雪 圍 -yukigakoi- 弐
「・・・堀内?」
八郎は火鉢にある炭が、時折外気に触れて鮮やかな紅い色を熾すのを見ながら、怪訝に繰り返した。
「知らないのか?お前が九貝屋敷で話したのを聞きとめて、やって来たと言ったそうだ」
土方の声には微かな苛立ちが混じっている。
「俺が九貝殿に話した・・・それを又話す相手となれば、かなり親しい間柄なのだろうな」
「宗次郎の何を話した」
心当たりを考え込んでいる八郎に、問い詰めるような土方の口調だった。
「思った通りをさ」
宗次郎よりも一つ上に過ぎない八郎だが、年上の恋敵に合わせた視線の容赦の無さには既に少年の面影は無い。
「町道場の一角で埋もれ散らせてしまうにはあまりに悔しい、そう言った」
「余計な事を・・」
抑えきれない不満の当たり場所のように、土方は火箸を灰に突き刺した。
「何が余計なことだってんだ。あんただってそう思っている筈だ」
八郎の物言いはその土方を、まるで挑発するように強い。
「宗次郎の事を、お前にとやかく言われる覚えはない」
珍しく激しい感情を伴った土方の、叩きつけるような一声だった。
「そうか・・・。だがひとつ言っておく。宗次郎の剣は天賦のものだ。選ばれた者だけに与えられた稀有の才を、どうしてあんた達は日の当たる場所に出してやろうとはしない」
迸るように言葉を繋げながら、だが自分をここまで過激に走らせる己の本当の心を、八郎は嫌という程知っている。
胸の裡に、宗次郎への滾る恋情を抱えていると知った時から始まった日々は、何と辛く苦しいものか。
唯一無二の想い人が望む温もりは自分のものではない。
ただひとつ追い求め続けている背は、土方だけが持っている。
いっそ腕を掴んで振り向かせ、猛る想いのまま、宗次郎の身も心も自分のものにしてしまいたい。
一度箍(たが)を外せば怒涛の勢いで走り出す自分を、近頃では堪える事も辛い。
「あんた達は宗次郎の将来(さき)まで摘み取ってしまうつもりかっ」
宗次郎の、まだ埋もれさせたままの天稟にかこつけた、目も当てられぬ八つ当たりだと言う事は分かっている。
だがそれを八郎は、みっともないとは思わなかった。
宗次郎の全てを掌中にしながら、その想いに気づいてやれず、孤独の中にほうりっ放しにさせているこの男が今憎いと思った。
堰を切ってしまった激昂は、最早己でどうにでもなるものでは無い。
言い切って見据えた土方は、端正に造作された顔を歪めるでもなく、八郎の挑むような視線を逸らさない。
否、撥ね付けて向けられた双眸にあるものは、抑え切れない憤りだった。
「宗次郎の事に口出しをするな」
立ち上がりざま低く、唸るように言い捨てて、閉めてあった障子を乱暴に開け放ち、八郎を残したまま一度も振り返らず土方は室から出て行った。
大股に歩を進める度に、廊下の古い板張りが悲鳴のように軋む。
八郎の言う事は尤もなことだった。
すでに宗次郎の剣の才は誰もが認めるところだった。
近藤は宗次郎を育てあげ、やがて後継者とし、天然理心流という流派を世に知らしめる日を心待ちにしている風なところがある。
だが土方の念じるところは、その近藤の思惑とは別の処にある。
表舞台に出す切欠さえ作ってやれば、宗次郎はどのような僥倖に巡り合えるかもやしれない。
そう常に心にありながら、いざその機会に恵まれようとすれば途端に目を逸らせ遣り過ごそうとしてしまう自分を、土方は今まで見ない振りをしてきた。
宗次郎の行く末を案じ、幸いの中にあって欲しいと願う心よりも、まだ傍らから離したく無いと思う自分の方が遥かに強い。
誰に問うたところで紛れも無い酷い勝手を、八郎は鋭く見極め直截に責めて来た。
本来ならばそれにひと言も返せる自分では無い筈だ。
それでもあからさまに指摘された事へ、露に晒した怒りはまだおさまらない。
「畜生っ」
どこにもぶつけられぬ、若い苛立ちが迸った。
訪問客は、季節だけが浮かれ先走ったような、如月とは思えぬ小春日和の昼過ぎに現れた。
その前日、この道場の主近藤周斎の元に一通の書状が使いによって届けられた。
送り人は堀内左近。
試衛館からそう遠く無い番町に居を構える、二百石取りの旗本だった。
突然の無礼とは存じるが一度お願いしたき儀があると、墨蹟も鮮やかに書かれた書面の内容はそれだけで、使いの者は周斎からの返事を受け取るとすぐに帰って行った。
「良い天気に恵まれたもの。さては吉兆かな?」
駕籠も使わず徒歩で来たのか、堀内左近は表玄関で取り次ぎに出てきた宗次郎に、額にうっすらと浮かんだ汗を拭いもせず、穏やかな笑い顔を向けた。
大身の旗本という印象は、どちらかと言えば薄い。
その長身が纏っているものに、贅を凝らしたものはひとつも無い。
むしろ木綿の羽織も袴も、すべて質素と言い切れる。
だが飾りを全て削ぎとってしまった分、返ってこの人間の、剛毅な気性と品格を映し出しているようだった。
「約束の時よりもずいぶん早くに着いてしまったが・・・」
「周斎先生も若先生もお待ちしています」
堀内の心底困ったような風情に、客を迎えて少しばかり緊張の中にあった宗次郎の顔が綻んだ。
「それはかたじけないこと」
「ご案内します」
笑みを消さないまま先に立った頼りない後姿に、堀内の細身だが引き締まった広い背が続いた。
「やっぱり来たね、堀内左近」
「今頃名を知っても遅い」
ふいにやって来た永倉の相手をするのも鬱陶しいように、土方は抑揚の無い声で応えた。
「漸く昨夜分かったのさ。堀内左近という人物」
永倉はこの二日程どこかに出かけており、顔を合わせたのは三日ぶりのことだった。
試衛館に腰を据えている剣客達は、それぞれの流派で一応の修行を納めている。
この道場を塒(ねぐら)にしながらも、時折元の修行先に帰るのは別段変わったことでもなかった。
どうやら永倉は、九段の斎藤道場に行っていたらしい。
「堀内という人間の事なら、お前に教えられる前に本人から名乗ってきた。これより確かな事はあるまい」
「あんたが教えろって言ったんだぜ」
勝手極まり無い言い分を咎めるでもなく、揶揄するような永倉の口調だった。
「堀内左近という旗本はな、柳生流の達人さ」
「達人かどうかは知らないが、どうやらそうらしいな」
殆ど興が無さそうな土方の言い様だった。
「つまらねぇな、人が折角話を集めて来てやったのによ」
言いながら畳みの上ではなく縁まで出て、胡坐をかいて座った永倉の背の後にできた影が室の畳の上まで長く伸びた。
「だが柳生流の達人が、何故他道場の噂に上らなかったかは知っているかい?」
暫し茜に染まり始めた庭に目を遣っていた永倉が、振り向いて土方に問うた。
「・・・多分、堀内左近の事は伊庭さんも知らないだろうよ。あの人が生まれる前の事だ」
「どういうことだ」
それまで何処か心ここに在らずのように反応の鈍かった土方の意識が、初めて動いたように永倉を見た。
「ひと言で言えば変人・・・とも又違うのだろうが・・」
「変人?」
「かつて柳生流で一度は名を知られた人間が、今は知る人も殆ど無い。だが本人はまだ四十を過ぎたばかりの筈だ。隠居するには若すぎる、名を忘れ去られるには早すぎる」
永倉の謡うような言い回しに、土方の顔が苛立ちを抑えきれずに歪んだ。
「怒るなよ」
それを見止めた顔が、西日を背にした逆光の中で苦笑した。
「先を聞かせろ」
「もう二十年の余も前になるそうだ。堀内左近は妻を娶とろうとした。が、それが武家の家の者ではなかった」
「昨今珍しい事でもあるまい」
「相手が遊女でもか?」
「遊女?」
土方の反応を楽しむような、永倉の問い掛けだった。
「堀内家は大身の旗本だが、代々将軍家剣術指南の柳生家との繋がりが深く、左近はその嫡男で自身も柳生道場で師範代を務めていた。そいつが遊女を娶ると言い出した。誰もが反対するだろう、いや、しない方がおかしいさ。尤もこの女、元は左近の許婚だったそうだ」
「身を堕としたのは訳があってのことか・・・」
「そうだろうな、だが俺も其処まで詳しい事は知らん。とにかくその女と一緒になるから家禄は継がんと言い切って家を飛び出したらしい」
「・・・が、戻ってきた。現に堀内左近は今堀内家の当主だ」
忌々しげに、土方が呟いた。
その苛立ちの奥底にあるものを、永倉はまだ知らない。
「女が死んじまったのさ」
「死んだ?」
「好いた男の出世の邪魔になるならばと、自ら命を絶った」
一瞬痛ましそうな色を隠しもせず浮かべ顔を歪めたのが、この永倉新八という男の飾りの無い気性そのものだった。
「それで家に戻ったのか」
「そうらしい。勿論そこの処の事情は当人でなければ分からぬ事だろうが・・・。ただ左近には剣の師の娘との縁談が進んでいた。それをあっさり蹴って遊女を娶ると言い出したのだから、相手にも面子とういうものがある」
「柳生新陰流を袖にしたのか?」
土方の声にも呆れた響きがあった。
当節、神道無念流の斎藤道場、北辰一刀流の千葉道場、鏡心明智流の桃井道場、そして八郎が次期後継者と目される心形刀流の伊庭道場の、所謂四大流派と呼ばれるものに押され気味ではあるが、柳生家は小野家と並んで将軍家御指南役の家柄だった。
その後継者の道を女の為に捨てたという、昼間見た堀内左近の顔を、土方は脳裏に思い浮かべた。
「その後柳生道場では堀内左近の事は禁句のように、誰もが口を噤んだ」
「師の機嫌を損なうのが怖い、我が身可愛さからか」
捨て台詞のように言い切って土方は立ち上がり、永倉の座っている縁まで来た。
「そう言うな、世の中ってのはそんなもんさ。誰もが自分が可愛い」
土方よりも歳は下の永倉に、妙に突き放したような処があるのは、家を飛び出し流転の日々を送った己の来し方で身につけた、この男の性(さが)なのかもしれなかった。
「俺が知ったのは此処までだ。だがその堀内左近、一体何をしに来た?」
今度は永倉が土方に問う番だった。
その声が聞えている筈なのに、土方は縁に立ったまま庭の一点を見据えて動かない。
初めて、永倉が不審気に土方を見上げた。
「無理を行って来たのか?」
流石に掛けた声にも、先程までの成り行きを面白がる風は無い。
「宗次郎をくれと言った」
「・・・くれ?」
一瞬言葉の意味を掴み取れず、今一度反復し、事の大きさに驚いて叉視線を土方に移したときには、視界の中にはすでに大股に去ってゆく後姿だけが映っていた。
傾いた日のせいで、室に延びる障子の薄い影が、後を向けている自分の背を通り越して更に先に伸びてく様を、宗次郎は先程からぼんやりと見ている。
考えなければならない事は山ほどあるのに、思考は先に進むを止めてしまったかのように少しも動かない。
堀内左近と名乗る客が帰っていって暫らくしてから、周斎と近藤に呼ばれた。
二人揃った処に改めて呼ばれるなど滅多に無いことで、訝しさと不安とが交差する中で、宗次郎は向かう足を急がせた。
何の話しかと緊張した面持を崩せなかった愛弟子に、周斎は穏やかに目を細め、堀内左近が養子に望み今日の用件はその事だったと告げた。
弾かれるように顔を上げ、咄嗟に周斎の横の近藤を見たが、近藤自身もまだこの話を現実のものと捉えるのには難儀しているようで、難しい顔をしていたが、それでも宗次郎の受けている衝撃の大きさを見取ると、結論を急ぐことは無いと宥めるように言い含めた。
茫然と瞳を見開いている宗次郎に、老いた師だけがこの僥倖が感に堪えない風に、目に滲むものを湛えて幾度も頷いていた。
だがその顔を見ているうちに口から突いて出た言葉は、宗次郎の意識の外で成させた本能のようなものだった。
嫌ですと、悲鳴のように叫んだ声が、それまで其処にあった穏やかな空気を鋭く裂いた。
瞬きもしない瞳から、次から次へと零れるものを拭いもせず、心を他所に置き忘れてしまったかのようにただ首を振りつづける宗次郎の、嘗て見た事の無い取り乱し様に慌てたのは周斎と近藤だった。
近藤が連れてきてくれたのだろうが、どうして自分の室まで戻ってきたのか、それすら宗次郎は覚えてはいない。
気がついたときには、独り室の真中に端座していた。
「・・嫌だ」
やっと小さく声に出したとき、止まっていた雫がまたひとつ頬に伝わった。
土方の傍らに居られなくなるのなら、もうこの身も何もかもいらない。
「土方さん・・」
手の甲で頬を荒々しく拭いながらその名を呼んだのが最後で、もう言葉にするには敵わず、あとは尽きる事無く流れ落ちるものを両の手で覆って隠した。
遊びに興じる後ろめたい心を隠してくれるような薄闇に紛れて八郎が試衛館を訪れたのは、そんな事があった一日が完全に暮れようとしている頃だった。
「何だか変だね、ここの家は」
来客があれば出てくる宗次郎に代わって顔を見せた土方に、八郎は眉根を寄せた。
何処となく物音をさせるのを控えるような気配が、八郎の勘に触れたのかもしれない。
「宗次郎は?」
「部屋に居る」
腰の大小を抜きながら上がり框から式台に足を掛けた八郎の耳に、土方の声が酷く鬱陶し気に聞こえた
「どこか悪いのか?」
先に行く背に、食ってかかるようにして問う八郎の言葉は届いてはいるのだろうが、土方は返事をしない。
「土方さんっ」
その様子から尋常では無いものを感じ取り、八郎が遂に足を止めて鋭く呼んだ。
ゆっくりと振り向いた土方は、やはり険しい表情を崩してはいない。
それは先日自分に見せた苛立ちの先にあった憤りとも違い、更に深く大きな何かが土方を苦悩させているように八郎には察せられた。
「堀内という奴の事を覚えているか?」
漸く返って来た応えの声は、どちらかと言えばいつもと変わらぬ低いものだった。
「此処で宗次郎と立ち合ったという、堀内左近のことか?」
やはり八郎はあの後自分なりに、堀内という人間についての情報を集めていたようだった。
その堀内が関係してくる事ならば、宗次郎に繋がる事だと瞬時に悟り、八郎は土方のその先を待った。
「その堀内左近が宗次郎を養子に欲しいと言ってきた」
「・・養子?」
流石に言葉の止まった八郎を、土方は対峙するように見ている。
「訳あって独り身を通して跡取がいないと、そう言って宗次郎を欲した」
あまりに突然の事で、何を告げるべきか捜しあぐねて黙している八郎に、土方が再び後ろを向けた。
「勝手な事を言いやがって」
背後の八郎の存在すら忘れたかのように、薄暗い廊下を行く広い背が短く吐き捨てた。
「宗次郎」
土方の声に、灯もともさぬ暗い室の中で、微かに衣擦れの音がして宗次郎が身構えたのが分かった。
「そろそろ飯だ」
掛けた言葉に応えは無い。
「開けるぞ」
言った時には土方の手は、やや乱暴に障子を右に押しやっていた。
廊下よりも更に暗く狭い室の隅に、宗次郎は怯えるようにして立ち竦んでいた。
「聞えているのなら返事をしろ」
土方の口調は先程よりも、幾分柔らかい。
「・・・すみません」
応えた声ははっきりとはしているが、酷く硬い。
それが土方の後方で聞いている八郎には、宗次郎の今の心そのもののように思えた。
宗次郎は自分に来た養子話を、そのまま土方との別れと受け止めているのだろう。
だからこんなにも恐怖し、自分を囲いの中に閉じ込め頑なになっている。
それが八郎には手に取るように分かる。
「先に行っている。あまり近藤さんを案じさせるな」
応えたものの、一向に其処を動こうとはしない宗次郎に諦めの息をひとつつき、土方は踵を返した。
八郎は黙ってその背を見送っていたが、やがて土方の姿が廊下を曲がって隠れるしまうと、遠慮なく室に足を踏み入れ障子を閉めた。
宗次郎の戸惑いを見ぬ振りをして、無言のまま行灯の傍まで来、躊躇い無く灯を入れた。
灯りと言うには淡いそれが、宗次郎の影を後ろの壁にぼんやりと浮き出させた。
振り向いて影の主を見れば、一瞬合った視線を逸らせるようにすぐに俯いた。
「泣いたのか?」
遠慮のない問い掛けに、宗次郎が顔を上げた。
「泣いてなどいない」
勝気な瞳がそこにあった。
だが黒曜石の深い色に似たそれを形よく縁取った端は僅かに赤く、宗次郎のささやかな矜持が偽りであると意地悪く物語っていた。
「養子話を持ち込まれたのだって?」
火鉢の中の炭にも火を熾しながら、八郎の口調はあまりに衒(てら)いが無い。
「こっちへ来い。そんな処に突っ立っていられちゃ話も出来ない」
強引な物言いながら、その実声に気負うもの無く、むしろ静かに八郎は室の隅に立ったままの宗次郎を呼んだ。
「土方さんに聞いたのですか?」
まだ少し迷うようにしながらも、宗次郎は導かれるまま、火鉢を挟んで八郎の向かい側に端座した。
「堀内左近、元は柳生道場で師範代まで務めた男だ。三河以来直参の旗本で禄高は二百石。今は故あって柳生流とは縁を絶っているが、人柄を誉める人間はまだ多い」
淀みなく諳(そら)んじる八郎に、驚いたように宗次郎がまだ伏せていた顔を上げた。
「その気になって調べればすぐに分かる事だ」
その風情が可笑しかったのか、八郎が声を出して笑い出した。
「・・・あの人、何で私を養子になんて言い出したのかな」
ひとつ切欠を与えられれば、己には理不尽とも思える天の仕業が、宗次郎の唇から密やかな憤りの言葉を溢れ出させる。
「さぁ、どういう気紛れだったのだろうな」
応えながら、それが自分の些細な世間話から端を発したものだと思えば、八郎の胸にも重いものがある。
「だがお前は断ったのだろう?」
頷く宗次郎の細い項(うなじ)が、酷く心元ない。
「・・・けれど、周斎先生は私が養子に行った方が嬉しいって・・」
「誰がそんな事を言った?」
宗次郎の声の調子はあまりに弱い。
きっと抗えぬ誰かに言われたのだろう。
「さっき土方さんと八郎さんが来る前に、おつね様がやはり食事を心配して来て下さって・・。周斎先生がこの話を本当に喜んでいるって・・」
ぽつりぽつりと、時折途切れる声は、語るというのではなく、むしろ誰かに話す事で心を覆う不安を取り払おうとしているかのようだった。
つねというのは、この春近藤が娶った妻女だった。
愛想が良いとは到底言いがたいが、それもその人間の持って生まれた性分で、接していれば思ったよりもずっと素朴で温かみのある女性(にょしょう)だった。
そのつねが言う事に、悪意は全く無い筈だ。
つねは宗次郎にとっては僥倖とも言えるこの出来事を、心底喜んでいるのだろう。
その話のついでに周斎の心情にも触れたに違いない。
「それでお前は養子に出されるのが嫌で泣いていたのか?」
からかうような八郎の言葉に、宗次郎の瞳が叉も怒って八郎を見た。
「怒るな」
「怒らせているのは八郎さんだ」
ひとつ違いの歳の近い者同士の、胸に含むものの無い会話が、氷室のように凍りついてた宗次郎の心を少しずつ解きほぐしてゆく。
だがまだ濡れたまま乾かぬ瞳に籠められた心の不安は、宗次郎の頬に憂いの翳りを濃く落としている。
何故宗次郎が隠せぬまでに目の縁を赤くしていたのか。
これほどまでに取り乱したのか。
推し量る事は容易だった。
すべては土方に由来し、土方に落ち着く。
それを思えば八郎の胸の裡に突き刺さった小さな棘が、その存在を誇示するように俄かに疼き出す。
嫉妬・・・と言う感情を、すでに自分自身にも隠し様のない八郎だった。
「もう行かなくては・・待たせてしまう」
現に全てが戻れば途端に気になりだしたのだろう。
ふいに呟いて立ち上がろうとした宗次郎の腕を、八郎は強い力で掴んで引いた。
「土方さんを待たせる・・・か?」
「・・・え?」
二の腕を捉えられ、立ち上がることも侭ならず、さりとて再び腰を落ち着かせることもできず、宗次郎は困惑の視線を八郎に向けた。
「お前はいつも土方さん一人の事しか考えていない、自分の事を考えた事が一度たりともあるのか」
あきらかな八つ当たりを宗次郎にしているのだと言う事は、重々承知している。否しすぎている。
だが一度迸った負の感情は、もうどんなに宥めすかしても主の言いうことなど聞きはしない。
「確かに実践を重んじる天然理心流という流派は、これから更に乱れるだろう時世で隆盛を極める事ができるかもしれない。だが次期当主は近藤さんだ。その子が生まれたら、お前はただの門弟で終わるのだぞっ」
「そんなこと分かっているっ」
八郎に触発されたのか、宗次郎の声が珍しく激しかった。
「分かっているなら何故自分にもたらされた幸いを掴もうとしない」
それは土方と離れる事を意味していると、だから宗次郎は決してこの話を受け容れることはしないのだと、分かりすぎる程に分かっていて、尚八郎の苛立ちは止まらない。
「八郎さんには関係が無いっ」
まるでそれ以上会話を続けることで、土方への想いが暴かれることを畏怖するように、宗次郎が八郎の腕を力の限り振り払って立ち上がった。
「・・・誰にも関係が無い」
射るように見上げる八郎の双眸に、ともすれば揺らぐ心の裡を見透かされそうで、そんな風に怯える自分を叱咤して宗次郎はもう一度呟いた。
「一生を、一流派の門弟で終わるつもりか。お前のその天稟を生かそうとせず」
先程よりもずっと静かに低い八郎の声だったが、それだけに厳しく、宗次郎に偽る事を許さない真実の応えを求めてくる。
「そんなこと、最初から望んでなどいない」
「では何を望んでいる」
言い当てられる事へ、恐怖しているとさえ思える宗次郎の面は蒼く強張っている。
土方だけを想って生きるのかと、もしもそう言葉をぶつけたら、宗次郎の心は鋭い悲鳴をあげて粉々に砕け散ってしまいそうだった。
だがいっそそうして追い詰めてしまいたい衝動を、八郎は辛うじて堪えた。
「勝手にしろっ」
応えぬ宗次郎に乱暴に言い切って背を向けると、八郎は頭の後ろに手を組み、そのまま畳の上に仰臥した。
それが自分を止める為の、精一杯の身熟(みごな)しだった。
暫らく・・・
其処に足を縫いとめられたように動かなかった宗次郎が、やがて諦めたように静かに出て行くのが分かった。
ほんの僅かな切欠で音を立てて切れてしまいそうな程に張られた神経の中で、精神の均衡を何とか保とうとしている宗次郎を、自分は更に残酷に追い詰めてしまった。
天井の木目だけを映し出していた眸を閉じれば、己への侮蔑と憤りだけが胸を苛む。
どうにも詮無く、目を開けてひとつ吐いた白い息の行方を、八郎は遣る瀬無く追っていた。
きりリクの部屋 雪圍(参)
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