煙雨U (弐) 射し始めた陽は、辺りの風景の持つ印象を刻々と変え、流れる時の早さを教える。 その中にあって総司は、自分の思考を纏めるように、暫し沈黙に籠もっていたが、やがて形の良い唇がゆっくりと解かれた。 「では偽りの情報を、あの人が持ち込んだと云うのでしょうか・・・」 「いえ、偽りとも叉違います。情報自体は本物だったのでしょうが、それを新撰組が掴んだ事を、浪士達も知ってしまったのです。が、今回は失敗に終わりましたが、あと幾度か同じように、密告はある筈です」 山崎の語り口は静かだが、その声は確たる自信に満ち強い。 「昨夜も云いました通り、都の人間は、私達余所者を歓迎してはいません。この賭場を元の環境に戻そうとしている者も、互いを斬り合わせ、あわよくば両方の影を、京から一掃する事を目論んでいるのでしょう。ですからそう云う強欲な輩が、一度限りで諦めるとは、私には思えません」 自ら痛い処を突き苦く笑う山崎に、総司の面輪にも、つられるような笑みが浮かんだ。 「時に沖田さんは、何故このような処に?」 が、その一瞬、総司の構えが緩んだの見計らったかのように、山崎が問うた。 「・・・あの・・、昨夜、落し物をしてしまったのです」 不意を突かれて返すいらえは、総司の声を詰まらせるばかりか、狼狽が、瞳までをも伏せさせてしまう。 「その事が気になって、早くに目が覚めてしまって・・・、それでもしかしたらと思って、此処に来てみたのです」 「そうでしたか。しかしあの暗さの中を動き回ったのですから、落したとしても、見つけるには容易な事では無いでしょう。私も気をつけてみますが、・・・失くされた物は、何だったのでしょう?」 「・・姉の送って寄越した、護り袋なのです」 「姉上殿が?」 「はい」 胸の裡に軋しむような痛みを伴う偽りが、相手の真摯な眼差しから逃れんと、頷く仕草を曖昧にさせる。 だがその寸座、それまでの心許なさが嘘のような鋭敏さで総司が瞳を上げたのと、山崎が後方を振り返るのが、同時だった。 視線の捉えた人の影は、昨夜逃げた浪士達の手がかりとなるものを求め、寺の周囲を探っていた監察方の者だった。 「やはり、何も残してはいなかったようですな」 だがそれも空手柄に終わったらしい様子に、山崎の口元に苦笑が浮ぶ。 「その護り袋、どのようなものなのでしょう?私達は今少し此処を調べますが、せめてそれを見つける事が出来れば、探し甲斐もあったと云うものです」 笑いを残して告げる顔には、掛け値の無い好意だけがある。 「すみません。・・あの、小さな袋なのです。手の平の中に、納まってしまう位に」 偽りの代償をぎこちない笑みに代えた深い色の瞳が、気弱に山崎を捉えた。 一日の繁盛を願うように、掛けた暖簾の歪みを正し、満足そうに店の中に消える商人(あきんど)。 天秤棒を担ぎ、良い喉を鳴らして歩く物売り。 早朝の大路は、一日の営みを始める活気にみなぎる。 花の季節、朧霞の冷たさすら生きる勢いに変えてしまう、そんな人々の力強さに背を押されるように、総司は足を急がせる。 だが目的としている建物は、既に視線の先に、その威容を誇示して立ちはだかっている。 ――二条城。 徳川家康によって築かれた、都にあって幕軍の要塞とも云えるこの城は、御所の守護、或いは監視を役割とし、其れより南手前に位置する。 将軍警護の任である奥詰に席を置く八郎の宿舎は、その二条城の北側、京都所司代馬回役鈴木重兵衛邸となっているが、果たして今、其処に本人がいるかどうかは分からない。 二条城に居れば、無論面会は叶わない。 それでも足を止めないのは、どうしても八郎に問わねば、この胸の裡にある拘りを解く事が出来ない、総司の必死がさせるものだった。 昨夜踏み込んだ廃寺を後にしたのが、ようよう陽が当たり始めた頃合いだったのに、今はもう高い位置に回った天道が、朝と旦昼との狭間を教える。 門番に伺いを立て、更にその者が奥に問うてくれた処、幸いな事に、八郎は屋敷内にいるとの事だった。 が、そうと分かり一旦安堵すれば、今度は夜番を明けた直後かもしれぬ八郎の事情を思い、突然に呼び出す自分の勝手が、総司を落ち着かなくさせ始めた。 人影は皆無と云って良かったが、門から幾分離れた場所に立って待つ胸の裡には、後悔が、次第に叢雲のように膨らんで行く。 だがその弱気に弄ばれる時も僅かの事で、門から出て来る違えようの無い姿を視界に捉えた途端、総司は己の身に籠めていた力を、小さな吐息と共に、相手を迎える笑みに変えた。 「お前から尋ねて来るなんざ、珍しい事だな。面倒なら御免だよ」 端整な顔貌の主の、揶揄するような洒脱な物言いは、いつもと寸分も変わらなかったが、やはり明け方まで役務についていたらしく、未だその緊張感の名残を身に纏っているのは、同じ剣士だからこそ感じ取れる、総司の勘のようなものだった。 「八郎さん、もしかしたら、仕事を終えたばかりでは無いのですか?」 「無事、にな。だからお前の面倒までは、御免だよ」 素気無く告げたものの、しかし口元に浮かべた笑いには、こうして総司が訪ねて来たその事が、この想い人が、既に何かの事情に足を踏み込んでしまった証であり、そしてそれを憤りながら、自らも叉関わりあって行くのであろう、遣る瀬無い自嘲が籠もっていた。 「すみません、直ぐに終わらせます」 そんな八郎の胸中を知ってか知らずか、総司は相手の立場を顧ずに押しつける、己の勝手を苦労にしているようで、見詰める瞳には、たちまち気弱な色が広がる。 「八郎さんは、前に私が拾った護り袋の事、覚えているかな・・」 「お前が小川屋の軒先で、誰ぞとぶつかった時に拾ったと云う、あの護り袋の事か?」 真摯に問う眼差しに向かい応える口調は、衒いも無く、淡々としたものだった。 だがそれこそが、あの時己の視界を朱(あけ)の色一色に染め上げた喀血の残像を、何とか脳裏から葬り去ろうとしている八郎の努力だとは、総司は知らない。 ――血溜まりに、色を失くした頬を沈めた想い人の姿は、その一瞬、八郎の背筋に凄まじい戦慄を走らせた。 しかし次の瞬間、目の前に広がる凄惨な光景こそが、総司の身を内から喰らい続ける病魔の現実なのだと知るや、突如として激しく湧き起こったのは、このさだめを与えた天への憤怒だった。 その思いが未だ己を捉えて離さない内に、再び総司自身から、あの時を彷彿させる言葉を聞けば、八郎の顔(かんばせ)にも自ずと険しさが増す。 「あの護り袋は、土方さんが落とし主に返して、それで仕舞いになった筈だろう」 「そうなのです。けれどその落とした人の事を、何か八郎さんが聞いていないかと思って」 己の裡を再び襲う禍々しさを吹っ切らんと、関心の無さを装う八郎の物言いに、総司は食い下がる。 「お前こそ、土方さんから聞いていないのか」 「若い夫婦で、あの後すぐ故郷へ帰ったとしか・・・」 「だとしたら残念だったな、俺もそれ以上の事は知らん」 理屈など端から考えず、宛てなど何処にも無く、煙雨の中を、護り袋の持ち主を探し求めた恋敵の行動は、しかし自分がとったそれだったに相違無いと、今八郎は思う。 護り袋を返す事が出来れば、総司の息の緒は繋ぎとめられるのだと――。 そう信じて病人を見守る事だけが、待つ事を余儀なくされた、己の弱気を封じ込める唯一の強気だった。 そして首尾を果たして戻った恋敵に、どんな奴だったと、半ば揶揄し半ば悋気交じりで問うた自分に返ったいらえは、案の定、素気無いものだった。 ただ一言、落し主は、過ぎた女に惚れられた男だったと・・・ それ以上、土方は何も云わなかった。 自分も、敢えて聞きはしなかった。 語らず、問わず・・・それが互いの、暗黙の了承だった。 「・・そうですか。ならば良いのです。朝から突然にすみませんでした」 斜めに射す陽射しの強さに、ともすれば負けてしまいそうな透けた色の面輪が、幾分ぎこちない笑みを浮かべたが、直ぐにそれは、律儀に下げられた頭(こうべ)の下に隠された。 「素直に聞き分けるとは、良い心がけだが、・・・その護り袋、今更どう云う因果だ」 が、突然降るように掛かった声に、慌てて頭を上げた総司を見据えていたのは、何時の間にか屋敷の板塀に軽く背を預け、無造作に腕を組んでいる、八郎の強い視線だった。 「何でも無いのです。この間、あの護り袋の持ち主の人達、どうしているのかと思ったら気になってしまって・・それで・・・」 咄嗟の言い訳は、偽りが重い分だけ必死になる。 その総司の様子を、八郎は黙って見ていたが、やがて板塀からゆっくり背を離すと、立ちふさがるように一歩進み出た。 「お前、今日は非番か?」 「そうです。けれど今から、田坂さんの処に行かなくてはならないのです」 突如として変えられた話題に、その意図が読み取れず戸惑いながらも、八郎を見る総司の面輪が、偽りから開放される安堵で和らぐ。 だが今度はそれを聞いた八郎の裡に、診察日でも無いのに医者に行くと云う事情に不審が走る。 「今日は一のつく日ではなかろう?」 「キヨさんと、約束をしているのです」 「キヨさんと?」 漸く屈託の無い笑い顔で頷く主に向けた八郎の声が、怪訝にくぐもる。 「一昨日診察を受けに行った時に、キヨさんが足に怪我をしていていたのです。それで驚いて聞いたら、小川屋さんへ行った帰りに、暴れ馬で乱れた人垣に押されて、足を捻ってしまったと云うのです。怪我は大した事は無いと、田坂さんも云っていたのだけれど、その時下になって庇ってくれた親切な女の人がいて、キヨさんがどうしてもその人にお礼を云いたいと云っているのです」 面輪に浮かんだ笑みはそのままに、声音は楽しそうに言葉を走らせる。 それが、その時のキヨとの会話が、総司にとって心安らぐものだったのだと、八郎に教える。 「礼を云いに行くのに付き合うのならば、田坂さんがいるだろう」 「その女の人、キヨさんがお礼を云おうとしたら、逃げるように其処を離れてしまったそうなのです。・・・それで何処の誰とも分からないのです」 「分からない?」 胡乱げに見る八郎の視線を受け、深い色の瞳にも一瞬心許ない色が走ったが、しかし直ぐにその懸念を自ら払拭するかのように、総司は唇を開いた。 「けれどキヨさんは、その人の来ていた着物の柄とか細かい事を良く覚えていて、それ等を手掛かりにして探せば、きっと見つかると云うのです。それで今日、キヨさんが思い出した事を書きとめたものを、貰いに行くのです。・・・キヨさんの行動範囲よりも、私の方が広いから、少しは役に立つかと思って」 まるでキヨの決意が乗り移ってしまったかのような強い調子で語る総司を、八郎は、今度こそ呆れた視線で見下ろした。 障子を開け放した座敷は、あまつなく降り注ぐ光りが、塵の微粒を戯れに舞い上げ、春陽の長閑けさを思わせている。 「それでその女は、キヨさんが危うく倒れる処を、庇って助けてくれたのかえ」 「へぇ。そうですのや。ああ、転ぶぅ・・思うて、一度は目を瞑ったんですけど、気ぃがついた時には、何や柔らかなものの上に座っておったんですわ」 その穏やかな時を少しも邪魔せぬ、おっとりとした物言いで、キヨは八郎の問いに応える。 ――結局のところ。 あれから田坂の診療所に行くと云う総司に付き合い、今八郎はこうして此処に居る。 更に人探しの手伝いにまで関わろうとしている酔狂を叱るには、もう自嘲などでは敵わないのだろうと、漏れる溜息には遣る瀬無さが先立つ。 だが己を莫迦者扱いするその前に、総司が何故今頃あの護り袋の一件を持ち出したのか、その事が八郎の裡を騒がせていた。 「それが、その女の人だったのですか?」 が、一瞬、過去に縛られかけた八郎を、そう大きくは無いが清んだ声が、現に戻した。 「そうですのや。転ぶうちの下に、咄嗟に入って、庇ってくれましたのや」 その時を思い出したのか、他人の思わぬ温情に、キヨの目がうっすらと潤んだ。 「おかげでうちは大した怪我もせんと、こうして無事でしたのや」 「で、女の怪我は?」 人ひとりの身をまともに受け止めたのならば、その勢いと相俟って、下になった者は、多少の怪我は免れ無いだろう。 だがもしもそうであれば、逆に身元を探し出す大きな手掛かりとなる。 八郎の問いは、其処を突いたものだった。 「それが、このうちの下に敷かれた云うのに、その人も大事のうて。・・何や神さまが、人の形して護ってくれたような気がしましたわ」 甲に笑窪の出来る手を口元に当て、ふくよかな顎を引いて頷くキヨは、もういつもの柔らかな笑みを浮かべている。 「けどその人は、うちがお礼を云う間もなく、直ぐに人ごみに紛れるように、何処かに行かはってしまいましたのや。・・・丁度日暮れ時の忙しさで、五条の通りは人がおおて・・結局は見失ってしもうたんです」 語り終えた一瞬漏れた小さな溜息が、キヨの心残りの大きさを物語っていた。 「それでキヨさん、肝心の姿形の特徴を記したと云うものは?」 そのキヨの心情を逆撫でる事無く、八郎は衒いの無い調子で促す。 「あっ、そやった。沖田はんや、伊庭はんにかて気に掛けて貰おたら、きっと見つかりますわ」 云うなり、キヨは、帯の間から小さく畳んだ紙を取り出した。 昼を随分と回っても、まだ患者が途切れる事は無いらしく、待合室から聞こえてくる人声が、先ほどよりも賑やかになった。 それを耳にしつつ、いつまでも戻って来ないキヨに、今頃一人で奮闘しているであろうここの若い医師の困惑を思い、八郎は、分からぬように唇の端に笑みを浮かべた。 「これですのや。これに覚えている事、全部書いたつもりです。どうか宜しゅうおたの申します」 その主の難儀を知ってか知らずか、キヨは総司と八郎に深く頭を下げ、そしてそれをゆっくり上げた。 「まだ何か思い出したら、若せんせいに新撰組まで走ってもらいますわ。けどそれより早く、うちの足が治りますやろ」 屈託無く笑う声が、幾分斜めに射し込むようになった陽に溶け、室の空気を更に柔らかなものにした。 「お前ってのは、本当に困った奴だねぇ」 「・・えっ?」 「厄介な奴だと、云う事さ」 顔を上げた途端、真っ向から西陽を受け、それを眩しげに目を細めて遣り過ごしながら、不思議そうに問う声に返ったのは、諦めとも付かぬ溜息だった。 「歩く時位、前を向いて歩け」 振り向かずに続ける八郎が、何を云わんとしているのか・・・ 総司は戸惑いの中で、傍らの端正な横顔を見上げていたが、やがてそれが、キヨから預かった紙に目を落したまま、暫しその事だけしか念頭に無かった、自分の無防備さを指摘されたのだと気付いた途端、首筋から頬、そして耳朶までを、瞬く間に朱に染めた。 「幾度も頭の中に入れて、それで大方の感じを掴めればと思ったら、つい・・・」 「やめておけ」 慌てて付け足された言い訳に、しかし即座に返ったいらえは、些か乱暴すぎる調子のものだった。 その突然とも思える不機嫌は、流石に総司を驚かせたようで、言葉を失くした深い色の瞳が、八郎を凝視した。 「自分が勝手に思い描いた姿形は、返ってそれに固執させる。想像なんぞ、しない方がいいのさ。・・・その、・・」 何と応えて良いのか、未だ逡巡の中にいる総司の困惑など知った風も無く、八郎はつと足を止めると、視線だけで紙片の中の文字を指した。 「左顎の小さなほくろ。それだけ覚えておけばいい。着物は替える、笑い顔など、その時に見た者の印象で幾らでも変る。確かなものだけを、手掛かりにしておけ」 そう云われてしまえば頷かざるを得無い、あまりに明瞭な理由付けは、だが八郎の苦い詭弁だとは、今の総司に知る由も無い。 八郎を憂鬱にさせているのは、その探し人が、五条界隈を島としている、夜鷹のような私娼であり、見つけ出す事自体が、相手にとって迷惑なのだと云う事を、到底世間に聡いとは云い難い、この想い人に納得させる面倒だった。 そんな埒も無い迷いの中で見れば、下を流れる加茂川が、己の裡を映したように、小さく漣立てている事すら癪に障る。 ――相手が娼婦では無いのかと、胸の裡で疑念となったのは、少し着崩したような感があったと告げた、キヨの何気ない一言に端を発していた。 加えて、キヨが災難に遭ったのが、日が沈みかけた夕刻だったと云う事も、八郎の憶測を強くした。 そして既に確信となりつつあった勘を、違え様の無い現のものへと変えたのは、帰り際、患者を置いてわざわざ見送りにやって来た田坂が、苦い笑みを浮かべて告げた事実だった。 暴れ馬の騒動の後、その直ぐ前に店を出たキヨを案じ、急いで探しに出て此処まで送ってくれた小川屋の者が、庇った女は、五条の橋の下を島に商いをする、私娼集団のひとりなのだと教えた事を、田坂は八郎に耳打ちした。 大方そうであろうと思ってはいた八郎だったが、暫くは内密にと、珍しく困惑の体で苦笑する田坂に、軽く頷きながら視線を外に向ければ、其処には、植木を挟んで何やら熱心に説いているキヨと、それを真剣な面差しで聞いている総司の姿があった。 キヨも総司も、例え相手が夜鷹であろうが、そんな事には構わず、自分に施された親切を直截に受け止め、礼を伝えに行こうとするだろう。 だが夜鷹などと呼ばれる私娼は、闇で商いをしており、役人を嫌う。 そもそも五条橋下には、島原の出先と云う名目で公の許しを得、その分売上の幾らかを冥加金として、叉島原に戻すと云うからくりで栄える遊里もあった。 だがその内に、所謂江戸で云う夜鷹、京では辻君と云われる私娼を束ねる、無許可の組織も出来てきた。 彼等は、役人、或いはそれに準じる者達に、自分たちの縄張りである島に介入される事を酷く警戒し、神経を過敏にしている。 キヨを助けてくれたのは、そう云う島に属する私娼のひとりだと云う。 ならば咄嗟に体が動き助けてしまったものの、闇の世界に住む者の性(さが)として、これ以上素人とは関わりたく無いと云うのが本音だろう。 「縁がありゃ、叉会えるさ」 そのからくりを胸に、想い人の節介を諌める声が浮かない。 「けれどそれでは、何時になるのか分からない」 そしてそれを責めるように、後ろから掛かる声が、不満を隠さない。 が、八郎は応えず、茜色の光華が、いつのまにか宵闇色と混じり、其処だけが薄紫に染まりつつある稜線へと目を向け先を行く。 だが無言で進めていた足が、程なくして止まった。 やがて物憂げに振り返った其処に、案の定、渡り終わろうとしていた橋から、下の一点を凝視して動かない総司の姿があった。 天凛とも云って過言で無い総司の剣の資質は、物が形として現れる前に、気配として察する事の出来る鋭敏な勘と、そしてそれに付随する視力と聴力が成すものだと、八郎は思っている。 だが幾ら目の良い総司であっても、橋の下にいる女にあるほくろまでは判じ得る筈も無く、八郎の唇から、これみよがしの呆れた溜息が漏れた。 「ほくろは、見つかったかえ」 だが揶揄とも、半ば苛立ちともつかぬ声も耳に届かぬのか、深い色の瞳は、ただ一点を見つめ瞬きもしない。 その様子が流石に異なものと察したのか、八郎の視線が総司の其れを追うと、捉えていたのは川原にいる女性(にょしょう)の姿ではなく、若い男のそれだった。 しかもその男は、伸びた雑草の中に己の身を隠すようにして、吹きさらしの川原に蹲っている女の背を見詰めている。 頭部をすっぱりと手拭で覆った女の形(なり)は、素人目には、風で髪が乱れるのを防いでいるようにも見えるが、しかし八郎には、それがこれから朧夜に紛れて客を引く夜鷹だとは、すぐさま知れた。 しかし総司の思考の全ては、男の方に注がれているようで、八郎が視線を戻しても、相変わらず双つの瞳は其処から離れない。 「知り人か?」 然して大きくは無い、むしろ抑えたように低い声だったが、不意を突かれて振り向いた面輪には、あからさまな狼狽があった。 「あの男、さ」 その困惑に知らぬ振りして、八郎はつい今しがたまで総司が目を留めていた男に向け、顎をしゃくった。 「・・違うのです。・・あの・・以前仕事で関わった人と良く似ていると思って。けれど私の見間違いでした」 いらえは、ぎこちない笑みと共に返ったが、それが偽りだとは火を見るよりも明らかだった。 だが総司の頑なな構えは、どうしても他人に知られたくは無い真実を、胸に秘めたと云う証でもあった。 そしてそれは、土方に通じる事なのだと――。 何を知らずとも、その事だけは、八郎にも察する事が出来た。 だがそうして垣間見てしまった、総司の土方への恋着は、八郎の裡に、仕舞い込まれた真実を暴き、晒させてしまいたい妬心と加虐心を煽り立てる。 その八郎の心中など分る筈も無く、吹きすさぶ風に乱れた髪を靡かせ、増して来た寒さに白い頬を蒼く透けさせた硬質な横顔は、どうにも橋桁にいる男が気に掛かるらしい。 が、その総司が、つと身じろいだ。 見れば身を翻した男が、土手を駆け上がり、そのまま日暮れの帰路を急ぐ人混みに紛れようとしている処だった。 「無理だ」 それにつられるように、咄嗟に走り出そうとした薄い肩を、強い力で掴んだ八郎の手が止めた。 「でもっ・・」 「見間違い、だったんだろう?」 ぴしゃりと封する言葉が、総司を沈黙させる。 それでも諦めきれず、せめて視線だけで相手を追う瞳に、もう探す姿は映らない。 だが彷徨っていたその視線が、又もひと処で止まり、総司の身に硬さが走ったのが、肩を掴んでいる八郎にも分かった。 そしてそれをなぞる様に横へ動かした八郎の視界が捉えたのは、川原に蹲っていた女が立ち上がり、土手を上がって来る姿だった。 「・・あの人、キヨさんの書いてくれた特徴の人と似ている。もしかしたら・・」 漸く意識が女に向けられたのか、深い色の瞳が、その事に初めて気づいた驚きで八郎を見上げた。 「かもしれないな。が、だとしても、声を掛けるのはやめておけ。相手にとっちゃ迷惑だ」 思いがけないいらえに、細い線の面輪が不審を露にした。 「相手は夜鷹だ。しかも潜りで商売をやっている。今女と言葉を交わしている、役座風のあの男・・」 八郎の言葉に促されるまま向けた瞳が、すれ違いざま、短い会話を交わした男と女を映し出す。 「あれが島で商売をする夜鷹達を、四六時中見張っている奴だろう。・・・奴等は役人を嫌う。新撰組とて同じだ。少なくとも、巷で顔を売っている新撰組の主だった連中の、顔貌位は知っている筈だ」 「私達が、あの人達の邪魔をすると思うのだろうか・・・」 「悪い事をやっている奴等は、人一倍神経を尖らせているものさ」 素気無く世間のからくりを解く引き締まった口元を、言葉を失くして見上げている面輪に硬さが増す。 「そう云う事だ。キヨさんには、暫く見つから無いと云う事にしておくのが、得策だろうな」 云い終わるや歩き出した八郎の声は、促すと云うよりは、命じるように強いものだった。 その後姿を、総司は暫し無言のまま見詰めていたが、もう振り向こうとはせぬ背に、やがて諦めたように先へと足を踏み出した。 だが八郎は、真っ直ぐに行くと思った五条の通りを、橋を渡り終えるや左に曲がり、そのまま土手の道を行く。 そしてその先には、くだんの女性(にょしょう)が、被っていた手拭を風に乱しながら佇んでいる。 それを視界に捉えた寸座、深い色の瞳が驚きに瞠られ、そして八郎を追う足が急(せ)くように早くなった。 懐手に、宵闇も未だ訪れぬ暮れどき色の中、遊ぶような足取りで通り過ぎる八郎と。 ちらりと視線を投げかけただけで、それをやりすごす女と。 そして再び手拭で顔を隠した女の横を、総司が通り過ぎる。 だがその刹那――。 総司の瞳が確かに刻んだのは、左顎にある、小さなほくろだった。 ――この女性がキヨを救ってくれたのだと。 そう思いながら、声を掛けられない焦燥は大きい。 しかし総司の胸の裡には、ただそれだけでは終わりに出来ない、痞えが残っていた。 この女性を遠くから見つめていたのは、あれは確かに護り袋の持ち主だった。 あの男と、この女性とどのような繋がりがあるのか。 そして或いはそれが、土方の隠し事と結ばれるのでは無いのかと・・・ 一度過ぎった思いは、瞬く間に、総司の思考を雁字搦めに捉え、先に進む足を止める。 「総司っ」 だがそれを邪魔する不機嫌な声が、総司を強引に現へ戻した。 慌てて顔を上げれば、先を行っていた八郎が、苛立ちを浮かべ此方を見ている。 それに促されて地を蹴った足が、其処に拘りを置き忘れたように重い。 そんな自分の駄々を叱りながら、総司は、薄闇が一段色を濃くした道を走り出した。 |