雪 圍 -yukigakoi-
四
「戻らない?」
夜といっても、まだそう更けている訳ではなかった。
だがとうとう雫を垂らせはじめた雨雲が、いつものこの頃合よりもずっと闇を深くしている。
傘を持たずに出かけ、途中から降られた雨に強(したた)か濡れた露を拭おうともせず、土方は待っていたように出迎えた近藤に鋭い双眸を向けた。
「酒を買いに使いに出たのは、まだ日も高い内だ。とっくに戻って良い筈がまだ帰らん・・・。皆で手分けをして心当たりを回っているのだが・・・お前が戻ったら俺も探しに行くつもりで待っていた」
不安は人の思考を決して良い方向には向けない。
朴訥で剛なる気性の持ち主と、その人物に惹かれて此処に居ついた土方にさえ、今の近藤は先走る不吉な予感を抑えることができないように見える。
だがこの狼狽ぶりにには、何か他に重いものがある。
それを、土方は直截に問い質した。
「近藤さん、何か宗次郎にあったのか」
声がきつくなったかもしれない。
だが躊躇している暇はなかった。
宗次郎が戻らないのには二つの事柄が考えられる。
ひとつは戻れぬ状況に陥っていること、もうひとつは宗次郎自身の意思で戻ってこないこと・・・。
そして土方は今、ためらい無くそれは後者だと悟った。
先日養子話が持ち込まれた時から、宗次郎の精神が不安定に揺れ動き続けていたのを感じ取っていた土方にとって、それは確信だった。
「今日、松井殿が来た」
隠すつもりは最初からなかったのだろう。
否、むしろそれを土方に語る機会を焦れていたように、近藤の口調は性急だった。
「その時堀内殿が今回の養子話の縁で、俺を九貝殿に講武所の師範に推挙するのを前提に紹介する気持ちがあるのだと、そう松井殿が話しているのを宗次郎が聞いてしまった」
「何だとっ?」
苦渋に顔を歪ませる近藤の胸元に掴みかからんばかりに、土方が詰め寄った。
「話そのものは海のものとも山のものともつかん。それに俺にはそのつもりは全く無い。まして宗次郎の犠牲の上に成り立つ己の出世など考えてもいない」
強い言葉の裏には又、この道場の次なる後継者たる若い自負があった。
「だが宗次郎はそうは思わなかった。・・・当たり前のことかもしれん。あいつは自分がこの話を断れば俺に迷惑がかかると、きっとそう信じたのだ。あの時、もっと早くに存在に気づいてやっていれば、松井殿と父上の話も止めることができたのだが・・決して宗次郎の耳に入れてはならぬことだったのを、俺が迂闊だった」
厳しさを崩さなかった近藤の顔が、尽きぬ後悔と己への憤りで更に歪んだ。
「歳っ」
近藤の声が背中で聞こえた時には、先ほど通ってきたばかりの玄関の敷居を、又横殴りの雨の中に向かって土方は走り抜けていた。
焦れる心に追いつかない足など切り捨てたい思いで急な坂を走る目に、俄かに激しくなった雨が容赦なく入り込む。
それを眸を細めて何とか遣り過ごすが、今度は濡れた袴が足に絡みついて動き辛い。
ここに居ろと言った自分に、宗次郎は黒曜石の深い色に似た瞳から流れるものを止められず、ただ幾度も頷いていた。
その心を護ってやりたいと思った。
心底そう願った。
「畜生っ」
叫んだのは、行く手を水の礫(つぶて)で邪魔する天の仕打ちへなのか、黙って行こうとしている少年への怒りなのか、それとも儚い心すら護ってやれなかった自分自身への悔しさだったからなのか・・
地を這い唸るような声は、その全てを籠めて迸った。
「そっちじゃ無いっ」
篠突くような雨の音の中で、聞きとめるのも難しい人の声を、だが張り巡らされた土方の神経は一瞬で誰のものか判じた。
「伊庭かっ」
この降りでは提灯は役に立たない。
伊庭八郎は立ち止まった土方に向かって、やはり傘も持たず身ひとつで駆けて寄って来た。
「この先の仕立物を扱う家の妻女が、宗次郎が先刻江戸川の近くに立っているのを見たと言っている」
「江戸川だと?」
「幾度か使いに寄越された宗次郎の顔を良く知っている。妻女はこんな酷い降りに傘も持たずにいるのを不思議に思ったそうだ。それで声を掛けようとした処が、宗次郎の方が気づいて逃げるように去ったと・・・間違いははない」
荒く吐く八郎の息が白く濁る。
それを更に雨が四方に散らし、先に行くのを阻む。
厳しい面に端正に造作された目鼻をよけて雫は流れ、最早髪の一筋すら濡れていないところは無いだろう。
だが八郎は瞬きすら厭うように、土方を見て動かない。
江戸川は千代田城に巡らされた堀を水源とする川の一つだった。
ここからそう遠い距離ではないが、この雨で水かさは増している筈だった。
土方の面が夜目にもみるみる険しくなるのが分かった。
だがそれを凝視している八郎とて、峻烈とも思える表情を崩さない。
何故そんな処に宗次郎がいたのか。
妻女の問い掛けから逃げ出したのか・・・
試衛館を離れたくないと、激しい感情をぶつけてきた宗次郎だった。
その宗次郎だからこそ、近藤の出世の邪魔をしてしまうと煩悶していることは容易に察せられた。
そしてどちらにも傾けない苦しい心の行き先を、無理矢理見つけ出したとしたら、その在り処は・・・
思い至ったその刹那、土方を襲った震えは、雷(いかずち)の其れにも似て脳天から足の裏まで一気に走りぬけた。
「江戸川だなっ」
言葉よりも早く、地を打つ雨脚を割き、飛沫を上げて走り出した。
それに一瞬の間もおかず、八郎が追った。
誰でも良かった。
どんなものでもよかった。
宗次郎の元に自分が辿りつくまで、その身体をがんじがらめに戒めていて欲しかった。
間に合えと、ただそれだけを土方は祈りながら走った。
もうどの位こうしていたのか、それすら分からない。
視界も定かで無くなる暗闇の中に、それよりも更に深く、川は闇の口を開けている。
雫に打たれて続けている身体からは、温もりというものは全て奪われ、今は震えることすら出来ない。
時折は意識とて朦朧とする中で、辛うじて残る知覚は、流れる水に叩きつける雨の音だけを宗次郎の耳に届かせる。
ある限りの力で其処に身体を放り出せば、全ての苦しさから解かれる。
それなのに足は地に縛り付けられたように、最後の一歩が踏み出せない。
甘美な誘(いざな)いに箍(たが)をするのは、土方を想う心だと、もうひとりの自分は知っている。
だがそんな聞き分けの無さも、そろそろ諦めさせねばならない。
目を瞑れば瞼の裏に土方の顔を思い浮かべる。
耳を塞げば自分を呼ぶ声が蘇る。
だから瞳を見開いたまま、水が渦巻く音を聞きながら、もう現実しか自分には無いのだと叱咤して、宗次郎はまだ見ぬ世へと続く淵を凝視した。
一歩・・・
たった一歩前に踏み込んで、身体を倒せば良いのだ。
半ば朧な意識は、すでに恐怖すら感じさせない。
ほんの少し動けば、疲れ果てた魂はやっと安らぐ事ができる。
瞳が閉じられ、右の足を前に出した瞬間、ゆらりと世界が傾(かし)いだ感覚の中で、宗次郎の失われ行く意識はただ一人の人の声だけを耳に木霊させていた。
ともすれば繋がらぬ息で立ち止まりそうになる足を罵倒しながら、闇と雫に遮られる川べりを血眼になって探す土方の視界が、縁に佇む確かに違える筈の無い影を映した。
だがそれは一瞬安堵する間も許さず、ふいに川に向かって揺らいだ。
「宗次郎っ」
更に駆け出しながら、全身全霊でその名を叫んでいた。
もう言葉にならぬ声を上げながら、力の限りに伸ばした手が、川に投じられるよりも一瞬早く袖の端を掴んだとき、前に倒れる筈だった宗次郎の身体が、その勢いのまま大きく弧を描いて後ろに仰け反った。
崩れ落ち、倒れ込むそれを体全部で受け止めながら、土方も共に地に座り込んだ。
雨は少しの手加減もなく、動かぬ二人に打ちつける。
膝の上でかき抱くようにして、瞳を閉じた宗次郎の頬に指を滑らせ息のあるのを幾度も確かめながら、土方は今己の目から流れ出るものが、降りかかる雨よりも激しく頬を伝わっているのをぼんやりと感じていた。
土方の腕の隙間から力なく泥の中に投げ出された細い腕に、容赦無く雫が当たり跳ね返る様を、八郎は凝視して動かない。
今自分を唯一捉えているのは、恐怖以外の何ものでもなかった。
川の流れは更に勢いを増し、雨よりも濁流のうねりの放なつ音の方が遥かに大きく耳に届く。
その方向に、強張った顔のまま八郎はゆっくりと目をやった。
紙一重の差というにも危うかった想い人の命脈を繋ぎとめてくれた神に感謝するよりも先に、まだ己を支配しているのは、その闇の向こうに一瞬垣間見た光景への戦慄だった。
「やはり光さんを呼ぼう」
枕元に来て、見ている方が苦しくなるような荒い息の宗次郎の様子に、近藤が危惧を隠せず厳しい顔で土方に告げた。
「呼んで、どう理由を説明するのだ」
応える土方は宗次郎に視線を縫い止めたまま、近藤を見ない。
昨夜ずぶ濡れというには生易しい状態で、土方と八郎によって運び込まれたとき、すでに宗次郎の身体は触れれば驚くほどの高い熱に侵されていた。
急いで呼ばれた医師は診ている途中から、難しい顔を隠しもしなかった。
雨は宗次郎の身体から温もりを奪っただけでは飽き足らず、肺腑にまで炎症を起こさせていた。
ここ二日程が峠とはなるが、その後も暫くは予断ができないと医者は二人に話した。
病を跳ね返す力が身体に残っていれば助かるが、万が一の場合を心しておくようにとも又言い置いていた。
すぐに宗次郎の姉の光を呼ぶという近藤を、止めのは土方だった。
光は宗次郎の姉だ。
両親を早くに亡くした宗次郎を、この試衛館に内弟子として寄越すまで親代わりとして育ててきた。
年端も行かない弟を置いて行かねばならなかった時、光はほっそりとした白い指を前について全てを近藤に託した。
深く下げたまま、なかなか上げない儚い面に幾筋も零れるものがあるのを知り、それを辛い思いで見ていた自分を、近藤は昨日の事のように覚えている。
だからその光だけは、土方がどう反対しようが今宗次郎の元に呼ばなければならなかった。
「歳、お前の言っている事も分かる。だが宗次郎をこんな風に追い詰めたのは、俺の配慮が足りなかったせいだ。詫びて済む事ではないが、どんなに罵倒されようと、今光さんを呼ぶのが俺にはせねばならぬことだ」
苦しい後悔に満ちた声を耳にしながら、それでもまだ土方は近藤を見ない。
それは意識して近藤を視界に入れないというのではなく、こうなってからずっと誰が来ようが、土方の視線はただ宗次郎だけに注がれている。
苦しげな中にも漏らす息一つで、何を欲しているのかを見極めようと、神経を張り詰めて見守っている。
「・・・近藤さん、俺はそういう事を言っているのではない」
求めても応えの戻りそうに無い沈黙に、諦めの息をついた近藤に、向けた姿勢はそのままでやっと土方が呟いた。
「宗次郎は必ず助かる。いや死なせることなどさせはしない。そして目を覚ました時に、何も無かったのだと、だからお前は安堵していつものように過ごせば良いのだと、俺はそう言わなくてはならない」
声に決して昂ぶるものは無い。
むしろ普段どおり、少しぶっきら棒に思える調子で低く語られた。
だがそれが土方の強い信念の裏返しである事は、近藤には痛いほどに分かる。
「目が開いた時に光さんがここにいれば、宗次郎は起こった出来事を否が応でも溯って思い出さなければならない。・・・養子話との板ばさみで苦しみ、雨の中を彷徨っていたことも、川に身を投じようとしたことも、全ては現の出来事だったと記憶に蘇るだろう。そうして宗次郎は叉自分を責め苦しむ」
言いながら濡れ手拭をはずし、汗で額にはりついた前髪の乱れを指で掬ってやると、せわしい呼吸を繰り返していただけの宗次郎の面に、一瞬安堵の表情が浮かんだ。
そのほんの僅かな変化を見逃さず、土方の目が和んだ。
「宗次郎は死なん」
それしか信じないと、すでにそう決まっていると断言するような、土方の強い物言いだった。
昨夜から降りつづけている雨は、昼をとうに過ぎても止む様子は無い。
急にきつくなった冷え方は、夜になれば雪になるのかもしれない。
だが雨よりも、まだ音無く降り積もる雪の方が病人の耳には障りないのかもしれない。
そんな事を思いながら、近藤はまだ深い闇の中で呻吟している宗次郎の蒼い頬を、耐えがたい不安と共に見つめていた。
医師の言ったように、宗次郎に変化が見られたのは、更に一夜明けて二日目の朝だった。
うっすらと開いた瞼の奥に、黒曜石の深い色に似た瞳を見たとき、土方は思わず夜具の端から出ていた手を強く握り締めた。
「宗次郎・・・分かるか?」
低く囁くような声だった。
だがそれが僅かに震えるのを、土方は堪えられなかった。
ゆっくりと視線だけを動かした先に捉えた像を、土方と判じたのか、宗次郎の唇がわななくように微かに動いた。
だが身体にあった水分を全て熱に奪われた今は、乾ききった喉は声すら形作れず、何かを告げようとしたが敵わず、たったそれだけで精根尽きたように宗次郎は苦しげに瞳を閉じた。
握った手に強く力を入れても、骨ばった指は返す力も無い。
それでも土方は離さず、やつれた頬に手をやると、宗次郎の眦から露がひとつ零れ落ちこめかみを伝わった。
それを指で拭ってやりながら、土方は今己の瞼の奥を熱くするものこそもう隠しようが無かった。
如月が弥生と月が変わり、もう五日が過ぎていた。
あの時激しい音を止め、せめて病人の神経を休ませてやって欲しいと願った雨は、やはり白いものに変わり結局宗次郎が目覚めた日の夜まで降り続いた。
が、こうして春も近いと思わせるぬくい風を受ければ、それが季節の終わりを名残り惜しむ雪の哀れだったとも、近藤には思える。
そんな明るい陽を受けながら、しかし軋む音を立て廊下を渡る胸の裡は、だんだんと重いものに覆われて行く。
ひっそりと物音ひとつしない室の前まで来て立ち止まると、一度息を吸った。
白い障子の向こうに伏している愛弟子は、決して良い状態とは言いがたい。
日々弱ってゆく行く宗次郎を見るのは、近藤にとって辛く切ないだけだった。
そんな感傷を断ち切るように桟に手を掛け開けると、宗次郎は仰臥したまま顔だけを大儀そうに向けた。
薄暗い室内に慣れた目には外の明るさは強すぎるらしく瞳を細め、ふいの侵入者が近藤だと分かると透けるような蒼白い頬に笑みを浮かべた。
「眠っていたのか?」
それを邪魔したのではないかと憂えた問い掛けに、微かに首を振って応えた。
「飯は食えたか?」
枕辺まで静かに来ると其処に腰を下ろし、近藤は寝込んでから更に小さくなった顔を覗きこんだ。
決して責めるような口調では無いのに、宗次郎の顔から浮かべていた笑みが消え、代わりにできた心の翳りを隠すように瞳は伏せられた。
危惧していた状態をどうにか脱し、高い熱も一応の鎮まりを見せ、周囲が安堵の息をついたのも束の間で、宗次郎は容態は再び医師の眉根を寄せさせるようなものになっていた。
続く微熱は身体から力を奪い、口にして飲み込めるものは冷たい水や、ぬるい茶だけだった。
八郎もよく顔を出し、他愛も無い話を枕元で聞かせて行くが、宗次郎自身は長く会話することは辛いようで、一日の大半を眠りについている事が多い。
このままでは再び憂慮せねばならない事態が近くやって来るだろうと、医師は近藤と土方に告げていた。
「今日は歳はどうした?」
それを知っていながら、近藤はこれが会話の切欠となることを祈って問うた。
「・・・昼までに戻ると・・言って」
出かけたのだと、告げる声は聞き取りにくい程に儚いものだったが、それでも宗次郎は気丈に応えた。
だが見上げた瞳は土方の僅かの不在が、確かに心の安定を揺るがしているのが分かる。
「そうか、それならばもう直に戻るだろう」
笑いながら掛けた応えが、果たして宗次郎の心にどれ程の励ましになるのか分からない。
だが近藤は夜具から出ていたあまりに細い手をとると、労わるように静かに仕舞ってやった。
土方が今日の行き先を宗次郎に伝える筈が無かった。
堀内家にはあれから直ぐに、周斎と近藤が直接養子話を断りに赴いている。
左近は残念だと、ひと言言いはしたが、それ以上の詮索はせず、返って自分の勝手でそれまで穏やかに過ごしていた日常に、きっと波風を起こしてしまったであろうことを詫びた。
そしてその時、近藤にはこの件とは全く係わり無く、自分は講武所教授の推挙を前提として、九貝に紹介したいと告げていた。
その申し出を、やはり深く頭を下げて断った近藤だった。
だが昨日その堀内左近から、宗次郎が病臥している旨を知り一度見舞いたいとの書状を受け取った。
その書状を持って、土方は今堀内左近の屋敷に行っている。
何故堀内の元に直接出向こうとしたのか、その真意を測りかねながらも近藤は、端正な顔に行くと決めて揺るがない意志を湛えた土方に書状を手渡した。
だが敢えて行動に移した土方の心中には、風に揺れる蝋燭の焔ように頼りなく灯る宗次郎の命を繋ぎとめる為の、何か悲壮な決意があるはずだった。
それを問い質す事無く、先ほど近藤は黙って土方を見送った。
番町は試衛館からは近い距離にある。
この界隈は千代田城と隣接する地域でもあり、旗本屋敷が多い。
永倉新八が試衛館に来る前に塾頭を勤めていたと言う坪内主馬の道場の裏手に、堀内左近の邸はあった。
構えはそれ程のものではないが、よく手入れの行き届いた潅木が門から玄関先まで続いている。
門を潜る前に声を掛けると、すぐに声がして屋敷の奥から姿を現したのは、以外にも堀内左近その人だった。
ふいの訪問者に、堀内は別段警戒をする風でもなく、歩みを止めずそのまま玄関の式台を降り下駄をつっかけると、真っ直ぐに土方に向かってやって来た。
「どなたかな」
声音はあくまでも穏やかだった。
だが引き締まった体躯からはひとつの隙も見つけることはできない。
「牛込試衛館道場の門弟で土方と言う。これを返しにやって来た」
差し出したのは、宗次郎を見舞いたいと近藤に宛てた書状だった。
最初から其処で短く話を終わらせるつもりだったのだろう。
土方は堀内を見据えたまま、動こうとはしない。
「貴方は近藤殿の使いの方か?」
「いや、違う。あくまで俺一人の意志でやって来たこと。近藤さんとは何の関係も無い」
自分に向けられる若い眸に宿る激しさを見止めても、堀内は怒るでもなく、むしろ楽しそうに目を細めた。
「生憎と今日は家人・・・と言っても、仕えてくれている老人ひとりだけだが、それも留守にしている。それ故茶も振舞えぬが、話は中で聞こう」
土方の応えも聞かず、言い終えた時には、堀内はすでに潔い程に伸びた背を見せていた。
「少々煩いのは勘弁してほしい」
それでも開け放ってある障子を閉めるつもりは無いらしく、土方に自分の前に座することを勧めながら、時折庭の方からする人声やら物音が、静寂を裂く無礼を堀内は詫びた。
「さて宗次郎殿の具合が芳しくないと、先日松井殿から聞き及び、一度見舞いたいと近藤殿に書状を出したが・・・、土方殿の来訪はそのことだろうか」
すでに一度差し出した書状を、土方は無言で再び堀内の前に置いた。
「もう宗次郎の前に現れないでほしい」
強い言葉を告げながら、だが堀内を見る土方の双眸にあるのは、先ほどのような憤りではなくむしろ懇願に近いものがあった。
「先日、宗次郎殿を当家の養子に貰い受けたいと、そう申し出た事で、させなくとも良い気苦労を四方に掛けてしまったようだ。その事についても一度宗次郎殿に直接詫びたいと思っていた」
それまで柔和な表情を崩さなかった堀内左近の面に、僅かに辛そうな色が走った。
「貴方が宗次郎を養子に欲しいと言われた時、その話を断れば師の近藤の出世話が壊れると、そうあいつは思い込んで苦しんだ。それはお前とは関係が無い事だといくら言い聞かせても、あいつは信じない。だが俺はもう、そんな宗次郎を全てから解放させてやりたい。終わったことなのだと、ひとつも案ずる事は何もないのだと、そう信じさせてやりたい」
語る土方の双眸が、堀内を捉えて離さない。
宗次郎の回復がはかばかしく無いのは、未だ近藤への自責の念に駆られているからだ。
養子話を拒んだことで、近藤の将来の邪魔をしてしまったと頑なまでに信じ込み、自分を責め続けて苦しんでいる。
宗次郎の魂は未だあの闇に渦巻く川の縁にあり、肉体には戻ってこない。
会えば更に追い詰めるだけの結果になろう堀内に、もう近づいてはくれるなと願った処で、それで宗次郎の心が元の通りに穏やかでいられるようになるとは思わない。
それでも土方は此処に来られずにはいられなかった。
今は宗次郎の心と命を救ってくれるものならば、どんなに細く脆い藁の端でも土方は掴みたかった。
「・・・・まだ一月にもならぬが・・。九貝殿の屋敷に久々に機嫌伺いに行った折、剣の天凛を思わせる少年が近くの道場にいるそうだと、世間話のついでに聞いた。いつもならばそのままにしてしまうものを、ふと帰りに試衛館という道場に足を向けたのは、早い春を感じさせる陽射しがさせた気紛れかもしれん」
一瞬目を細めた堀内が、一体何を語り始めたのか、その意図をまだ解せず土方は黙ったまま次を待った。
「そこで不遠慮な訪問者を出迎えてくれた少年が、話題の主だったとは流石に驚いたが・・」
その時を思い出しているのか、堀内が低く笑い声を漏らした。
「だが宗次郎殿が九貝殿の言っていた当人だと知った時、今思えば己でもその時自分をそうさせたものが分からぬ程に、近藤殿に立ち合わせて欲しいと強く無理を言っていた」
「何故」
鋭い土方の一言だった。
全ての発端は此処から生じている。
それを思えば声にも咎めるような厳しさを隠し切れない。
「もしかしたらすでに聞き及んでいるかとも思うが・・・。私にはかつて妻がいた」
それが薄幸の内に生涯を終えた女性であることは、土方も永倉から聞き及んでいた。
土方の無言を、堀内は是と捕らえたようだった。
「世間というのは煩いもので、いくらでも尾ひれをつけて面白可笑しく噂してくれる。貴方の耳にどのように入っているかは知らぬが、妻は佳予といい、私の幼馴染であり許婚(いいなずけ)だった」
己の来し方を語る堀内の表情は、先ほどと少しも変わらない。
「佳予の家に突然不幸が訪れ、苦界に身を堕とさねばならぬ事情が生じた時、探してくれるなと佳予は訴えたが、私はそれを聞かず昼に夜に我を忘れて探しまわり、漸く見つけ出した時、あいつは残酷な仕打ちだと泣き崩れた」
庭の奥の方角から、人の声が春めいたぬくい風に乗って聞こえてくる。
何か庭木の手入れをしているのだろうか。
時折は鋏の規則正しい音も耳に届く。
辛い過去を話している筈の堀内の声音は、そんな穏やかな風景の中にあって少しも異なものと感じさない。
「佳予の元に通いつめ、剣の師を破門寸前にまで怒らせ、親からも勘当を言い渡されたが、俺は聞く耳を持たなかった。ただ一人佳予を護ってやれれば、それでよかった」
そんな堀内の眸が一瞬細められた。
「だが全ては私の傲慢な思いあがりだった。お前と共に生きる為に、家も師も捨てるのだと、いつもの様に客となって行った廓の一室で告げた夜、私を見送ったあと佳予は隠し持っていた守り刀で胸を突いた」
紡がれる言葉に滲む筈の重さは、この人間が経てきた歳月が削り取ってとってしまったのだろうか・・・
そんな生易しいものでは無いと察しつつ、だが目の前で先ほどと寸部も変わらず淡々と語る堀内の心がまだ土方には見えない。
「宗次郎殿が突然の客だった私を出迎えた時、優しげな瞳にほんの束の間だったが、驚く程強い色が浮かんだ。それが酷く心に焼きついた。きっと宗次郎殿は見知らぬ侵入者を警戒したのだろう。だが今一度、私はその激しさを、あの深い瞳の中に見てみたい衝動に駆られた」
「それで近藤さんに立会いを願い出たのか・・」
「近藤殿にははっきりと断られたが、私は九貝殿の名を出してまで無理を強いた」
「何故そこまで」
「・・・命を絶った夜、いつもどおりに私を店の入り口まで送り出してくれた佳予が、明日も会えるといい・・・そう言って笑った。そんな事を滅多に言う奴ではなかった。不思議に思って見ていると、佳予の顔から浮かんだ笑みが消えて、私を捕らえた眸に見たこともないような強く激しい色が宿った。それはほんの一瞬の事で、今では錯覚だったのかと思う事すらある。・・・だがそれが温もりのある佳予を見た最後だった」
ふいに少しばかり人の声の大きくなった庭に、堀内は気を掛けるように視線を逸らせた。
だがそれが、語れば未だ苦悶に堕ちるだろう堀内の、唯一の逃げ場のように土方には思えた。
「佳予は自分の身を捨て去る事で、私に将来(さき)を摘み取る事を律した。あの時佳予の眸にあったものは、私という人間を護ると決めた揺るがぬ強さだった。護ると決めて何の疑いも持たずにいた私は、佳予を失って初めて護られていたのだと知った」
庭にあった視線を、又土方に戻した堀内の双眸が笑っていた。
自嘲というものには、身に刻んだ痛恨はもう遥かに及ばないのだろう。
浮かべた笑みに、己に対する皮肉はなかった。
「宗次郎殿の瞳にあったのは、ニ十五年前、私が佳予の中に見たものと同じだった。例え命を賭しても護らねばならない何かの為に、宗次郎殿の瞳は激しい強さを秘めた。それが師と共に築こうとしていたあの道場そのものなのか・・・それともあそこで暮らす日々にある何かなのか・・、そこまでは私の知る処ではない。が、もう一度、あの瞳を見たいと、私は切望した」
忘れる事など到底できずに流れた歳月の中で、漸く過去に通じる道を見つけ、例えそれを手繰ったところで二度と其処には戻れないのだと知りながらも、それまで微塵も崩れる事がなかった堀内の口調が俄かに早まった。
きりリクの部屋 雪圍(五)
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