うつしみは 日輪の陽にとけようと ぬくもりは 月華の藍に凍てようと 胸焦がせし恋情は 行く背を追いて とどまるを、遥か知らず 引く手を握りて 離さざるを、遠く知らず 99999御礼 ゆみさまへ 煙雨U (壱) 「どうにも、気に入らねぇ逃げ様だな。塵ひとつ落ちちゃいねぇ。いっそ見事と誉めてやりてぇ」 それぞれに散っていた隊士達が、篝火が焚かれている庭へと、次第に集まりつつあるのを目にして呟く永倉の声が、何処か間延びしている。 その悠長な調子が、今宵の出動の切欠となった情報が、新撰組内部に於いて、今ひとつ信ずるに足らないものだった事を物語っていた。 だが傍らに立つ総司は、一月近くも寝込んだ後の初めての仕事と云う神経の昂ぶりを、未だ解く事が出来ない。 「大山鳴動して鼠一匹どころか、蟻すらいねぇ。ま、これで国分の奴も、気落ちはするだろうが、監察って仕事が、そうそう簡単じゃねぇと分かっただろうさ」 うんざりと漏れた声は、今度は確かに総司に相槌を求めたものだったが、いらえは言葉になっては返らず、その代わりに、困ったような笑みだけが、月華の蒼を透かせた白い頬に浮かんだ。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 倒幕を試みる過激な浪士達が、東寺からそう遠くない十条通りの廃寺に今宵集結するとの情報は、観察方に席を置いて間もない、国分太一郎から齎された。 しかしそれは新撰組の、組織としての捻密な調べでは無く、突然降って湧いたような外部からの情報であり、実か虚かを天秤に掛ければ、大きく虚に傾く確実性の無さに、始め近藤は出動すべきか否か迷った。 だがその近藤に、総司の一番隊と永倉の二番隊に出動の命を下すよう提言したのは、土方だった。 ならば二番隊だけで十分だろうと、その意図を掴めず不審げに告げる近藤に、土方は無言のまま首を振った。 しかし直ぐに、端整な面を一瞬歪ませた苦い色の中に、もう結構な日々を、屯所内での療養を余儀無くされている総司から、執拗に復帰の懇願を受けているのであろうこの男なりの事情を察し、そうと知れば近藤も苦笑せざるを得なく、一番隊と、そしてその援護として、二番隊の出動を決めたのだった。 だがこの時近藤の胸の中で、総司の身体への不安が大きく揺れ動き始めていたのを、まだ土方は気付いていなかった。 結局の処、領内に一歩も踏み込めず惨敗に終わった長州征伐であったが、その痛恨に加えて、帰京した近藤の胸中に、もうひとつ重いしこりを作ったのは、嬉しそうに出迎えた総司が、たった二月足らずの間に、危ういまでに儚い影を纏ってしまった事だった。 元々華奢な造りの身は頼りなく映ってはいたが、しかし胸の宿痾が発覚してからも、近藤は己の裡で、それを現実のものとして捉える事が出来なかった。 否、そうする事を、敢えて避けて来たと云うのが正しかった。 総司はこの先も、常に自分の傍らに在るのだと――。 だが天はそんな愚かな世迷言を、容赦無く切り捨てた。 白より透けた肌、深く翳りを落してしまった頬、触れれば、まるで光の輪に散り行きてしまいそうな愛弟子の姿に愕然としながら、しかしすぐさま近藤の脳裏を占めたのは、あるひとつの思いだった。 今、もしも今。 江戸に帰せば、総司の病は治るのではないか、今ならまだ間に合うのではないのかと。 日々膨らんで行き、そして最早堪えようの無い淵にまで追い遣られたこの思いを、どう総司に説得すべきか――。 近藤の決意は、既に其処まで強いものとなっていた。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 「さて、帰るぞ。夜風は身に毒だ」 さして気負う風も無く、ゆっくりと永倉が踵を返しても、総司は暫し其処を動かず、人の手が入らなくなって、もう随分経つらしい荒れた伽藍の中を、視線だけで一巡していた。 だがついて来ない気配に立ち止まり、後ろを向いた永倉の目に合うと、慌てて足を踏み出した。 が、その刹那――。 空(くう)を切るかのような俊敏さで、前に進もうとしていた薄い背が振り返った。 その一瞬の変容は、大分先にいる隊士をひどく驚かせたらしく、まるで金縛りにあったかのように、動きを止め立ち竦んでいる。 「・・すみません、・・何か用だったのでしょうか」 久方ぶりの隊務の緊張感は、中々総司を解放せず、余裕の無い自分を恥じて問う声が、何処かぎこち無くなる。 「いえ、大した事では無いのですが・・」 それにつられてか、ようよう声を出した相手の表情も硬い。 「奥にこんなものが落ちていたのです。・・何処にでもある護り袋なのですが・・」 新撰組が結束して間もない時期から二番隊に所属する、この中西と云う中年の隊士は、実直な性格が永倉の任にも厚く、総司も幾度か言葉を交わした事があった。 「護り袋・・?」 だが差し出された手の平の上にある、護り袋に視線を落とした途端、深い色の瞳が見開かれた。 庭に設けられた篝火の明かりだけが頼りの、今向き合っている互いの顔貌すら覚束ない薄暗さの中でも、古く粗末な形(なり)だと分る其れは、しかし総司の神経の全てを捉えてしまうのに十分だった。 ――人の掌に納まってしまう小さな護り袋の生地は色褪せ、ところどころ擦り切れてさえいる。 けれどその袋に入れられている札の文字を、自分は知っている。 薬師如来。 四つの文字を書き記した札を包む、この護り袋にまつわる出来事は、まだ過去にもならぬ記憶として、鮮明に思い起す事が出来る。 そして此れを持つ若い夫婦は、故郷へと旅立ったのだと・・・ 寝込んでいた自分に、そう教えたのは、土方だった。 立ち尽くす総司の脳裏に、ほんのひと月前の光景が蘇る。 「あの・・」 だが時の挟間に落ちたのは僅かの事で、護り袋に視線を釘付け、息すら止めてしまったかのような様子に、戸惑いがちに掛けられた声が、総司を現に戻した。 「あ、すみません・・・良く似たものを見た事があるので・・」 出来損ないの言い訳が、果たして相手を納得させる事が出来たのか・・それすら顧みる余裕も無く、総司は急(せ)いて続ける。 「この護り袋、私が預かっても良いでしょうか?」 「それは構いませんが・・、ですがこんなもの、何かの手がかりになるのでしょうか?」 まるで他の者の目に晒す事を避けるかのように、護り袋を包み込む骨ばった指を見ながら不審げに問う中西の言葉は、それに籠められた素朴な信仰心を切捨て、あくまで仕事として捉えたものだった。 「沖田さん」 護り袋を握る自分の手指を、不思議そうに見つめ続ける視線から、何か逃れる言葉を紡がねばと、焦る心のまま総司が唇を解いた時、今度は大分距離を置いた処から、聞きなれた声がした。 それが山崎のものだと判じるや、中西の視線が其方に逸れ、同時に、総司の顔にも安堵の色が浮んだ。 「何かあったのでしょうか?」 問いながら近づいて来る足取りが、強く早い。 「いえ、何も無いのです・・・この奥を見てきた中西さんから、報告を受けていました」 返したいらえは、護り袋の一件を、敢えて無視したものだったが、あまりに粗末な其れは、既に中西の脳裏からも事件と切り離されているらしく、総司の言葉に異を唱える事はなかった。 「そうですか。私も奥は見てきましたが、あちらは普段は賭場に使われているようですな」 「・・・賭場」 やがて近くまで来て立ち止まった山崎の意外な言葉に、総司の唇から小さな反復が零れ落ちた。 「使われなくなった廃寺では、珍しい事ではありません」 淡々と、いかにもこの男らしい賢明な語り口を耳にしながら、しかし総司には、故郷へ帰った筈の夫婦と、賭場と云う言葉が結びつかない。 「行きましょう、隊列が整ったようです」 だがその総司の思考を、少々強引な声が破り、促す山崎の視線の先を見遣れば、其処には、いつまで経っても帰って来ない様に業を煮やし、此方に向かって来る永倉の姿があった。 「すみません、今行きます」 直ぐ其処までやって来た永倉に、慌てて詫びの言葉を告げながら、総司は護り袋を包み込んだ掌に、少しだけ力を籠めた。 「・・・間者か」 傍らの近藤とも視線を合わせる事無く、前に端坐する山崎をも視界の外に置き、腕を組んだまま、切れの鋭い三白眼を、畳の目の一点に据えていた土方が、重い沈黙を解いた。 「間者?」 その時を待っていたかのような近藤の声が、不審と、そしてやはりとの、その両方の思惑を隠さず、次の言葉を性急に促す。 「間違いは、ありませんでしょう」 が、いらえは土方では無く、山崎から返った。 「国分の得てきた情報は、疑わしくはありましたが、その場で全てを虚と云いきれない部分が、確かにありました」 山崎の語りは、あくまで整然と、事のあらましだけを伝える。 「ならばそれを完全に虚にした人間が・・・いると云うことか」 近藤の四角い顎にある口がへの字に結ばれ、細い目が宙を睨んだ。 「国分・・いや、新撰組の動きを、殊細かく観察している奴がいる。しかも内部でだ」 「それが今回、実の部分を、虚に塗り替えた間者か」 淡々と語る土方に、近藤の太い声が一瞬気色ばむ。 「今回国分からの情報を信じたように見せかけ、行動に移すと決めた時、そやつは即座に新撰組の出動を、あの寺に集まっていた浪士達に知らせたようですな」 だが含むような山崎の物言いには、此方が有利を握っている余裕が垣間見られる。 「捕らえますか?」 そして更に続けられた言葉には、それが誰であるのか、既に断定している確かな強さすらあった。 「いや、まだ早い。今少し奴らを図に乗らせてやる。もう一、二回同じように新撰組をまけば、大層な自信が出来るだろう」 「油断させるのか?」 相変わらず思惑を悟らせない、抑揚の無い口調の土方を、傍らの近藤が振り返った。 「もう少し、大きな仕事を計らせて、其処を邪魔させてもらう」 その時の図は既に脳裏に描かれているのか、遠くに視点を定めた土方の双眸が、獲物を狙う猛禽の冷酷さにも似て、ゆっくりと細められた。 肌に纏わりつくような風の中に、重い湿り気を感じてはいたが、冬とまごう氷雨は、思いもかけず早くに降り始めた。 花の蕾が綻ぶ様を愛で、温い風に浮かれていた日々をあざ笑うかのように、春と云う名を捲っただけで、忘れかけていた季節の名残が、未だ其処にあると云う事を、こんな時人は思い知り、恨めしげに天を睨む。 だがかく云う自分とて、然して変らぬ思いを抱いていたのだと知れば、山崎の唇の端にも自嘲の笑みが浮かぶ。 が、その足が、廊下の曲がり角まで来た時ふと止まり、緩めていた頬が引き締まった。 自分を待っていた相手が、誰であるのか・・・ それには凡そ予測がついた。 事実、先ほどの捕り物で、その人物の様子が、山崎の裡でどうにも落ち着かない拘りとなって残っている。 「沖田さん」 敢えて呼びかけ一歩を踏み出したのは、己の胸中を重くするその何かを、早急に確かめたい山崎の杞憂だった。 「私に、何かご用でしょうか?」 正面まで歩み寄って問うても、形良い唇は暫し結ばれたままだったが、やがて伏せられていた瞳が躊躇いがちに上げられ、闇よりも一段深い色の瞳が、山崎を捉えた。 「・・・大した事ではないのですが。あの・・、もし山崎さんの仕事に差し支えが無ければ、教えて欲しいのです」 「何をでしょう?」 そう言葉にはしたものの、いざ先を紡ぐ段になれば、やはり逡巡が勝るらしい面輪の主を、山崎は幾分強引に促す。 「お知りになりたいのは、先ほどの賭場の事でしょうか?」 先手を取るつもりは無かったが、焦れる心に負け、つい口にした途端、驚きに見開かれた瞳が、気丈と危うさの、相対する戸惑いに揺れた。 「誤りでしたら、申し訳ありません。ただ私が賭場と云った時、同じ言葉を繰り返した沖田さんの調子が、一瞬不可解そうなものでしたので、印象に残っていました。・・あの賭場に、何か気になる事でも?」 「いえ、何でも無いのです。・・ただ賭場に来る人間達は、今夜浪士達が其処に集まる事を、最初から知っていたのではと、そう思ったのです。だとしたら、賭場を仕切っている大元の人間を捕らえれば、逃げた浪士達も見つけられるのではないのかと・・・」 相手にとっては疾うに承知だろう事を隠れ蓑にする偽りは、総司の視線を、気弱に逸らせさせる。 「そうであれば、確かに敵を捕らえるのは早いでしょう。ですが今回この情報を流したのは、その賭場主なのです」 だが山崎は、その総司の狼狽に見ぬ振りをし、いつもどおりの静かな口調で続ける。 「賭場主が・・?」 必要ならば、例えそれが誰であろうが、一切を極秘にして行動する山崎が、こうして口にすると云う事は、この件に関しては、既に近藤や土方も了承済みの事なのだろう。 沈黙に籠もったまま山崎を見つめる総司にも、それは判じられた。 「今夜踏み込んだ廃寺で開かれる賭場は、一般の賭場では飽き足らない人間、或いは決して身分を明かせない人間、・・・そんな者達を集め、月に一度だけ開かれる、特殊な賭場です。ところが最近、その広い寺領の一処を、密会場所として浪士達が使うようになってしまった。其れでは自分たちの邪魔になる。そこで一計を案じた賭場主が、浪士が集まっているとの情報を、新撰組に流したのです」 一切の余計を省いた山崎の説明は、淀みが無い。 「新撰組を使い、我が物顔の浪士達を一掃し、自分たちの従来の賭場を戻そうとした訳ですな」 が、それも締めくくりに来て、苦笑まじりの砕けた口調になったのが、どうやら他人の目からも硬さを解けずにいるらしい、自分への配慮と知った途端、総司の口元にも小さな笑みが浮かんだ。 「では私達は、その相手の思うままに使われて、挙句何の役にも立たなかったのですね」 「そう云う事になります」 だが薄闇の中で笑う山崎の双眸が、自分の面輪に浮かぶ、一瞬の変化をも逃さぬかのように、鋭く細められた事に、総司は身構えた。 あの時、やはり山崎は、自分に起った異変を感じとっていたのだと――。 そう知った瞬間、総司の裡に、激しい焦燥が走った。 「すみません、つまらない事で足を止めてしまいました」 慌てて詫び、小さく頭を下げた途端、露わになった項の細さがひどく心許ない。 それを見つめながら山崎は、あの場で生じた疑惑が、いずれこの若者の災禍にならぬ事を案じ、しかし今はそれを言葉にできない、どうにも複雑な思いの中にいた。 「・・あっ・・・」 唇を戦慄かせ、ようよう漏れた声は言葉にはならず、その代わりに、無理矢理押し殺したようなくぐもった喘ぎが、薄い胸を忙しなく上下させる。 だが其処に浮き上がる、薄紅の双蕾に触れられれば、組み敷かれた身には雷(いかずち)の如き震えが走り、せめて快楽の千波に溺れまいと、白い喉首が仰け反る。 が、戯れの手指は、到底それだけで許す筈は無く、密やかな昂ぶりを掌中へ包み込めば、切なげな吐息が零れ落ち、更に熱い血潮が脈打つ身の内へと滑り込んだ刹那、堅く瞳を閉じた面輪が、一瞬の苦悶と、そして果てしない羞恥の色に染まった。 「・・いやか?」 その様を見ても、土方は動きを止める事無く、耳朶を噛んで問う。 だが囁く声の中に、微かに混じる躊躇いに気付き、総司がうっすらと瞼を開けると、其処には真上から見つめる双眸があった。 「苦しいのなら云え」 そう命じながら、しかし否と応えた処で、この腕を解く気は微塵も無い際に来て、それでも言葉にせずにいられなかったのは、一月近く前、総司が酷く血を吐いて以来、身体を合わせるのはこれが初めてだと云う、土方らしからぬ気後れに他ならなかった。 「苦しくなど無い、・・・無いのです」 その憂慮を自らの熱で拭い去るよう、上を覆う土方に縋り返す声は、ともすれば聞き逃してしまいそうに小さい。 今の総司にとって怖いのは、触れられた身の全てが、土方を求めて火照り、震え、そして欲している、己の浅ましさを知られる、ただその事だけだった。 そして首筋に絡む細い腕は、土方を、今度こそ堪えの効かぬ瀬戸にまで追い遣る。 久方ぶりの睦合いは、十分すぎる程に硬さを解いてやっても、受け容れる一時の苦痛は免れない。 閉じた瞼の縁を滲ませ、こめかみを伝い零れ落ちる雫を舌で掬いとってやりながら、腕に抱く身から、籠められた力が少しずつ解かれるのを待つ時は、癇症を抑えるのがやっとの程に焦れる。 この自分が、いつからこれほどの堪え性の持ち主となったのか・・・ それを思えば、唇の端を歪ませるのは、最早自嘲以外の何ものでもない。 「・・総司」 触れただけの、接吻とも云い難い抱擁は、低い声音だけを残し、唇は、そのまま細い首筋から肩の線、そして鎖骨の窪みを滑る。 だが掻き抱く身は、最後に触れた時よりも、確かに頼りなくなっている。 あの喀血が、総司に残した爪痕は、こんな時にまで自分に現実を突き付け、云い様の無い不安と焦燥に駆立てる。 己の胸の裡に突如として湧いたその恐怖を打ち砕くかのように、それまでの緩やかさを一変させた容赦の無い動きで、土方は総司の身を裂いた。 その刹那、悲鳴にも似たごく細い叫びが漏れたが、それにすら知らぬ振りをし、土方は、自らを愛しい者の内へと刻み込む。 「・・ひじかた・・さっ・・」 身の内から責めたてられる激しさは、何時の間にか総司を苦悶の縄手から解き放ち、その瞬間から愉悦の時が始まる。 そして苦しさを切なさに、切なさを悦びへと昂ぶらせ、許して欲しいと乞う言葉すら、甘美な吐息に変えてしまう。 既に止めることの出来ない愛欲の迸りは、互いの身を貪るように求め合う他、その刷毛口を知らない。 「・・いや・・だ・・」 弱い抗いの言の葉は、それが土方の無体を責めるものなのか、それとも更に土方を欲する自分を厭うものなのか・・・ もう総司自身にも分らない。 瞳から零れ落ちる水輪が、何をかをもいびつに歪ませる視界の中、土方の声だけが、唯一総司を悦楽の現に留めていたが、やがてそれすら遠い木霊になり行くと、一切は、たゆたうように忘我の淵へと沈んでいった。 払暁とも云い切れない、まだ薄闇が辺りを覆う頃、抱かれていた広い胸の内から、総司は衣擦れの音ひとつさせずに身を起こした。 だがその途端、切なげに目を瞑ったのは、一瞬軋むように身体に走った痛みの所為だった。 しかしそれも、時に計ればまだ幾ばくも経ていない、激しい情交の名残と知れば、血が遡るような羞恥の嵐に襲われる。 思わず夜着の襟元をかき合わせたのは、せめてそうする事で、情欲のままに土方を求め続けた浅ましい自分から、逃れたいが一心だった。 ――後ろを振り返れば、土方は目を閉じ眠っているだろう。 だがそれが偽りであることは、嫌と云う程に承知している。 他人に知られれば決して良い結果にはならないからと、夜明け前の闇に紛れて自室に戻る自分を、土方は眠った振りをして送る。 そして自分も、それに知らぬ振りをして、背を向ける。 それでも今一度、土方の姿を眼に刻みたいと思う駄々を戒めるには、ひどく難儀する。 僅かの間に次々と湧き起こる、激しい、そして切ない想いを吹っ切るかのように、総司は静かに立ち上がると、確かに注がれる視線を背中に感つつ、しかし振り返る事無く、開けた襖を後ろ手で閉じた。 この場に立ってから、まだ一昼夜も経てはいないと云うのに、しらじら明けの陽が射し込む老朽した本殿は、昨夜のそれと、到底同じものとは思えず、総司に不思議な感覚を齎す。 あれから闇に紛れて自室に戻り、誰にも姿を見られぬよう屯所を出、この廃寺についたのは、東の空が明るくなりつつある頃合だった。 闇の中で濃い影を沈めていた、本像の柔和な顔を照らし始めた朝の光華は、一日の営みが始まった事を教え、眩いばかりに射し込む天道の陽の明るさは、此処が賭場と云う事実を、より信じ難いものにする。 だがどんなに印象が変ろうが、あの護り袋の持ち主は、必ず此処に探しにやって来る。 それだけは、総司にとって揺るがぬ確信だった。 そしてその姿を見つけた時、どうしても問わねばならない事があった。 何故土方は、自分に偽りを云ったのか――。 土方は、理由無くして偽りを云う人間ではない。 ならば必ず、それに付随する事情がある筈だった。 護り袋の持ち主が、その真実を知っているのならば、それを問いたい。 その思いだけが、総司を突き動かしていた。 だがもうひとつ、更に深い核(さね)を成しているものが、近い将来、必ずや土方と別たねばならない己の定めである事も、総司は承知していた。 あの時。 視界の全てが、朱(あけ)の色に染まった一瞬。 土方の叫ぶ声が遠くに聞こえ、そして瞬く間に、一切が闇に閉ざされてしまった瞬間。 まだ記憶に生々しい出来事は、決して逃げる事の出来ない現実を、真っ向から総司につきつけた。 いつか必ず、土方と別つ時が来るのだと――。 刃と刃を合わせ逝くのならば、何も怖いものはない。 だが独り置いて行かれるのは、その時に思いを馳せるだけで、狂い出しそうな恐怖に囚われる。 だから傍らにいるのを許される今、土方のどんな些細な想いも知っておきたい。 土方と、ひとつでありたい。 そしてそれを支えに、先へと踏み出す背に、決して縋りつく事など無いように、強くあらねばならない。 ともすれば陥りそうな、そんな弱気から目を逸らすように、総司は、掌にある護り袋へと視線を落とした。 が、それも束の間の事で、護り袋の紐を絡めた指を見ていた面輪が、不意に、張詰めた神経を爪弾かれたような鋭さで上げられた。 息を詰め、深い色の瞳が凝視するその先にあるのは、確かに見覚えのある人の姿だった。 しかし男は気付かず、何かを探すように腰を低くし、目線は下に向けられ、ひと処を動かない。 その横顔は、あの時、地に散らばった簪や櫛を拾い集めていた時よりもずっと硬く、天道の下でまっとうな道を歩む人間には無い、憂いと翳りがあった。 たったひと月余りで、ずいぶん印象を変えてしまったそんな相手の様は、総司に掛ける言葉を詰まらせる。 だが逡巡が作った躊躇いよりも一瞬早く、男の方が、立ち尽くす総司に気付いた。 折り加減にしていた腰を伸ばし、思いの外の長身を此方に向け、逆光になる朝の陽が眩しいのか、少しだけ目を細めて、男は総司の姿を黙って見つめる。 ――そうして二度目の邂逅は、暫し無言の時だけが、先を刻んで行く。 その沈黙を破ったのは、総司だった。 ゆっくりと近づき、差し出した右の手の平に、男の探していたものを乗せ、そして静かに唇を開いた。 「・・貴方の、ものですね」 其処を動かず、言葉を返すでも無く、男は薄い掌の中に収まっている粗末な護り袋を暫し黙って見詰めていたが、やがて小さく首を振ると、薄い笑みを片頬に浮かべた。 「お武家さんとは、二度目のご縁で驚きました」 あの時の事を忘れてはいなかったらしく、男は自嘲にも似た微かな笑い声と共に、総司を見た。 「私も、貴方とこんな風に又会うとは、思いませんでした。・・・これを返す為に貴方を追ったのも、二度目です」 差し出した手はそのままに、相手の意図が読めずに返す声が少しだけ硬い。 「あの時は、ご迷惑をおかけしやした。・・ですがその護り袋は、あっしのものじゃありません」 「でも最初に会った時、これは貴方の落とした箱から散らばりました」 「何かの、間違いでしょう」 否と応える口調は滑らかだが、だからこそ、偽りを押しつける強引さを思わせる。 だが総司にも、それを是と頷くには、譲れぬ事情がある。 「けれど、貴方はこうして此処に探しに来ている、だからっ・・・」 少しづつ後ずさりを始めた相手に、思わず一歩踏み出しかけた総司の視線が、しかし男の後方からやって来る人影を捉えた瞬間、強張るようにして止まった。 そして一瞬出来たその隙を逃さず、男は、まるで風すら切りそうな俊敏さで身を翻した。 瞬く間に小さくなる背を追いかけようとした総司を、だが正面から近づいて来る人間は、目線だけで止めた。 去り行く相手の事など眼中にないのか、山崎は一度も男を振り返らず、やがて総司の正面まで来ると、ようやく足を止めた。 「あの者は昨夜の浪士達とは、関係がありません」 「・・・山崎さん」 「あれが賭場主に命じられ、国分に情報を漏らした者です」 ゆっくりと発せられた言葉に、深い色の瞳が驚愕に瞠られた。 |