煙雨U (四) 「あの・・外が騒がしいようですが、何かあったのですか?」 やけに落ち着きの無い表の様子を、会釈しながらすれ違おうとした隊士に問うと、その者は律儀に足を止め、総司へ向き直った。 「何でも急な捕り物で、原田先生の十番隊が出動されるのだそうです」 己の言に自信の無さげな困惑顔が、それでも丁寧に言葉を繋げる。 ――今日は所用があると云う田坂の都合で、昼前に診察を終え、真っ直ぐに帰って来たまでは良かったが、多忙な日々の疲れは正直に現われるようで、どうにも気だるい身体を横にした途端、寝入ってしまったらしい。 そのうたかたの眠りを邪魔したのが、建物の奥まった一室にまで伝わって来た外の騒々しさだった。 出陣前の一種独特の高揚感は、屯所全体を包み込み、まどろみにあった総司の意識の覚醒をも無遠慮に促した。 だがその気配に慌てて身を起こした途端襲われたのは、天地が逆転するような、激しい眩暈だった。 それを咄嗟に畳についた片手だけを支えにして辛うじて堪え、ようよう廊下に出て最初に会った人間が、今問いに応えてくれている隊士だった。 「急な捕り物?」 「そう云う事なのですが・・申し訳ありませんが、私にはそれ以上の事は・・」 監察でも無い限り、その経緯までを語れと云うのは無理な事だろう。 それに気付かず、急(せ)くあまり、声の調子が何時の間にか詰問する風になっていたらしい。 「・・すみません、足を止めてしまいました」 「いえ、とんでもありません。私こそ役に立たず、申し訳ありませんでした」 己の浅慮を恥じ入るように慌てて詫びる総司に、戸惑いを露にして首を振ると、正直を顔に描いたような隊士は、几帳面に腰を折って其処を離れた。 「土方さん・・」 中の気配を確かめながら掛けた声に躊躇いが混じるのは、総司の裡に翳りを落している拘りの所為だった。 あの護り袋の事を話題にした時、土方は敢えていらえを寄越さなかった。 興の無い振りを装っても、その事は総司にも分かり得た。 そしてそれは土方にとって、もう触れたくは無いが故の事情なのだと云う事も。 だがそれ等全てを承知し、尚且つ怒気を蒙る事を覚悟しつつ、総司は白い障子の向こうからの声を待つ。 「入れ」 やがて間を置かず、命じるように掛かったそれは、揺れる心裡を知らずして、ひどく素っ気無いものだった。 「どうした」 口調の強引さそのものの様に、書き物をしている背は振り返る事無く先を問う。 「原田さんの隊が、あまり忙(せわ)しそうだったから」 まさかその事が、わざわざ足を運ばせた理由とは土方も思わないだろうが、今の総司にとっては、それが精一杯の話の切り出し方だった。 「だから何だ。急な出動など、珍しくもなかろう」 案の定、気の無い声がいらえを返した。 「でもっ、・・大きな捕り物ならば、後を追った方が良いのかと思って・・」 が、更に的を外した言動は、流石に土方を呆れさせたようで、漸く広い背が振り向いた。 「原田の隊なら、お前が心配せずとも直ぐに引き上げてくる」 障子際で立ち尽したままの総司に、座れと目で指図しながらの土方の物言いには、何処か冷めたものがあった。 「では、この間永倉さんと私が行ったのと・・・」 「情報源は同じだ。だから駆け付けた処で、既にもぬけの殻だろうさ。が、もう一度泳がさぬ限り、相手は油断しない」 「相手・・?」 反復するように呟いた総司の声が、怪訝にくぐもる。 ――新撰組が関わる事に置いては、十中八九、それが功を成すと確証を掴むまでは、土方はその状況や采配を極秘裏にする。 知っているのは、監察に席を置くごく一部の人間と、その手足となって動く伝吉だけである。 それを、例え総司と云えど、ここまで語るからには、土方にとってこの事が、既に確実な勝利として掌中に納められているか、若しくは何か意図を含んでの事だった。 そしてそれは、どうやら後者の方らしかった。 それまで、まるで他人事のように淡々とからくりを明かしていた土方が、突然、端坐して聞き入っている硬い面持ちの主を、真っ向から見据えた。 「先日の捕り物の翌朝、お前が会った役座風の男、名は参次。この京でも結構な数を仕切る賭場主の下走りだ。浪士に賭場を乗っ取られた賭場主は、その一掃に新撰組を使う事を企て、参次を仲介にして、奴等の情報を流して寄越した。そしてそれについての新撰組側の受け手が、監察の国分だった」 表情ひとつ変えずに語る土方だったが、しかし参次と、その名を耳にした途端、蒼を透けさせたような総司の白い面輪がみるみる強張った。 「土方さんっ、その参次と云う人が、あの護り袋の持ち主で・・」 「総司っ」 それは叱咤と云うよりも憤怒の唸りと云うに相応しい、低い声だった。 その刹那、総司の薄い肩がびくりと震えたが、しかし次の瞬間、深い色の瞳は強い意志を湛え、自分に向けられた激しい視線を跳ね返していた。 が、土方も叉、それを眉ひとつ動かす事無く受け止め、更に射抜くような双眸で総司を捉えた。 「護り袋は持ち主に返し、この件は疾うに終わった。参次と云う奴の存在が、お前にとってどんなものかは知らない。が、先程も云った通り、奴には今新撰組が関わろうとしている。今後一切、奴に接触する事は許さない」 冷然と、そして断固として言い切った土方を、総司は無言で凝視している。 そしてその総司の勝気を、抗いを許さぬ厳しい眼差しで、土方が絡めとる。 ――総司は知らない。 あの、朱(あけ)の色に沈んだ蒼い面輪に、死ぬなと叫び続けなければいられなかった、戦慄の時を。 そうしなければ、微かに触れ得た糸のように細い息の緒が、其処で止まってしまうのでは無いのかと、恐怖の坩堝の中で身を震わせた、錯乱の時を。 そんな思いを知らずして、この想い人は護り袋と云う言葉をつきつけ、再びあの残影の中に自分を引き摺り戻そうとしている。 それが、土方を激しく苛立たせる。 だが互いに譲らぬ沈黙の時は、そう長くは続かなかった。 確かに此方にやって来る人の気配に、先に気づいたのは総司の方だった。 土方を見詰めていた瞳が不意に逸らされ、それが春の陽を透かせている白い障子に止まった。 「副長、お話中申し訳ありませんが・・」 声の主は、中に総司の居る事を承知で声を掛けて来た。 山崎にしては、珍しい事だった。 否、或いはこの鋭利過ぎる観察眼を持った男は、総司が副長室に居ると知ったその事だけで、参次に纏わる気まずい会話の雲行きを察し、敢えて無粋を通す事で、仲介に入ってくれたのかもしれない。 「入れ」 だが其処まで判じた土方自身にも、山崎の出現に、何処か救われたような軽い安堵があるのは、目の前の想い人の無言に、既に負けを期している己を認めた証でもあった。 「何をしているっ」 何処までいっても惚れたが負けと諦めるざるを得ない苛立ちが、自分でも呆れる八つ当たりとなって、開けた障子の隙から軽く会釈を返した山崎に向けられた。 「宜しかったのでしょうか?」 「それを承知して、声を掛けたのじゃないのか」 自分の出現に、慌てて室を後にした薄い背を見送る山崎の声に、些か気後れが混じるのを、容赦の無い物言いが断つ。 「生憎、気働きが出来ません人間ゆえ・・」 如何にも申し訳なさげな云い回しの中にある含み笑いを察し、不機嫌に文机に向かってしまった土方に、山崎のいらえも如才無い。 「無駄話はもういい、国分はどうしている」 「十番隊の帰りを、落ち着かぬ風情で待っています。今のところ、杉浦玄太も大人しくしています」 が、不意に落とした声の低さに、土方と云う男が、本来の姿に戻ったと知った山崎も、緩めていた頬を引き締めた。 「参次が新撰組に、いや国分に流した情報が二度失敗に終われば、あの二人も焦るだろう。尤もその情報源である賭場主も、今頃は首を傾げているだろうがな」 「新撰組内部に潜んでいる間者の杉浦を泳がせ、わざと浪士の奴等に筒抜けにしているとは思いませんでしょうな。ですが副長、相手の油断が頂点に達している今が、そろそろ潮時かと・・」 広い背に、更なる差配を、静かな声が促す。 「一度目より二度目、二度目より三度目に大きく膨れ上がらせた手柄は貰うさ。次の参次の情報、使う」 「では杉浦を」 「消せ」 いらえは声になっては返らず、最後まで振り向かぬ背に向かい、山崎は無言のまま頭(こうべ)を垂れると、室にある静寂を損なう事無く立ち上がった。 西に傾いた天道は、天も地も、唐紅の暮れ方色に染め上げて行く。 だがこの強烈な色とは対照的に、室に満ちる気はひんやりと、身を凍えさせそうに冷たい。 その中にあって、総司はひとり座したまま、視線は何を捉えるでも無く、ただぼんやりと畳の一点に置かれている。 副長室から戻り、もうどのくらいこの状態が続いているのか・・・ 総司自身にも分らない。 土方は、護り袋の持ち主が参次と云う男であり、そしてあの朝、自分と会っていた事を知っていた。 更にその参次は、今新たな関わりを持つ人間として、自分達の前に現われたのだと告げた。 それは新撰組にとって、これからが正念場の仕事なのだろう。 だからその事に口を挟むつもりは毛頭無い。 だが土方は、護り袋の一件に関しては、癇症すぎる程の反応を示した。 それが何故なのか・・・ ――総司の胸の裡に、又ひとつ、見えぬ土方の心が不安を膨らませる。 が、ともすれば負へと流され行く思考を、一瞬にして断つように、俯いたままだった面輪が不意に上げられた。 「居たようだな」 障子に姿が映るや否や、揶揄する声と共に開けた主は、それが当たり前のように、遠慮なく室に入り込む。 「・・八郎さん」 八郎の纏う外の陽に邪魔され、まだ像が鮮明にならないのか、眩しげに見上げている瞳が、射し込む金色の光華を吸い込み、更に深く不思議な色の妙に彩られる。 光と闇、明と暗。 見詰める瞳に宿る、そのふたつの妖かしに惑わされたのか、それとも室に満ちる、今日最後の陽の強さに当てられたのか・・・ 幻影ともつかぬ奇妙な感が、八郎の裡を落ちつかなくさせる。 「どうかしたのですか?」 だが一瞬現を離れかけた八郎を引き戻したのは、その瞳の主の、屈託の無い声音だった。 「お前は、本当に可愛気の無い奴だねぇ」 その刹那の忘我を誤魔化すように、行儀の悪い所作で、総司の前に腰を下ろした八郎だったが、流れるような一連の動きには、この男の崩せぬ品がある。 「義父の遣いで近くまで来たついでに、丁度一のつく日だと思い当って田坂さんの処に寄ったら、今日はもう昼前に帰ったと、キヨさんのつれない話でこっちに寄ったのさ。存外帰りに例の女を追っかけているのかと思ったが、土方さん怖さに、大人しく屯所に戻ったようだな」 意地の悪い台詞を滑らせながら、それでも、金色から侘色へと深さを変えて行く夕暮れの室に、独り端坐していた硬い面輪を見れば、何かしら総司の心中を重くする事があったとは、八郎には容易に想像がつく。 そしてそれが土方に纏わることだとも――。 それが気に入らない、否、許せない。 だからこの事には、敢えて触れはしまい、問いはしまいと、まるで幼子が癇癪を起こしたような己を自嘲しながら、八郎の眼差しが、総司を捉えて細められた。 「あの女、名をおゑい。やはり潜りの夜鷹だった」 その尖った悋気をさらりとくるんで告げた言葉に、案の定、総司の瞳が大きく見開かれた。 「・・おゑい」 「尤もこれは田坂さんが、小川屋を使って聞き込んで来た話だ。今日は田坂さんの義母の、月命日にあたるらしい。いつもはキヨさんが墓参する処を、まだ足を心配した田坂さんが代わりに行く途中を、同道しながら聞いたのさ」 語られる経緯を、瞬きもせずに聞き入る総司を見詰めながら、しかし八郎の声の調子には、目の前の想い人を、これ以上関わらせたくは無い苦さが走る。 「おゑいの身を縛っている元締めは、五条から南、西は東寺の先まで島を張り、他に隠し賭場も幾つか持ち、京でもかなりの勢力を誇る奴らしい」 「東寺の?」 が、八郎の説明の中から、ふとその言葉だけが浮き出したように総司の唇から零れ落ちたのは、参次と巡り会った其処が、東寺に近い賭場であったからに他ならなかった。 そして初めておゑいを見つけた時、川原の草茂に身を隠すようにして、その姿を凝視していたのは、確かに参次だった。 否、それは凝視していたと云うよりも、見守っていたと云う方が正しいのかもしれない。 それが証しに、おゑいを見る参次の姿には、構えや警戒と云うものがなかった。 かなり遠目であっても、それは確信として今も総司の裡にある。 「東寺がどうかしたのか」 だが突然何かに思案を奪われてしまったかのように、沈黙に籠もってしまった総司を、今度は八郎の声が現に引き戻す。 「・・・何でも無いのです。・・あの、八郎さん、前に私が拾った護り袋の持ち主は、若い夫婦だと聞いただけだと云っていたけれど、ほんの些細な事でも良いから、何か他に土方さんが云ってはいなかったでしょうか・・」 「いや」 即座に返った、あまりに素っ気無い調子は、八郎自身、もうこの一件を過去にしたいと云う心情の表れだとは、今の総司に知る由も無い。 過ぎた女に惚れられた男だったと・・・ 護り袋の持ち主に触れた時、土方の声の調子がほんの僅か、それも聞き違えだと言われれば頷く他無い微かさで低くなったのを、八郎は聞き逃さなかった。 が、その一瞬、並んで歩いていた隣を見遣っても、恋敵の横顔には何の変化も無かった。 ――護り袋を返す者と、受け取る者。 互いが抱えていた事情は、言葉で補うには、到底足りぬものだったのかもしれない。 しかし一刻も早く、あの時の情景を己の脳裏から葬り去りたい八郎にとって、最早全ては要らぬものだった。 「とにかく、おゑいに関してはそう云う事だ。放っておく事が、相手への礼だ。少なくとも、新撰組として顔の知れているお前なら尚更の事だ」 己の裡に渦巻いた禍禍しい記憶を断ち切るように、八郎の物言いには、冷然と突き放す厳しさがあった。 「でもキヨさんには・・」 「キヨさんには、田坂さんが遠まわしに事情を話すそうだ」 そのキヨへの説得も苦労だろうと、田坂の難儀を想像し、唇の端に苦い笑いを浮かべた八郎だったが、しかし漸くそんな柔和な思いに浸りかけた時を、刹那にして破る光景に、細めていた双眸が見開かれた。 「おいっ」 ぐらりと前屈みになった華奢な身は、空を裂くような叫びに意識を戻されたのか、一度は己の力で立ち直りかけたが、だがそれも一瞬の事で、咄嗟に伸ばされた腕の中に崩れ落ちた。 「総司っ」 両肩を抱いて呼ぶ声にも、直ぐには応えられず、総司は暫し蒼白な横顔を見せていたが、やがて頬に翳りを落としていた睫が揺れ、それにつられるように、ゆっくりと瞳が開いた。 「土方さんを呼んで来る」 伝わるものは、人の温もりと云うには疾うに追いつかない熱さなのに、八郎の腕の中に在る身は、物言えぬまま小刻みに震えている。 だがその八郎を見上げると、総司は微かに首を振った。 「・・大丈夫だから」 「馬鹿を云えっ」 「大した事無い・・」 だが自らの力で起こそうとする身体は、主の云う事を聞かず、微かな動きで不安定に揺らぐ。 その総司の抗いを、有無を言わさぬ強い力で封じ込め、静かに身を横たえると、八郎は俊敏な動きで廊下に出た。 人を呼ぶ声は、決して大きなものでは無かったが、良く通るそれは、切迫した緊張感の中に両刃のような鋭さを孕み、数間先にいた隊士が此方を振り向いた。 その者を掴まえ、八郎は土方へ危急の伝言を頼むと、自らは身を翻し、再び室に飛び込み障子を閉じた。 横臥している身は、ぐったりと弛緩し、自分の腕から離れようとしたあの抗いが、総司の精一杯の強気だったと知らしめる。 既に意識は無く、面輪は白の下に蒼だけを透かせたように色を失くし、瞳を隠している薄い瞼は、簡単に開かれそうに無い。 端麗な線の唇に手を翳せば、ようよう細い息が指先に触れ、薄い肩の下に腕を差し込み半身を抱え上げた寸座、支えを失った喉首が、がくりと垂れた。 そして僅かに隙の出来た、その唇に――。 八郎はゆっくりと、己のそれを重ね合わせる。 意思無き者との抱擁は、無機質でいながら、どこか隠避な甘さと、そして切なさとを齎せる。 やがて静かに唇を離した時、湿り気を失くしていた想い人のそれは、仄かに艶を帯びて濡れ、その様に、八郎は僅かに目を細めた。 狂おしい程に愛しい者へ、想いの丈を刻んだ証は、今一瞬だけ、この世で束の間の生を息吹き、そして瞬く間に熱に消される。 その恋情の痕を見詰めながら、八郎は、総司を抱えた腕に、力を籠めた。 「苦しいのか?」 耳朶に触れて問う声は、再び夢寐へ誘うかのように柔らかい。 「総司」 だが二度目に呼ぶ声は、今度はいらえを欲しているのか、少しばかり強い。 そうして現に戻され薄っすら開けた両の瞳に、人の影を映した時、総司の唇から小さな吐息が零れ落ちた。 「無理をするからだ」 叱る声と共に、額の上がふと軽くなった感覚に其方を見れば、盥の水に手拭いを浸しているのは、違える事無く土方その人の姿だった。 「・・土方さん・・」 漸く戻った意識は、まだ今に至るまでの状況を思い起こすのに難儀しているようで、潤んだ瞳だけが、ぼんやりと土方に向けられている。 「疲れが溜まっているそうだ。暫くは叉寝床だ」 低い声で命じながら、しかし乱れた前髪を除け、再び濡れ手拭を額に置く手の動きは優しい。 が、その温もりに包まれ、安寧に瞳を閉じた刹那、総司の脳裏に、全てが闇に覆われる寸座、網膜に刻んだあの夕暮れの光景が蘇った。 そしてそれは同時に、総司にとって、己の身体の不甲斐なさを直視しなければならない、厳しい現実でもあった。 「朝になったら、もう動ける・・」 「俺を、怒らせるのか」 そんな焦燥を形にしたかのような、必死の訴えは、即座に冷たい声に断ち切られた。 「早いとこ倒れてくれたお陰で大事に至らずに済んだと、田坂さんも安堵していた」 辛辣な物言いに、それ以上返す言葉を失い、遂に瞳を伏せてしまった細い面輪の様子など気に掛ける風も無く、土方は病人の胸元を広く肌蹴るや、熱で滲む汗を無言で拭き始めた。 それにされるがままになりながら、触れる手から伝わる温もりが、何故か総司には、今無性に切なかった。 決して己に負けを許さない土方の手は、こんなにも優しく膚を拭ってくれる。 嘗て土方は、自分たちは二つ身でひとつの魂を持つ者なのだと云った。 だとしたら。 この出来損ないの自分を失くしてしまった時から、土方は虚空の凍土を、独り行かねばならないのではと・・・ ふと過ぎった思いに、総司は土方へ視線を移した。 だがそれに気付いても、端整な横顔は微塵も表情を変えない。 今も、そして今までも、自分の知る土方はいつも強かった。 だからその背について行くだけで良かった。 だがその強さに縋り、置いて行かれる事に怯えてばかりいた自分は、何時の間にか、土方の孤独を思う余裕すら失っていたのではないのか・・・ ――置いて行く者と、置いて行かれる者。 ――止まらなければならない時と、先を歩み続けねばならない時。 そのいつかを恐怖する心は、土方にも、自分にも、同じようにあるのではないかと。 そして護り袋の件を再びむし返す事は、もしかしたら土方にとって、そのいつかを彷彿させる禁忌なのかもしれないと――。 それは不意に胸の裡に渦巻いた、言葉で形つけられる感情ではなかったが、何故か土方の精神の強靭さが、総司には胸を引き裂かれるように痛かった。 「・・すみません」 思わず零れ落ちた小さな声は、そんな思いが、唯一言葉になったものだった。 「お前の頑固には慣れている」 だが総司の心裡を揺らした思いを知らず、いらえの声は相変わらず不機嫌を通す。 「すみません・・」 が、叉直ぐに、熱で乾いた唇は同じ言葉を紡ぐ。 自分の弱さに溺れ、土方の心を顧みなかった情けなさを詫びる言葉を、そして今胸に満ちる、想いの丈を籠めた言葉を、それ以上、総司は知らなかった。 幾度も同じ言葉を繰り返す総司を、流石に土方も異と思ったのか、一度肌を拭う手を止めたが、しかしすぐに何かに気付いたように、端正な面に揶揄するような笑みが浮んだ。 「昼間の事か」 その言葉に、見上げていた面輪が、一度否と首を振りかけ、叉慌てて頷いた。 まだ心の裡を見透かされるのは怖かった。 「昼間・・、土方さんに嫌な思いをさせてしまった・・」 「護り袋の事か」 応える声は幾分和らいでいたが、土方にとって、その事が忌み嫌う一件である事は間違いなかった。 それが証拠に、薬が入っている湯呑みに視線を移した仕草が、鬱陶し気だった。 「お前の思っている通り、あの護り袋の持ち主は、参次と云う例の男だった。が、それだけだ。今参次が新撰組と関わりを持とうとしているのは、あくまでその後の偶然だ」 故郷へ帰った夫婦と偽った事には触れず、土方の物言いは淡々としたものだった。 だがあまりと云えばあまりに突然すぎるいらえは、総司の瞳を驚愕に見開かせた。 「お前が何故、今参次に固執するのかは知らん。が、護り袋の一件に関しては、これ以上話す事は無い」 抗いの、どんな言葉をも封じるかのように、強く言い放った土方の双眸に捉えられた刹那、開きかけた総司の唇が堅く結ばれ、仰ぎ見ていた深い色の瞳が、戸惑いと逡巡に揺れた。 |