煙 雨 -enu-  (参)




「ぶつかったのは相手が悪おしたのや」
小川屋左衛門の物言いには、何処か相手を非難するような響きがあった。
「何故そんなことを言う?」
それを土方は直截に問うた。
「沖田はんは無防備に往来に出る方と違います。あの時かて、しっかり回りを確かめて出られはった筈ですわ」
小川屋は、隙というものを作らぬ、総司の剣士としての習い性を言っていた。
「せやさかい、幾ら急いでいても、ちゃんと前を見てはったら、どないな人間かて一瞬傾(かし)いだ沖田はんを避けきれぬ訳がおへん」
「・・・小川屋は、相手がわざとだったと言うのか」
その時の状況を克明に把握しようと、一点に思考を集めている土方が下した鋭い推測だった。
それにさほど驚いた風も無く、小川屋は豊かな顎を引いて頷いた。

「そうです。相手はわざとぶつかって来ましたのや」
「どういう事だ」
「誰かに追われていたようですわ」
「追われて?」
「へぇ。私が慌てて駆け寄った時には、、もう沖田はんは辛うじて体勢を整えてはりましたが、相手のずっと後ろの方で身を翻すように逃げてく影が見えましたのや。私や後から出てきた店の者やら、それに気を取られて立ち止まった人の目に怯んだようでしたわ」
「ではその相手は沖田にわざとぶつかり、人目を引くことで追われる手から逃れようとしたと?」
「そうです。せやから持っていた物を手から落としたのも、その間(ま)を少しでも稼ぎたかったのやと思いました」
「小間物を扱っていたようだと、沖田は言っていたが」

土の上に広がった、簪や紅の箱の色合いの妙が鮮やかで綺麗だったと、楽しそうに自分に語った総司の笑い顔を、土方は脳裏に浮かべていた。

「如何にも小間物を扱うに相応しい優男でした。ここいらでは見た事の無い顔でしたが・・」
長く客商売をしているせいか、小川屋は人前で滅多な事では他人を悪く評さない。
だが今は珍しく、言葉に小さな棘があった。
そうさせる何かが、その男にあったのだろう。
「いえ、相手も沖田はんにえろう悪がって詫びてはりました」
土方の不審を察したのか、小川屋は慌てて後を続けた。
「けど言葉に本当がありませんでしたのや。口先だけのもんはすぐに分かります。それに・・」
流石にこれ以上はあからさまな批判になるのと思ったのか、先を語る筈が、歯切れ悪く途切れた。
だが土方には、小川屋を躊躇させている暇はなかった。
手がかりとなるものは、一時も早く知らねばならない。

「小川屋。俺はその男を探し出す為に、此処に来た。総司に・・・、沖田に護り袋を持ち主に返してくると、そう約束して出てきた。果たすまで帰る事はできない」
静かに聞き入る中にも驚きの表情を隠せない小川屋に、土方は目を逸らさせず強く説く。
「・・・あの護り袋を返すと?」
話の後先を乱暴に削った言葉だったが、小川屋はすぐに全ての事情を悟ったようだった。


沖田の容態は重篤だと先程土方は言った。
あの時すぐにでも田坂に知らせていれば、或いは事態はこれ程深刻なものにはならなかったのかもしれない。
立ち還り、元に戻しようの無い事柄へ、未だ悔恨は尽きない。
だが不吉が的中した心の重さに、どうにも耐え切れない思いの中で、護り袋を持ち主に返すという土方の言葉は、ある種小川屋自身の救いにも通じるものだった。
土方はそうする事が、きっと沖田の命を繋ぐ何かに通じるのだと信じて揺ぎ無いのだろう。
だとしたら自分が思った事、見た事を包み隠さず告げる一言一句も叉、沖田の命数を永らえることになるのかもしれない。
小川屋左衛門は一瞬の後、逡巡を捨て去ると、顔を上げ土方を双眸で捉えた。


「・・・沖田はんも店の者も、みなで道に散らばったものを拾い集めて・・それで全部納まるや、男はすぐに叉足早に去んでしまいました。姿が見えんようになって、そろそろ店の中に引き上げよう思うた時に、沖田はんが小さな声を上げはったんですわ。何やろ思うて見た時には、もう道に屈んで護り袋を・・・土方はんの言われはったもんですが、それを手に持ってはったんです」
細かい事のひとつも語り落すまいと丹念に記憶を手繰り寄せながら、小川屋の語りはゆっくりと紡がれる。

「それが男の落としたものだと、そうあいつは言っていたが・・」
「間違いはおまへんやろ。落ちた簪の房の丁度下になっていて、皆気が付かなかったんですやろなぁ。私が預かります言うたら、一度は沖田はんも頷かれはりました。けど店の者が護り袋の口が少し開いていると気がついて、それで中にあった一枚の札を取り出して開いたのを、沖田はんも横から覗かはってました・・・。暫くそのまま札に目を落としていはりましたが、何やお心に気に掛かる事があったのか、急にそれを返して来ると、声を掛ける間もなく走り出してしもうたんです」
「男を追ってか?」
「へぇ。急いで大きな声で呼び止めましたんけど、あの方はえろう足がお早い・・。沖田はんは一度も振り向かずに、すぐに人混みに紛れてしもうて・・その後はお顔をみることができませんでした」
小川屋には、直前まで身体の様子を危惧させていた総司が、その時に咄嗟に見せた俊敏な動きが未だ信じられないものの様に思えるのだろうか、語りながら二度三度、目を瞬(しば)たいた。

「けど私が沖田はんを止めたんは、係わりを持たん方がええと思うたからです。私の目にはその男が堅気の者のようには見えませんでした。あれは・・・疾うに身を持ち崩した人間ですわ」
漸く心にあった懸念を吐き出して、小川屋はひとつ息をついた。
「やくざ者と言うのか?」
「身なりは確かに小間物屋です。けど商いの道具は形ばかりのものですやろ。人を探るような何処か落ち着かん目つきは、世間に後ろめたさのある人間のもんです」
「先程見た事のない顔だと言ったが・・・」

小川屋は京で長く続く商家だ。
この地に邸を持つ藩の御用も、幾つか引き受けている。
これ程までに大きな身代を保つ為には、余程目先が利かなくてはならない。
世の流れ、人の動きには聡すぎる位に神経を張り巡らせている筈だ。
其処の主が見慣れない顔だと言えば、少なくともこの近辺で堅く商売をしている人間ではないのだろう。

「流れ者ですやろ」
「流れ者・・」
小川屋の言葉をそのまま繰り返して呟いた土方の声に、隠せぬ落胆があった。

京には無数の人間が毎日毎夜やって来る。
流れ者では探す輪が広すぎる。

「確かに流れ者を当てなく探すには難儀をしますやろ。けど賭場の数は人のそれ程ではあらしまへん」
黙り込んだ土方に語りかけられた声が、慰撫するように柔らかかった。
「賭場の数?」
「そうです。小川屋左衛門にも、そのくらいのお手伝いはできます・・いえ、手伝わせて頂きます」
もうとっくにそう決めてあったのだと言う風に、小川屋は頬を緩めた。
その顔を土方は凝視している。


新撰組における情報の確かさには、組織の幹部として鉄壁の信頼をおき誇れるものがある。
だがこの地で生きている小川屋は、市井深くまで通じる又違った目を持っているのであろう。
それは気の遠くなるような歳月を経て、尚未だ生き続ける、処世の知恵が育んで来たものなのかもしれない。
そして。
今は何を置いても、例えどんなに僅かであっても、光射すものがあれば縋りたい。

「力を借りたい」
迷う術は無かった。
「半刻・・・。お心が急がれるのは分かります、けど半刻待ってもらえますやろか?」
「待つ」
瞬時に返った、微塵も躊躇わない強い応えだった。


きっちりと閉じてあった障子が開けられた時、庭に降る雨が、不意に吹いた風に横に乱れ、しぶきが棚引く様が、その隙間から視界に映った。
それを一瞬目に焼き付けて、土方は出て行く小川屋の背を見送った。




「風が出てきたのか・・」
外の気配を探る八郎の声が、ずっと沈黙の中に居たその余韻をまだ残すかのように低く発せられた。
「・・・鬱陶しいな」
相手からの応えには、天が騒がす酷な仕打ちを憤る響きがあった。
細く浅く息を繰り返す者の、時折途切れかける程に微弱な脈の音を、五感の神経を凝らして測る田坂にとって、雨露の音はただ障りのあるものでしか無い。

横顔を端正に見せる鼻梁の高さが、今は見る者に一種侵しがたい厳しさを与える。
己の力の届かぬ焦りと苛立ちに、田坂も極限まで追い込まれているのかもしれない。
だがそれは、そのまま総司の容態の難しさに繋がる。
今、唯一の者の命を救う為に、何人をも寄せ付けず張り詰めた緊張の中にいる医師の険しい表情を、八郎は凝視した。


「伊庭さん、あんた戻らなくっていいのか?」
その田坂が不意に顔を上げて、やっと思いついたように、病人を挟んで正面にいる八郎に問うた。
「俺はいるべき処にいるよ」
それがごく当たり前のように、声音は何を気負う風もなかった。
「そうか」
応えも叉、あっけない程に短い。

将軍警護の任について上洛している八郎にとって、昨日から宿舎を離れ、まして役目を放り出して此処に詰めていることは、決して許される勝手ではない筈だ。
だがそんな田坂の危惧を、八郎は一言で砕いた。
いるべき処にいる。
他には何も無い。
それが八郎の全てなのだろう。
ひとつの手がかりも持たず、だが揺るぎない信念で雨の中を飛び出して行った土方も、そしてこうして焦燥の中で見守り続ける自分も、それぞれが今すべき、或いはすると決めた覚悟を貫くしかないのだ。

たったひとり想う人の、このあまりに細く脆い命の綱を繋ぎとめる為に、触れる手首に更に強い証を求めて、田坂は微かに息吹く命脈を探った。


「・・・俺はこいつが血を吐くのを初めて見た」
暫し再び二人の間に無言の時が過ぎたその後で、突然とも思える八郎の語り掛けは、雨の音だけが支配する室の空気に沿うように、ゆっくりと静かなものだった。

「池田屋で、沢山の血を吐いたのだと聞いた時は、こいつはもうそんな様子など微塵も見せずに笑っていた。・・・去年の秋、二度目に同じようになって見舞った時には、蒼白い顔だったが、床の上に起き上がって大丈夫だと強がりを言っていた」
話しながら八郎は今、落とした視線の先にある閉じられた瞼が、まるで二度と開かないような恐怖に囚われている。
何かを、誰かに語らねば、そんな意気地の無い情けなさを、己自身にすら隠しきれない。
「・・・あんなに、こいつの身体の中には血があったのかと、そう思った」
つと伸ばした指先が、昨日血に濡れ清めてやった髪に触れた。

あの時。
朱の色をしたものが総司の身体の内から次々と外に流れ出すのを、自分は為す術もなく見ている他なかった。
血の滴り続ける唇に、咄嗟に両の手を押し当てそれを止めようとした衝動を、八郎は今もまざまざと思い出す。


「案外に・・・人ってものは、いざとなれば役に立たないものだな」
笑いすら含んで低く漏れた声に在る僅かな硬さが、それを自嘲と切り捨てるには、まだ遠く及ぶものではないと言っていた。
「大丈夫だと、もう一度、可愛げの無い強がりを言わせてみたいものさ」
未だ昏睡の中にいる者の髪に、早く目覚めよと悪戯するように指を絡ませながら、透けるよりも白い面に据えられたまま決して逸らぬ八郎の双眸に、きっとそうなるのだと、不安を凌駕する強い信念が湛えられた。

「言うさ」
果たしてそれが守られる約束なのか・・・
医師としての自分には分からない。
だが田坂俊介としての自分には分かる。
否、そう信じることで、或いは自分も叉目の前に突きつけられた現実から、弱気に傾く心を隠そうとしているのだろうか。

吹き付ける雨の音が、先ほどよりも少しだけ静かになったと思うのは、そうあって欲しいと願う己の心がさせる錯覚なのかもしれない。
だが今はそれに騙されていたい。
そんな自分の心を嫌と言うほど承知して、それでも田坂は障子の向こうの気配に耳をすませた。




半刻待てと言われた約束は、違えられず果たされた。

土方の前に端座するなり、小川屋は二枚の紙を差し出した。
視線を落とした一枚目のそれには、何処かの寺のものらしきふたつの名が書かれていた。
そして二枚目には知らぬ人間の名があった。

訝しげに見上げた土方に、小川屋左衛門は穏やかに笑い掛けた。
「ご存知無い筈ですわ。これらのお寺はんはもう廃屋に近い風に荒れてます。ちゃんと名前があることすら、近所でも知らん者の方が多おすやろ。けど此処で賭場が開かれてます。・・・一昨日の男の人相、声は勿論の事ですけど、散らばった簪のひとつを、一緒に拾おていた番頭が覚えていましたのや。たまたまその者が、そういう物に目が効いて・・・。何でもその細工を施せる職人は滅多におらんそうで、番頭もえらい不釣合いな物が混じっていると、不思議に思うたそうです。・・・人の商売道具につい目が行ってしまうのは、商いする者の寂しい性(さが)ですわ」
そう笑う小川屋に、だが言葉に籠もる筈の暗さは無い。

「けどそのお陰で、其処から少し調べてみることができました。それで分かったのが、男の名は参次、やはり思ったとおり、一年程前に何処ぞから流れてきた者でした。今は博打で嵩んだ借金で、賭場の者に追われる始末やそうです。そしてこのふたつのどちらかで、参次の事は分かる筈です。それから後の一枚はそれぞれの賭場への入り札ですわ。これを見せはったら中に入ることができます」
待つ身には尽きぬ長さに思えた時も、こうして目の前にもたらされた事実の広さ深さを思えば、驚嘆すべきものがある。
土方は改めて、ふくよかな面に柔和な笑みを浮かべている小川屋の顔を見た。

「だが賭場でしくじって追われる身が、又のこのことやって来るだろうか」
それでも懸念は消せない。
「ここに書かれてあるのはふつうの賭場とちがいます。借金が嵩んでどうにもならんようになった人間を、もっと深みに堕として、この世ではもう一生身動きできんようにしてしまう、言うたら蟻地獄みたいなところです」
語る口調が少しだけ重くなった。


小川屋のいう事は、土方にはすぐに察せられた。
賭場は役座者が仕切るが、堅気の者が身を持ち崩し堕ち行くのにも大概限度がある。
だが周りが見えなくなるまで嵌りこみ、最早どうにもならず足掻く人間の中には、地獄を見るを承知で更に大きな賭けに出たがる者がいる。
そういう人間に偽りの望みを与える場所が、今此処に書き記された賭場なのであろう。
そしてその類の賭場は、借金を重ねさせ追い詰めた賭場と必ず結ばれている。
参次という男も、張られた蜘蛛の巣にかかった虫の一匹なのかもしれない。

そういう場所を小川屋は、すでに知識として把握しているのだ。
時には身代を守り抜く為に、或いは競い合う時勢に負けぬ為に、それを必要悪とする商人(あきんど)としての、外には出さぬ小川屋左衛門の、厳しく険しいもうひとつの顔なのだろう。
その手の内を、小川屋は自分に見せてくれた。

「・・・礼を言う」
それ以上の言葉は必要なかった。
「どうか頭を上げておくれやす。手前のように悪さもとことん本物になれば、堂々世間にも涼しい顔をしていられるもんですわ・・・。せやし。時には人様のお役に立ればと、そんな気休めを自分自身にしてみたくなる時がありますのや」
深く下げた頭(こうべ)に、聞く者を安堵させる丸みのある声がかかった。

「せやけど・・・雨が少しでも小降りになったらええですなぁ」


せめてこの肌刺すように冷たく寂しげな雫が上がったら、今病床で呻吟しているだろう若者の苦しさが少しでも和らぐのではないのかと・・・・
小川屋はそんな風に思った似合わぬ信心を、今は笑うことができなかった。




雨はまだ時折強く地を叩くが、昼前に見せていた横殴りのような事はもうない。
幾分風も止んだせいか、それとも昼をすぎて一日雨だとやっと諦めたのか、いつも程ではないが、広い道にもまばらに人影を見止めることができる。

そんな往来の様子も目に入らず、差す傘よりも先に体が前に出るような勢いで、土方は辻を左に折れた。
その刹那、朧な塔の威容が視界に飛び込んで来た。

さんざんに、五重に連なるこの東寺の塔は見てきた筈だった。
だが今目に映るそれは、雨の飛沫で全てが朧に煙る中で、ひとつだけ濃く浮き出し、土方には何とも異形なものに思える。

小川屋の教えてくれた賭場の一つ目は、五条から更に南に下り、嘗てあの世に渡った者の亡骸を、都人はこの地に葬ったのだという鳥辺山の麓にあった。
だが其処で参次という男の行方を掴む事はできなかった。
落胆と、焦燥の交互に織り成す心を抱えたまま、足はすぐに二つ目の賭場に向けられ、遂に最後の希(のぞみ)を託して此処にたどり着いた。


目的の地は今踏みしめる東寺の境内を、北に抜けた突き当たりにあるという。
一度立ち止まり前方を見捉えた土方の唇から、急(せ)いて乱れた白い息が零れる。
視線を置く更にその先には、総司がいる屯所がある。
そして此処からならば、一度も足を止める事無く走りきれる距離にそれはある。

総司は待っていると、そう信じて揺らぎ無い筈が、出かける自分に言葉くれなかった白い顔を思い起こせば、猛り狂い出しそうな恐怖が土方を襲う。
今自分がしていることは、真実総司を救うことになるのか。
僅かにも疑念を持てば千々に乱れ、いっそ何もかもかなぐり捨て、唯一の者の元へと駆け出してしまいたい衝動を、土方は必死に抑える。
ともすれば其方に動き出しそうになる足に、力という枷をして漸く踏み止まっている事が耐え難い程に辛い。
聞かぬ心は叱咤しても、主の意志を嘲笑う。
雨に霞み立つ向うをただ凝視し、土方は暫しそのまま雫が肩先を濡らすに任せていた。



地図に書かれた場所は、東寺の敷地の一番北の奥にあった。
寺の一部なのだろうか、古い建物は朽ち果てそうではあるが、それ自体は思ったよりも大きなものだった。

京は寺社仏閣の威力が強い。否、強すぎると言って良いだろう。
寺は時勢を巧みに取り入れ、常に時の権力者の庇護の元にあった。
幾ら雨が天道を隠しているとはいえ、昼日中から堂々賭場を開けられるのは、凡そこの歴史ある寺と何かしらの利害関係を結んでいるに相違ない。
だが今はそんなことはどうでも良かった。

入り口にいる、遠目からでも分かる無頼の徒は見張りなのだろうか、臆さず歩をすすめる者に、相手の方から走り寄って来た。
それすら、土方には眼中に無い。


「お武家様、これから先は伝手(つて)がなけりゃ行くことが出来ませんのや」
慇懃そうな物言いは口先だけのもので、目は土方の眼光に怯む事無く、むしろ威嚇するように鋭い。
黙って懐から抜いた一枚の紙を土方が差し出すと、男は一度開いてそれを見たが、またすぐに閉じて返した。

「初めてのお客さんで?」
「人を探している」
「人は仰山いてはります」
「では勝手に探させて貰う」

応える土方の双眸は、だが一度も男を捉えない。
ただ建物だけを見ている。
其処に参次という護り袋の持ち主がいれば自分は約束を果たし、総司の元に戻ることができる。
土方の思考は今、ひとつその事だけに占められている。

「こちらへ」
抑揚無く伝える声が聞えた時には、男はすでに後ろを向けていた。
それは少し丸まってはいたが、意外に隙というものが見当たらなかった。

後に続きながら土方は、傘を差しても身に纏う物を濡らす程だった雨が、漸くそぼ降る煙雨の様を呈して来たのを知った。




「誰かに白湯を持ってくるように伝えてはくれないか」
病人の脈をとっていた田坂が、顔を上げずに八郎に声を掛けた。
「分かった」
それを何に使うつもりかは、八郎も知らない。
ただ今は全幅の信頼を、この医師におかねばならなかった。

立ち上がりざま、ちらりと視線を投げかけた薄い胸が、つい先ほどまでは高い熱の為に辛そうに上下していたのに、心なしかその動きが弱々しくなった気がする。
だがすぐに己の不吉な思いを気のせいだと決め付けると、八郎は逡巡する間すら惜しむように身を翻した。


敷居をまたいで廊下に出た途端、視界の中に中庭の風景が飛び込んできた。
煩いと、その音を邪魔に思っていた雨は、いつの間にか煙るような氷雨に変わっている。
このまま勢いが削がれ雨露が上がり、いずれ天道が姿を見せ、陽が射すようになったら・・・

祈るなどと、そんな心が己にあったのかと半ば驚き、半ば呆れ、だが自嘲して打ち捨てることなどできず、八郎はつと廊下に戻した視線の先に見つけた人影に、漸く本来の目的を果たす為に声を掛けた。



田坂が薬箱から取り出したのは、白く小さな包(つつみ)だった。
今まで与えていたものとは違うそれは、ひとつだけ他の薬とは隔てるようにして一番下の抽斗に仕舞われていた。
それだけで、八郎は病人の容態が悪くなっているのだと悟った。

「悪いのかえ」
問うた声の調子は、いつもと変わるものではない。
だが総司に向けられている視線は、瞬きする間も厭うように、そこに縫いとめられている。
「良くは無い。高い熱が続けば嫌でも心の臓が弱る」
薬包を指で開きながら、田坂は更に続ける。
「もう下がるのを待っている暇はない」
それが何を意味するものなのか。
八郎は漸く田坂に視線を移した。

目覚めぬ総司の浅い呼吸が止ってしまうのではないかとの恐れと慄きの中で、もっと強い薬は無いのかと、苛立ち紛れにぶつけた自分の言葉を拒んだ田坂が、今自らそれを使おうとしている。
それ程までに、猶予のできない状態なのだ。

「さっきあんたは強い薬を使えば弱った心の臓に負担を与えるだけだと言った。が、その薬・・・そういう類のものだろう?」
指差した其処にある、四角い白い紙の真中に少し黄色がかった粉が寄せられている。
「飲ませるのか」
田坂が包を取り出した時、すでにこれから為される事を承知の上で、敢えて八郎は今一度言葉にして確かめた。
「熱を下げる薬だ。効けば劇的に効果はある。だがその分身体にかかる負担も大きい。・・・多すぎれば心の臓を止める」
最後は自分自身に言い聞かせるように、視線は己の手にある粉に向けられた。
「助かるのか」
「助ける」

田坂の声には抑揚が無い。
そうすることで、この男は医師としての自分であることを保とうとしているのかもしれない。
否、きっとそうなのだろう。
峻厳な面から読み取れるものの、ひとつも見逃すまいと、八郎は田坂を凝視した。


視界の中で、自分のものではない左腕が総司の後ろ首と枕の間に差し込まれた。
掛けられた右手が細い頤を引くと唇が割られ、すぐさま覆うように白湯と一緒に黄色い粉を口に含んだ田坂のそれが塞いだ。
すべては時をおかず、一連の作業のように素早くなされ、白い喉が僅かに動き、流し込んだ液体を嚥下するのを見届けると、田坂の顔に微かに安堵の色が湛えられた。


病人の唇から逸れ零れた落ちた液体の、幾筋かの跡を拭ってやっている田坂の指と、総司の開かれぬ瞳と、色を失くしたままの頬と・・・濡れた唇と・・・

その全てを八郎は、現の幻のように、皮膜の向こうの光景として見ていた。










            きりリクの部屋      煙雨(四)