行く末遠く霞たち
                      雫滴るも知らずして
                   草露(そうろ)の如き息の緒を
                   掌中に包みて我煙雨に濡れる




                 10000御礼       長月司さまへ





                      煙 雨 -enu- (壱)




ついに堪えられず、闇の中で仄かに浮かぶ蒼白い喉首が弓なりに仰け反った。
ゆっくりと焦らされ追い詰められた身体はもう昂ぶりの証を隠せず、悦びの欠片ひとつも逃すまいと、縋りつくように上に重なる者の背に回していた右手の爪を立て、足の指先までをもしならせた。
だがその寸座、内に迎え入れ解き放たれる筈の熱の持ち主は、合わせた肌から体を浮かせ、できた隙から触れる外気の冷たさに、固く閉じられていた総司の瞼が僅かに開いた。

「・・今日は無理だ」
先程から滲み零れるものを止められずにいた瞳が潤んで、声の主を見上げた。
それを慰撫するように、眦に溜まった露を、土方は静かに舌先で拭った。
不安と戸惑いの交差する様を隠すこともできず、さりとて官能の火種を付けたまま放り出す残酷を咎めることもできず、土方の心を掴みかねた総司の瞳は行き場を求めて大きく揺れる。

「身体が熱い」
そう告げても、見つめる面輪は意図する処を判じかね、仕舞には怯えの色すら湛えようとする。
「熱がある・・・」
宥めるように言って聞かせ、うっすらと汗ばむ額に唇を寄せれば、やはり常より熱いそれが伝わる。
だが次の瞬間、土方の背に回されていた総司の腕に、ある限りとも思える力が籠められ、その勢いのまま強く縋り付いて来た。

それがつれない仕打を精一杯責めている、言葉にしては伝えられぬのであろう想い人の心だと思えば、胸に募るのはどうしようもない愛しさだけだ。
さりとて想いのまま情を交わせば、この腕にあって唯一自分を安堵させてくれる温もりを持つ身は、強いられた無理に抗議の悲鳴を上げるだろう。
壊れかけたぎやまんのような総司の脆い肉体は、常に土方に戦慄と恐怖をつきつける。



昨年暮に一度戻ったのも束の間で、局長の近藤勇が参謀の伊東甲子太郎等と共に、再び長州に下ったのは年が明けたばかりの先月睦月半ばの事だった。

近藤不在の留守を預かるという責は、もしかしたら想像以上に自分に緊張を強いていたのかもしれない。
そんな様子を機敏に察して負担を掛けまいと、総司が最近ずいぶんと無理をしていたのは承知していた。
口では煩く咎めながらも、明るい笑い顔を見ていればそれ以上諌める事をせず、又そういう自分を見てみぬ振りをしていた事を土方は知っている。
そしてそれは総司が常に健やかであって欲しいという、己の心にある甘えだということも。
だがこうして想い人の身体に籠もる尋常でない熱さを知れば、激しい後悔と自責の念だけが土方を苛む。


「何もしない」
沈黙の中に潜んだまま自分の肩口に伏せた顔を上げようとしない仕草が、総司のせめてもの抗いと知りつつ、土方は容赦無く言い切る。
それを告げる自分の方が如何ばかりに辛いか・・・
物言わず縋りつく手を解こうとしない想い人は知っているのだろうか。

「明日、田坂さんに来てもらおう」
そんな自分の辛抱など知るはずもなかろうと心裡で苦笑しながら、更に続けられた言葉に、総司が弾かれたように顔を上げた。
「・・・田坂さんの処になら今日行った」
隠し切れない動揺が、声にも瞳にも無残な程に現われていた。
「嘘をつくな」
俄かに厳しい声音に、総司の視線が一瞬そがれ虚ろに彷徨った。



毎月一のつく日に、総司は主治医の田坂俊介の元に診察を受けに通っている。
それが仕事の都合で一日ずれたりすることは侭あるが、今日は非番で昼過ぎに屯所を出て行く背を見送った。
そして日暮れる前には戻り、田坂の家にある梅が他より一足早く花をつけそうだと、楽しそうに語って聞かせた。

だがそうして繕った嘘を、今土方は容易に見抜いた。
総司が田坂の処に行かなかったのは、行けない理由があったからだ。
それはとりもなおさず自分の身体の不調を指摘され、ひいては休養を取るようにと宣告されることを恐れからに違いない。
若い医師は患者の病と闘う為ならば、何事にも怯まぬ厳しさを持っている。
そして何よりも・・・
そこまで総司が身体の不調を隠していた事に気づかずにいた己の不甲斐なさに、土方は臍を噛む思いだった。


「嘘は許さん。明日田坂さんに来てもらう。お前はそれまで謹慎だ」
「・・・謹慎?」
縋っていた腕に籠めた力が、たじろぐように僅かに緩んだ。
「今日行かねばならなかった処に行かなかった罰だ」

揶揄するように言いながらも、土方の裡にある不安は益々膨らみ、治まる処を知らない。
触れた肌から伝わるのは、温もりとは言えない熱さだ。
それでいながら抱(いだ)いている総司の背は、時折小刻みに震える。
悪寒が走り始めているのだろう。
こんなになるまで気付かず、尚も我が身を受け容れさせようとしていた業の深さが、今更ながらに土方には疎ましい。

「田坂さんの処には自分で行く・・だから・・」
懇願はその先を紡ぐ事を許されず、咎を下すように降りてきた唇に強引に塞がれた。
だがそれはいつものように、息も止まるかと思われる程長いものではなく、壊れかけた肺腑を労わるように、触れ合ってすぐに解放された。
まるで言葉だけを摘み取る為だけのもののように、ほんの束の間の抱擁だった。
ゆっくりと離れてゆく征服者の唇を、総司はまだ戸惑いの中でぼんやりと見つめている。


「それにしても今日は何処へ行っていた?」
自分を映し出す瞳が不安に揺れるのを鎮めるように、問う声音は先程よりは穏やかだった。
だがそれにも視線を逸らせて応え無いのは、ついた嘘を咎められた事への総司の後ろめたさなのだろう。
「まだ俺に隠し事をするつもりか?」
「違う」
慌てて上げた瞳が、これ以上土方の心が離れる事に怯えていた。
「・・・違う」
更に偽りを重ねるのは、総司の気質では難しすぎたようで、つと漏らした呟きが、気弱な心を映していた。

「何処へも行く当ても無く屯所を出たにしては、ゆっくりの帰りだったな」
田坂の診療所へ行かなかったのだと改めて知れば、今度はその間に総司の身に在った出来事が気になる。
何処までも想い人を欲して尽きない己の強欲さに、土方は心裡で苦笑した。


「小川屋さんの前を通りかかった時に・・」
諦めた風に語られ始めたそれは、まだ躊躇いの方が大きいらしく一度語尾が消えかけた。
「田坂さんの処に行こうと云うつもりはあったようだな」
意地の悪い問い掛けに、それまで伏せがちだった瞳が、少しだけ勝気な色を湛えて土方を捉えた。

「始めは行くつもりだった・・けれど」
「けれど?」
「ふいに奥から出てきた小川屋さんに呼び止められたのです。・・それに気を取られて前から走って来た人を除けきれなくって・・」
「ぶつかったのか?」
何の衒いも無く頷いた総司だったが、それは聞くものにとっては腑に落ちないことだった。

この若者の剣の天稟は、持って生まれた俊敏さによる処が大きい。
その総司が避けきれなかったとは、どういう状況だったのか・・・
土方の思考はそれに占められた。

「相手はどんな奴だった?」
詰問するような口調に、初めて総司が小さく笑った。
「何が可笑しい」
「だって土方さんのは、もう相手が敵だとでも言うようだ」
邪気無く笑われて、土方も少しばかり先走っていた己の神経の過敏さに苦笑した。

「相手の人はとても急いでいたのに・・・申し訳ないことをしてしまいました」
漸く明るくなりつつあった声が、ふいに又沈んだ。
足を急(せ)かせていた人間の邪魔をした事に、総司は心を痛めているのだろう。
「ぶつかったのは相手も悪かったのさ、お前が気に病む事は無い」
そう決めて断言するような強い物言いに、ついに総司の唇から微かな笑い声が漏れた。


昔からそうだった。
いつもいつも土方は己の行く道を信じて疑わない。
だからこの人の言葉に頷き、導かれるままにしていれば、迷う事などひとつも無かった。
土方のくれるたった一言で、自分は少しも揺るぎない安堵の中にいられた。
そして今もそれは変わらない。


「土方さんは強い」
胸に満ちる思いを言葉にして告げた自分を、怪訝に見下ろす眸に、総司は更に笑いかけた。
「それは皮肉か?」
「違う」
浮かべた笑みはそのままに、応えは間髪を置かなかった。
「強いから、いつも背中を見るだけで安堵できた」
首筋に回されたままだった腕に、叉少しだけ力が籠められた。
愛しい者のそんな仕草に一瞬溺れかかった自分を、だが土方は辛うじて堪えた。
一旦不調を知ってしまえば、隙無く重ねた総司の肌から伝わる熱さの方が今は胸を騒がす。

抱いていた背を一度夜具の上に降ろし、褥にしていた夜着で身体を包(くる)んでやると、総司が不思議そうに見上げてきた。
「辛いのならそう言え」
見つめる先にある瞳が潤んでいるのは、帯びた熱がさせているのだろう。
「どこも辛くなど無い」
応えて笑った顔には少しの翳りも無い。

だが頑なに首を振る総司の心にあるのは、こんな風に土方を不安にさせる自分の身体への、遣る瀬無い憤りだった。
そしてそれよりも辛いのは、こうして土方に抱かれていれば、一度は鎮まった昂ぶりが、今一度疼き出すのを堪えることだった。
こんな自分を知られるのは羞恥に耐えない。


「・・・ぶつかってしまったのは若い男の人で、その拍子に手にしていた箱が地面に落ちて中の物が散らばってしまって・・」
密やかな欲情を悟られまいと、それを隠しみのに突然語り出した総司に、土方は何を応えて良いのか判じかね、暫し黙し、次の言葉を紡ぎ出す形良い唇を見つめている。
「拾うのに難儀してしまったのです。終いには見るに見かねて小川屋さんや手代さんまでが手伝ってくれて・・・」
その時を思い出したのか、総司の面が穏やかに緩んだ。
「その男、一体何を持っていたのだ」
普通に考えて、若い男がそれほど細かい荷を持っているとは思えない。
土方の疑問はそこの処に行き着いた。

「小間物を商っているそうです。それで簪やら紅やらがあちこちに・・・。古い木の箱だったから、箍(たが)が緩んでいたらしくて・・」
ぽつりぽつり話す総司は、今瞳に残る、乾いた土の上に散らばった色彩の妙を楽しんでいるかのようだった。
「それは小川屋も、お前のお陰で大変なことだったな」
呆れたような口ぶりも、残影に心捉らわれている想い人には届かない。

「あとでお礼を言わなくては・・」
だが土方の言葉に、記憶を手繰り寄せる作業に気を取られていた総司が、急に気づいたように几帳面に呟いた。
「どうして?その場で礼をしてきたのだろう?」
「全部を集め終わって、それでお詫びをしてその人が去ったすぐあとに、小川屋さんが足元に落ちていた護り袋に気がついたのです」
「それもそいつのものだったのか?」
「分からない・・けれどきっとそうだと思って・・」
「追ったのか?」
些かうんざりとした土方の口ぶりだった。


総司の行動は手にとるように分かる。
きっと小川屋の足元にあった護り袋がその男のものだと判断し、咄嗟に後を追ったのだろう。

「どこまで行ったのだ」
「・・・そう遠くでは無いけれど」
戸惑いがちな声は、上から見下ろす視線の主の機嫌を伺うように小さい。
それが即ち自分を呆れさせる応えの伏線なのだろうと、土方は諦めの息をついた。
「その人はずいぶんと足の早い人で、追いかけている時は分からなかったけれど、気がついたらもう御所に近い処にまで来ていた」
自分で言いながら、いつの間にか総司は可笑しそうに笑っている。
「挙句追い人は見つからず、お前は田坂さんの処にも寄らずに帰ってきた訳か」
ひとつ低くなった声の不機嫌さを感じ取ったのか、総司の面から浮かんでいた笑みが急に消え、再び瞳が不安定に揺れ動いた。

寒風の中を走り回り、疲労が溜まっている身体を無理させれば、どうなるかはおのずと知れる。
風邪のひとつが命取りになる宿痾を胸に抱えながら、この想い人は己の身体に、時に自分を激昂させる程無頓着になる。

どうして総司は自分の手からすり抜けようとするのか・・・
いっそ何処にも行けぬように縛り付け、動けなくしてしまえば、自分は幾らかでも安堵することができるのか。
詮無き思いと知りはすれ、それでも今また土方の胸の裡は激しく粟立つ。


「・・・護り袋、きっとその人が大切にしているものなのです。それだけが古いものだったし・・だから早く返してあげなくては・・」
そうしたいのだと切実に訴える言葉が、厳しい双眸に見据えられ、最後は言い訳のようにくぐもった。
「護り袋など何処にでもある。お前は良いと言うまで禁足だ」
乱暴に会話を打ち切るような言葉に、咄嗟に上げた瞳に映る土方は憤りを露にし、向けられた視線の突き刺すような険しさが抗いの言葉を許さない。
だがその怒りの理由が、総司にはまだ分からない。

「何処にでもあるものじゃない、きっとあの人にとって・・」
「俺の言う事が聞けないのかっ」
湧き上がる苛立ちのままにぶつけられた、激しい叱責だった。
その刹那、土方の腕にある頼りない身体に、雷(いかづち)を受けたような緊張が走った。
だがそれを知っても、一度堰を切った激昂は収まらない。
更に強く責めたててしまいそうな心を漸く堪え、むしろ自分自身を落ち着かせるように、土方は総司を抱く腕に力を籠めた。

「・・・すまなかった」
怯えからまだ抜け出せずにいる想い人にそれだけを告げると、重ねていた体を静かに離した。
「熱が高くなった・・」
額に落とされた唇の感触に、微かに身じろぎはしたが、総司はまだ強張りを解けずにいる。
「明日は早い内に田坂さんに来てもらおう」
物言わず、瞬きもせず凝視している瞳を敢えて見ずに、土方は夜具を抜け出て立ち上がった。
「熱さましを持って来る」

半身を起こす衣擦れの音がし、自分を追う視線を背中で意識しながら、しかし土方は振り返らず襖の外に出ると、後ろ手で音をさせずに桟を桟を合わせた。



息を詰めるようにして見つめる襖の向こうに、遠くなってゆく土方の温もりが、自分の皮膚と一枚のもののように、まだ肌に残っている。

どうしていつもこんな風に怒らせる事ばかりをしてしまうのか・・
だがそんな自責の念に己を浸す間もなく、忘れていた悪寒がふいの隙をついて背筋から這い上がって来た。
更にそれに触発されたように、容赦なく込み上げた咳を、ついた片手で身体を支え肩を震わせて堪えた。
ようよう息が吸えるようになって荒い息を繰り返しても、独り残された寂しさの方が余程に胸に辛い。
情けなさと遣り切れなさで夜具の端を握り締め、総司はきつく唇をかみ締めた。




天道が一番高い処に昇りきるまでの陽射しは、まんじりともせずに夜明けを迎えた目には痛くしみいる。
避けたくとも南に面したこの室は、障子を通して尚まばゆい光に溢れ返っている。
それを遣り過ごすように身体を壁側に向け、総司は瞳を閉じた。

空気の明るすぎる様が、昨夜土方からきつく戒められ、こうしてひとり床に伏す身には疎ましい。
だが身体は水を含んだ綿のように重く、昨日までの無理を正直に訴え、寝返りを打つのすら億劫になる。
時折道場のある方角から聞えてくる健康な者達の力強い掛け声が、ひどく神経に障る。
病んでいるのは身体ではなく、精神なのかもしれない。

そんな自分から目を背けるようにふと瞳を向けた枕辺に、昨夜あれからもう一度見て仕舞い忘れたままにしていた小さな護り袋があった。
つと左の手を伸ばし、袋の先についている紐に指を絡ませ手繰り寄せると、総司はそれを暫し眺めていた。

余程古いものなのだろう。
護り袋は掌に納まる程に小さく、布のあちこちはすり切れ、決して見栄えの良いものではない。
だがそれだけに持っていた人間が、大切にしていたのだと偲ばれる。
それでもこれが土方との諍いの原因になったのだと思えば、今の自分には少しだけ恨めしい。
他人の真摯な心の現われである小さな護り袋にまで当たらねばならない勝手加減に愛想が尽き、総司は遣る瀬無い息をひとつついた。

暫くそうしてぼんやりと手のひらのものを見てはいたが、その内此方にやってくる殺気の無い人影を感じ取り、左の肘を支えに大儀そうに身体を起こした。


「・・・八郎さん?」
確かにその人と違えるはずは無いのに、開けられた障子の間から入ってくる陽の眩しさに、総司は瞳を細め声にして確かめた。
「具合が悪いのだって?そのままでいい」
およそ殺風景な室の真中に延べられた夜具の上に、上半身を起こしかけようとしたのを、八郎は言葉で止めた。
「何でもない」
そんな八郎に笑いかけながら、応え終わった時には、すでに総司は居住まいを正していた。
「何でもなけりゃ、あの人はあんなに不機嫌じゃいないだろうよ」
八郎の言っているのが、土方の事だとは瞬時に察せられた。
途端に、天道が雲間に隠れ射していた陽が翳るように、総司の面から浮かべていた笑みが消えた。
「・・・昨夜、怒らせてしまったから」
不意に調子を落として瞳を伏せた仕草が、つい今しがたまでの気丈な振るまいと相反して、総司の心にある気弱な本当を物語っていた。


土方と言う男は、今目の前で揺れる思いを隠しきれないでいる自分の想い人の全てを占め、其処に存在せずとも常にその心を意のままに動かす。
それをこうして目の当たりにすれば、俄に胸が騒ぐのを堪えられない。
だが自分に向けられたいつにも増して蒼白い顔が、迸り出そうになる想いよりも先に、八郎を言い様の無い不安の坩堝に浚った。
そんな心の深憂がさせたのか、我知らず延びた手が総司の頬に触れた。


「お前、本当に大丈夫なのか?」
「何が?」
予期せぬ八郎の挙措に狼狽しつつも、黒曜石の深い色に似た瞳が不思議そうに見上げた。
「とても良いとは思えない顔の色だが・・・」
「土方さんが大げさすぎる」
総司自身を覆うように広がる光の輪の中にいて、何の不釣合いも無い明るい笑い顔だった。
が、陽に透かせてみれば言葉とは裏腹に、頬にある尋常でない蒼さが一層際立つ。
それは総司の身体にある血潮の全てが何処か一箇所に集められ、だから皮膚に映る余分な血の色は無いのだと、見る者を酷く落ち着かなくさせるものだった。

「寝ていた方だ良いだろう」
たったそれだけで自分の胸の裡にある、言葉では到底及びそうに無い危惧を払拭できる筈も無いと承知で、それでも八郎は他にこの焦心を鎮める術を知らず、総司の頬に触れていた手を薄い肩までずらし横になるよう促した。
「大したこと無い」
それに間を置かず八郎の耳に返って来た総司の応えだった。
「その判で押したような返事を、一度素直にさせてやりたいものだね」
だが溜息さえつきかねない八郎に抗おうと、唇を動かしかけた総司の視線が、ふいに逸れてその先に据えられた。
「お前が怒らせた相手も同じ事を言うだろうよ」

口をついて出た言葉が、自分を通り過ぎ、すでに恋敵へと瞳を向けているつれない想い人への皮肉か、或いはそんな事を思う己への自嘲か・・・
八郎はすでに其処まで来ている土方の気配に、全ての神経を注いでいる総司を見ながら苦笑した。



「昼過ぎには来てくれることができるそうだ」
入ってくるなり発せられた一言が、田坂の事だとは瞬時に察せられた。
「誰がだい?」
それでも八郎は敢えて問い、面白そうに土方を見上げた。
「今はこいつの苦手な相手さ」
すぐ枕辺まで来ても座り込む様子も無く、土方は不機嫌な声を隠しもしない。
「あんたも気の休まる時が無くて気の毒な事だな」
そんな二人の会話は当然聞えているのであろうが、総司は伏せたまま瞳を上げず、土方も八郎も見ようとはしない。


土方はまだ怒っている。
何かを言わなくてはならないとは、十分に承知している。
だが今自分に注がれている視線を、真正面から受ける勇気が無い。
つい左の指に絡ませていた護り袋の紐を手の内に手繰り寄せたのは、そんな弱さから逃れようと、心がさせた無意識の所作だった。
だがそれを土方は目聡く見つけ、一瞬眉根を寄せた。

「それがお前のお節介の元凶か」
「お節介だなんて・・」
やっと上げられた細い面輪が、微かに責める色を浮かべていた。
「その護り袋、捨てろ」
思いもかけぬ厳しい叱責に、総司の瞳が見開かれた。


言葉を忘れたように自分を見つめる総司に視線を留めながら、どうしてそんなことを言ってしまったのか、土方は自分自身にも分からない無性な苛立ちの中にいた。

護り袋を持っている限り、総司は又持ち主を探しに行こうとするに違いない。
ひび割れた、ほんの些細な切欠で脆く崩れ去ろうとしている身体を、是ほど恐怖している自分の思いなど知らず、あてなく寒風の中を歩き回るのだろう。
それを思う今の土方には、小さな護り袋すら、自分から唯一の者を奪ってゆく不吉な証にしか映らない。


総司は暫く呆然と土方を見上げていたが、やがて貝のように固く閉ざされていた唇が微かに動いた。

「・・・嫌だ」
凍りついたような瞳に強い意思の色が湛えられ、たった一言呟いた時には、真っ向から土方の険しい視線を跳ね返していた。
いつの間にか指は掌の内に折られ、小さな袋はその中に隠れるようにしてある。
それがまるで、自分から必死に護り袋を庇っている総司の心のように土方には思える。

「総司っ」
思わず声を荒げ、怒りのままに感情を迸らせる自分を、土方はもう止める事ができない。
「落とした人はきっとこれを探している。だからどうしても・・」
「勝手にしろっ」
縋るような懇願は怒声に遮られ、端座したまま見上げていた身が一瞬退くように怯んだ。


「土方さんっ・・」
荒々しく向けられた背が出て行こうとするのを止めようと、総司の腕が無意識に伸ばされた。
だが必死の思いに応えたのは、振り向いて欲しいと願った人ではなく、己の内から喉を焼くように込み上げて来た熱いものだった。
急に動かされた身体は、初め小さな咳で総司の肩を震わせた。
それを堪えるように咄嗟に口元に手を当てた時、指の隙間から零れ落ちた、見るもまがまがしい朱の色が、瞬く間に手首まで伝わった。
瞬時に顔の色を変えた八郎に、総司自身もまだ自分を襲った状況が判断できなかったのか、一度瞳を向けたが、次の瞬間薄い背が大きく波打った。

「おいっ」

異様な気配を感じて土方が咄嗟に振り向くのと、室に満ちる明るさを一気に闇の淵に変える、空(くう)を真っ二つに別つような、八郎の鋭い叫びが響いたのが同時だった。



土方の驚愕に開かれた双眸に、常に恐れていた事柄が現となって映っている。
だが一切は信じられない程ゆっくりと、膜を透したように視界の中で移り行く。

自分の名を紡ぐ筈の想い人の唇から溢れ返る液体は、止めようとする手指の間をすり抜け喉首に滴り、その勢いのまま、白い夜着の襟から胸元までをも鮮やかな朱の色に染め上げて行く。
それだけでは飽き足らず、畳の上にもみるみる朱い輪が広がる。
それは総司の身体に血の一滴を残すことも許さぬような、夥しい血潮の流出だった。



あのままでは総司の息が止まってしまう。

駆け寄らねばと思う足は、枷(かせ)をされたように動かない。
音も声もしている筈だが、その全てが土方の耳には届かない。

誰かの手が総司の肩に触れている。
あれは伊庭のものなのだろうか・・・
そんな事をぼんやりと思った瞬間、今にも崩れそうにいた総司の身体が大きく揺らいで前に傾(かし)いだ。
それを追って、まだ流れるをやまない朱いものが、舞う花弁のように宙に散った。
沈み行こうとする身体が八郎の腕に捉えられ、その像が眸から脳裏にまで達する前に・・・


「総司っ」

金縛りのように一切の動きを封じていた呪縛を破ったのは、内にある全ての力を搾り出すような土方自身の壮絶な叫び声だった。









           きりリクの部屋      煙雨(弐)