雪 圍 -yukigakoi-
参
寝返りを打つたびに、掛けた夜具と身体との間にできる隙から入り込んだ冷気に触れ、更に意識は鮮明に覚醒する。
休む前にいつものように挨拶に行った自分に、嫌ならば断るに何も遠慮することなど無いと、近藤は労りの言葉を掛けてくれた。
お前の気持ちが穏やかでいられれば、それに越した事は無いとも言ってくれた。
その優しさに頭を下げたとき、目の奥が熱くなった。
慌てて幾度か瞼を瞬かせ、それを堪えながら室を辞した途端、ついに瞳から冷たいものが零れ落ちた。
周斎はこの話が持ち込まれた事を喜んでいると、そうツネは嬉しそうに語っていた。
心から自分の行く末を案じ、血に繋がる者も同様に育ててくれた人達の心を踏みにじっても、尚土方の傍らを離れることが出来ない自分の不孝に、宗次郎は闇の中できつく唇を噛み締めた。
「起きているのか?」
己の所業を苛むだけの思考を繰り返していたのを遮るように、ふいに映った影は、会いたかったその人のものであるのに宗次郎は身構えた。
応えの無いのが返事と取ったのか、土方は静かに障子を開けると、外気が中に入るのを最小限に留めるように素早く身を滑らせ、すぐに後ろ手で桟と桟を合わせた。
「やはり寝てはいなかったな」
声に揶揄するような笑いがあった。
「寝付かれなくて・・」
「今日一日が目まぐるしかったからな」
何と言って良いのか、瞳を伏せたまま応えた宗次郎の頤(おとがい)に、土方の指が掛かった。
「ちゃんと顔を上げて俺を見ろ」
顎を持ち上げられて、視線を逸らそうにもそれもできず、宗次郎は土方の眼差しに射すくめられたように瞳の奥を揺るがせた。
「近藤さんから聞いた。養子に行くのは嫌だと言ったそうだな。それは本当のお前の心か?」
掛けられた土方の声はそれを詰(なじ)るものではない。
むしろ頷くだけの宗次郎を包み込むように柔らかい。
「だったら、お前は此処に居ろ」
弾かれたように見上げた瞳が映す視界の中で、土方が苦笑していた。
「何をそんなに驚いている。此処に居るのが嫌なのか?」
意地の悪い問い掛けに、必死すぎる程に首を振る少年の仕草に、土方がついに声を出して笑い出した。
それを咎めようとして、言葉より先に頬に伝わるものがあった。
咄嗟に手の甲を押さえて止めようとしても、自分の意思などちっとも聞かず、零れるものはまだ流れ続ける。
「ばか、泣くな」
声の主の親指が頬に触れ、少々乱暴にそれを拭ってくれた。
「・・・いても、・・いいのかな?」
やっとぎこちなく笑って言葉にしてみても、まだ不安の全部は消えない。
もう一度だけ此処に居ろと、土方にそう言って欲しかった。
それだけが、今の宗次郎の神経に唯一安らぎをくれる護符だった。
「誰が悪いと言った?それともお前は養子になんぞ行きたいのか?」
からかうように覗き込まれ問われて返す応えは、初めは首を横に振るだけが精一杯だった。
「・・・どこへも・・行きたくないっ」
だがそれだけでは足りないと気づき、やがて土方の袖を掴んで嗚咽の合間に叫んだ声は、まるでそうしなければ何処かに連れ去られてしまいそうな怯えに傾く己の心を打ち砕くかのように、研ぎ澄まされた冷気を大きく震わせた。
やはり近藤はまだ妻女のいる母屋の自室へとは引き上げていなかった。
小さいとは言え一流派をなして道場を切り盛りしてゆく才覚には、あまり適しているとは思えないこの男の朴訥とした人柄を、土方は誰よりも承知しそれだからこそ慕っている。
「宗次郎は起きていたか?」
それが聞きたかったのか、それとも土方がそう話題にすることを待っていたのか、そのどちらでもあるように、近藤は音もさせずに入ってきた弟弟子を見上げた。
「あんたも精がでるな」
問い掛けをはぐらかせるつもりは無かったが、文机の上だけではとても納まりきれず、狭い室の四方に散らばる書き損じの文の方へ土方は先に目を遣った。
「日野はお前に任せて案ずる事はないが、昨今他の地方では新しく出張ってくる流派が煩くてな。俺が直接行けない処はまめに出稽古先の家に挨拶状を出しておかんと、あっという間に軒先を取られる」
それは本当だった。
当節天然理心流のような小さな処は元より多少名の知れた流派までもが、食べて行くために出稽古先を増やして門弟を集めようとしていた。
開拓したと、胡座をかいていられる時代ではなかった。
「周斎先生は宗次郎の養子話の件を喜んでいるのか?」
その気質に似合うとは思えぬ近藤の苦労を見ていれば、自然に重くなる胸の裡を隠すように土方は殊更無愛想に言い切り、辺りに散らばっていた白い紙を除けて腰を下ろした。
「喜んでいる」
即座に返って来た応えに、宗次郎との板ばさみとなって困惑している近藤の正直な心が滲んでいた。
「父上は殊の他喜んでいる」
溜息さえ吐きかねない近藤の口調だった。
「だが宗次郎には行く気は無い」
重ねて言われ、そこに居るのがまるで周斎その人であるように、一瞬土方の声が気色ばんだ。
「父上は宗次郎の身体の事を懸念されている」
「身体の事を?」
意外な言葉に、土方の端正な面が怪訝に曇った。
「確かに宗次郎の剣はこの先誰もが認めるものとなるだろう。あれが持っているものは、天から授けられたものだ。誰にも真似はできない。俺とて時折宗次郎の天稟を伸ばし育てることが、己に課せられた使命と思うことがある」
「其処まで思うのならば・・・」
養子話を断ると、そう一言近藤の口から導きだせぬ苛立ちを、押さえきれずに土方は先を急(せ)いた。
「だがお前も承知の筈だ。宗次郎の身体は人よりも脆い。・・・父上は・・」
そこで一度言葉を止めたのは、或いは近藤自身も同じように抱いている懸念がさせたものかもしれなかった。
「父上は剣術家として一名を馳せるには弱すぎる宗次郎の身体を、常に案じておられた。或いは隠居されて欲も無くなったからこそ、直截に其処に触れて危惧できるのかもしれない。もし旗本の跡取となれば、この先宗次郎は何も憂える事無く安穏な日々を送れるだろうと、そう考えておられるのだ」
「馬鹿を言うっ」
「確かに年寄りの愚かな選択かもしれん。だが歳、父上は宗次郎が可愛いのだ」
吐き捨てるように言って横を向いてしまった土方を、近藤の声が宥めるように穏やかだった。
「周斎先生の事はもういい。だがあんたはどう思っているのだ」
そうでも言ってこの話の続きを断ち切らなければ、到底苛立ちを堪えきれない土方の問は更に性急だった。
「俺はできるのならば、宗次郎をずっと手元に置いておきたい」
やっと望む応えを得て、険しく硬かった土方の表情が僅かに緩んだ。
「それを聞けばいい」
短く告げて立ち上がった時には、もう近藤の横を通り過ぎ室を出ようとしていた。
「歳」
障子の桟に手を掛けていた背に、躊躇うような近藤の声が掛かった。
「・・・いや、何でもない。引き止めて悪かった」
振り返った土方に、近藤は言うべきか否か一瞬迷ったようだが、結局語る事はなく、叉厳(いかめ)しい顔を作った。
それが一体何なのか・・・
胸にわだかまりを持って暫く足を止めたまま近藤を見ていたが、やがてそれ以上応えを求めても聞きだせるものでもないと諦めると、土方は物言わず桟と桟を合わせた。
廊下の古い板張りは、まだ行かぬ冬の乾いた空気に湿り気を奪われ、踏みしめる度に窮屈そうな音を鳴らす。
養子話を聞いたとき、思いもかけない衝撃を受けた自分だった。
気が付けば、いつも後を当たり前のように付いて来た宗次郎だった。
それを失う事が、何と自分の中で大きなことだったのか・・・・
今更知った己の間抜けを、土方は罵倒したい思いだった。
先程流れるもので顔をくしゃくしゃにしながら、どこにも行きたくは無いと叫んだ少年の居場所は、或いは自分の傍らであったのではないのかと・・・
そんな勝手な解釈を、土方は今度こそ自嘲して笑った。
「護ってやる・・・」
それが宗次郎の心そのものなのか、それとも引き離される事をこれ程まで厭う己の心なのか・・・
果たしてどちらともつかぬ、ふいに生まれたこの感情を、土方は自分でどうしようもなく持て余していた。
宗次郎が可愛かった。
だがそれよりも今は、切ない程にいとおしかった。
深閑と覆う静寂(しじま)に鳴り響く板張りの悲鳴だけが、咎めるように運ぶ足の後を追って耳に届いた。
昨日まで続いた冬とも思えぬ暖かな日は、季節の気まぐれだったと朝降りた霜が告げ、天道までが時折厚い雪雲に隠れる。
近藤の妻女つねの父松井八十五は、上機嫌で周斎に堀内左近の噂を語って聞かせていた。
松井は堀内左近を知っていた。
それがどういう経緯(いきさつ)なのかそこまでは定かではないが、同じ番町に居を置く松井家と堀内家の地理的な距離関係によるものだろうとは、周斎の横で舅の話を聞いている近藤にも大方察せられた。
「堀内殿は講武所の所長であられた九貝殿とも親しく、宗次郎さんとのご縁ができれば、或いは勇殿を講武所の教授にも・・・」
「松井殿、そこまではわしも望んではおりませぬ」
穏やかな周斎の視線にあって、松井八十五はやっと自分の先走りに気付いたようだった。
「・・・これは・・、つい興奮をしてあらぬ欲張りを申しあげました」
決して悪気のある人物ではない。
ただ娘の夫が出世することで、嫁ぎ先での苦労を少しでも無くしてやりたいと願う八十五の親心だった。
「ですが年をとれば、ついつい先に思いを馳せてしまうもの。勇殿の力がやっと認められると思えば、年寄りの急ぎ足も許して貰えましょう」
「天が決めることを、人が地で足掻いたところでどうにもなりませぬ。勇の事は成就できるのであるのならいずれはそうなりましょう。が、今は宗次郎の幸いだけを喜んでやらねば」
八十五のせっかちを咎めるのではなく、むしろ楽しげに笑いながら、周斎もまたこの幸いのもたらすかもやしれない、思わぬ先を思って目を細めた。
「いやしかし、この老人にもすでに耳に届いておりますぞ・・・」
落とした声の調子とは裏腹に、八十五の柔和な面に満足げな笑みが浮かんだ。
「堀内殿は此処で勇殿と会った折に酷く人柄を気に入られ、埋もれて惜しむべき人物と・・その気があれば九貝殿に一度目通りする機会を作ると、此方にもすでにその打診があったと聞き及んでおりますが・・・」
「ほう、流石にお耳が早い。ですがあくまで堀内殿がご好意を示して下さったまで。まだそのような話、山のものとも、川のものとも・・」
周斎の声は流石に困惑を帯びていた。
多分八十五へは、つねが話したのだろう。
つねは決して口の軽い方ではない。
元々自分自身も一ツ橋家に祐筆として仕えた事のある女性だった。
だからむしろこういう事には慎重すぎる位に構える処がある。
それが今回ばかりは契りを結んだばかりの妻の初々しさが、良夫の思わぬ僥倖を、つい実家に隠しきれぬ喜びとして漏らしてしまったのだろう。
老人二人の会話を耳に入れながら、ふと近藤が遣るともなしに目を向けた廊下に、障子の向こうに微かに動く人影がある。
「宗次郎か?」
声を掛けるよりも先に、素早く立ち上がり何事かと驚いている八十五の前を一礼して通り過ぎると、近藤は遠慮なく白い障子を開けた。
覚悟はしていたのであろうが、やはり宗次郎は一瞬びくりと身体を震わせて、其処に立ち竦んでいた。
手に持っている盆には湯呑み茶碗が三つ。
長居の客に、茶を代えるように言付かってきたのだろう。
だが細面の白い顔は、無残な程に狼狽を露にしている。
途中から聞えてきた声が自分を話題にしていることに気づいて、きっと入るに入れず宗次郎はずっとそうしていたのだろう。
「茶を持ってきてくれたのか?」
老人達の話の内容が耳に届き、驚きの中にいるとは察せられた。
が、これ程に宗次郎の表情を強張らせるものが、一体何処から来ているのかにまでは思い届くべくもない近藤は、それを昨日からの目まぐるしい変化についてゆけない少年の戸惑いと解釈し、緊張を解いてやるように幾分柔らかい口調で笑いかけた。
「おつね様が・・」
そう言って湯呑み茶碗の乗った一枚板の木の盆を差し出す腕が、酷く頼りない。
「ご苦労だったな。俺が貰い受ける。お前は稽古があるのだろう?」
労わりの言葉を掛けながら盆を受け取る近藤を見上る瞳に、心なしか揺れるものがある。
何か言いたいことがあるのかと、黙ってその先を待つ近藤に、だが宗次郎は何も語らず頭を下げるとすぐに踵を返してしまった。
それでも近藤は、先ほど宗次郎が一瞬見せた縋るような瞳がどうにも気になり、暫く立ち尽くしたまま、去って行くあまりに薄い背を見送っていた。
廊下を歩いている自分は、一体どこに行くのだろう。
宗次郎は踏み出す度に、底なしに沈み込んで行く泥沼を歩いているような、自分の足であって自分の物ではない心元無さの中に今居る。
昨日もたらされた心怯える話は、自分一人の行く末だけに係わるものではなかった。
堀内左近は講武所に大きな力を持つ九貝に、近藤を推挙するつもりだと言ったらしい。
それは宗次郎が初めて聞かされる事実だった。
その事を一言も自分に告げなかったのは、近藤と周斎の優しさだろう。
断っていいのだと、近藤は言ってくれた。
だがもし養子の話を断れば師とも父とも慕う近藤の将来(さき)までをも、台無しにしてしまうかもしれない。
そんな事は許される筈がなかった。
すでに我が身を超えて、どんどん先に一人歩きを始めてしまった、天の気紛れというにはあまりに残酷なこの運命(さだめ)を、もう止めることはできないのだと、凍りついてしまったように動かぬ頭で宗次郎は愕然と思っていた。
「宗次郎」
真正面から届いた声に宗次郎が足を止めたのは、意識の外がなせる習い性だった。
いつもは声を掛ける前に、気配で振り向く宗次郎の、今は魂の在り処すら虚ろに思える瞳に八郎は眉を寄せた。
「どうした?」
問い掛けても、暫くは八郎を見上げているだけだったが、やがて宗次郎は小さく首を振った。
「何かあったのか?」
「・・・何も無い」
応えた顔に微かに浮かべた笑みのぎこちなさが、如実に嘘だと言っていた。
「八郎さんはどうして?まだ夕方でもないのに・・」
いつもは夕闇に紛れるようにして現われる八郎が、こんな天道も高い頃合に来るのは珍しい。
「とんだご挨拶だな」
苦笑する八郎につられるように、宗次郎の笑みも広がった。
宗次郎の言葉には裏が無い。
だから素直に疑問を口にしているのだとは承知できる。
だがここまで直截に問われれば、訪問の時刻が今まで何を意味していたのかを、まるで天道の日の元に晒されたようで、流石に八郎にも後ろめたいものがある。
「土方さんならまだいない・・」
その名を言葉にした時一瞬声が沈んだのは、八郎だからこそ聞き分られた、宗次郎の寂しい心の真実だったのだろう。
だがそんな様子を見れば、やはり俄かに胸の裡を波立たせるものがある。
「それでお前はそんな風に辛そうな顔をしているのかえ?」
揶揄するような口調ででも誤魔化さなければ、胸の奥に刺さった侭の棘が叉熱を持って、己の意志など聞かず叉際限なく宗次郎を責め立ててしまいそうだった。
「・・・そんな事は無い」
だがそう向ければいつもは瞳に宿る勝気な色が、今日は微塵にも見当たらない。
むしろからかわれた事すら心に無いように、宗次郎の瞳は虚ろに落ち着かない。
「お前、本当にどうした?」
流石に尋常で無いものを感じ取って、八郎の声が低くなった。
多分気付いている者は極々少数だろうが、宗次郎という少年が一番芯に秘めているものは、見た目からは想像が付かない焔のような激しさだった。
それは普段はひっそりと宗次郎の裡に眠っているが、一旦切欠を与えられれば己自身をも焼き尽くしてしまうほどの業火になる。
その事を、本人自身もまだ気付いていない。
或いは知っているのは、自分と土方だけかもしれなかった。
だがひとつ・・・
それが全て土方に由来しているという事実までを承知しているのは、今はまだ八郎一人だった。
そしてこんな風に宗次郎が取り乱すのは、その激しさが揺さぶり起こされるほどの何かがあったからに相違なかった。
全ては土方に起因する何かが。
「養子の話か?」
迷わず其処に行き当たって問い掛けると、宗次郎の面が瞬時に強張った。
「堀内左近が叉何か言ってきたのか?」
「・・・何も言ってはこない」
言葉にすることで察せられてしまうのを恐れるように、宗次郎はただ頭(かぶり)を振り続ける。
「隠すな」
容易く見破られる偽りを、必死に繕う姿が哀れだった。
「・・・隠してなどいない。・・・けれど・・」
「けれど?」
本当は急いて問い質したい思いを堪えて、八郎はその先を辛抱強く待った。
「堀内さんと言う人は、九貝様とも親しいって・・・それで私の事も知ったと・・」
まだ躊躇いの中に心の半分を置いているような弱い調子で宗次郎の唇が紡いだ言葉は、八郎の憶測の範疇ではなかった。
「らしいな」
応えながら結果的にこの話の口火を切ってしまった己に、八郎は今更ながらに臍(ほぞ)を噛む思いだった。
「ならば近藤先生を講武所の師範に推薦して貰えるのだろうか・・」
宗次郎の言っている事が何を意図しているのか掴みきれず、八郎は暫し言葉を止め、応えを求めて自分を凝視している蒼い顔を見た。
「誰かそんな事を言ったのか?」
漸く思い付くところに達して、八郎の声がふいに低くなった。
だが宗次郎は首を横に振っただけで、逆に視線を逸らさず笑い掛けた。
「誰も・・。少しそんな風に思っただけです」
先程の、思いつめた果てに無理に作ったような笑みではなかった。
だがそれが八郎には返って酷く不自然に思われた。
一瞬流れた沈黙を破るように、遠慮の無い足音が聞えてきた。
素早く八郎が其方に視線を向けたのにつられて、宗次郎も後ろを振り返った。
「宗次郎、悪いが叉使いを頼まれてくれるか?」
幾分申し訳無さそうに言いながら、井上源三郎は目じりに刻む皺に、重ねた歳月が滲み出ているような人の良い笑い顔を作った。
「このままでは松井殿が夜までいるかもやしれぬ。そうなると酒が少々心もとない。買って来てくれるか?」
「すぐに行きます」
宗次郎の応えは、この父ほどに歳の離れている先輩に、屈託なく素直だった。
「・・あのな」
井上は横にいる八郎を見て、少し思案する風だったが、やがて隠しても詮の無い事と諦めたのか、宗次郎に少し身を寄せるようにして、先程よりは小さな声で告げた。
「いつもと違う酒なのだが・・・」
「お客さま用のでしょう?」
「そうだ。だから少しでいい」
「分かっています」
満面に広がった笑みに、井上も安堵したようだった。
常日頃試衛館の輩が呑む酒は、とても客人に出せるものではない。
それ故客の酒は別に用意しなければならない。
だが値が張る酒をそう沢山買える程、この道場は裕福ではない。
井上源三郎の憂鬱を、宗次郎はすぐに察したのだ。
「今から行ってきます」
「そう慌てんでもいい」
「雨が降ってきそうだから・・」
宗次郎の言葉に、初めて井上が雲の多くなってきた空を見上げた。
いつの間にか天道も姿を隠している。
その代わりのように肌に触れる風だけが、冷たさを増していた。
「雨なら良いが・・雪にでもなりそうな雲行きだな」
呟いて、井上は叉宗次郎に視線を戻した。
「そうだな、降られぬ内に戻ってきた方がいい」
宗次郎は浮かべた笑みをそのままに、井上に向かって頷いた。
一部始終を横で見ながら八郎は、先程まで宗次郎の中で大きく揺れていた何かが、突然終わりを掴んで鎮まったような気がしていた。
だがそれは決して八郎の心を安堵させるものではなく、むしろ次に大きく揺れて崩壊する前の不気味な静けさのように思えた。
「俺も一緒に行く」
咄嗟に口をついて出た申し出は、そんな八郎の不安が先走らせたものだった。
「お酒を買いに行く位、一人で行けます」
宗次郎は邪気なく笑っている。
が、その瞳の奥にきっと隠してしまったものが、八郎の胸の裡を落ち着かなくさせる。
「それに・・きっともうじき土方さんが帰ってくる」
ためらいがちに呟いた言葉の語尾が、ふいに吹きぬけた北風に浚われ千々に散った。
「今日は八郎さんは土方さんと出かけるのでしょう?」
見上げた瞳が、寂しさを隠し切れず笑っていた。
その為に八郎がやって来たのは百も承知だった。
だがあれほど嫌だった土方の女遊びを哀しむ心すら、今宗次郎は失っていた。
ほんの直前まで嫉妬という感情に振り回され、苦しんでいた事も現の出来事とは思えない。
宗次郎の身体は此処にあって、その魂はもう其処に無かった。
「坂を下ればすぐお酒を売っている店はあるから・・・。ちょっと行ってきます」
井上の前で、十七になる宗次郎の使いに同道する理由をこれ以上見つけられず、八郎は強く押すことを諦め、足早に去ってゆく薄い背を堪えがたい胸騒ぎの中で見送っていた。
春を控えて長くなったとは言え、夕暮れになれば肌を刺すような寒さに身が震える。
人々はそれに急(せ)かされ家に籠もり、あと幾ばくかすれば灯をともすのだろう。
坂の上から滑るようにして吹いてきた風が、宗次郎の束ねた髪も袖も袴の裾も、運ぶ足をも追い立てるように前に押しやった。
四肢にすら知覚無く、ただ無意識に歩を進める宗次郎の内には、土方の声だけが唯一宿っている。
此処に居ろと、土方はそう言った。
何処にも行かなくてもいいのだと、そう言った。
けれど自分が養子話を断れば、きっと近藤の身にも災いが及ぶ。
それだけは出来ない。
呟けば切ないだけの名を、今一度声にして己の胸に刻んで残したい衝動を、宗次郎は辛うじて堪え血の滲む程に唇を噛み締めた。
言葉にしたら、きっと叉その人の元へと走り出したくなる。
駄々を捏ねる情け無い自分は嫌いだ。
けれど心はそれを、透ける紙より薄い強がりだと知っている。
だから朧にでも姿を映し出さないように瞳を瞑り、声音の名残すら留めないように両手で耳を塞いでしまわなければならない。
試衛館には帰れない。
戻る処はどこにもない。
そして何より・・・
土方の傍らに居られないのならば、もう自分の行く末も要らない。
凍てついた魂の安らげる先は、すでに現(うつつ)には無いのかもしれない。
覚束ない足取りで辿る先が、もう何処であっても良かった。
すっかり色を失くした頬に、何か異質なものが行く筋も零れ落ちる感覚を、どこか不思議なもののように宗次郎はぼんやりと感じていた。
きりリクの部屋 雪圍(四)
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