煙 雨 -enu-
(四)
破れかけた襖やら障子を幾つも通り抜けて行く男の背を見ながら、土方は自分の歩いている畳や板張りが、丁度獣道のように、其処だけが履いた足袋を汚さない事に気づいていた。
どれ程の人間が、この男の後に続いて逃れぬ地獄に堕ちたのだろうか。
ふと胸に過ぎった思いを、だがすぐさま切り捨てた。
そんなものは、今はどうでも良い事柄に過ぎない。
ただ参次が此処にいることだけを、土方は念じていた。
「新しいお客はんです・・」
耳打ちされ、薄暗い隅で片腕だけを弥蔵にして胡座をかいて、もう片方の手で煙管を遊ばせていた男が、入口に立ち、すでに中の様子に鋭い視線を投げかけている土方に顔を向けた。
一筋の光も厭うように締め切った室の柱に所々架けられた蜀台の、蝋燭の灯りだけが頼りの視界の中で、博打に嵩じる人間の数は意外に多い。
どれが参次なのか・・・
小川屋から聞いた人体のひとつひとつを思い出し、焦燥のまま、眸はただ一人の男を探す。
此処の元締かと思われる男が、手にあった煙管を煙草盆に戻すと大儀そうに立ち上がり、ゆっくりと此方にやって来るのを視界の端に入れてはいたが、それを気にも止めず、顔の判別の付き難い暗さの中で、土方の目線は其処にいる客の、ひとりひとりに向けられていた。
「まずは座らはって下さい」
掛けられた声のする方に、ちらりと視線を流しただけで、あとは目にも入れない風に、土方はすぐに又前方を見据えた。
「初めてのお客さまで?」
「人を探しに来た」
「珍しい事を言われはる」
笑いを含んだ男の声に、新たな客に対する警戒の色はない。
それほど自信を持てるまでに、此処は大きな権力の元に庇護されているという事なのだろう。
「・・・伝五郎親分はんの、ご紹介やとか」
初めて土方の双眸が、横の男を捉えた。
この賭場に入る手形となった小川屋の寄越した紙には、確かにその名が書いてあった。
「どうして俺が此処に来なければならなかったかその訳を、伝五郎は知っている筈だ」
殊更抑揚無く、土方は言い放った。
それは嘘だった。
小川屋は伝五郎という任侠に、賭場への伝手をつけてくれとは頼んだだろうが、そうしなければならない理由までは話してはいないだろう。
伝五郎という男は知らない。
小川屋との繋がりすら自分は分からない。
知ろうとも思わない。
最初から最後まで、懐にある護り袋を返す相手の事だけが、今は土方の思考を占める全てだった。
だが意図せず口から出た伝五郎の名は、予期したよりも余程に重いものらしかった。
「探しておられはる男の名は?」
鈍い光を放つ男の細い目が、土方に向けられた。
「参次」
応えは間髪をおかず、低く返された。
男は暫し何事かを考えているようだったが、やがて先ほどまで自分が座して居た場所に近い処にいる、細身の男に目配せをした。
男はずっと様子を伺っていたらしく、それを受けるや否や立ち上がり、賽の目の行方を固唾を呑んで見守っている者達の間を縫うようにしてやって来た。
剃刀。
そう印象を与える、切れの鋭い身ごなしだった。
「参次という男を知っているか?」
呼んだ主は、土方に視線を留めたまま、男が後ろに控えると振り返らずに問うた。
「今晩が最後で・・」
「それやったら来るのは夜か」
黙って頷く若い男の、声なき返答が、土方を苛立たせる。
夜では遅い、遅すぎる。
「夜までは待てん。参次の居場所を知っている筈だ、教えて欲しい」
「お客はん、そこまではあっしらも知りませんのや。無理は言わん事です」
対峙する男は、土方よりも頭ひとつ背が低い。
だが横に広く張った体が、鋼のような筋肉で覆われているだろうことは、相変わらず弥蔵に組んだままの腕が肌蹴けさせている、着物の隙間から覗く胸板の厚さで分かる。
「いや、知っている筈だ。応えてもらう」
それに些かも臆する事無く、むしろ据えられている眼光を撥ね返すようにして発せられた、土方の有無を言わせぬ強い口調だった。
「今晩が最後と、さっきあんたの子分は言った。ならば負けの代価はすでに金ではない筈だ」
博打で負けを重ねて、一通りの賭場では相手にされなくなったどころか追われているような男が、金を持っている訳がない。
それが最後の賭けに出るのだとしたら、賭けるものは女か・・・
想像するのは容易だった。
そしてすでにこの男達は、その獲物の目利きを終えている。
だからこそ、賭けを引き受けたのだ。
参次はそれが張り巡らされた蜘蛛の巣だとも知らず、今夜やって来る。
逆巻く焦燥の中で土方の思考はひたすらに、参次を見つけ出し、一刻も早く総司の元へと戻る算段の為だけに働く。
「知らぬと言い通すならば、その参次、伝五郎に見つけさせる。お前等では役には立たなかったと言うまでだ」
ぎりぎりの際に立って、張ったりの勝算は五分と五分。
焦りは人を、とことん追い詰める。
動かぬ相手を見据えながら、ただひとつ、土方は伝五郎という人間の名が持つ勢威に賭けていた。
暫し、周りの喧騒とはひとつ世界を離れ、互いを威圧するような沈黙が生まれた。
果て無く続くかと思われたその均衡は、だが思いのほか早く、相手の方から破られた。
「この寺の南門を出ると、花札を商っている店がある。名は仁天堂。その脇の道を南に下ると古い家作がふた棟連なる。其処に辿り着くまで似たような建物はないから、人に聞かんかて分かるやろう。女の名はおゑい・・。それだけや」
もうそれ以上語る気は無いのだろう。
無言で向けた肩の堅く盛り上がった背が、土方が何を言うかをぴしゃりと断つように、ゆっくりと闇の中を遠ざかって行った。
そして土方も又、男が元居た場所に収まるのを見届ける事無く、瞬時に身を翻して走り出した。
出口まで続く距離が、来た時よりも遥かに長く感ずる。
急(せ)く心に追いつかない己の足がもどかしい。
おゑいという女の元に参次がいるとは限らない。
否、逃げる身であれば、ひとつ処に止まっているのは危険だ。
それでも今夜自分の女を賭けて打つのだとなれば、一目逢いたいとの思いに駆られるだろう。
その人としての情を、まだ参次が捨てていないことを、息を乱しながら祈った。
入ってきた時に手にしていた傘すら差さず、今は霧雨のようになった細い雫に濡れるに任せて、南に開かれた門を、土方は勢いのまま走り抜けた。
微かに息している面の蒼白さが、八郎に視線を逸らせる事を許さない。
一瞬だけ、ちらりと見た田坂の顔に、更に険しさが増している。
きっと悪いのだろう。
だがそれをそのまま受け容れる訳には行かない。
「・・さても、見つかったものか」
呟きは誰かに向けられたものではなく、むしろ己の中に潜む、怯む心を奮い起こさせる為に発せられたものだった。
「何がだ」
雨の音が鎮まった途端に訪れた静寂の中で、田坂もまたその重さからの出口を求めていたのかもしれなかった。
間をおかず戻った応えが、そんな心を物語っていた。
「土方さんさ」
「護り袋の持ち主か・・」
護り袋を返す事が、想い人を救うと疑わなかった土方の心を、田坂は狂信とは思わない。
出て行く背が見せた峻厳さは、必ず自分が帰って来るのを総司は待っているのだと信じて揺るぎなかった。
それに思いを重ねたのは、むしろ自分の方だったのかもしれない。
先ほど危険な賭けを強いて飲ませた薬効は、未だその効果を現さない。
脈の打ち様は相変わらず不規則だ。
もしもこのままの状態が続けば・・・
居たたまれない焦りだけが、田坂を捉えて離さない。
「戻って来るさ」
そんなどうしようもない重苦しさの中にいた時、ふいに耳に届いた八郎の声は、だが自分へでは無く、眠り続ける病人に語りかけられたものだった。
声の主は、いとおしむような眼差しを、応え無き想い人に向けている。
或いは。
八郎も又土方に、一縷の希を託しているのかもしれない。
額にあった濡れ手拭を換えてやる八郎の手の動きを視界に入れながら、田坂はそんな事を思っていた。
「・・・雨、止みそうだな」
その田坂に、今度は視線を戻して八郎は笑いかけた。
「止むだろう」
今置かれている状況の中で、僅かにでも好転するものがあれば、全て先への光に繋げつけようとしている八郎の思いは、そのまま田坂のそれでもあった。
「止むさ」
今度は自分自身に言い聞かせるように、強く言い切って据えた視線の先にある、目覚めぬ瞳と蒼い頬の持ち主は、繰り返す息すらいつ止まっても不思議無いように危うい。
だがそれこそが、総司が生きて、ぎりぎりの瀬戸で踏みとどまっている姿だと思えば、田坂も諦めるという言葉をまだ知らない。
そのまま薬箱に視線を移すと、ひとつの抽斗に目を止めた。
其処には先ほど使った薬の残りが仕舞われている。
過ぎれば劇薬になるそれを、一度目は使うと決めた量よりも遥かに少なく服用させた。
間際でそうさせたのは、自分の裡にある怯む心だった。
二度目は・・・
「もう一度、飲ませるのか?」
その挙措を見逃さず、鋭く八郎が問うた。
「大丈夫さ。こいつはきっと堪える」
そう信じているのだと、向けられた八郎の双眸にある強い色は、或いは信じ込む事で、弱気に傾く己を律しているのかもしれなかった。
「飲ませなければならないのだろう?」
続けて重ねられた言葉は、田坂の心根深くまで見据えて、更に決断を迫るものだった。
怯むな、臆するなと、迷いにある者を、そんな風に叱咤し導く八郎の眼差しだった。
決意は一瞬にして固まった。
「白湯、残っているか?」
枕盆の上に置かれた湯のみを、田坂は目で示した。
「半分ほどだ」
「それで十分だ」
八郎の差し出す湯のみを、病人の胸の上高くで受け取りながら、この閉じられたままの瞼の奥にある深い色の瞳を、どうしてももう一度見るのだと、田坂の裡が激しく昂ぶる。
今度こそは、どんな事があっても引くことができぬ、最後の賭けだった。
「また、あんたが飲ませるのかえ?」
突然掛けられた声は、それまでの緊張に張り詰められた空気とは、およそ不釣合いに明るかった。
「悪いがな」
籠められた意味を一瞬の内に察して、田坂も唇の端を緩めた。
「今あんたが医者でなけりゃ許さないね」
まだ声音に笑いを含みながらも、それが嘘ではないことは、向けられた八郎の眸の奥に揺らめく激しいもので知れる。
いっそ苛烈とも思えるその視線を、田坂は跳ね返すでもなく逸らせた。
「これで医者というものも中々に不便なものさ」
言いながら包みにあった粉を口に含み、再び病人の口を割った。
今重ねる唇は、意志ある者との抱擁ではない。
医者でなければもっととっくの昔に、激しく自分をぶつけているだろう。
医者と人との狭間で、もう傾いているのは総司ひとりを想う田坂俊介だという事を、嫌という程知っている。
ゆっくりと唇を離した時、微かに白い喉が上下した。
それを安堵の内に見守りながら、嚥下されずに横に漏れ、零れ落ちたひと雫が、総司の抗いのように田坂には思えた。
真向かいに座す八郎の、射るような視線を承知しながら、この際(きわ)にあってそんな事を思う自分を、田坂は苦く笑って叱咤した。
今与えた液体が、病人の喉を過ぎ、血に肉に、臓腑の隅々まで行き渡り、身体を覆う熱を鎮め、やがて瞼が微かに動き、その隙から黒曜石の深い色に似た瞳が覗き、今一度光を持って全てを映し出すまで・・・・
自分は医者でなければならない。
まだ呼吸は油断できぬほどに細い。
折れそうに頼りない手首に触れる血脈は、時折測るにも難しい。
白いを通り越し、皮膚の下に浮く血の色などひとつも無いと思えるような頬を見つめながら、生きてくれと、ただそれだけを田坂俊介は祈っていた。
ひたすら南に下って四半刻も行かず、探していた家作はあった。
それは強い風が吹けば、板戸の一枚も剥がれて飛んで行ってしまいそうな粗末な造りだった。
どの家もみな、戸は古びて障子の色は黄色く変わり、木の桟との際は糊が取れ、紙が破れ掛かっている。
日中とはいえ、この雨で外にいる人間はおらず、土方は丁度出てきた職人風の男に教えて貰った、一番奥の行き詰まりにある、井戸に近い家の戸口に立っていた。
果たしておゑいは居るのか・・・。
「御免」
そんなことを考えるよりも先に、逸る心は内に向かって声を掛けていた。
だが予期したとおり、応えは無い。
いっそ不自然とも思える静けさだけがある。
「参次からの伝言だ」
偽りは、事も無げに滑り出る。
そしてすでに筋書きは出来ていたのかのように、中で戸口の際までやって来る人の気配がした。
それでもまだ警戒を捨てきれないのか、内からの突かえ棒が外される様子はない。
短い軒は下に宿る者を庇う殊勝など無いらしく、まだそぼ降る細い雨が、纏っているものに容赦なく染み込んでゆく。
「簪を預かってきた」
切り札は、姿を見せぬ人間に想像以上の効果をもたらしたようだった。
先程まで固く閉じられていた戸が、建て付けの悪さを焦れて、音を立てながら開けられた。
漸く全部を端に押し遣って、外に広がった視界を遮るように立っていたのが、思いもかけない武家姿の男だったことに、おゑいは怯んで一歩退いた。
「参次はいるか」
その一瞬の戸惑いすら許さず、土方は女の逃げ道を塞ぐように、土間に足を踏み入れた。
ただ首を振るおゑいの顔貌(かおかたち)が、家の中の薄暗さに慣れた目に細部まで判別できた。
際立って、美しいと形容できる女ではない。
だが天道が照らす眩い陽に、不釣合いで無い笑みを浮かべることができるだろう。
化粧気の無い顔は、今は恐怖だけに捉われてはいるが、そういう潔さ明るさをこの女は持っている。
惚れた参次という男、元は真っ当な人間だったのかもしれない。
ただ慄きの視線を向ける女を見ながら、土方はふとそんな事を思った。
だが感傷は瞬時にして打ち捨てねばならなかった。
今も光を見つけられず呻吟し、自分を求めて見えぬ先に瞳を凝らし、闇に留まる総司の姿を思えば、此処で順序立てて問う間すら惜しまれる。
その焦りが土方に全てを省かせた。
「参次に会いたい。会ってこれを・・・」
言いながら、懐から取り出した小さな袋を乗せた手のひらを、土方はおゑいに差し出した。
「返したい」
それでもおゑいは暫く警戒を露わに土方を凝視していたが、ちらりと開かれた掌に目を移した時、眸は大きく見開かれ、弾かれたようにその手の主を見上げた。
「参次のものか?」
念を押す問い掛けに慌てて頷いた顔が、今度は驚きに戸惑っていた。
「・・・あの人のもんどす」
言葉にして是と応える声音は意外に低く、だが尖って甲高い処が無い分、静かに染入るように柔らかい。
「あの人が・・・国を出るとき、おっかさまが持たせてくれはったと、そう言うてました」
緊張で時折掠れはしたが、最後までしっかりと、おゑいは土方を見て告げた。
「参次は何処に居る?」
「知らんのどす」
それまで怯えながらも気丈に向けられていた視線が、応えと共に、つと逸らされた。
それが嘘か実か・・・
判じるを探る土方の思惑を感じ取ったのか、おゑいはすぐに面を上げた。
「ほんまに知らんのどす・・」
偽りを言っているにしては、おゑいの眸にあるものは真摯すぎた。
「信じてくれはらなくてもええ。せやけどほんまに十日ばかり前に出ていったきり・・・。待っても待っても帰って来ぃへん」
沈黙が生まれるのを厭うかのように、おゑいは少しずつ語り始めた。
「何処でどうしているのか・・なんも分からへん」
隠そうとして敵うものではなかったらしい・・語尾が正直に沈んだ。
まだその先を紡ごうとしている唇を見ながら土方は、或いは目の前の女は、自分の心に鬱積するものを、誰かにこうして吐き出す機会を待っていたのかもしれないと思っていた。
だがこの中でこそ手がかりを掴めるのであれば、今はその一言一句も聞き逃すことは出来ない。
「参次の立ち寄りそうな処は?」
独り語りを補い、その後を繋げて土方は問うた。
「・・・あらへんのどす。・・うちらは奉公先で知りおうて、年季が明けるまで待てずにお店(たな)を飛び出したんですわ・・せやし真っ当な顔して世間様と付きおうて行けるような身と違います・・」
おゑいの口調に、ふと自嘲するような響きが籠められた。
多分その店の主は、この女にとって恩のある人間だったのだろう。
「簪・・」
ふいに呟いて土方を見上げた顔が、初めて笑みを浮かべた。
「騙されてしもうた」
それが此処を開けさせる為に使った嘘を指していると、漸く土方は気づいた。
「どないして、簪なんて言わはったんやろか・・」
問う声に咎める響きは無く、むしろ含むような笑いがあった。
「この護り袋が簪の房の下になっていて、返すことができなかったそうだ。探すうちにその簪が、一目で誰が作ったものかが知れるような細工を施したものだと分かった。・・・これだけが、聞けば参次が持っていた他の商売道具とは釣り合いが取れない。それ故何か所以のあるものだと思った。だがそのお陰で、こうして此処まで辿り着けた」
どんな事も、もう隠すつもりはなかった。
参次の居場所を知っていると、僅かにでも片鱗を見つけられたのなら、それを聞きだすのに土下座する事など覚悟の内ではなかった。
「・・・その簪、うちらが奉公していた店の奥さまがくれはったもんですのや」
「店の女将が?」
おゑいはついさっき、年季の明けない奉公先を飛び出したのだと言った。
「親の無いうちを八っつで引き取ってくれはって・・・旦那さまも奥さまも可愛がってくれはった。ある日店に出入りの腕の立つ飾り職人はんが、ええ出来やと珍しく自慢してはった簪に見とれていたら、いつか嫁に行くときのはなむけや言うて、買うてくれはったんどす。・・・そない良うしてもろうて・・。けどあの人と所帯を持つことだけは、きつう反対しはった・・きっとこないになるのが分かってはったんやろなぁ」
声音は来し方を悔恨するというよりも、穏やかだった昔を懐かしんでいるように柔らかだった。
其処までしてくれた主人夫婦を裏切ってまで、おゑいは参次と一緒になりたかった。
だがその男が、今度は自分を裏切ろうとしている。
おゑいの心に今あるのは、薄っぺらな言の葉に乗せて語りつくせるものではないのだろう。
崖っぷちに立たされているのは、参次ばかりではないのだ。
それを思えば土方の胸にも重いものがある。
「せやから簪の事言われた時には、まんまと騙されてしもうた」
土方の心を知らずして、今度は小さな声を立てて笑う顔に湿ったものは無い。
否、いっそ全てを諦めた潔さすら垣間見える。
その強さこそが、この女の本質なのかもしれない。
「お侍はん、どっちから来はりました?」
「東寺から南に下ってきた」
「ほな途中で木に囲まれた、こんもりしたお稲荷はんがありましたやろ?」
「気づかなかったが・・」
脇目もふらずに此処まで来た土方に、周りの景色は記憶の欠片にすら残っていない。
「・・・あの人は、じきに其処に来ます」
渇望していた応えは、何の衒いも無く、ごくありふれた会話の途中で紡がれた。
一瞬言葉を呑んだ土方に、おゑいは笑いかけた。
「返してやって欲しいんですわ・・それ」
少しあか切れた指が、土方の掌にある護り袋をさした。
「・・・段々商いにも身が入らんようになって・・昼から博打打つようになって・・そんでもその護り袋だけは肌身離さんかった。それはあの人の弱みですのや」
「弱み?」
「その護り袋を大事にしてるうちはまだ人の心を持っていてくれはる。人の心のあるうちは神さんかて仏さんかて怖い思わはる・・。恐れる弱気があれば、とことん悪い人間にはなれへん・・・せやし、その護り袋があの人を護ってくれはる。それがあればあの人は人でいられるんですわ」
おゑいの眸は土方に向けられてはいたが、更にその先を見ていた。
其処にいるのが、情人の姿であることは容易に知れることだった。
「・・・本当に来ると?」
おゑいの切ない心情に触れつつも、だが土方は今一度問わずにはいられなかった。
「うちはもう少ししたら、仕事に出ます。・・・一膳飯屋を手伝どうてますのや。店の行き来にはその前を必ず通ります。・・・一度だけ、居なくなってからあの人らしい人影が其処からうちを見てました・・。けど、今日は最後やもの・・。きっと見ててくれはります」
最後は、情人への未練を断つように言い切って見上げた眸が、誰でも良いからそうだと言って欲しいと願っていた。
おゑいは参次が自分を形代に、今夜博打を打つ事を知っている。
そしてその負けの代価として自分が差し出される事も。
逃さぬように見張りの目は、ここ数日おゑいから離れることはなかったのだろう。
「うちの事、あほな女や思うておくれやす。せやけどうちはあの人に尽くすのと違います」
紡がれ続ける言葉は、土方が何かを言わんとするのを遮るように、息継ぐ間も無く一気に語られた。
「それがうちの選んだ男なんどすわ。・・・そうしてこれは人さまの恩を仇で返しても、地獄の果てまでついて行きたいと、そう自分で決めてしてきた事への始末ですのや」
だから同情などしてくれるなと、だがその言葉の裏返しに、優しい言葉を掛けられたら弱気に傾く心に触れないで欲しいと願うおゑいの本当があった。
自分が立ちはだかる事で、参次はおゑいに会う事無く逃げ去るかもしれない。
それでもおゑいは、逢いたいと、泣きたい程に狂おしい自分の心を叱りつけて抑え、道を外した情人に、まっとうに生きて欲しいと希(こいねが)った。
それほどまでに。
おゑいは未だ参次に惚れている。
その最後の逢瀬を邪魔する結果になりかねないのを承知で、自分に居場所を教えてくれた女に、土方はただ黙って頭(こうべ)を垂れた。
「かたじけない」
他に掛ける言葉は無かった。
外の雨は、音もなくまだ降り続いているのだろうか。
ひっそりと湿った空気の中で、おゑいが静かに首を振った。
「それ・・ほんまはどなたはんが拾おておくれやしたんどす?」
戸口から、再び雨の中に飛び出そうとした土方の背に、ふいに声が掛かった。
「お侍はんの大事なお人・・・ですやろか?」
「俺の弱気だ」
一瞬の間もおかず躊躇いなく返って来た応えに、おゑいは笑った。
「図星や。・・・けど・・、そのお方に、おおきに言うていたと、伝えておくれやす」
その言い回しは、おゑいからではなく、持ち主の参次からだと伝えろと、土方に言っていた。
意図を判じかねて自分を見る双眸に、おゑいは微かに笑みを浮かべた。
目の前の侍は自分の想い人の為に、粗末な護り袋の主を探して奔走している。
二人の絆は解くが難しい程に強いものなのだろう。
そしてどういう訳か知らないが、拾い主には直接探せない事情があるらしい。
だがその者は、この男をそうさせるに値する心根の持ち主なのだろう。
だからもしも、これから堕ちる自分の身の上を知れば、拾ってくれたのだという人間は哀しむに違いない。
そんな気がする。
要らない事は、ずっと言わないでおく方がいい。
きっとその方がいい。
「伝えておくれやす」
おゑいの顔に、今一度笑みが広がった。
掛けた声に、少しも暗いものはなかった。
「五条の橋の西側に小川屋という薬種問屋がある」
だが返ってきたのは、伝えた言葉に対する応えではなかった。
言っている事が分からず、おゑいの顔から笑みが引いた。
「其処に行け」
短く、だがはっきりと告げられた一言だった。
それが自分を匿まい、逃してくれる術なのだと知るのに、時はかからなかった。
おゑいは少しの間土方の顔を見ていたが、再び首を振った。
「決めた事ですのや」
薄暗い家に響く声音は、むしろ穏やかに静かだった。
土方は暫しおゑいを見ていたが、やがて無言のまま、先ほどよりも深く頭(こうべ)を垂れた。
それが、今土方にできる全てだった。
後ろで閉められる戸の、軋む音がした。
それを背中で聞きながら、土方は振り返らず進める歩も止めない。
弱気があれば人でいられる・・・
おゑいの言葉が蘇る。
それがどうなのかは分からない。
分からないが・・・
自分にとって総司を失う事は、この世の全てを、三千世界を取り巻くあらゆるものを、否、それすら遠く足りず天すら敵に回したとて、決してあってはならない事だった。
或いは。
総司を我が身から切り離そうとするものには、例えそれが儚く息する一寸の虫だとて、容赦なく牙剥き爪刺す自分は、すでに人ではないのかもしれない。
想い人の息の緒を繋ぎとめる事ができるのならば・・・
とっくに人など捨てている。
土方は更に顔を上げると、行く手を阻むもの何ものをも許さぬように、煙雨に霞む正面を見据えた。
きりリクの部屋 煙雨(五)
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