煙雨U (参)




 昼の内は、櫻花の綻びに目を細めるような長閑さも、闇が辺りを包み始めるや、手の平を返したような冷気が覆い、まだそう簡単には季節は変り行かぬのだと、温(ぬく)い風に浮かれ過ぎた人々の愚考を叱る。

そして今、そんな愚かさを具現したように、先の見えぬ連中の、勝手な言い分だけが飛び交う談義を、終始無言で聞き続けなければならなかった苛立ちが、土方の、或る種冷酷とも思える整いすぎた顔(かんばせ)を、更に凄みのあるものにしていた。
 たまたま廊下の反対からやって来た隊士などは、その土方の姿を見るや慌てて脇に寄り、五つ紋を染め抜いた黒羽織の背が、己の前を通り過ぎるまで息を詰め、身を堅くし、下げた頭を上げられない。
だがその中にあってひとり、この帰還を待っていたかのように、廊下の曲がり角に立ち、視線が合うと、軽く会釈を寄越した人間がいた。
それが山崎だとは、目を細めずとも判じ得た。


「お疲れさまでした」
前を過ぎる際に掛かった声にも足を止めず、床を鳴らして無言のまま行く様は、土方の不機嫌がどれ程のものかを物語っている。
「局長が、お待ちです」
だがそれを気に止めるでも無く山崎は後に続き、明瞭な口調が託された言伝を伝える。
「近藤さんが?」
「はい、副長に用事があれば、先にそれを済まされてからで良いとの事でした」
元々乱れると云う事の無い山崎だが、ここまで落ち着いているのは、近藤の用件が新撰組としての問題ではなく、私用だからなのだろう。
それが何なのかまでは分からないが、話があると云う以上、土方にとっては叉新たな面倒が増えると云う事に変わりはない。
「総司は?」
その諦めとも苛立ちともつかぬ思いを何とか鎮め、背中で問う声が、仕舞いに出来ない不機嫌を隠さない。
「先程戻られ、今は自室にいらっしゃる筈です」
「・・先程?」
前を行く足が止まったのは不意だったが、山崎はそれに少しも動じず、同じ歩幅を保ったまま、自らも立ち止まった。
「あいつ、今日は非番の筈だったろう」
「お帰りになった時は伊庭さんもご一緒で、田坂さんの処に行っていらしたと云う事でしたから、久方ぶりに、皆さんで楽しんでいらしたのでしょう」
早朝の出来事を胸の裡に秘し、滑るようについて出た偽りを、静かな語り口が真(まこと)に似せる。
だがその山崎も、こんな作り話に騙される土方で無い事は、十二分に承知している。
案の定、乱暴に踵を返した背は、無言のまま先を行く。
そして今度はその後を追う足を止めたまま、山崎は、今日の総司の行動が、今新撰組が携わっている一件と何処まで繋がりがあるのか・・・らしくも無い取り越し苦労を自嘲し、苦い笑みを浮かべた。




「大変な、談義だったようだな」
襖を開けるなり掛かった笑い声には応えず、土方は無言のまま室の中央まで行くと、幾分ぞんざいな挙措で、近藤の前に胡座をかいた。

 人と云うものは、置かれた環境が中身を作るものらしく、新撰組局長としての歳月は、近藤に、幕閣の要人達の中に置いても、遜色の無い風格と威厳を身に纏わせるまでにした。
が、どのように人の価値が高まろうが、その核(さね)を成すものまでを変える事は難しい。
剛毅な顔の、方頬だけに浮かぶ笑窪は、それらの鎧を一瞬の内に外し、近藤本来の人の良さを印象づける。
そして今正にその顔を見せつけられて、又も何かこの友の厄介を押し付けられるらしい予感に、土方は諦めの息をついた。

「飯は食ったのか?」
「いや。あんたの用事を先に聞こうと思って来た」
「俺の方は、後回しでも構わん話しだったが・・」
「ならば早いとこ終わらせてくれ」
近藤の声に、心なしか物憂げなものがあるのを、土方の鋭敏な勘はすぐに察したが、敢えてその不審を問わず、遠慮の無い物言いが先を促す。
それでも近藤は暫し逡巡しているようだったが、やがて土方の無言に押されるように、厳つい口を開いた。
「総司の事だが・・」
「総司?」
それまで面倒そうな素振りすら見せていた土方の視線が、今の一言で、ゆっくりと近藤を捉えた。

「あいつの病が分かってから、俺は江戸に帰すべきか否か迷いながら、今日まで来た。だが長州から帰って来、あいつの顔を見た時、俺は今までにない思いに駆られた。それは何と云い表して良いのか分らないが、・・・ある種、衝撃にも似た感情だった。・・・いや、もしかしたら、あれを恐れと云うのかもしれない」
腹の底に響くような太い声で、掛け値の無い心の裡を、近藤は静かに語る。
「あいつが血を吐くのを、俺はこの目で幾度か見て来た。だがそのいずれの時も、俺はあいつの傍らにいてやる事が出来た。頬に触れ温もりを確かめ、手を取り血潮の脈打つ様を感じ取り、息をしていると、生きているのだと、安堵する事が出来た。そして総司は必ず良くなるのだと、死ぬ事など無いのだと、そう信じて疑わなかった」
秘めていた思いを、今一気に迸らせるように訴える近藤を、土方は無言で見ている。
「・・長州から戻った時、総司は血の色など何処を探しても無いような蒼い顔に、心底嬉しそうな笑みを浮かべて俺を迎えた。そんな事は、確かに今までにも幾度かあった。だが今度は違った。
・・・床の中のあいつは、俺の知らない間に、肩も、胸も、全てが薄くなり、一度瞬きをした途端、その姿は夢幻だったと消えてしまいそうだった。その時初めて俺は、総司の病は処構わず、少しの隙も逃さず、あいつを狙っているのだと、それが目を背ける事の出来ない現実なのだと知らされた。・・・俺は今まであいつの病を承知しながら、その実、それを現のものとして捉える事が出来なかった。いや、しようとしなかった。・・・臆病な奴だったさ」
「それが江戸と、どう云う関係がある」

 江戸に帰せば、少なくとも今のような殺伐とした日々を送る事無く、総司は安息の中で養生する事が出来るだろう。
そうさせてやりたいとのだと・・・
その近藤の思いを知りながら、土方は敢えて容赦の無いいらえを返す。

「江戸に帰せば、あいつの命はきっと長らえる。・・・それが一年でも、半年でも、いや、ひとつ季節でもいい、花が咲き散るまでの僅かな時とて構わない。俺は少しでも長く、あいつに息をしていてほしい。同じ世に生きていて欲しい。俺は、総司を失いたくはない」
「だから江戸に帰すのか」
「誰もが白刃と向き合わねばならないこの新撰組にあって、総司ひとりを江戸に帰す事が、どんなに身勝手・・いや、局長としてあるまじき行為か分かっている。だがっ・・」
「総司は、江戸には帰さんっ」
次第に激しさを増す近藤の勢いを、まるで一刀両断にするかのような、土方の鋭い怒声だった。
そして苛立ちを形にしたような荒々しい挙措で立ち上がると、後は物言わず、土方は近藤に背を向けた。

「・・歳」
今吐露した言動の全てを、真っ向から否定する土方の背を、近藤は黙って見ていたが、やがてそれが室から出て行こうとした寸座、横に張った口が動き、激していた己を抑え込むようなくぐもった声が、その動きを止めた。
「俺は明日、田坂さんの処へ行く」
ゆっくりと告げる、それがどう云う事なのか――。
近藤の意志が本物である事を突きつけられても、一瞬振り返った端正な面は少しも表情を変えず、沈黙を貫き通す後ろ手が、いらえの代わりにぴしゃりと音を立てて襖を閉めた。





 殺伐とした日々を送る男達の砦も、宵の内は、無事に一日を終えた安堵に包まれ、時折は賑やかな喚声も上がる。
だがそれも一時の事で、夜番の隊士達を見送れば、屋内は叉元の静寂に包まれる。

 墨の饐えた匂いが、夜気に混じり重く沈む中にあって、土方の筆は遅々として進まない。
それが先程、近藤の思わぬ胸の裡を知った所為だとは、十分に承知している。
だが今はもうひとつ――。

「いい加減に入って来い」
土方は大仰な溜息をつくと、遂に筆を置き、己の仕事を邪魔する元凶を呼んだ。
それでも躊躇いが勝るのか、呼ばれた相手はいらえを寄越さず、障子には映る影もない。
「総司っ」
だが二度目にその名を呼んだ時には、既にこの男の短気は、敷いていた座布団を蹴るようにして立ち上がらせていた。
そのまま敷居際まで行くや、慌てて桟に手を掛けようとしていた総司よりも一瞬早く、土方の其れは、内から障子を開け放った。

「この莫迦がっ、叉風邪を引きたいのかっ」
芯まで染み入るような寒気が、花冷えを思わせる春宵、凍て付く廊下に立ち尽くしていた愚考を叱る声が厳しい。
「大した用事では無いのです・・・だから土方さんの仕事が終わるのを待ってと思って・・」
強く二の腕を掴まれ、室に引きずり込まれながらする言い訳は、見上げる相手の無言が怒りである事を知るが故に、段々に声を心許ないものにする。
「だから俺の影が机から離れるのを、待っていたのか」
だがそんな萎れた様を目の当たりにしても、土方の苛立ちは収まらないようで、ぞんざいな音を立てて障子を閉め切り、火鉢の火を熾しながら背中で咎める調子には、あからさまな不機嫌を隠さない。
総司の胸に巣食う宿痾は、常に牙を砥ぎ、攻撃を仕掛ける僅かな隙を狙っている。
それを思えば、この想い人の、己の身体への無頓着こそが、土方にとっては恐怖の対象だった。
「座れっ」
その当たり処を声にしたような低い声で、土方は、立ち竦んだまま物言えぬ総司を振り向くと、己の傍らを指差した。


「伊庭と、出ていたそうだな」
気まずい沈黙に、おずおずと隣に座したものの、伏せた瞳を上げられなかった総司が、その一言で、弾かれたように土方を見上げた。
だが火箸を手繰る手に視線を落としている怜悧な横顔は、それ以上の言葉を続けない。
その先を語るのはお前なのだと――。
無言の催促が、総司を追い詰める。
「・・八郎さんに付き合って貰って、キヨさんの処へ行ったのです」
「キヨさん?」
予期せぬ名を出されて、流石に土方も、不審気に視線を動かした。
「この間キヨさんが、小川屋さんに行った帰りに、暴れ馬を避け様として転びかけた時、それを庇って助けてくれた女の人がいたのです。けれどその人はあっと云う間に其処から立ち去ってしまって、・・結局、お礼を云う事も出来なかったそうなのです。それで八郎さんと私が、一緒に探す事になったのです」
話しを聞き終える前から、既に土方の面に浮かび始めた、うんざりと呆れた色を見ても、顛末を語る総司の唇は、滑らかに言葉を繋げる。
「そんなものは放っておいても、縁があれば叉会えるさ」
「でもっ・・」
あまりに素っ気無い応えに、咎めるような瞳を向けた総司の声が、しかし不意に勢いを無くして途切れた。
「でも、どうした」
「・・何でも無い」

今土方の無情を責めれば、偶然にも見つける事が出来た、くだんの女性の素性から、そしてその姿を物影から見つめていた、護り袋の持ち主である男の事、更にそれに拘る、自分の土方への想いの丈までを――。
そして、置いて行かれる事への、恐怖、戦慄、焦燥・・・次から次へと心裡に膨れ上がる、それらの思いに怯える自分を、堰を切ったように語らねばいられなくなる。
そんな己の甘えを咄嗟に封じた戒めが、総司から言葉を奪う。
だがひたと据えられた土方の双眸も又、逃げる事を許さない。

「・・キヨさんが、もしかしたら京の人では無いかもしれないと云っていたから、ならば早くに探さし出さなくては、見つけられなくなってしまうと思って・・」
やがて重い沈黙に耐えきれぬように、形の良い唇が紡いだ偽りは、総司自身も思いもよらないものだった。
それが証しに、云ってしまった後、その動揺を見透かされる事に怯んだ瞳が、居たたまれないように伏せられかけた。
だが俯いた僅かな一瞬、皮肉にもその事が、又も総司に、ひとつの光明を見出させた。
不意に上げられた瞳が土方を捉え、唇は、今度は急(せ)いて言葉を繋ぐ。
「前に、私が拾った護り袋・・・」
が、その刹那、あまり表情と云うものが読み取れない、土方の端整が過ぎる顔(かんばせ)に、一瞬険しい色が走ったのを、総司の必死は見逃した。
「あれを落した人は、北にある故郷へ帰る処だったと土方さんは云っていたけれど、キヨさんの探している人にも、言葉に北の方の訛りがあったと云っていた。キヨさんのお母さんが小浜と云う処の出で、其処の言葉に似ていると・・」
「それがどうした」
それまでよりも更に低くなった声に、偽りに、偽りを重ねた弱気が総司を狼狽させる。
「・・理由は無いのです。・・ただ・・」
「ただ?」
「キヨさんの話しを聞いていたら、あの護り袋を落した人を思い出して・・、それでどんな人だったのか、ふと思ったものだから」
しどろもどろの言い訳が終わっても、土方の双眸は深い瞳を見据えたまま、引き締まった唇は無言を通す。
だが土方の不機嫌の、その理由が分からず、総司も困惑に唇を閉ざす。

そうして互いの心中が見えず、ぎこちない沈黙の時は如何許り続いたのか――。
不意に土方の体勢が崩されたと思った途端、それはおもむろに畳の上に横臥し、そして突然の挙措に唖然と声の出ない総司の驚きなど箸にもかけず、端坐している膝の上に頭が乗せられた。
「土方さんっ」
「寝かせろ」
抗いの言葉など最初から聞く気は無いらしく、目を閉じたまま返すいらえは、命じると云った方が良さそうな、強引なものだった。
「でもっ・・」
「誰も来ん」

 私室では無く、副長室と云う公の執務に携わる環境の中での戯れが、総司を酷く狼狽させているのが、眠る振りを決め込んでいる土方にも伝わる。
総司は、自分との関係を人に知られる事を、極端に怯えている。
それは新撰組副長としての自分の立場を慮っての事だとは、土方にも理解できる。
だが同時にそれは、総司自身が、既に己の将来(さき)を諦観しているが故の葛藤でもあった。

 先程近藤に、江戸に帰すつもりだと告げられた時、自分は微塵の動揺も無く、総司は帰さないと云いきった。
そして、あの護り袋に纏わる出来事の時も――。
総司の身の内にある血潮が全て流れ出してしまったかのような、朱の溜まりに沈んだ蒼い面輪を目の当たりにしても、自分の思いは少しも変らなかった。
総司は、自分の傍らに在り続ける。
例え引く手が屍になろうが、総司は必ずや自分の傍らに在り続ける。
そしてこれからも、それは変らない。
邪魔する者は、何人であっても許しはしない。
――例えそれが、総司自身であっても。

「土方さん・・」
遠慮がちに囁く声には聞こえぬ振りをし、土方は、鬼畜とも違わぬ己を自嘲しつつ、更に深く膝枕に頭を預けた。





 一見、あまり人の手を入れていないようではあるが、その実、良く目を凝らせば、腕の良い職人が丹精込めて剪定しているのだと分かる植木は、此処でもてなす客は元より、中庭を挟んで対を成している室で診療の順番を待つ患者達を、四季折々に楽しませているのだろう。
そんな事を思いながら、茶托に伸ばしかけた近藤の手が、不意に止まった。
そのままゆっくりと、開け放たれた障子の向こうに視線を送ると、縁に沿った回り廊下を渡り、見知った姿が近づいて来る処だった。
それを視界に捉えるや、近藤は俄に居ずまいを正した。

「お待たせをしました」
田坂俊介は、敷居を跨ぐなり、衒いの無い笑い顔を近藤に見せた。
それがこの医師の持つ若い力強さと、芽吹く季節の勢いを見事に調和させ、一瞬近藤は眩しそうに、田坂に向けた目を細めた。
「お忙しいのに、手間を取らせてしまい、申し訳無い」
「丁度患者が途切れた処です。ご懸念は、どうか無用に」
頭を下げ様とする近藤を、言葉で制した声には軽い笑いが籠もる。
「話しと云うのは、沖田君の事でしょうか」
そして更に間を置かずに続けられた、少々砕けた苦笑交じりの調子が、これから問う内容に、知らず知らず堅い面持ちになっていたらしい自分への配慮だと気付くや、近藤の顔にも漸く笑みが浮かんだ。
「田坂さんには、どうにも我侭な患者を任せたきり、此方は安堵の体(てい)で詫びる言葉も無い」
「手を焼く患者には、此方も修行と決めました」
「そう云って頂ければ、肩の荷が軽くなる」
田坂の言葉に笑って頷きながら、近藤は、丁度一年前、この若い医師と初めて出遭った春の宵、掛けられた声の中に、精神に響くような潔さ、強さを覚えたのを、今寸分も違わず耳に蘇らせていた。
多分自分はその瞬間から、田坂を、総司を託す医師として決めていたのだろう。
そしてこれから全幅の信頼を置くその田坂に、今日まで耳を塞ぎ目を閉じ、敢えて知らぬ振りをして来た総司の身体の衰えを、問おうとしている。
近藤の胸の裡に、重く苦しい煩悶が渦巻く。
しかしそれ等を一瞬の内に断ち切り、田坂を捉えた双眸には、自らを奮い立たせる意志の強さがあった。

「田坂さん、段階を踏んで私の胸の裡を語れば、叉迷いが生じるでしょう。それ故、直截に聞いて欲しい」
厳つい顔(かんばせ)を、更に堅く強張らせると、近藤は、田坂を睨みつけるようにして、心中深く蔓延る痞えを、今正に吐き出さんと身構えた。
「総司を、江戸に帰したい」
低く、太い声で一言だけ、しかし、断乎として言い切ったその近藤を、田坂は無言のまま見つめる。
「江戸に帰したら、総司の病は治るのだろうかと、以前にも田坂さんには幾度か聞き、その都度返事を貰ってきた。だが私は、完全な治癒は無理なのだと云うその言葉を、未だ信じる事が出来ずにいる。総司は治ると、あいつの死をこの目で見ることなど無いのだと・・・私は今も少しも諦めず、そう信じている」
必死の相は、憤怒の形にも似て、剛毅な口元は、積もり積もった激しい思いを、堰を切ったように吐露する。
しかし田坂は近藤が語り終えても、暫し視線を逸らさず無言でいたが、やがてひとつ心を決めたかのように、静かにその唇が動いた。

「沖田君の病がどれ程進んでいるのか、・・・それを問われれば、近藤さん、私は医師として、酷く残酷な事実を、今貴方に話さなくてはならない」
その寸座、膝の上に置かれた近藤の両の拳に力が籠もるのが、田坂の目にも十分に判じ得た。
だがそれに見ぬ振りをし、田坂は続ける。
「江戸に帰し、半年を一年、一年を二年と・・・例え限られた命と云えど、少しでも長くその天寿を伸ばすべきだと貴方に同意するのが、医師としての、本来あるべき姿なのでしょう。しかし私は、今日までそれをしなかった。そして今も、その気持ちに変わりはありません」
己の握り拳に目を落していた近藤が、顔を上げたのに応えるよう、田坂も叉、中庭に向けていた視線をゆっくりと戻した。
そして両者の視線が絡み合った刹那、一瞬早く、田坂が言葉を繋げた。

「この世に生在る時の限界が、目の前に立ち塞がり、それが天の課した定めなのだと知った時、沖田君は自分を封じ込めていたあらゆる箍を断ち切り、自らの想いを貫こうとしたのです。そしてその彼の激しさの前に、私は負けたのです」
それが土方と云う恋敵への、総司の苛烈なまでの恋着なのだとは胸に秘め、不甲斐ない医者だと、ただ深く頭を下げた田坂に、近藤が慌てた。
「どうか顔を上げて下さい。・・そのように云われれば、私は総司の気持など、何一つ考えてはいない」
苦笑混じりの低い声に、田坂の視線が再び近藤を捉えた。
「嫌だと云う言葉など端から聞かず、駄々をこねるなら一喝し、有無を云わせず江戸に帰すつもりでした。・・だがそれでは、初めて私の手元にやって来た、子供の頃のあいつを叱るのと、少しも変らない」
今度は太い声が、愉快そうに笑う。
だが双つの細い目の先にあるのは、その時が、もう二度と戻れぬ憧憬への感傷であるのだろうとは、田坂にも知ることが出来る。
「それでも田坂さん、私は総司を江戸に帰したいのです」
その残像を、掌に包むような静かな双眸を向けて、近藤は目の前の医師に訴えた。

「近藤さん、私はひとつ、沖田君と約束をしている事があります」
「約束・・?」
小さな頃から慈しみ、何をかをも知っていた筈の愛弟子が、その主治医と約束事を交わしていたと云う事実が、近藤を酷く落ち着かなくさせる。
「・・重い病を患っている患者に、その限界を問われ、応えなければならないのは、医者であれば避けられない事です。例えばそれは、生在る内に、成し遂げねばならない仕事を持つ者、どうしてもやり遂げねばならない事情を抱えている者。・・・様々な人間が、様々な理由で、己の生の限界を知らなければならないのです。・・・そして私は、沖田君の身体がその限界に近づいた時、それをありのままに、彼に教えなければなりません」
「田坂さんっ・・」
「それが、沖田君との約束です」

呆然と見る近藤に視線を据えたまま、田坂の脳裏に、柔らかな、それでいて何処か侘しげな茜色に包まれた晩秋の一時が、残酷なほど克明に蘇る。


 その問いは、診察を終え、身繕いをしている総司に背を向け、薬棚の抽斗の中から薬の粉を取り出していた時に、突然掛かった。
あまりに衒い無く問われたそれは、初め何を云わんとしているのかが分からなく、不審に振り返った視線の先にあったのは、面輪に映る硬さを、どうにか誤魔化そうとしている、ぎこちない笑みだった。
それでも暫し無言でいた田坂だったが、不意に激しく射した逆光の眩しさに目を細めた瞬間、端麗な線を描いた総司の唇が、再び動いた。
あとどれ程で、この身は、自分の意思で動く事が出来なくなるのかと――。
全てを白濁色の中に溶け込ませてしまう光華の中で、唯一淡い彩を浮き出させた唇が、己の命脈が尽きる日を問うた。

いつまで、土方の傍らにいる事ができるのかと。
置いて行かれる日が来るのは、もう間近いのかと。
その問いを、総司は別の言葉に置き換えた。
そして――。
ものの形を曖昧に鈍らせる残照を背に負い、相手の無言を責めるように強い色を湛えた瞳に向かい、契りは交わされた。
吐き尽くした血が、僅かに残された力の全てを奪い去り、終焉の時を待つ他無くなるその前に、我が身の限界を教えて欲しいと告げた総司に、射抜くように見下ろしていた双眸は、やがて静かに頷いた。
――意気地の無い事を云うなと叱りもせず、侮りもせず、ただ無言で諾と頷いたその時の自分の感情を、田坂は今も寸分も違えず思い起こす事が出来る。

あの時。
自分は医者ではなかった。
契った約束が、総司にとって息の緒の尽きる限界ではなく、土方と別つ日を教える残酷なものである事に、少しも躊躇しなかった。
それどころか、どの世にあっても断ち切れぬその絆を知りながら、自分は二人の決別の時を願った。
一人の人間に恋焦がれ、想う時は長すぎた。
堪える日々は矜持も、人としての精神までも、恋情の熾火で焼き尽くしてしまった。
端坐している総司に諾と応えた時、それは人形(ひとがた)を纏った、修羅に堕ちた自分だったのかもしれない。


「新撰組にいれば、確かに彼の病巣は急速な勢いで進むでしょう。・・・ですがその終焉を、沖田君は自らの手で閉じようとしているのです」
己の煩悶に費えて現を離れた時は、そう長くは無かったらしい。
ゆっくりと語り終え、自分を見つめる峻厳な顔に視線を戻した時、近藤の眼が一旦伏せられたが、それは直ぐに鋭い閃光を放って田坂に向けられた。
「・・・話しは、良く分かりました。ですが田坂さん、私はやはり諦められないのです。総司の思いを知りつつ、それでも尚、あれを江戸に帰し、病を養わせたいのです」


 時を遊ばせるように、緩やかに暮れ色に染まりつつある庭へと向けた近藤の横顔に、厳しさを凌駕する哀しさを見、田坂も又無言で其方に視線を移した。








きりリクの部屋   煙雨U(四)