煙雨U (七)




「・・参次・・さんが・・」
抱くようにして支えられなければ、途端に崩れ落ちてしまいそうな我が身の危うさすら意識の外に置いて、総司は土方を見上げひたすら訴える。
「口出しは許さん」
だがその必死を、冷たいまでに厳しい口調で遮った声の主は、掴んでいた総司の二の腕を軸に、くるりと己を反転させるや、無言のまま華奢な身を背負いあげた。
――不意に足が地を離れた浮遊感と、その心許なさに、一体自分に何が起こったのか、咄嗟には総司自身にも判じられなかったようで、始め為されるがまま従っていたが、しかし直ぐにおかれた状況が分ると、小さな抗いが広い背で起った。

「土方さんっ」
「動くな」
「でもっ・・」
屯所まで、もう然程の距離ではない。
もしも誰かに見止められたらとの焦りが、総司になけなしの力を振り絞らせる。
「歩いて行けます」
「お前はこれ以上、俺を怒らせたいのか」
怒気を含んだ低い声が、土方の尋常で無い憤りを露わにし、肩のあたりに触れていた躊躇いの指を、一瞬びくりと震えさせた。

「・・・すみませんでした」
叉、無用の心配をかけてしまったのだと――。
慄くように小さな声で詫び、己の浅はかさ、愚かさに唇を噛み締めても、負うてくれている人は、もういらえを返してはくれない。
その切なさ、遣る瀬無さに、せめて温もりを求めて背に顔を埋めかけた時、それまで、まるで怒りを形に変えたように荒く刻んでいた土方の歩みが、幾分緩められた。
「護り袋を、おゑいに渡せたのか?」
まだ口調に優しさを籠める事は出来なかったが、そう告げた寸座、慌てて面輪が上げられた気配に、土方は唇の端に苦い笑みを浮かべた。
「土方さん・・・おゑいさんのことを・・」
それを聞いて良いのか戸惑いながらも、遠慮がちな声が問う。
「あの女の名がおゑいだと云う事は、参次から聞いた。だがその前に、擦りきれたみすぼらしい護り袋の持ち主を探しに来た、変わり者の事は覚えてはいるだろうさ」
己を笑う言葉に、漸く物言いを柔らかくしながらも、あの護り袋の主を探し出さねばならなかった経緯を思い起こせば、それは未だ土方を、衝撃と戦慄の坩堝に堕しめる重い出来事だった。
「・・おゑいさん、びっくりしたみたいだった」
その土方の思いを知らずして、安寧の時へと、少しずつ溶け行く安堵感に、総司の声音から硬さが抜ける。
しかし同時に、背にある温もりを確かなものとして聞き入る土方も叉、今総司の胸の裡を占めている、あまりに切ない心情を知らずにいた。


あの時。
国分から事情を聞かされ、参次と会うまで、そして参次から託された護り袋を、おゑいに渡すまで。
常に誰かに見られていた気配を、否、それが山崎である事までを見抜きながら、総司は敢えて知らぬ振りを貫き通した。
山崎が土方の指示で動いている事は、百も承知だった。
そして自分が参次とおゑいに係わる事が、否が応でも、土方を忌まわしい過去へ遡らせる結果になる事も。
それでも知りたかった。
どんな怒気を蒙ろうと、土方の想いの丈を知っておきたかった。
いつか置いて行かれるその時、それを棘の縄手にし、行ってくれるなと袖を引き足枷となるばかりの自分を、雁字搦めに縛りつける為に――。

だが漸く巡り遇う事の出来た参次は教えてくれた。
目の前に現れた土方は、必死の相をしていたと。
そしてその実にあったのは、想う人間の為ならば、何をも厭わない靭さなのだと。
それは今、おゑいを想う自分と同じだからこそ分かり得るのだと。
あの川原で。
吹く風に髪を乱されながら、柔らかな笑みを湛え、おゑいは教えてくれた。
土方にとって、自分は弱みなのだと。
けれどその弱みを核に宿すが故に、土方は強気を纏っていられるのだと。


 先を行く足が負われた身体を揺らす度、まるでひとつ肌のように、背から伝わる温もりが身近なものになる。
それに励まされるよう、肩にあった指を少しだけ前に滑らせ、更に深く身を重ねても、土方は何も云わない。
――土方の、全てを知りたいと思った。
ひとつも知らぬ事など無く、貪欲に業深く、何もかも欲したいと念じた。
だが知り得た先にあったそれは、何と切なく何と狂おしいものだった事か・・・
別つ時を思い、自分の慄きだけしか見えなかった傲慢さを悔やむその代わりのように、総司は、土方の首筋に絡ませた腕に少しだけ力を籠めた。

「どうした」
その僅かな挙措が何を意味しているのかまでは分からずとも、総司の裡を揺らす感情の起伏を、背中で感じ取り問う声が不審げだった。
だが総司は応えられない。
今何かひとつでも言葉にすれば、胸にある想いの丈が、止まる事を知らず溢れ出てしまいそうだった。
「参次の事か?」
そんな心裡を知る由もなく、いらえを返さぬ主の頑固に焦れるように、前を向いたまま責める声には遣る瀬無い溜息が混じる。
が、その言葉が終わらぬ内に、土方の肩に伏せるようにして沈黙に籠もっていた総司が、漸く顔を上げた。
「・・・参次さん、独りで危険に跳び込もうとしている」
つい間際まで、己の裡に渦巻いていた想いを悟られまいと紡いだ声が、参次への懸念と相俟って、急(せ)くあまり掠れた。
「危ない橋を渡るのは、奴が決めた事だ」
「でもっ・・」
「離してしまった女の手を、今一度、奴は必死に探しているのさ」
「・・その手・・見つかるのだろうか・・・」
躊躇いがちに掛けた問いに、いらえは戻らない。
しかしその無言が、今参次が為そうとしている危険と、為し得る確率の低さを、暗に総司に知らしめる。

 四度目の縁(えにし)を頼りに、おゑいに渡して欲しいと護り袋を託した時、参次の面に浮んだ薄く柔らかな笑みが、何故か切なく忘れ得ないのは、あの時金色に染まりつつあった、夕間暮れ故の寂しさがさせたものなのか。
それとも唯ひとり想う人間の為に、全てを捨て去るに何の躊躇いも無い、強さ故の哀しさを、土方の裡にあるものと重ねて知ってしまった所為なのか――。
そのどちらとも分からずとも、今はどうしても参次を助けなければと・・・
そう焦りながら、酷くなる胸の痛みと、次第に視界を霞ませる程に高くなって来たらしい熱に、総司の意識はゆっくりと闇の淵へ沈んで行った。





 どんなに苛立とうが、焦れようが、一日に与えられた時の長さは、寸分たりとも違わず、几帳面に決まっている。
あれからふつりと姿を消した参次から、国分を通して新たな情報が入ったのは、総司が護り袋をおゑいに託された日から二日経った、既に夕刻近い頃合だった。

 局長の近藤は、腕組みをした姿勢のまま、畳みの節に目を落とし、半眼の体を崩さない。
その横で土方も叉同じようにしているが、此方は宙の一点に視線を定め、身じろぎしない。
同じように無言を通す両者であるが、しかし纏う気が顕著に異なるのは、近藤が、事に臨んで未だ腹を決めかねている躊躇の中にあるのに対し、土方のそれは、既に戦へと踏み込んでいる、鬼気迫る緊張感を有している所為なのだろう。

「今宵五ツ、先夜の集結先よりも二町ばかり北へ上がった、これも叉、今は無人の廃寺ですが、其処に浪士十数名が集り、中川宮親王様の山荘を襲うとの事です。奴等の動きは、参次が見張っています」
後ろに国分を控えさせ、近藤土方と対座して語る山崎の口調は淀み無い。
「局長、ご決断を」
「その参次とやらの話、信ずるに足るものか」
「足る」
山崎に促され、漸く面を上げた近藤が発した懸念に、即座に是と返したのは、意外にも、断言するかのように強い土方の声だった。
「何故分かる」
其処に含まれた真意を問う近藤の声が、訝しげにくぐもる。
「俺との、取引だからだ」
「取引?」
「そうだ、参次と取引をした。幕府の力の衰退を見せつける結果となった長州征伐は、厄介な事に、浪士達の士気をも煽り立ててくれた。そして勢いに乗じた奴等は、この京で何か事を起こそうと企て始めた。だがそうと分かっても、今ひとつの処で詳細までは掴みきれていなかった。それを、参次が手に入れた。そして参次は取引と云う形で、その情報を新撰組に売る代わりに、役座者の島に囚われている、奴の女の身を自由にしろと持ち掛けて来た。・・・その言い分を、俺は呑んだ」
「ならば参次と云う奴はどうなる。役座者の下走りとは云え、一介の素人が自らの身を危険の渦中に投じると云うのか」
真正面から問う近藤の実直さを、一瞬眩しいと思った己を自嘲しながら、土方は床の間の刀掛けへと視線を移した。
「奴にとって、全ては覚悟の上での取引だ」
少しの感傷も無く、冷たい程に淡々と云いきる怜悧な横顔を、近藤は暫し無言で見ていたが、それ以上言葉を引き出すのは無理だと判ずるや、すぐに山崎へ視線を移した。
そしてそれを待ち構えていたかのように、山崎の口が動いた。

「今までの情報は、賭場主・・いえ、先程副長が仰られた、役座者と申した方が分かり易いでしょう。・・その役座者の長が、賭場に使っていた場所を占領し始めた不逞浪士を、新撰組に一掃させようと目論み、流出したものです。要は自分たちの砦を、新撰組を使って取り戻そうとしたのです。無論、転んでもただでは起きない連中ですから、新撰組が手柄を立てた暁には、其れ相当の要求をして来るつもりだったのでしょう。そしてそやつ等からの使いが、参次と云う男でした。ですが今まで須らく、それらの情報が空(から)に終わっていたのは、隊内に潜伏していた間者の所為でした」
大方の事情は土方から聞いていたものの、今こうして改めて整然と経緯を説かれると、近藤にも事の信憑性が具体的なって来るらしく、山崎を凝視している厳しい顔が無言で先を促す。
「その間者につきましては、過日始末を終えています。更に此度の情報は、今まで上の命令で浪士の動向を探っていた参次が、初めて組織を裏切り、自分と新撰組との取引に使う為に、己ひとりで掴んだものなのです」
「浪士等の動向を探り、掴んだ情報を新撰組に売る。だとしたら、そやつ、二重に危険を犯していると云う事か・・・。今こうしている内にも、浪士に見つかれば斬られ、役座者達に裏切りが発覚すれば殺される・・」
一旦語りを止めた山崎に、それまで聞くに徹していた近藤が、険しい面持ちのまま重い口を開いた。
「参次は己の身など、疾うに捨て去っている。今奴を動かしているのは、ただ惚れた女への想いだけだ。が、だからこそ、信憑性は高い」
齎される情報の価値だけを評価する、一見冷ややかにも取れる言い回しの裏に、しかし参次とおゑいにまつわる自分の深い因縁を、この男にしては珍しく複雑な思いで見ている、土方の胸中を知る者はいない。
だがその土方の傍らで、まるでそれがひとつの決意の現れのように、近藤が組んでいた腕を解いた。

「五ツと云えば、もうあまり時が無い。山崎君、今動ける隊を集めてくれ。それから一番隊は永倉君が率いるよう伝えてくれ」
戦への一歩を踏み出せば、今度は現の時の経過が近藤を焦らせる。
頭を下げるや、すぐさま身を翻した山崎の後ろ姿の全てが視界から消える去るその前に、近藤自身も立ち上がった。

「・・・参次と云う輩、無事であれば良いが」
未だ動こうとしない土方を見下ろし呟いた、厳つい顔貌に似つかわぬ憂いを帯びた声が、室に重く響いた。
だが端正な横顔は、一言も応えを寄越さない。
しかしそれこそが、近藤の憂慮を、既に現実のものとして捉えている、土方のいらえに他ならなかった。
――或いは、参次は既にこの世の者では無いと。
そう無言で教える土方を、近藤は暫し峻厳な面持ちで見ていたが、やがてゆっくりと其処を離れ、振り返る事無く室を出て行った。





 
 人と云うものは、何の不自由も感じる事無く動いている時よりも、こうして臥せっている時の方が、はるかに神経が鋭くなるらしい。
自分の居るこの室の、まるで其処だけが時の流れを止めてしまったかのような、尋常で無い静けさは、総司の胸の裡をひどく落ち着かなくさせる。
それは病人の安寧を妨げないようにとの気遣い故なのだろうが、しかし今屯所全体を覆っている、戦に挑む前の、一種独特とも云える、高揚にも似た緊迫感までは隠しようがない。
そしてその事は、否が応でも、総司にひとつの事実をつきつける。
参次が齎した情報によって、新撰組が動く――。
それは理屈でも道理でもない、ひとつの勘に過ぎない。
しかし総司にとって、違えようの無い確信だった。


 床の上に身を起こし、息を乱さぬようゆっくり立ち上がると、僅かに足元が揺らいだが、それがしっかりとするまで待つ暇(いとま)は無い。
そのまま手早く身支度を整えると、袴の紐を結ぶ手すらもどかしげに廊下へ出た総司の足は、少しの迷いも無く或る一室へと向かう。

 やがて辿りついた其処は、物音ひとつさせる事も憚られるような、犯しがたい厳粛さの中にありながら、しかし屯所全体の昂ぶりを一手に引き受けるかの如く、漏れる灯りの一筋すら、煌煌と力強い。

「近藤先生・・」
しかし総司は、その静謐を、少しの躊躇いも無く破った。
一瞬、それまで張り詰められていた空気が僅かに動き、此方に歩み寄る人の気配がするや、いらえより先に中から障子が開けられた。
「総司、どうしたのだ」
目の前に立つ総司の形(なり)を見た瞬間、この愛弟子が、何を思い、何を望んでいるのかを瞬時に察した近藤の顔が、険しく強張る。
「参次さんの報が、齎されたのでしょうか」
だがそれにも怯まず、真実を問う深い色の瞳は、いらえを求めて瞬きもしない。
「一番隊は、永倉君が率いる。お前には出動の命を出してはいない」
確固不抜と云いきる強い口調は、今総司が叶えたいと願う希(のぞみ)に、決して諾と頷く事は出来ない、それが近藤の、慈しみゆえの厳しさだった。
「ならば私独りで行きます」
「ばかを云うなっ」
食い入るようにして見上げる瞳には、もうどのような言葉で諌め、どのように声を大きくして叱咤しても、頑として聞かぬ強さが宿る。
だがそれこそが、本人自身も気付かぬ、総司と云う人間本来の核を成す激しさだと知る近藤も叉、ここで負ける訳には行かなかった。

「お前はこの一件が終わったら、江戸に帰す」
「帰りません」
初めてその事を告げた時、総司の動揺は、見ている此方が切なくなるような激しいものだった。
しかし今、再び否と応える声音は、己の信念を貫き通そうとする強さで揺るぎ無い。
「自分の身体の事は自分で分かります。だから決して迷惑になるような事はしません。・・・参次さんを助けたいのです、近藤先生、お願いですっ」
厚い胸元に詰めよ寄らんばかりにして、総司は近藤に訴える。
しかしその必死を目の当たりにしながら、近藤の脳裏には、田坂から聞いた言葉が蘇っていた。

己の意志で動けなくなるその時が近づいた時、包み隠さず真実を教えて欲しいと・・・
総司はあまりに酷な約束を、医師にさせていた。
いつか剣の重みにすら負け天命尽きる時を、床に臥しながら迎える覚悟をなす、それが為に。
その切ない思いを知れば、胸掻き毟られるような哀れが、近藤を襲う。

「お前には出動させぬ、そして江戸に帰す」
それは剛毅にして懐深いと、仁厚い近藤を知る者ならば、これが本当に同じ人物かと思わせるような、冷たく、そして突き放した口調だった。
だが魂魄を振り絞るようにして告げたその一言が、果たして総司の核にまで届いたか否か――。
映すもの全てを透かせてしまう、ぎやまんのように凍てた瞳からは、推し量る事が出来ない。


暫し。
瞬きもせず、近藤を見ていた総司だったが、やがて色薄い唇が震えるように戦慄いた。
「・・・方さんの、傍らにいたいのです」

土方と共にいたいのだと――。
それまで針が落ちる音にすら神経を鋭くし、秘して来た禁忌を、今自ら破り言葉と云う形にしてしまった結果は、総司本人にとっても大きな衝撃だったらしく、近藤を凝視している面輪は、触れれば、その瞬間に音を立てて砕け散ってしまいそうに硬い。
しかしそれは叉、この愛弟子の先を案じるあまり、焦燥と懊悩の中にいた近藤にも、同じ事であった。
「・・歳と?」
掠れた、太い声が、ようやっと喉を通って空(くう)に散る。
今自分の齎せた、計り知れない罪に怯えるかのように、頷くと云うにも敵わぬ微かな挙措で是と応えながら、しかし総司は慈しみ育んでくれた師から、決して目を逸らそうとはしない。
「・・・土方さんと、一緒にいたいのです。いつか置いていかれても、土方さんを待っていたいのです。・・参次さんは、その長い時を支える為の礎を教えてくれたのです。だからっ・・」
「その事、歳は知っているのか?」
急(せ)く必死を止めたのは、低い、腹の底から絞り出すような声だった。
だがそれは憤ると云う激しい感情では無く、むしろ何処か切なさすら帯び、己の心の吐露に精一杯だった総司に、初めて相手を思う余裕を取り戻させた。
この大切な師を、自分は哀しませてしまったのだと・・・
現に戻れば、今度はそれが総司を追い詰める。
伏せた面輪を、もう近藤に晒す事は出来ない。

しかしその細い項を見詰めたまま、今近藤を苛んでいるのは、二人の間柄を薄々承知していていながら、問う事を恐れ、知らぬ振りを決め込んでいた、己の意気地の無さだった。
そしてもうひとつ。
近藤に無言を強いているのは、総司の口から真実を語られたその瞬間に、己の裡に漣立った、思いもよらぬ寂寞感だった。
――土方と総司。
この二人を見ていれば、既に兄弟と云うには無理からぬ強い絆があった。
もしもそれを恋情と云うのならば、或いは自分は、その唯一無二の絆を断たせんが為に、総司を江戸に帰そうとしたのかもしれない。
幸薄いこの愛弟子には、相手の言葉ひとつ、動きひとつが齎せる、どんな些細な感情の波にも揺らされる事無く、健やかで穏やかな日々を送らせてやりたいと・・・
そう願うが故に、二人の間にあるものを知りながら、それを認める事を拒んでいたのかもしれない。
だが現実は、その切願をも容赦無く拒む。


「もういい総司・・顔を上げろ」
己の心の隅に暗い翳を落していた正体と向き合い、つと漏れた深い吐息に、総司の身が僅かに震えた。
やがて躊躇うように上げられた面輪の硬質さは、先程と寸分も違わない。
「お前にそんな顔をされると、俺が辛くなる」
「・・すみません」
小さな笑みと共に告げられた途端、折角上げられた面輪は、叉直ぐに伏せられてしまう。
「歳との事は、時をくれるな?」
諭すように問う口調は、試衛館で稽古をつけてくれていた頃の、厳しくも優しい師のものだった。
その声に促され、再び視線を戻し近藤を捉えた寸座、頬を滑り落ちるものを、総司は慌てて手の甲を押し付け止めた。
土方と自分との絆――。
今まで秘めてきた心の裡を、隠すこと無く近藤に見せたその事は、磨り減るような神経の消耗と、激しい感情の昂ぶりと云う両極端を総司に強いたようで、それについて行けない己に焦れ、総司は乱暴に目を擦る。
「泣くな」
そしてそれを宥めるように、近藤の武骨な指が蒼白い頬に触れ、今だ止まらぬ雫を拭った。

「参次・・と云ったか。くだんの輩。そやつ、確かにお前にとっては、大事な人間なのだろう。だが新撰組は組織だ。個人の勝手な行動振る舞いを許す訳には行かない」
「ならばっ・・・ならば新撰組を離れてっ・・」
「落ちつけっ」
強く掴めば骨まで砕けてしまいそうな薄い肩に触れ、焦燥を諌める声は殊更太い。
「お前は、山崎に預ける」
そして続けられた唐突な言葉に、深い色の瞳が、一瞬不可解そうに近藤を捉えた。
「捕り物に手を出す事は許さん。が、今宵の出動に、監察方と共に行動する事は許す。但し、お前の身体の具合が皆の支障になると山崎が判断した時は、其処で仕舞いだ。お前は即刻屯所へ戻る」
「近藤先生っ・・」
拒むこと一切を許さぬ、新撰組局長としての厳しい物言いであったが、総司の瞳が見開かれ、端麗な線を描く唇から放たれた声が震えた。

――常にその核に焔のような激しさを宿しながら、そうである己の本質すら知らぬこの者が、初めてぶつけて来た感情の奔流を受け止めてやりながら、しかし近藤は、知ってしまったが故に、叉ひとつ増えてしまった己の困惑と懊悩に、どう向き合うべきか・・・
血管(ちくだ)すら透けさせてしまいそうに、色の失い頬を硬くしている愛弟子の横顔を見詰めながら、胸の裡で、もう幾度目かの深い息を漏らさずにはいられなかった。





「苦しいのではありませんか?」
山崎の鋭すぎる観察眼は、総司のどんな些細な変調をも見逃さない。
「大丈夫です」
だが息を言葉に変えると云う、たったそれだけで、錐で揉まれるような胸の痛みを悟らせまいと応える声は、否が応でも低くなる。
――今総司の瞳が据えているのは、闇の中に、更に色を濃くして存在を誇示している、要塞とも云って過言で無い、頑健な建物だった。
そしてその中に、参次がいる筈だった。
しかし瞬きもせず凝視している蒼い横顔を見詰めながら、山崎は、つい先程まで己の目の前で繰り広げられていた、この若者に対する二人の人間の葛藤を思い起こさずにはいられない。

 今回総司に許した、局長としての決断を近藤から告げられた時、土方は何も云わなかった。
そればかりか、更に何かを云いかけた近藤の口を封じるかのように、無言のまま踵を返した。
作り出されたしじまは、一瞬とも云える僅かなものであったが、しかし互いの胸中を知り、其処に去来する思いの丈を推し量れば、それは限りなく長い沈黙の時でもあった。
去り行く土方の背を、座したまま一言も発せず送る近藤の苦悩を、山崎は、伏せた目の奥に仕舞い込んだ。

「じき、出動の命が下されている隊が到着するでしょう」
が、そんな似合わぬ感傷に囚われた己を自嘲し、打ち捨てるかのように告げた山崎の声は、押し殺したものであっても良く透る。
 今回の指揮官である土方は、浪士達が潜んでいる廃寺に、他に先駆け、見張りと云う名目で山崎と総司、そして伝吉を向かわせたものの、出動隊が到着するまでは、一切の行動を禁じていた。
山崎の言葉は、その事を踏まえ、総司の焦燥を鎮めんとしたものだった。

「・・・山崎さん」
だがひたと一点を見詰めたまま、闇に仄白く浮き上がる硬質な横顔が呟いた。
「何でしょう」
直ぐに戻ったいらえに、漸く総司が振り向いた。
「変だとは、思いませんか?」
「・・変、とは?」
「あまりに静か過ぎる。いえ、まるで何かが全てを包み込んで、物音ひとつ立てさせていないような・・・」
「あの中には、十数名の浪士が、これから事を起こそうと潜んでいるのです。それを考えれば、尋常では無い静けさも、当然の事と思いますが」
総司の訴えたい事など、疾うに気付いている程には勘の良いこの男は、あくまで白を切りとおす。
「だとしたら、その昂ぶりのようなものも、同時に伝わって来る筈です。けれど今感じるのは、もっと重くて陰湿な・・・」
言葉にする事で曖昧な感覚を整理するかのように呟いた時、総司の瞳が突然上げられた。
「参次さんっ・・」
鋭い声を発したのと同時に、咄嗟に立ち上がろうとしたその動きは、しかし肩に置かれた強い力に封じられた。
「じき副長と出動隊が到着します。それまで私達は、一切行動に移す事を禁じられています。私は沖田さんを局長からお預かりしました。全ては、私の指示で動いて頂きます」
強張った面輪に臆する事無く、非情とも思える怜悧さで、山崎は告げる。
「・・・参次さんと、他に何か約束があったのですか・・」
漸く其処に気付いた己の甘さ愚かさに、問う声が震える。
その総司を、山崎は暫し無言で見詰めていたが、やがて建物に視線を移すと、闇に沈めるような静かな口調で語り始めた。

「今回の浪士集結についての情報は、参次自身から齎されたのは、先に話したとおりです。そしてその時の交換条件として、あやつの女の身の開放を、副長は約束されました」
「それは、おゑいさんを助けると云う・・・」
「そうです」
建物から離した視線を総司に向け、山崎は浅く頷いた。
「そして必ずや勝たねばならない最後の勝負に、参次は己の身を形代に打って出たのです」
堅く唇を閉じたまま、先を促す凍てついた瞳には、今何が映っているのか・・・
それに知らぬ振りをして、山崎は続ける。

「浪士等は、宵五ツ半までには、全員が集まると云う事でした。そしてその半刻後、中川宮親王様の山荘を襲撃する。ですがそれまでには、暫し時があります。その間万が一、我々に今回の件が漏洩したと分かれば、奴等はその場で霧散するでしょう。それゆえ、浪士全員が集結した事の確認を終え、それを国分を通じて我々に伝え、尚且つ新撰組が到着するまで、奴等を逃がさぬ楔となる事を、参次は約束したのです」
「・・・楔」
「そうです。あの廃寺の一番奥の書院が、賭場として使われていました。ですから造りは当時とは大幅に変えられ、入り口は一見分かり難いように隠されており、狭く頑丈な板戸一枚だけで、外と隔離されています。其処に集まった浪士を、一人たりとも外には出さない・・・それを参次は、取引と云う形で申し出たのです」
「けれどもしも、遅れて来た敵に外から襲われたらっ・・」
言葉よりも先に、再び立ち上がろうとした身を、今度は先ほどよりもずっと強い力で山崎は押し止めた。
「私達は新撰組が到着するまで、動く事は出来ません。これは局長命令です」
淡々とした語り口でありながら、諾とのいらえ以外は一切拒む声が、総司に迫る。
瞳を見開き、更に強張りを増した白い面輪を双眸に映しながら、しかしそれにすら心動かされぬように、山崎は静かに建物に視線を戻しかけた。
だがその寸座、総司の身が空(くう)を裂くような鋭さで、後方に向けられた。

まだ何も見えず、何も聞こえぬ闇の中。
「来られたようです」
伝吉の、低く、しゃがれた声が、待ち望んでいた者達の到来を告げた。
その刹那――。

「沖田さんっ」
今度は山崎の制止も間に合わず、咄嗟に放たれた叫び声だけが、暗黒に消え行こうとしている背を追った。








きりリクの部屋   煙雨U(八)