煙雨U (六) 芽吹く季節、西の稜線に傾きかけた天道は、驚くほど強い残照を放つ。 それは叉、この雑木林の、天を覆うように巡らされた枝葉の陰を、より深く、より強く、地に刻み込む。 初めて会った時から、まだどれ程も経てはいない僅かの時の経過と云えど、常に警戒を解く事の出来ない環境に置かれた日々は、参次の神経を異常なまでに研ぎ澄まさせたらしく、足音もさせず近づく総司の気配にも、直ぐに感づいたようだった。 ――誰かに見取られる事を畏怖する心を、そのまま形にしたような俊敏さで長身の背が振り返った寸座、一斉に鳥が羽ばたき、その後を、揺らされた枝の葉擦れのざわめきが追った。 「参次さん・・ですね?」 「国分の旦那から聞いたんですかい?あっしの名を」 真正面にまで来て立ち止まり、しかと据えられた総司の視線から逃れるように、参次の片頬に薄い笑みが浮かんだ。 「今更こんな処に呼び出すなんざ、何をとお思いでしょうが、実の処、あっしも来て貰えるかどうかは半信半疑でした」 それは本当なのだろう。 硬かった面持ちから、ほんの一瞬、警戒が解かれたのが分かった。 「貴方に、これを返さなければならなかった」 だがその事は、総司にも云えた事で、護り袋を乗せた手の平を差し出しながら紡がれた声音には、不思議な縁(えにし)で結ばれた者への、親しげな響きすらあった。 その骨ばった手指に、まるで包み込まれるようにしてある護り袋に、参次は暫し視線を止めていたが、やがてゆっくり右の手を伸ばすと、紐に指を絡め、それを掬い上げた。 そしてそのまま、護り袋を握り締めた掌を胸の近くまで持って来ると、総司に向かい、礼を尽くすかのように顔を伏せた。 それはこれまで、頑なに否と首を振りつづけてきた男が、漸く垣間見せた真実だった。 「お武家さん」 「沖田と云います。それで結構です」 静かに上げられた参次の顔に、一度は解けかけた硬さが再び戻っているのを見止めると、新たな展開を予期した総司のそれにも、俄かに緊張の色が走る。 「では、沖田さん」 「何でしょうか」 「この護り袋、もう一度預かっちゃ貰えませんか」 思いもよらぬ言葉を耳にした一瞬、掴みかけたと思った参次の心が、又も彼方へ遠のいて行くような焦燥に、総司の裡が、得も云えぬ心許なさで揺れる。 「・・いえ、ある人間に届けて欲しいんでさ」 「ある人間・・・?」 「その代わりに、新撰組には必ず手柄を立てさせます。その事は、国分の旦那に聞いて貰えりゃ分かりやす」 希(のぞみ)であるとか、願いであるとか、そう云う、先にある耀きの一切を捨て去り、翳りを濃くした男の面に、初めて必死の相が浮かんだ。 だがその刹那、瞬きも忘れたように凝視していた総司の脳裏を、雷(いかずち)の如く過った光景があった。 それは、吹き荒ぶ風の中、夕暮れの川原に蹲り、一心に川面を見ていた女性(にょしょう)の背を、葦に隠れて凝視していた参次の姿だった。 「・・あのっ・・、参次さんが護り袋を渡して欲しいと云う相手は、おゑいさんと云う、顎に小さなほくろのある女の人ではないのでしょうか」 急(せ)いて問う総司の瞳の中で、参次の顔が強張り、そして束の間も置かず、それは自嘲にも似た小さな笑いへと変った。 「其処まで、お見通しでしたか」 だがいらえが戻った時、見つめる眼差しからは、それまで捨て去り得なかった警戒と硬さの一切が消え、ただ静かな声音だけが、雑木林のしじまに溶け込んだ。 「参次さんがその人の姿を見ているのを、五条の橋の上から見かけたのです」 「とんだ処を、見られちまいました」 一瞬驚きに歪んだ顔は、しかし直ぐに照れ隠しのような苦笑となり、そしてその変貌は、今置かれている環境にどれ程深く染まろうが、この男の核(さね)が、未だひたむきな一途を失ってはいない事を、総司に知らしめる。 「護り袋を渡して欲しい相手は、確かにおゑいと云います。・・・あっしが、この世の地獄に堕とした女です」 淡々と淀み無い語り口は、あまりに明瞭すぎるが故に、ともすれば、その言葉の持つ衝撃的な事実すら隠してしまう。 「参次・・さんが?」 だが総司の聴覚は、其処に孕まれる危うさを聞き逃さず、深い色の瞳が、訝しげな視線を参次に向けた。 「世話になった店(たな)には、二度と顔を出せないような不義理をし、それでも二人で世帯持った時には、何も怖いものなど無かった。・・それが思ったよりも商いが上手く行かず、苛つく日々が続くと、あっしはそんな自分から逃れるように、博打に手を出し始めました」 総司から視線を逸らし、眩しそうに片目を細め、それで射す陽を凌ぐようにして天を仰ぎ見る参次の横顔には、己への憂憤と、もう戻れぬ過去への寂寞があった。 「ですが所詮素人。そのうちに負けが嵩じ、気がついた時には、おゑいを形代に最後の博打を打っていました」 「・・・そんな」 「火を見るより明らかだった勝負に強引に出、案の定負けを見ると、その日からあっしもおゑいも自由を奪われ、堅気の世間とは遠く隔だつ道に堕ちました。・・ですがその時になって漸く、あっしは自分の莫迦さ加減に気が付いたんです」 ――人が修羅に陥り足掻き苦しむ時、人は其処から抜け出そうとする焦りと、抜け出せるのだと云う希(のぞみ)の両方を併せ持つ。 しかし光の見えぬ苦悶の時に疲れ果てた人は、やがてそれはもう叶わぬ希なのだと知り、諦観の淵に追いやられる。 その瞬間から、人は感情と云うものを逸し、魂魄は闇に漂い、人の形(なり)をした唯の抜け殻となる。 「・・おゑいがまっとうな世から身を堕として行くのを、この目に焼き付けるようにして見ながら、必ずあいつだけはこんな処から抜けさせるのだと、あっしは誓いやした。その待ち望んでいた時を、今あっしはこの手で掴んだんです。・・これでおゑいを逃してやれる・・」 そして勢いの余り、先を痞えそうになりながら己の胸中を訴える参次の姿は、まだ前者に属し、希を捨て切ってはいない証だった。 「沖田さん・・」 その参次を無言で見詰めていた総司だったが、不意に変った静かな物言いの、次に紡がれる言葉を意図しかね、細い線で造作された面輪が、戸惑いの色に揺れた。 「この護り袋を返してくれたお武家さんが、新撰組の副長さんだったとは、こうして知った後も、あっしには今も信じられません」 が、思いもよらず土方の名を出され、今度は深い色の瞳に、隠せぬ狼狽が走った。 「・・役座者から逃れる隠れ蓑に、沖田さんにぶつかった時、あっしはこの護り袋を、わざと拾いませんでした」 「わざと・・?」 端麗な線を描く薄い唇から、ぽつりと漏れた呟きは、あの時、ひとつだけ地に置き去りにされた護り袋のように心許無い。 「・・神仏に縋る心があれば、神仏を恐れる心も同じようにある。だから護り袋を身につけている内は、きっと人の心を失くさずいられると・・・。荒んだ日々が長くなり、捨て鉢な生き方しか出来なくなっていたあっしに、おゑいは、まるで自分自身がそれに縋るように繰り返していやした。・・ですがそんなおゑいの心すら、もう重石でしか無かったあっしには、護り袋そのものが鬱陶しい存在になってやした」 「それで・・・」 捨てたのかと云いかけて、総司は唇を噤んだ。 護り袋がおゑいの想いの丈ならば、それはおゑいと云う女性(にょしょう)そのものを、参次が捨て去ったと云うに等しいものだった。 それを言葉にしてしまうには、あまりにおゑいの心が哀しすぎた。 「そうです。あっしはおゑいを捨てようと思ったんです」 だがその総司の心の裡に応えるかのように、後を繋げた参次の面に、薄い笑みが浮かんだ。 「この護り袋を捨て去れば、あっしはこの身から、情と云うものを失くす事が出来ると思いやした。・・だからあの時、わざと護り袋だけを拾わずに逃げ、その二日後、おゑいを形代にして、最後の博打を打ったんです」 透いた気を、柿色へと染めた陽が、葉と葉の隙から射し込み、参次の横顔に当たる。 「負ける事は承知でした。だからおゑいがどうなるかも、・・何もかも分かっているつもりでした。ただひとつ、思い違いだったのは、あっしが人を捨て切れなかった、いえ、おゑいへの想いを断ち切れなかったと云う、情け無い結末でした」 己の膚に陰影を刻む、その光の彩すら意識の外にあるように、遠くを見据えたまま、参次の語りは続く。 「沖田さんがその護り袋を拾ってくれ、それがどう云う経緯で、あの副長さんからあっしに戻ったのかは知りやせん。けれどあの時、副長さんを必死の相で動かしていた、その実にあったのは、想う人間の為ならば、何をも厭わない靭さだったように思えやす。・・・今の自分と重ね合わせちゃ申し訳ありませんが、あっしにはそんな気がするんでっさ。・・いえ、今だからこそ、分かるのかもしれやせん」 ――今となっては、それも知るに遅すぎた愚かだったと語り終え、削げた頬に浮んだ笑みが、日の当らぬ道を行く者とは凡そ不釣合いな穏やかなもので有る事が、土方が己の信念を貫き通したその果てに、参次を探し当てたのだと聞いた事実と相俟って、総司の胸に熱く、切なく、そして哀しく染み入る。 「・・・参次さん」 このままでは瞼の奥を熱くしているものに負けてしまいそうな自分を叱咤し、総司は伏せていた瞳を上げた。 「参次さんはさっき、おゑいさんを解き放つ事の出来る何かを掴んだのだと、そしてそれは新撰組の手柄になる事だと云いました。だとしたら、これから参次さんがやろうとしているのは・・」 「あっし独りで掴んだ浪士の動きを、新撰組に売りやす」 言い淀んだ総司の後を取って語る口調に、気負いは無い。 が、その寸座、深い色の瞳が驚愕に見開かれた。 「でもそれではっ・・」 参次の謂わんとしている事は即ち、己一人で浪士達の動きを探り、そして掴んだ情報を新撰組に流すと云うものだった。 だがそれは、参次の自由を拘束し、尚且つその情報を自分達の利益にすべく企んでいる役座者組織への裏切りであり、更に浪士達の行動を把握すると云う事は、自ら危険の渦中に飛び込むようなものだった。 それ等の条件を考えれば、どう転んでも参次に分は無い。 「端から、命があるとは思っちゃいません。いえ、例え生き長らえたとしても、あっしはもう、おゑいを正面から見る事の出来ない人間です」 その総司の焦燥を、参次は微かな笑みを浮かべて受け止めると、己の置かれた立場と行く末を淡々と語りながら、まるで其処に、二度と立ち戻る事出来ない時を探すかのように、少しだけ目を細めた。 「・・・これが上手く行った時、新撰組の力で、おゑいの身を自由にして貰うと云うのが、国分さんとの、・・いえ、土方副長さんとの約束です。あの副長さんなら、きっとやってくれる筈です。・・そして沖田さん」 もう決して翻ぬ意志を秘めた人間の強さを目の当たりにし、掛ける言葉を見つけられずにいる総司に、参次の双眸が向けられた。 「沖田さんには、その護り袋を、おゑいに渡してやって欲しいんです」 「私が・・?」 「三度、・・・沖田さんは、その護り袋の持ち主であるあっしを探してくれた。そのうち一度は、あの副長さんに姿を変えて」 云い終えて、参次の唇の端に浮んだ笑みは、始めは己の来し方への苦い自嘲で、しかし直ぐに、総司の胸の裡に秘める土方への想いを見透かせ、そしてそれに気付かれた事へ狼狽を隠せない蒼い面輪の主を包み込むような、柔らかなものへと変った。 「四度目を押し付けるのは、流石に厚顔とは承知していやす。ですがその護り袋は、あっしの傍らからおゑいを離すなと、そんな風に云っている気がするんでさ・・・だからこうして幾たびか縁を結んでくれた沖田さんに、もう一度だけ届けて欲しいんです」 今度こそ――。 自分は、おゑいの元に還るのだと。 二度と離れる事無く、愛しい女の傍らに眠るのだとは云わず、参次は指に絡めた紐を解くと、再び総司の手に護り袋を託し、深く頭を下げた。 やがて束の間天の与えた安寧の時を惜しむかのように、参次はゆっくりと顔を上げると、後は何も云わず踵を返した。 そしてその背が少しずつ歩みを早くし、遂に走り出した後姿が金色の光華に紛れ、影すら消してしまっても・・・ 総司は手の平の護り袋を包み込むようにして、身じろぎもせず、其処に立ち尽くしていた。 花の季節の気配を知るのは、天道が眩い陽を降り注いでいる、一日の内の、僅かの時の事だけで、日が沈みかけた途端、春風は身を切るような颪に豹変し、川原に吹き荒ぶ。 まるで何かを待っているかのように、否、参次が自分の背を見詰めているのを知っているかのように、おゑいは初めて見た時と同じ姿で、身じろぎもせず、川の流れに視線を止めていた。 だが近くまで来た人の気配に気づくと、物憂げな所作で後ろを振り仰ぎ、宵への入り口へ誘う薄紅の陽に、眩しそうに眸を細めた。 そしてそれが自分とは違(たが)う種類の人間と知るや、向けられた視線は、何の躊躇いも無く再び川へと戻されかけた。 「おゑいさん・・ですね」 だが総司はその動きを、掛けた声で引き止めた。 名を呼ばれた刹那、女は狼狽を露わにし、一瞬総司を顧みようとしたが、それを寸での処で止めると、手拭で更に深く顔を隠し、視線を逸らせた。 だが堅く閉ざされた唇が、激しい動揺を隠すが故とは容易に判じられる。 「私がこうしている事が、貴女にとってどんなに迷惑な事かは分かっています。だから手間は取らせません・・」 その直ぐ傍らまで来て立ち止まっても、おゑいは頑なに総司を見ようとはしない。 そして総司も叉、敢えておゑいに視線を向ける事無く、川を見つめる。 「参次さんから、護り袋を預かってきました」 だが静かに紡がれたその一言で、おゑいが今一度、今度ははっきりとした意志を持って、自分を見上げた気配を察すると、夕間暮れに染まる早瀬に止められていた総司の瞳も又、其方へと向けられた。 紐を指に絡め、そして大事そうに胸の袷から取り出した護り袋を手の平に乗せ、未だ当惑の中にいる主の前に差し出すと、切れの長い涼やかな眸が、一瞬大きく見開かれた。 「参次さんは云っていました。自分はおゑいさんに、取り返しのつかない仕打ちをしてしまったと。だからもう二度と逢う事は出来ないけれど、おゑいさんへの想いだけは、断ち切る事が出来ないのだと。・・・この護り袋は、そんな勝手な自分を、唯一おゑいさんの元へ還してくれる気がする。 ・・だからおゑいさんに届けて欲しいと・・・その願いを承知して、私は参次さんから護り袋を預かりました」 これを届けて欲しいと、その心裡を語った時の、参次の面に浮かんだ感情の襞を、ひとつひとつ欠くこと無く思い出しながら語る総司の、透けるような蒼白い横顔に、背後からの風で乱れた髪が纏わる。 そして同じように風の悪戯で晒された面を、もうおゑいも隠すことなく、骨ばった手の平にある護り袋へと視線を移した。 「・・・うちの手に帰って来たのは、二度目やなぁ」 やがて静かに語り掛けた、女性にしては低めの声を、一瞬ぶつかり合った風が散らした。 「一度目は、立派なお武家はんが、うちの人の居所を教えて欲しい云うて、これを返しに来てくれはった」 初めて総司と視線を合わせ、翳りの濃い頬に、おゑいは薄っすらと笑みを浮かべたが、しかし話の行方を見定められぬ深い色の瞳は、いらえを見つける事が出来ずに揺れる。 「あんたはん、もしかしたら、この護り袋を最初に拾おてくれた人と、違いますやろか・・」 擦りきれた古い護り袋を、いとおしむように掌に包み込みながら、困惑の中で佇んでいる総司を見上げると、今度は更に柔らかな笑みが、顎に小さなほくろのある面に広がった。 「やっぱりそうや、あのお武家はんの弱みや」 微かに頷いた総司だったが、叉も突然の言葉の意図を判じかね、色の透けた面輪に、戸惑いが走った。 「神仏を恐れる気持があるうちは、人でいられる・・せやから、この護り袋はあの人の弱みですのやと、うちがそう云うた時に、あのお武家はんが、この持ち主を必死で探させているその力となっているも、自分の弱みやと云わはったんです」 静かに笑うおゑいの横顔を、濃紅(こいくれない)に時を刻んだ陽が隠し、それを伝える表情までは分からない。 「・・弱み?」 「その時うちは、そのお方が、あのお武家さんにとって、何にも変えがたい大切なお方なんやなぁと、そないに思いました」 だが相手の真意を測りかねた総司の、心許ない呟きに頷いたおゑいの眸が、まだ過去に成り得ない日を懐かしむように、緩やかに細められた。 ――あの時。 護り袋の持ち主を探しにやって来た男には、もう後に引けぬ、崖淵に立たされたような形振り構わぬ凄惨さがあった。 それは今、自分の目の前で、深い色の瞳を困惑に染めている若者を、全身全霊で護り抜くと決めて揺ぎ無い靭さから来るものだったに相違無い。 だからその様を見せ付けられ、好いた男に捨てられた自分とは対を行く人間への妬みが無かったと云えば嘘になる。 だがあの男が、この弱みを核(さね)に抱くが故に、誰をも寄せつけぬ強靭な精神を纏い続けられるのと同じように、自分は参次を包み込んでやりたいと願ったのも、又事実だった。 そしてその事に、今も微塵も後悔はしていない。 その愛しい男の形代である護り袋を、両の手の平で覆うと、おゑいはおもむろに立ち上がり、総司に向き合った。 「おおきに」 柔らかで、静かな声だった。 だがそれが、もうこうして語り合う時の限界が来たのだと教える警告だとは、総司にも知れた。 ちらりと視線を投げかければ、其処には、探るように此方を見ている役座者の視線があった。 既に総司を警戒し始めたのだろう。 だとしたら、これ以上は、おゑいに迷惑をかけるだけだった。 小さな会釈を最後に、人影を隠す程に濃くなった闇色の中、川下へと踵を返した背が消える前に、総司も叉、土手に向かって重い足を踏み出した。 水の流れだけが唯一の音であるしじまの中、おゑいは、護り袋を包んでいた掌を開くと、触れるように頬に当てた。 所々布が擦りきれたそれは、惚れた男が肌身離さず持っていたものだった。 その男に売られ、この世の地獄に堕とされても、あの川原で視線を感じる一瞬だけに、生きる光を得ていた自分は、きっと愚かな女なのだろう。 だが参次はもう来ない。 護り袋を自らの形代に、離れる事無く、いつも傍らにいると伝えてきた。 そしてそれは、二度とこの世ではまみえる事の出来ないと云う証しでもあった。 「・・漸く、還って来たんやなぁ」 もう輪郭を確かめる事すら定かでない暗さの中、護り袋を見詰める目線は優しい。 「・・・あほや・・」 そう呟いた声が、湿った。 やがてゆっくりと進めていた足が止まり、そのまま護り袋を胸に抱くようにして、静かに膝を折り蹲ったおゑいの背が震えた。 その姿をひっそりと隠した闇の中、川のせせらぎだけが、止める事の出来ない時の流れのように、几帳面な音を奏で続けていた。 敢えて五条通りを避け、加茂川に沿って下り、七条通りを帰路に選んだのは、参次の云うように、浪士達が何かしら事を起こそうとしているのならば、屯所へのほぼ直線となるこの道は、極力避けようとするだろう警戒心を読んだ、総司なりの選択だった。 が、もし仮に襲われたとしても、今の自分の身体が一体何人を相手にする事が出来るのか・・・ それすら覚束ない悔しさ、情けなさに、唇を噛みしめている間にも、息の上がり方は益々激しいものになり、抉られるような痛みが胸に走る。 参次が起こそうとしている行動は、まりに危険が高すぎる。 否、自ら死をもって、浪士達の動きを掴もうとしているに相違ない。 だが今ならまだ間に合うかもしれない。 参次を、止めなければならない。 吐けば闇を白くする荒い息を繰り返しながら、総司の思考は、あの夕間暮れの光華の中、おゑいに渡して欲しいと護り袋を手渡した、参次の静かな笑い顔に占められていた。 だが額から滴る冷たい汗を、手の甲で邪険に拭った刹那――。 どんなに揺らごうが一度も止まる事の無かった足が、まるで雷(いかずち)にあったかのように、縫いとめられた。 見開かれた瞳は、ひとつの影を捉えたまま瞬きを止め、肩で息するのが精一杯の身は、全ての動きを封じられたかのように、其処から先へ踏み出せない。 やがてすぐ真正面まで来た影の主の、端正が過ぎて冷酷にすら思える面の唇が、闇の中で奇妙に歪んだと思った一瞬、 「莫迦野郎がっ」 土方の怒声が、辺りのしじまを劈いた。 頬を打たれるかと思わせるような激しい憤怒は、しかし総司を不思議な安堵に導き、張詰めていた気の緩みと共に、前に傾いだ身が、咄嗟に伸ばされた腕の中に抱かれた。 「総司っ」 ――耳に届く土方の声が、木霊のように、幾重にも響く。 「・・・さんじ・・さんが・・」 応えなければと震えた唇は、ようやっとその人の名を紡いだが、それが残された力の全てだったようで、ともすれば崩れそうになる己の身を、総司は土方の腕だけを頼りに、必死に支えていた。 |