眠れぬ夜を幾つすごし
尽きぬ吐息を幾つ数え
折りし指の幾度目かを知らず
せめて雨に濡れぬようにと
せめて雪に埋もれぬようにと
しらじらと明けゆく道のその先に
ゆらゆらと染まる茜のその果てに
ただ思う人の影を待つ
10000御礼 真琴さまへ
断 つ -tatu- 壱
身を切るほどでもないにしろ、
日が落ちかけて冷たくなった風に急(せ)かされるように足を急がせたが、
それでも五条の田坂医師の診療所に着いた時には、
辺りはすっかり夕暮れ色に染められていた。
「まぁ、沖田はん、そないに息切らせはって・・」
玄関で案内を乞う声に応えてくれたのは、
この診療所を一人で切り盛りしているキヨという初老の女性だった。
「遅くなってしまいました。あの、田坂さんは・・」
まだ整わない息を押さえながら、総司は遠慮がちにキヨに問い掛けた。
「若先生は奥にいてはりますえ。さぁ、おあがりやす。寒うおしたやろ」
キヨは総司がここに通い始めた頃から何かにつけて親切にしてくれる。
夏の初めに一月程療養の為に厄介になってからは、
それこそ身内のようにあれやこれやと世話をやく。
それは総司にとっても嬉しいことだった。
時折、母親とはこういったものなのかと思うときがある。
「もっと早くに来るつもりが・・」
「どこかで寄り道でもしておいでやしたんやろ」
「秘密です」
小さく笑いかけて口を噤んだ。キヨには甘えることができた。
「けど、丁度よかったわ」
「何がですか?」
「若せんせい、今夜お出かけですよって、
沖田はんが来はるのをお待ちしておりましたんえ」
「それは知らなくって。・・・すみません」
「沖田はんが謝ることは、これっっぽちもあらしません」
申し訳無さそうに瞳を曇らせた総司を、キヨは笑った。
「でも、田坂さん、遅れてしまわないでしょうか・・」
「若先生がいつまでも、ぐずぐずして日を延ばしはったの悪うおすのや」
非難めいた言葉の終わりに、キヨがひとつ溜息をついた。
「田坂さん、そこに行かれるのが嫌なのですか?」
「そりゃ、もう」
「田坂さんにも苦手なものがあるんだ」
廊下を渡りながら、総司の楽しげな笑い声が響いた。
「遅くなってすみません」
それでも神妙な顔つきで田坂のいる診察室に入ってゆくと、
何とも言い様の無い、きつい匂いが鼻についた。
かなり香の強い植物の根を轢いていたらしい。
その手を田坂は用意してあった盥(たらい)の水で洗っていた。
「これ、何ですか?」
「君に飲ませる薬だよ」
そっけない答えに総司が不満げに頬を膨らませた。
「こんなに匂いが強くては飲めません」
「強くなくても飲まないだろう」
「そんなこと・・」
躊躇いがちに紡いだ言葉が、言いよどんで途中で消えた。
今日この診療所にやって来るのが遅くなった訳が、実はそこにあった。
昼前に終わるはずの巡察が思わぬ捕物で長引いて、
屯所に戻ってきたのがもう夕刻に近い時間になっていた。
今日は「一」のつく日で、五条の田坂の診療所に診察を受けに行かねばならなかった。
土方に報告だけ済ませて出かけようとしたときに、ふいに呼び止められた。
「お前、昼飯はどうした」
「・・戻って来てから食べます」
「夕飯になる」
「では、一緒に食べます」
「ばか、それでは結局食べないのと同じだろう」
「でも急がないと・・・」
「お前、近頃薬を飲んでいないだろう」
「飲んでいます」
「嘘を言え」
「嘘ではありません。今朝だってちゃんと・・」
「ちゃんと捨てていたようだな」
言い当てられて、正直に狼狽した。
「何故飲まない。飲みにくいようなら田坂さんに相談するなりしろ」
「捨てたのは今朝だけです。巡察に行くのに間に合わなくなってしまいそうで、
それでつい・・すみません」
そのまま無意識に目を伏せて、土方から視線を外してしまった。
「嘘を、まだついているな」
下を向いてしまった総司に、土方は容赦がない。
「総司」
鋭い声に、やっと面(おもて)を上げた。
「・・・これからはちゃんと飲みます」
その言葉も叉嘘だということは、見据えれば逸らそうとする瞳で知れる。
「俺は嘘をつくなと言っている」
「ほんとうです」
総司の表情は必死だ。
ここまで総司が頑なになるのには何かわけがあるはずだ。
だがそれを問い質(ただ)したところで絶対と言っていいほどに
総司はその本心を話しはしないだろう。
自分を見る黒曜石に似た深い瞳の色は何かを隠し、
それを知られることに不安げに揺れている。
だがその更に奥深くには、決して揺るがぬ固い意思の色をも、また湛えている。
土方はひとつ息をついた。
「お前がそうして嘘をつき続けたいのならばそれでもいい。俺はもう何も言わない。
だが薬を飲まなければどうなるのか、良く分かっているはずだ」
静かに諭すつもりで語っていた言葉には、次第に苛立ちの色が混じってくる。
総司の身体には一時の油断も許されない宿痾がある。
それは内からその若い肉体を侵し続け、遂には総司の生を終わらせる。
労咳という病を治す術はない。
ただ滋養のあるものを食し、薬を服し、
静かに身を横たえて、その進行を少しでも押さえる他に手立ては無い。
が、新撰組の幹部としての日々を送る総司には、その方法すらごく限られる。
薬を服さなければ、それはそのまま己の命を縮めることに繋がる。
「どうして薬を飲まない」
思わず声を荒げた。
それにも総司は顔を上げず、そこに身体を硬くして座ったまま一言も発しない
総司の己の生への無頓着さに言い様のない憤りが走った。
そして、自分に隠し事をしている総司が許せなかった。
「勝手にしろっ」
言い捨てるようにして、土方は席を立った。
そのまま振り向きもせずに室を出て行ってしまった。
出掛けにあった土方とのやりとりが思い出されて、総司は小さな溜息をついた。
「溜息をつきたいのはこっちだぜ」
「・・・えっ?」
「薬、飲んでいないのだろう」
「飲んでいます」
「診ればわかることさ」
むきになって否定する総司に、田坂は支度をするように促した。
さらした肌に耳をつけていた田坂が、ゆっくりと顔を上げた。
「いつから飲んでいない?」
「・・・何を?」
「医者の目を誤魔化すのは無理だよ」
「この間来た時・・・、十日前か・・あの時におかしいとは思った。
だがまさかあれからずっと薬を飲んでいなかったとは思わなかった」
総司に向けた田坂の目が厳しかった。
その視線を避けるように、総司は俯き加減で袖に腕を通している。
「俺は信用ができないか」
低い声に、思わず顔を上げた。
そこに今まで見たことのない、田坂の険しい双眸があった。
「田坂さんを信用できないなんてこと、あるはずがない」
「それならばどうして薬を飲まない」
その問い掛けには応えず、黙ったまま総司はまた瞳を伏せた。
「・・・・言えないのか」
気まずい沈黙を破ったのは田坂が先だった。
「土方さんは知っているのか」
それには小さく頷いた。
「原因は土方さんか?」
「違います」
瞳を上げて、今度ははっきりと応えた。
「もう少し。もう少しだけ、許して下さい」
「医者として、そんな事は聞くわけにはゆかない」
こればかりは田坂も譲れない。
「近藤さん、留守だって言っていたな。それでは明日、君の休暇を土方さんに頼む」
「田坂さんっ」
「薬を飲まないのではそうするより他はあるまい」
「あと五日ほどしたら、必ず言うことを聞きます。だから・・・」
「では休暇は十日は必要だな」
「お願いです、土方さんには・・」
思わず詰め寄ろうとしたとき、障子に人影が動いた。
「若せんせい、お使いの方がお見えにならはりましたけど」
キヨの声だった。
「すぐに行く」
立ち上がると、まだそこにいる総司を見下ろした。
「明日、屯所に行く」
その言葉にもう顔も上げず、身じろぎもしないで総司は座っていた。
田坂が出て行ってどのくらいの時間が経ったのだろう。
そう大した時間ではないはずだが、辺りが薄闇に包まれ始めている。
漸くのろのろと膝を立てて立ち上がろうとした。
もう、帰らなければならない。
出掛けの出来事を思いだせば心は重いが、それでも戻らねばならない。
「沖田はん、もう少し休んでいかはったら・・・お顔の色がようあらしまへんぇ」
いつも間にか室の入口まで来ていたキヨに声を掛けられて驚いた。
その気配にすら気付かなかった自分はまだ酷く動揺しているらしい。
「大丈夫です」
無理に笑い顔を作ってキヨに向けた。
「あんまり大丈夫そうやおへんなぁ」
キヨが疑わしそうに覗き込んだ。
「若せんせい、沖田はんを苛めてはるみたいやったから、邪魔したんです」
「ああ、それでキヨさんは・・」
キヨは患者の診察中に邪魔をするような事は決してしない。
それが先ほどは珍しく強引に来客を告げに来た。
「また、何ぞ言われましたんか?
若せんせいも、ほんまはお優しい人なんやけどなぁ。
沖田はんのことがえろう心配なんですわ」
慰めるように言うキヨの言葉に、総司はそれでも笑みを浮かべた。
「何も・・・。私が我儘を言ったのです」
「少しくらい言わはったらええのや。沖田はんはおとなしすぎはるんやわ」
「そうかな」
「そうですとも。若せんせいなんかは、我が強すぎてあきまへん。
今日かて、縁談のお話お断りしに行かはりましたんえ」
「田坂さんのご縁談ですか・・?」
キヨは重々しげに頷いた。
「田坂さん、気に入らなかったのですか?」
「そうどすやろなぁ。もう先(せん)にお断りしはったお話やったんけど、
先様がどおしてもと言われはって・・・・。
それが大層ご恩のある方のお嬢はんで、若せんせいも困ってはるんどす」
「田坂さん、好きではないのかな、その人のこと」
「若せんせいは他にお好きな方がおいやすのや」
キヨが溜息混じりに呟いた。
それは初めて聞くことだった。
田坂が心を寄せる相手がいるということに、正直に総司は驚きの色を顔に出した。
その瞳を見ながら、キヨは少しだけ複雑そうな顔をした。
「お断りに行くのは気が重うおすのやろ。
せやから沖田はんに八つ当たりしはったんやわ」
堪忍え、ともう一度笑ったキヨの顔を、総司は困ったように見ていた。
田坂の不機嫌の原因は確かにそれもあるだろうが、
自分が怒らせてしまった事には相違ない。
日が落ちてすっかり暗くなった道を、白い息を吐きながら、
キヨに借りた提灯の灯を頼りに屯所に戻って来ると、土方の姿はなかった。
聞けば紀州藩の公用人三浦休太郎と会いに出かけたという。
先月の初めに長州に発った近藤の不在を守って、土方は今目の回るほどに忙しい。
月が替り師走もすでに十日を過ぎても、近藤はまだ戻らない。
土方が居ないことを寂しいと思いながらも、
顔を合わせずに済んだことに、総司は安堵した。
流石に疲れて自室に戻ると壁を背にして、凭れるようにして座り込んだ。
行儀の良い姿ではないが、今の総司には取り合えず楽になる姿勢だった。
「そういえば、何も食べていない・・・」
独り言のように呟いた途端に、寒さに震えた。
まだ行灯に灯も入れてはいない。
賄い方に行けば何か食事が用意されているのだろうが、それも億劫だった。
「・・・薬、やっぱり効いていたのかな」
心のどこかで気休めと思って飲んできた薬も、それなりに効果はあったようだ。
現に飲まなくなってからは身体の疲れ方が酷く違う。
田坂から処方される薬の服用を止めて一月になる。
誰にも見止められぬように細心の注意を払ってして来たつもりだったが、
土方と田坂の目は誤魔化せなかった。
「・・・どうしよう」
闇に問い掛けたところで、もうどうにでもなるものでもない。
遣る瀬無い息をついて、そのまま畳の上に横臥した。
空気はこんなに冷たいのに身体が火照るのは、
少しばかりの微熱に侵されてきたせいなのかもしれない。
「田坂さん、本気だろうな・・」
田坂俊介という医師は患者への妥協を絶対にしない。
田坂は明日言ったとおりに土方の元にやって来るだろう。
そうしたら自分は叉隊務を離れなくてはならなくなる。
ただですら近藤の留守を預かって、
気を緩める隙も無い日々を強いられている土方を思えば、
自分ばかりがおめおめと休んでいることはできなかった。
横にしていた身体を仰向けにして、ぼんやりと闇の中で天井を仰いだ。
額に手をやると、確かに普通ではない熱さが伝わった。
それでも薬を飲むことはできない。
そして戦列を離れることも、また出来ない。
「・・・あと、少し」
小さく声にして、瞳を閉じた。
きりリクの部屋 断つ 弐
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