断 つ   弐






翌朝目が覚めた時には、もうずいぶんと辺りは明るくなっていた。
冬の日が回るのは遅い。
寝すぎたと、あわてて起き上がった時に体がふらついた。
体調は良いとは言えないようだが、そんなことは言ってはいられなかった。
手際よく身支度を整え、廊下に出て、ふと足を止めた。


朝起きて土方のいる室に向かうのは、総司の日課だ。
それは主が居ても居なくても、必ずそうしてきた。



(どうしようか・・)

昨日の昼間土方を怒らせてしまった。
今までならば例えどんな事があっても、この慣習だけは止めなかった。
だが今回は違う。
もし何故薬を服さないと再び問い詰められても、
自分はそれに答える訳にはゆかない。
立ち竦んだまま、思案にくれた。



「沖田先生」
背後に人の気配がして振り返るのと、声を掛けられたのとが同時だった。
見れば土方付きの見習い隊士が膳を手にして其処に立っていた。

「なんでしょう」
「土方先生が沖田先生が起きられたら、副長室に来られるようにと」
「すみません。今ゆきます」
ではこの人の良さそうな隊士は、
自分が目覚めるのを待っていたのだろうかと思うと、申し訳なさが先に立った。
「いえ、それよりも・・」
「・・・何か?」
「先に食事をとられるようにと。
副長室にゆかれるのはそれからで良いと言うことです」
もう本来ならば賄い方で、皆食事を終わらせている頃合なのだ。
それを自分だけが起きてゆかない為に、わざわざ膳を別に用意させてしまった。

「すみません・・・」
今度こそ総司は頬に朱を上らせた。





副長室の手前で躊躇(ためら)って立ち止まった。
どういう風にして土方と顔を合わせて良いのかわからない。



「さっさと入って来い」
だがその総司の憂慮を叱咤するような土方の低い声が、内から聞こえた。

「・・・遅くなりました」
俯き加減に桟に手を掛けて、障子を開いて目を上げた先に、
端座している知った顔を見止めて息を詰めた。
そこに田坂俊介医師がいた。

「座れ」

呆然と立ち尽くした侭の総司に土方が促した。
言われるまま土方の前に膝を折り、もう一度田坂を横目で見ると、
その表情はいつもと変わらず、
総司の視線を感じても一瞬ちらりと眸を動かしただけだった。


今日は起きたら朝一番に田坂のところに行くつもりだった。
土方に会うのを待って欲しいと、もう一度そう懇願するつもりだった。
が、田坂の動きの方が早かった。


自分は隊務から外される・・・・
覚悟を決めても顔が強張るのが分かる。
観念したように瞳を閉じた。



「お前は今日から田坂さんのところで預かってもらう」

突然の土方の言葉に、弾かれるように伏せていた顔を上げた。

「何故・・」
短い一言なのに声が掠れた。
「自分で自分の身体を管理できないのならば、人にして貰う他はなかろう」
土方の言葉は容赦が無い。
「できます。ちゃんとします。だから・・」



「無理だろう」
土方に詰め寄る背後から、静かな声が聞こえた。
ゆっくりと振り返った視線の先に田坂の厳しい双眸があった。

「薬すら飲まない人間にできるはずはない」
「飲みます。これからは」
「嘘だな」
「嘘ではありません」



必死に見つめてくる瞳には、だがその本当の奥を探らせない強い意志の色がある。
きっと総司には理由があって、
それがこの暴挙とも言える行動の原因になっているのだろう。
そしてそれは多分、総司自信の為のものではない。
総司は決して自分を優先させはしない。
いつも自分以外の人間のために己を殺す。


この激しいまでのひたむきさに、心奪われているのは自分だ。

目の前の若者は、自分の想い人だった。


だがその命を代償とする今回の行為だけは、目を瞑る訳にはゆかなかった。
それを許さぬのは、医師としての、
あるいは田坂俊介という個人としての自分だった。




「君の身体はもう土方さんから預かった。支度をしてきなさい」
「行きません・・」
瞳を大きく瞠ったまま、総司の声が震えた。


「総司、副長命令だ」
鋭い響きは土方から発せられた。

のろのろと、その声の主を見た総司を、
土方の有無を言わさぬ強い視線が射抜いた。








何もせずに過ごしてもちゃんと一日は終わる。
冬の陽射しは柔らかいながらも、午を過ぎれば映す障子の影が長くなる。


もう田坂の所にきて三日が過ぎた。
相変わらず薬には手をつけようとしない自分に、田坂は何も言わない。
それでも食事は少しでも滋養が取れるものをと、
心を配ってくれているのが分かる。

薬を服さないのならば、
せめてそういう細かい配慮ができるこの診療所に、
田坂は自分を連れてきたのであろう。


屯所を出る時に、あんなに怒らせてしまった土方が見送ってくれた。
早く帰って来いと、そう一言告げてすぐに奥に消えてしまったが、
その目は自分をここに遣る事は本意では無いと、確かに言っていた。

身を切られる思いだった。



「・・・やっぱり心配をかけてしまった」

縁の陽だまりの中に両の膝を抱え込むようにして座りながら、
横に投げ出した右の手の指で床の敷板の上に幾度か同じ文字を書いた。
書いた字の人に、切ない程に会いたいと思う。
でも今はまだ会えない。

言葉にすれば余計に辛くなりそうで、思わず抱えた膝の上に顔を伏せた。





「何を拗ねている」

ふいに掛けられた声の方を驚いて見ると、そこに伊庭八郎がいた。

「八郎さん・・・」
不思議そうに見上げる総司に、八郎が苦笑した。

「そんなに驚くことじゃないだろう」
言いながら八郎は腰の物を抜き取ると、総司の横に胡坐をかいた。
相変わらず隙というものがない、流れるような所作だった。


「どうしてここに?」
「ご挨拶だな、お前に会いに来たという他に用事があるのかよ」
「・・・すみません。土方さんに聞いたのですか?」
「さっき大坂に戻るついでに屯所に寄ったら、
土方さんが苦虫を潰したような顔をしていた。
どうしたと聞いてやったらお前がここに居ると答えた」
「土方さん、変わりありませんか?」
「どうにかしてやりたいね、あの無愛想は」
短い言葉の中に、皮肉と諦めと、そして昔馴染みに対する情があった。

「最近外で、嫌でも色々な人と付き合いをしなくてはならないから・・」
その八郎のうんざりとしたような声音に、総司は思わず笑った。

「お前も思ったより元気そうだな」
「病気じゃないから」
「聞かない我儘って奴は、病気よりも始末が悪いだろう」
「・・・土方さんが言ったのですか」
「あの人のああいう顔を見るのは、俺には至極爽快だがな。
が、今回ばかりは俺の意見も土方さんや田坂さんと同じだぜ」
「我儘を言っているのは、分かっている・・」
八郎に向けていた視線を、逸らして中庭にやった。


「何か訳があるんだろうが、聞いたところでお前はそれを言わないだろうな」

総司は黙ったままだ。
だがその横顔は、はっきり拒絶の意思を湛えて固い。

「近藤さんのことか」

その言葉に一瞬、頼りない背中が震えた。
やがて怯えたように向けられた瞳が、それが是だと答えていた。



「そんなことだろうと思っていたさ」
呆れたように、だがどこかに言い当てたことへの安堵の色を声音に滲ませて、
八郎が息をついた。

「近藤先生とは関係がない」
ぶっきら棒に言い切ったが、あからさまな動揺は隠しようがなかった。

「薬断ちの願掛け・・・という奴か」
「関係がないと言っている」
「そうすると、お前、ひと月以上も薬を飲んでいないのか」
「違う、そんなんじゃない」

「それは土方さんでなくても怒りたくなるな。俺だってそうだ。
ましてあの田坂さんは医者だからな、腹が立つくらいじゃ治まらないだろう。
よくも辛抱をしてこんな馬鹿な奴の面倒を見ていてくれるものだな」
八郎の言葉はいつに無く辛辣だった。


「お前のやっていることは自分の命をすり減らしていることだ。
それが分かっているのか」

総司は答えない。
沈黙する事で殻に閉じこもり、頑なまでに自分の意思を曲げようとはしない。
それが八郎の神経を嬲(なぶ)る。


「たとえ近藤さんが無事に帰ってきて、お前のことを聞いても、
あの人は少しも喜ばないだろうよ。
いや、むしろお前のとったこの行動を愚かだと嘆くだろう」
「・・・それでもいい」
「いいのはお前だけだ」
思わず語気が荒くなった。


その怒りを跳ね返すように、総司の瞳がしっかりと八郎を捉えた。

「それでもいい」
もう一度、はっきりと言い切った。

「私にできることは、これだけしか無い」





今回の近藤の長州への西下は、幕府の長州訊問使に同行してのものだった。
新撰組にとって天敵とも言える長州に下ることは、
そのまま近藤の生命の危険でもあった。
近藤は土方の反対を押し切って、この使節団に加わった。

先月十一月の初めに近藤がいよいよ長州に下る前の夜に、総司は近藤に呼ばれた。
近藤と二人だけで改まった話をすることは、最近では珍しいことだった。
それでも翌日からの事があったから、総司には胸に落ち着かないものがあった。

近藤は総司を目の前に座らせると、一通の書状を差し出した。
目を通せと言われて読み進むうちに、顔が強張った。

『剣流名沖田江相譲申度・・・・・』

その一点ですべての思考が止まった。
思わず目を上げた先に、師近藤勇の包み込むような双眸があった。


「俺に万が一の時は、お前を天然理心流の後継者にすると、
そう、佐藤殿、小島殿、粕谷殿の三人にこれと同じ書状を送っておいた」
佐藤彦五郎、小島鹿之助、粕谷良順の三人は天然理心流、
ひいては新撰組の強力な後援者である。
近藤は今回の長州西下への危険を察し、この三人に宛て、
総司に天然理心流を任せるとしたためた『遺書』を送ったのである。




近藤は命を賭けて敵の地に赴いた。
ならば自分も命を賭けて、その無事を願う他になかった。


「私にはこれしかできない」

総司の黒曜石の深い色に似た瞳の奥に、
もう何事にも揺るがぬ強い色があった。






「少し宜しいでしょうか」
患者が途絶え、田坂が一人になるのを見計らうようにして、八郎はやってきた。

「どうぞ。暇になったところです」

田坂と差し向かいに座って、
八郎は以前にやはり同じような事があったことを思い出した。



あれは夏だった。

総司を江戸に連れて帰りたいと告げた自分に、
この目の前の医者は新撰組に残りたいという、
総司の願いを叶えてやりたいと言った。
田坂も総司を想っているのだと知ったのは、その時だ。
きっと今もその気持ちは変わっていないに違いない。

その田坂は今どういう思いで総司を見ているのだろう。
八郎の胸の内を複雑なものが過(よ)ぎった。



「何か言いましたか。本人は」
田坂の声が、八郎を現(うつつ)に呼び戻した。

「いえ、何も。相変わらず頑固な奴です」
八郎は先ほどの総司とのやりとりを思い出して苦く笑った。


「土方さんは近藤さんが関係しているのではないかと、そう思っているらしいが・・」
「知っていたのか、土方さん」
「やはりそうでしたか」
「近藤さんが無事に戻るまで、あいつは薬を飲まないでしょう」
「薬断ち・・・か」
「馬鹿な奴です」

その馬鹿に惚れた自分につける薬こそ、もうこの世にはなかろうと、
浮かべた笑みに自嘲の色が混じる。
だがそれでも今は、この目の前の恋敵に頼る他に術は無い。




「田坂さん・・」
八郎の低いが良く透る声が室に響いた。

「悔しいが、病からあいつを守ってやれるのは貴方しかいない」
低く田坂の前に頭(こうべ)を垂れた。

「総司を頼みます」
そのまま動かなかった。


「伊庭さん、私は医者です。
例え患者が要らぬ命だと言っても、それを守るのを勤めとしている人間です。
私はそれをまっとうするだけです」

下げたままの八郎の耳に響く田坂の声が、
何の躊躇いも無く、潔い程に力強かった。








「そんなところに居ると風邪をひくぞ」
突然の声に振り向くと、手燭を片手にいつのまにか田坂が立っていた。



急に冷えてきた空気に、
もしかしたらと雨戸を開けると、やはり雪が降っていた。
すぐに閉めるつもりだったが、
つい闇の中に白いものが消え行く様(さま)に見とれて立ち尽くしていた。
田坂の声を聞かなければまだ暫らくはそうしていただろう。


「すみません」

慌てて雨戸を閉めようとすると、
田坂がもう片方の手にしていたものを差し出した。


「どうせ風邪を引いても今は薬を飲まないのだろう。
それでは引かぬように気をつける他は手立てはないな。
キヨが君に作ったものだ。着てやれば喜ぶ」
それは藍に染められた木綿の綿入れだった。

「キヨさんが・・?」
「近藤さんはまだ戻れないらしいな」
田坂は総司の問い掛けとは別の返事をした。
その言葉の裏に、自分が薬を服さない理由を知られたのだと、
総司は瞬時にして悟った。


「・・・八郎さんに聞いたのですか」
「土方さんも同じ事を言っていた」
「なんだ・・知られていたのか」
呟いて小さな笑みを浮かべた。

「土方さん、田坂さんに何と言ったのですか」
「近藤さんが戻るまで頼むと言われた」
「・・・頼む?」
「君を止めることを諦めたのだろうよ。ついでに伊庭さんにも同じ事を頼まれた」
「八郎さんにも・・」



土方は知っていた。
自分が近藤の無事を願って薬断ちをしていることを。
言わずともそう感じていたに違いない。

それを知りながら土方も八郎も、あれ程に自分に怒りをぶつけた。
それ程に、自分の命を慈しんでくれた。

それでも、こんな勝手な自分の行動に目を瞑ってくれた。
そして田坂に頼むと、頭を下げてくれた。
二人の胸の内が有難かった。
その人達に、また余計な心配をさせてしまった。
それだけが辛かった。


促されるままに、キヨの作ってくれた綿入れを肩から羽織った。
人肌と同じ温もりが、そこにあった。





「田坂さん、縁談はどうするのですか?」
負の感情を断ち切るように、総司は殊更に明るく聞いた。

「縁談?」
「キヨさんが言っていた」
「おしゃべりだな・・」
苦々しげに顔を顰(しか)める田坂を、総司は面白そうに見ている。

「断ったよ」
「いいのですか?」
「何が?」
「恩のある方からだと、そうキヨさんが・・」
「関係はないさ」
「田坂さんは、その娘さんのことを好きではないのですか?」
「どうだろうな。考えたこともない。
が、他に惚れた相手がいるのに、嫁に来いとも言えないだろう」

総司は黙って田坂の横顔を見た。
そういえばこのあいだキヨが、
田坂には好きな相手がいるのだと言っていた。


「お兄さんのことを、田坂さんはまだ忘れられないのですか」
「兄?」
視線を戻して、田坂は訝しげに呟いた。
総司は小さく頷いた。



田坂が少年時代、血の繋がらない兄に禁忌の想いを抱いていたと聞いていた。
それは悲壮な結末に終わったが、
田坂はまだその兄のことが忘れられないのだろうか。
それならば、田坂の負った疵というものは、何と大きなものだったのか。
総司の表情が知らずに曇る。


「残念ながら、俺はそこまで一途な人間じゃない。
惚れているのは今生きている生身の人間さ」
「安堵した」
ようやく総司の顔が和んだ。



自分の古疵の深さを案じてくれている総司に、
今自分の目の前にいる人間こそが、惚れが相手だと告げたら、
この黒曜の瞳はどんな色を湛えるのだろう。

それが見てみたい。
いっそ走ってしまいたい衝動を、田坂はようやく止めた。


想いを告げることは容易だ。
だがそれをすれば総司の心は固く閉ざされるだろう。
それは横恋慕を強いる自分に対する非難からではなく、
受け入れることができない、総司自身の己に対する自責の念からに相違ない。

自分の惚れた相手とは、そういう人間だった。





「いい加減に寝ろよ。近藤さんが帰って来ても屯所に戻れなくなるぞ」

やや乱暴に言い置いて背中を向け、暗い廊下を進んだ。





多分、総司はまだ自分の背をみているのだろう。
その視線が胸に切なかった。












             きりリクの部屋   断つ 参