は顔を上げられない。 伝わるのは、規則正しい、土方の心の臓の刻み音(ね)だった。 身を抱く腕の強さは、限りない安寧へと誘う。 そして・・・ 互いの温もりは、いっそひとつになってしまいそうな、甘美で、それでいて何処か淫靡な、今まで知らなかった感覚で、宗次郎を脅かす。 本当は、甘えたかったのだと。 土方に甘えたかったのだと。 ――どうしても云えなかった最後の言の葉を、宗次郎は土方の襟元に触れた指先に、少しだけ力を籠める事で、今一度、自らの裡に封じ込めた。 |