煙 雨 -enu- (弐)




血溜まりと・・・
それは言って良いのだろう。
まだ井草の香りのする、替えたばかりの青い畳も、抱きしめている身に付けている白い衣も、そこに色あるものの全てを朱に染め変えてしまったような、あまりに夥(おびただ)しい血の量は、それが全て総司の内から出たものであると思えば、見ている者を恐怖の淵へと足元から浚う。

「総司っ」
呼んで頬に触れても、閉じられた瞼は凍てついてしまったかのように、僅かにも動かない。
その面は、身体にある血を残さず外に押しやり、それだから皮膚に映る色はもう何もないのだとでもいう風に恐ろしく白く、この世に息吹く人のものとは思えない。
後ろで八郎が廊下に飛び出す気配がした。
それすら心の外に置いて、土方は物言わぬ腕の中の者の名を呼び続ける。

虚しく繰り返された幾度目かの時、瞬きも止めていた眸が一瞬見開かれた。
総司の唇が微かに動き、吉兆とも思えた徴候に心逸らせたのも束の間で、次の瞬間それは更に無残な事実を土方に突き付けた。
紙よりも白い唇から溢れ出たのは、応えてくれと切望していた声音ではなく、新たに鮮やかな朱の雫だった。

土方の驚愕を嘲笑うように、唇から糸の如く細く零れ落ちるものは止らない。
神仏は少しも容赦せず、総司の命の糧を貪欲に奪って行こうとしている。
だが全身を震わすこの怒りこそが、土方を現に戻した。
これ以上なされるがままにしていたら、総司の命脈は絶たれてしまう。


吐き出す事ができず溢れ返った血は、そのままにしておけば喉を詰まらせ、いつか息をも止めてしまう。
気道の確保は外からしてやらねば、今の総司に敵わない。
力というものが何処にも入らない身体を今一度夜具の上に静かに横臥させ、まだ血の滴る唇の端に指を差し入れ隙間を作ってやると、まるでそうされて導かれるのを待っていたように、そこから幾筋も朱いものが伝わる。
だがこうして未だ流れる鮮血を目の当たりにしていれば、それがそのまま総司の息の緒を細らせる結果に辿りつくと、凝視する土方の背に堪えようの無い戦慄が走る。
えも言えぬ慄きに咄嗟に手を伸ばして触れた頬に、求めていた温もりを得ることはできず、ただ彼の人の名を繰り返す低い叫びだけが、不釣合いに明るい室に途絶えること無く響く。
指一本分の隙だけを作られた唇は、肺腑に溜まっている朱い液体を零れさせるだけで、決して呼びかけに応えようとはしない。
総司を失うという恐怖は全ての思考を麻痺させ、このような状況に陥った時、決してしてはならぬと心していた戒めを土方に破らせた。
それは極限まで追い詰められた者の、咎めるに哀しい無意識の行動だった。
「総司っ」
ぴくりとも動かぬ薄い肩を掴み、目を開けろと、懇願するように土方は大きく揺すり始めた。

勢いの反動で横臥していた身体が仰向けられ、それまで下になっていた総司の左の手の指が、はずみを受けて弛緩したように開かれた。
その刹那、今全てを覆う不吉な朱の色とは異なる色彩が、応えを得るに必死の土方の視界に飛び込んできた。
一瞬何かと目を細めた中で、血にまみれた指に、小さな護り袋の白い紐が絡まるようにしてある。

布は処々すり切れ、みすぼらしいとも見えるそれは、だが信じられない事に何処も血に染まらず、土方の眸に、死に通じる禍々しい色合いと唯一対極にあるものに映る。
その奇跡に縋るかのように、咄嗟に護り袋と共に総司の手を握り締め、横にしていた身体を今一度己の腕の中に掻き抱いた。
「死にはしない・・」
それがまるで自分自身へのまじないのように呟きながら、蒼白な頬にかかる乱れた髪を掻き揚げる所作を、土方は我知らず繰り返していた。




「近藤さんはいつ戻るのだろうか」
隣室に土方を呼び寄せ、座る暇(いとま)も惜しむように立ったまま、緊張を隠しもしない険しい面から発せられた田坂の一声はそれだった。
「まだ長州で足止めを食っている。昨日届いた書状によれば京に帰るのは来月になりそうだとのことだが」
「・・・長州」
田坂の声が低く、くぐもった。
それは即ち、総司の容態が近藤を呼び戻す程に危険なものだと、暗に告げていた。
「悪いのだろうか」
まるで用意していたように口を滑り問う声は、確かに自分のものなのだろうが、土方には他人が話しているかの様に異質に聞える。

あれだけの血を身体の外に押しやったのだ。
良い状態の筈が無かった。
そんな事は素人目にも分かる。
だが土方には、それをひとつ事実として、未だ己の胸に刻めずにいる。


「今回の喀血は肺腑の主だった部分を、進んだ病が傷つけたからだ。其処からの大量の血の流出が、心の臓を酷く弱らせている」
「総司は死にはしない」
病状に触れられ、俄かに現に心を戻したような、土方の断乎と言い切る強い声だった。
「分かっている。だが峠は幾つもある」
告げる田坂も医師として、想う人間を失いかけている一己の人として、その両方に為す術を持たない苦悶の狭間にいた。

「・・・どんな事をしても、ひとつひとつ乗り越えてゆかねばならない」
宙を見据えて低く呟いた声は、土方にではなく己自身に向けられたものだった。
だがそれが、これから否が応でも目の当たりにせねばならない現実に対峙すると決めた、田坂の悲壮な決意でもあった。


天道はすでに一番高い処を疾うに回り、あと半刻もすれば傾き始めるだろう。
如月に入り更に風は身を切る冷たさになったのに、陽射しだけは来るべき季節を予期させ日々長く伸び行く。
つと視線を落とした足元にも、障子越しの陽が、胸に抱くものとは似つかわぬ柔らかさで光の輪を為す。
土方の目には、それが何より生ある力強さに溢れているもののように映る。
叶うのならば、その天の采配に縋りつき、想い人の命の糧を欲したい。
だがそんな感傷の全てを断ち切って、土方は田坂を真っ向から見据えた。
「頼む」

思いの全てを、天にではなく人に託して、目の前の医師に深く頭(こうべ)を垂れた。



病人の枕辺には八郎が鎮座していた。
襖を開けた時、その手が白い布を持って同じ動きを繰り返しているのが、全てが時を止めたような静けさの中で、唯一異なものとして土方の視界に入った。
血のひと滴(しずく)も通わぬような白い顔から滑り落ち、緩く結わえた艶のある黒髪が夜具の上に広がっている。

「髪に、ついてしまっているんだよ」
入って来た気配で察したのであろう。
顔を上げず手も止めないで、八郎が二人に応えた。
動きのある方へと今一度視線を戻せば、握り締めているものは手拭だった。
水に浸してあるのだろうか、湿めり気を帯びた布に張りは無い。
八郎は総司の髪をひと房手に取り、その先を拭いていた。

「固まってしまうと、案外に取るに難儀をするものだな。だが目が覚めた時に、こいつは気持ちが悪いと言うだろう?」
土方と田坂を見ず、八郎の視線はただ掌にある髪に一心に向けられている。
ぼんやりとその様を見ながら、埒も無いひとつ作業に心を捉われることが、己を脅かす不吉から逃れている八郎の心のように、土方には思えた。

「熱が上がってきたよ」
相変わらず血糊を清める事に没頭している八郎の、不意に漏らした声音が心なしか低かった。
「これからもっと高くなるだろう」
八郎とは反対側に座り、田坂は患者の容態の今後を懸念する医師の顔になった。
「弱りきった心の臓が、熱に負けるのを防がなければならない」
力なく弛緩した左の手首に、微かに脈打つのを確かめながら、それが己との戦いであるとでも言うように、田坂は誰にともなく呟いた。


周りのどんな言葉も耳に届かず、闇の深淵を彷徨っているのだろう総司の、血管(ちくだ)の蒼をそのまま透かして閉じられた瞼を土方は見ている。
ふた刻(とき)前、この奥にある瞳は、時に勝気に時に弱気に、意志を持って自分に向けられた。
だがそれに、自分はひとつも応えてやる事をしなかった。
何故あの時、苛立ちをぶつけることしかできなかったのか。
少しも引いてやることができなかったのか。

触れた指先は、まだ恐ろしい程に冷たい。
高い熱が身体を侵し始めているのならば、いっそ総司の四肢の先にまで残す隈なく人の温もりを戻して欲しい。
そうすれば自分は少しでも安堵の息をつく事ができるのか・・・
詮無き悔恨の繰り返しに、きつく唇を噛み締め、土方は掌にあって微塵も動かぬ骨ばった指を強く握り締めた。


暫らく自分の熱を分け与えるようにそうしていて、ふと顔を上げて見た枕元に、記憶に新しい古い布袋があった。

「こいつが離さなかった」
その視線に気づいたのか、八郎が初めて土方に顔を向けた。
「沖田君のものなのか?」
「・・・いや」
田坂の問いを、土方が否定した。
「誰かのものを、拾ったそうだ」
抑揚無く応えた顔が、一瞬苦しそうに歪んだのを、病人に気を取られている田坂は知らない。

この護り袋の持ち主を探しに行くと、互いに譲らなかった諍いの最中に異変は起きた。
あの時感情の迸るまま、怒りをぶつけるに任せて、自分は総司の変化を見逃していた。
もっと早くに気づけば、是ほどまでには悪い結果にはならなかったのかもしれない。
だが最早痛恨は遥かに及ばない。


「少し口を開けた跡があったから、沖田君の持ち物かと思っていた」
目は病人に向けたまま、田坂は己の持った憶測を衒(てら)うことなく語った。
「開けた・・?」
「確かに中を見た形跡があるな。誰のものか手がかりが欲しかったのだろうよ」
懐疑するような土方の呟きを、八郎が取って応えた。

ゆっくりと手を伸ばし手繰り寄せた護り袋は、総司の華奢な手指の中にあった時よりも、己の掌に納まる姿の方がずっと小さく見える。
本来ならばきっちりと紐で結わえられている筈の口が、良く見ればほんの微かに緩められている。
その口を今一度開いたのは、もしかしたら総司が為した軌跡を辿ることで、健やかに笑いかけていた顔に再び見(まみ)える事ができるのではないかと、藁にも縋りたい土方の心がさせた無意識の行動だった。

急(せ)いて覗いた中にあったのは、ところどころ破れかかった古い札が一枚だけだった。
それは表の擦り切れた襤褸(ぼろ)にも似た布に、勝るとも劣らない、ひどく粗末なものだった。
小さく折りたたんだ紙を丁寧に伸ばし広げた時、最初に飛び込んできたのは四つの文字だった。

「薬師如来・・・」
「札だけか・・」

土方の手元を覗き込むようにして問う八郎の口調も、当てを外され隠しようが無く沈む。
探す糸口が見つかれば、落とした人間に届けてやることができる。
そうすることが、果たして神仏の加護を受けるに値することとは思えぬが、今は総司の命の綱を繋ぐ為ならば、あらゆる手段を講じても足りないと焦る八郎の苛立ちが、険しい声にも顔にも現れていた。

「開けたのは総司だ」
だがそんな八郎の声も聞えぬように、風に吹かれれば千々に飛び散りそうな紙に視線を落としたまま、土方が呟いた。
「何故分かる」
それに応えは無い。
ただ言葉を失くした様に、土方は手にした札を凝視している。


土方には何故総司があれ程までに、護り袋を持ち主に返そうとしたのかが、今漸く分かった。
袋の中にもしやの手がかりがあるかもしれぬと開けた時、総司はこの札を見て、きっとこれを持っていた人間の元に戻すと誓ったに違いない。

薬師如来は、衆生の病患を救い災難を除く仏だ。
総司とぶつかり落としたと思われるのは、若い男だと言っていた。
父母か、或いは身内か・・・その男の体に病苦の厄災の無いようにと願う誰かが、この護り袋に願いを託したのだろう。
そしてそれは、持ち主にとっても大切な人間だったに違いない。
だからこそ、こうして擦り切れるまで身につけていた。
遠く京にあって業病を抱えてしまった総司は、護り袋を手渡した人間と、受け取った人間の両方の思いを、薬師如来の札と共に我が身と重ね合わせたのだ。

頑なに自分の戒めを拒んだ総司の心をこうして知れば、その訳も聞こうとせず、ただ責め立てていた己の勝手が、疎ましく情け無い。
一瞬、爪の先が食込み、血の滲むまで強く掌を握り締めた。
死ぬなと、決して自分に眼差しを向けようとしない面輪を両の手の平に包み、ここで叫び出したい衝動を必死に堪え、蒼白な頬をして眠り続ける総司に、土方は視線を釘づけていた。




降り始めた雨の音が、出てきた風に浚われるのか、ふいに激しく板戸を叩く。
雪になるかと思わせた昨日の夕刻からの急速な天候の変化は、冷たさだけはそのままに、この季節には珍しい氷雨となった。

「・・・夜が明けたな」
八郎の声を切欠に、果てなく続くと思われた室にいる者達の重苦しい夜が、漸く帳(とばり)を上げようとした。
「何刻位になるのだろう」
少しの変化も見逃すまいと病人へ注がれていた田坂の視線が、やっと覆う闇が薄くなった様に気づいたように八郎に向けられた。
「さっきの鐘が六ツだろう」
「・・・・暗いのは雨のせいか」
すぐに又注意を病人に戻して、独り言のように呟いた声が、朝を迎え活気付く筈の明るさとは不釣合いにくぐもった。


そんな二人の会話を耳に入れながら、土方はただ総司を凝視している。

あれから。
確かに田坂の言ったとおりに、総司の身体は高い熱に侵された。
だが忙(せわ)しく息を繰り返す事も、次第に力尽きてしまったのか、色を失くした唇は苦しげな息を時折漏らしはするが、その動きすら油断すれば止まってしまいそうに弱くなっていた。
一時たりも、瞬きすら邪魔な程に、目を離す事はできなかった。
時を数えて規則正しく与える薬とて、一体如何ばかりの命の糧になっているものか。

助ける・・・田坂はそう言う。
だが助かるとは言わない。
今土方にとって自分から総司を引き離し、知らぬ世に連れ去ろうとする神仏こそ、嘗て無きほど憎まねばならぬものだった。
見えぬ全ての敵に真っ向から対峙するかのように、強く握り締めた掌に異物を感じ、漸く現に戻され広げたその内に、あの護り袋があった。
昨日存在を知ってから、ずっと己の手にあったのだと、そんなことすら土方は初めて知った。

・・・薬師如来の札がこの中にはある。
咄嗟にその文字するものに縋りたいと思った自分を、だがすぐに打ち消し自嘲した。
神仏を、仇なすものと切り捨てたのはほんの一瞬前のことだ。

それでも。
己の身勝手を百も承知しても尚、総司の息の緒を繋ぎとめてくれるのであれば、我が身は元より、代わりに何を欲せられても差し出す覚悟だった。
その為ならば、地獄の釜に焚かれるに値する所業を千も万も繰り返したとて、そんな事は何を厭うものでもない。
そして・・・
唯一の者が命の瀬戸に立つ姿を目の当たりにすれば、これ程までに心弱い自分であったことを、土方はまざまざと知った。


「もっと強い薬は無いのか」
田坂に問う八郎の声にも、焦りがあった。

朝が来て、天道の力強い陽が差し込めば、きっと良い変化が見られる。
何の根拠も無い己の判断を、八郎は信じていた。
だが天は無慈悲にも雫を滴らせ、細い糸に繋ごうとしていた願いすら拒む。
明けぬ闇から未だ抜けきれず、思うに任せぬ苛立ちが、今八郎を支配している。
「これ以上強いものを与えれば、弱っている心の臓に更に負担を掛ける」
焦燥は、医師として患者の容態を把握しすぎている田坂の方が、遥かに強いのかもしれなかった。
八郎の言葉をぴしゃりと遮断する、厳しい口調だった。


二人の声も会話も耳に聞えている。
だが土方は、手にある護り袋に視線を落としたまま、先程からじっと動かない。
それは傍で見る者には、何かを考えているようで、しかし心は既に此処に無いもののようにも思えた。
暫らく微動だにせずそうしていたが、やがて意を決したように指を曲げてそれを掌の内に包み込むと、闇の淵に魂を彷徨わせている想い人の耳元に唇を持っていった。
その一連の動きを、八郎も田坂も無言で見ている。

「必ず返してくる。だから待っていろ」
たったそれだけを、ひと言ひと言、深い眠りにある者の精神と肉体に刻み込むように確かに告げ、そのままゆっくりと立ち上がった。
言葉語らず見上げる者達の視線を捉えると、土方はただ深く頭を下げた。
「頼む」
二人の男達に低く発せられたのは、静かな声に乗せた懇願だった。

「護り袋の持ち主を探しに行くのかえ?」
八郎の口調には、今この時にあって土方の為そうとしている、無謀とも思える行動を、罵倒するものもなじるものもなかった。
ただ真実だけを問うものだった。
「必ず探して見つけ出し、返してくる。それまで頼む」
三たび頭(こうべ)を下げながら、しかし邪魔する者は何人も許さない、何事にも動じない強靭な意志が、其処に籠められていた。


暫し、田坂は応えない。
総司の容態は危険と言いきれる。
当ての無い目的を果たして戻るまでに、何が起きても不思議ではない。

土方は総司の意識が戻ると信じて揺らぎ無いのだろう。
だがそれでも尚、どう足掻いても消しえぬ不安を、総司がそれを願っていた、護り袋の持ち主を見つけ返すことで打ち砕こうとしている。
否、或いは土方は、そうすることで総司の命数を、己の力で天から奪い返そうと覚悟したのかもしれない。

田坂自身も又、医師の立場を遠く離れ、一人の人間として想い人の命脈が絶たれる事を、事実として受け容れられずにいる。
総司の魂をこの世に止(とど)めることができるのならば、自分とて形振りかなぐり捨て、どんな事を為すも臆さない。

煩悶し、相反する二つの心は、やがて傾きの比重を土方の心に重ね、田坂は人としての己に従った。

「・・確かに頼まれた。だが一刻も早く戻って欲しい」
それが医師としての自分と、個人としての自分とが、折り合いを付けたぎりぎりの譲歩だった。
「あんたが戻らぬ前に目を覚ますだろうさ、きっとな」
そうしてそれを先駆けて見届けるのだと、八郎の端正な面が恋敵を見て笑った。




西本願寺の一角にある新撰組の屯所から向かえば、薬種問屋小川屋は五条の橋を渡る手前にある。
屋号を染め抜いた暖簾は、雨が辺りの色合を一段暗くしている中にあって、鮮やかな藍色が一層目に映える。
その明るさが土方の心に微かな灯火をもたらした。
或いは。
小川屋にはこの護り袋の持ち主に何か心当たりがあるかもしれない。
そんな一縷の希(のぞみ)を抱きながら、土方は暖簾をくぐり、主小川屋左衛門への取次ぎを託した。


「沖田はん、もしや具合が悪るおすのやろか・・」
通された客間で待つ間も無く、慌ててやってきた小川屋左衛門は、いつもは温厚な顔を厳しく曇らせて土方の前に端座すると、開口一番急(せ)くように問うた。
「小川屋には何か沖田の事で懸念が?」
小川屋の言動は土方にとって、予期せぬものだった。
「・・・へぇ」
詰問するような鋭い問い掛けに、小川屋は自分の勇み足を少々後悔しているように口ごもった。
もしかしたら、言うに憚る理由は、総司との間で交わされた約束なのかもしれない。
だがその総司は今重篤の床にいる。

「昨日、沖田の病状が悪化した。今は田坂さんがつききりでいてくれている」
まだ拘っているのか、本当を言うに思案げにしていた小川屋が、弾かれたように顔を上げ、驚愕に見開かれた眸が土方を真正面から捉えた。
「・・・酷く、危険な状態だ」
その一言を告げた時、めったに表情を崩さない土方の、時に冷たくすら思える整った面が、一瞬隠しようのない苦渋に歪んだ。


初めて見る、余裕と言うものが何処にも無い、切羽詰まった土方の様を、小川屋は言葉を控えて見ている。

土方にとって沖田という若者が、掌中の玉のような存在なのだろうとは、時折二人で店に立ち寄る様子から推し量ることは出来た。
だが小川屋左衛門は、土方を凝視しながら、或いは二人の間柄は自分が思っていた範疇を遥かに越えて、もっと強い絆で結ばれているものなのではと改めて思った。

対峙するように微塵も動かず、一時も逸らさぬ土方の視線は、自分の知る新撰組副長としての鋭い眼光ではない。
そんなものは疾うに及ばず、凄味を湛えた静けさは、見る者を威圧して離さない。
ただただあの若者の事だけに、土方の精神は今全てを占められているのだろう。
だからきっとこの目の前の人物には、自分の知る事をひとつ残らず語らなければならないのだ。
そう決めて、小川屋は今一度土方を見た。


「・・・沖田はんとのお約束でしたのや」
「約束?」
「へぇ・・。田坂せんせいにも、土方はんにも必ず言いまへんと・・」
「何を、あいつは約束させたのだ」
「薬を・・、胸が痛とうて眠れへん言わはって・・。それでそういう晩は翌日必ず仕事に障りが出るからと。その痛みを止める薬があったら欲しい、そう言われはって、一昨日おこしやしたんですわ」
「あの日は田坂さんの診療所に行く筈の日だった・・」
「行かはったら、田坂せんせいが丁度急な患者はんで、いはらへんかった言われました。今にして思えばそれも嘘でしたんやなぁ・・・」
騙されてしまった自分に、小川屋は遣る瀬無い溜息をついた。

「そんでも痛みは我慢できへん位に強よおなってくるし、田坂せんせいには又明日行った時に言うから言わはって、とりあえず一日分だけでええからということで痛みを止める薬を・・」
「渡したのか?」
「後で田坂せんせいには言っとかなあかん、そう思うてつい二日・・・。ほんまに申し訳の無い事をしてしまいました」
言葉の終わりには土方に向かって頭を下げた小川屋の口調は、自分が田坂に告げずにいたことが、ここまで事態を悪化させてしまったと、強く悔やんでいた。
「小川屋のせいではない。責められるのは、あれだけ近くにいながら無理を重ねているのを、見てみぬふりをしていたこの俺だ」

悔恨は尽きない。
だが何よりも、いつも無謀なまでに己の身体に関しては我慢を強いる総司が、自ら薬を求めて小川屋を訪れて居たという事が土方を打ちのめしていた。
それほどまでに、体調は最悪に達していたのだろう。
一瞬切り割くかと思う程に、土方は強く唇を噛み締めた。
が、今は感傷という言葉は全て切り捨てて、話の先を急がなければならない。


「沖田が一昨日、この店の前を通りかかった時に、呼ばれて気をとられ、前から来た人間にぶつかってしまったと言っていた」
改めて問う土方に、小川屋も逸らせていた視線を戻した。
「それも嘘でございます」
「嘘?」
瞬時に返った応えこそが本当なのだろう。
又も新たな事実を突きつけられて、土方の双眸が細められた。

「先程お話しましたように、沖田はんはこの店に薬を求めて来はりました。それは偶然ではありまへん。これが土方はんにつかはった、一つ目の嘘。そして店を出た時人にぶつかったのは、そこで沖田はんの体勢が崩れはったからです」
「・・・どういうことだ」
「うちに来られた時も、お顔の色がひどく悪うおした。お帰りにならはるなら駕籠を呼びましょうと申しましたら、それには及ばない、多分寝ていないからだろうと、笑ははって・・。それでも往来に出た時に、外の明るさに目が眩みはったのか、私があっと思った時にはぐらりと身体が揺らいで・・・私も店の者も咄嗟に駆け寄ろうとしたのですが、それより先に前から来た人間と・・・」
「ぶつかったのか」
「交わす間もあらしまへん。相手も急いで前をよく見ていなかったのですわ。けどそれで沖田はんは正気に戻らはったようで・・・。きつう気を張られてましたんやろうなぁ」
きっとその時の、蒼白に近かったに違いない総司の頬の色を思い出したのだろう、小川屋の顔が痛ましげに歪んだ。


だが次から次へと明らかになる真実は土方を愕然とさせ、ともすれば痛恨だけに還りたち、思考は遮られる。

何故それほどまでに、具合の悪かった身に鞭打って、落とし主の後を総司は追ったのか・・・
否、そこまで弱っていた我が身だからこそ、薬師如来の護り袋は自分と背中合わせにあるものだと思ったのかもしれない。
未だ瞳を開かないでいるだろう想い人の切ない心が、土方にはただ哀しい。



先程よりも勢いを増した雨脚が、室の静寂を邪魔する。
その音が、死ぬなと懇願して迸る心の叫びを、小川屋から隠してくれればと良いと土方は願った。










           きりリクの部屋    煙雨(参)