結んでたがえぬ言の葉を
                      胸に刻みて幾夜待ち
                       月輪の蒼に照らされて
                      恋しと呟くせつなさは
                      ひとつも音なく闇に舞ひ
                      地につきてはとけゆける
                      姿はかなきむつの花





                     1001御礼    Ryo さまへ




                       月華に眠らず   上







「今夜はどうやって来た?」
土方の問い掛けに、壁際で肩に少しばかり残る雪を手で払いながら、総司はゆっくりと振り向いた。
面輪に浮かべた微かな笑みが、告げるに困った風に戸惑っている。
「雪の中を難儀しただろう?」
それにも応えず其処に佇み、ゆっくりと歩み来る土方をただ瞳に映している。
そうなることを予期していた身体は、掴まれた腕に引き寄せられ、瞬きの時も与えられず胸の内に浚われた。
抱きしめられたまま逃れることはできず、顔だけを上向けて、睨むともつかず見つめた黒曜石の深い色に似た瞳が強引さを咎めていた。
「そんな顔をするな」
己の堪え性の無さを責められて、土方が苦笑した。
それでも籠めた力は強くなりこそすれ、離そうとする気は無いようだった。

腕にある身体は、外の闇にちらつく白い氷の破片よりも凍てつき、こうして力の限りで抱きしめていなければ、いとも容易く消えゆきそうに頼りない。
「・・・土方さん、痛い」
抗議の言葉は包み込まれる温もりに溶かされ、すでに吐息と別つことはできない。
「どうやって来たのか・・・言うまでこうしていてやろうか?」
揶揄するように含んだ笑いを、見上げた瞳が勝気に怒っていた。
「そんな無理を言うのならば、もう来ない」
だが強い言葉の後ろには、是と応えられる事を怯える心をも又映して、総司の瞳は如何様にも揺れ動く。
「さて、来ないでいることができるものか・・・」

もっと怒らせてみたい。
この愛しい者の唇から紡がれる我儘を、果てなく聞いていたい。
そんな衝動に突き動かされたまま滑る言葉は、意地悪く想い人を追い詰める。

離れようと身を捩る総司を許さず、上げられた手首を掴むと、儚い身体は他愛なく壁に押し付けられた。
躊躇い無く降りてきた唇に、僅かな隙も与えられず塞がれ、抵抗は漸く止まった。
やがて口腔を貪るように蹂躙される熱さに、身体がしどけなく力抜けて行くのを怯えてか、最後の試みのように、総司は掴まれたままの手首を押し返して足掻いた。
だがそんな抗いが、すでに熱に捉われた身体に何の役にたつのか。
足を掬い上げられ、浮いた身体の心元無さを厭うように身を硬くはしたが、それも敢え無く封じ込まれ、気づいた時には背は確かなものの上につけられた。
洋式の寝台の上は狭く、震えるように冷たい。
一瞬全ての血が凍てるような錯覚に、思わず身体に力が籠もる。
そんな変化を悟ったのか、土方の両腕が総司の背と褥の狭間に滑り込んだ。
触れる温もりが強張りを解かせはしたが、唇はまだ解放してはもらえない。

苦しそうに眉根を寄せ、漸く唇の端から息を吐こうとしても、胸の袷を割って忍び込む土方の性急な愛撫はそれすら許さない。
「・・・いやだ」
「何故?」
僅かの隙を縫って顔を背けるようにしてやっと紡いだところで、耳朶に触れて囁かれれば、咎める言葉すら形を失くして崩れる。
薄い胸の透けるような皮膚の上に、仄かに浮き出る淡い色合いに指が辿り着いた時、総司が小さく声を上げた。
大きく肌蹴られ肩をすり落ちた衣から露になった両のそれに舌を這わせただけで、下に組み伏されている白い喉首が仰け反った。

「・・・ひじかたさん」
懇願するように首を振るのは、追い上げられる身体について行けない心の困惑だった。
抱かれる為だけに来ているのではない。
そう告げようとしても、快楽の淵へと誘う手も指も唇も、もう総司自身の欲情を止めることはできない。
背にあった硬い感触がふいに離れたと思った瞬間、今度は姿勢を変えられてうつ伏せた胸にそれは当たった。
すでに身につけているものは、辛うじて腰の辺りに巻きついているだけだった。
背筋に沿って丹念に這う土方の唇が、時折触れるか触れまいかの緩慢な動きになる。
だがそれは総司の身体に、焦れるような感覚を呼び起こす。
もっと触れて欲しい。
どこもかしこも隈なく、五感で土方を感じていたい。
だがその一言が言えず、むしろそんな自分を諌めるように総司は己の唇に手の甲を当てた。

伏せたままの背に走る愛撫は、官能の火種となって身体を震わせ、総司を瀬戸まで追い詰める。
潤んだ瞳を一度瞑り、仰け反って切ない吐息を空(くう)散らしたとき、突然腰が強い力で両脇から拘束された。
思わず逃れようとした抗いは、戒めるように引き戻され、そのままの姿勢で身体の中心が灼熱の痛みに貫かれた。
堪えるに間に合わず細く短く漏れた声は、まだ快楽の欠片すら掴んでいない総司の苦痛の悲鳴だった。

後ろからの交わりはあまり経験したことがない。
土方の顔が見えない不安と、まだ焼け付くように苛む苦しさに、更に総司の視界が滲む。
「ここにいる」
瞳を覆った露が遂にひとつ溢れ落ちた時、驚くほど耳元近くで土方の声がした。
だがそれを像で確かめたくとも、力で押さえ込まれた下半身は捻って体勢を変えることすら難しい。
「・・ひじかた・・さん」
前に胸を反らせながら褥の端を掴んだ指の先に、白くなるまで力が籠もり震える。
「・・辛いか?」
総司の身体は、分け入ろうとする侵入者をまだ強く拒む。

辛くは無いと、苦しくは無いと頭(かぶり)を振り続ける想い人の額に浮かんだ冷たい汗が、雫となり顎を伝わり首筋まで流れ落ちる。
顔を前に回してそれを唇で拭ってやると、そのふいの感触が総司の肌に在る悦びの縁に触れたのか、微かに背が震えた。
瞬間内なる土方に強く絡みついたが、すぐにそれは次なる快楽を貪欲に待つかのように緩められた。
その一瞬の隙を狙い、無理を承知で腰を進め己の全て受け容れさせると、総司の身体は耐え難い衝撃に、自由になる上半身だけがばね仕掛けのように跳ね上がった。

首の後ろで一つに束ねられた髪が滑るように前にしな垂れ、露になった項が荒く吐く息でその度に上下する。
やがてゆっくりと内に響く律動に、総司の唇から又も言葉にするに敵わない声が漏れ始めた。
軋むような苦痛だけを伝えていた其処は、幾たびか刻むを繰り返えされた後、いつのまにか密やかな忍び音を生み出し、耳に届くそれを恥じて抗う総司の肌が、俄かに上気するのが夜目にも鮮やかに見てとれる。
それが土方に更なる昂ぶりを与える。
快楽の淵に呑まれて己を失うのを恐れるかのように、総司は首を振り続ける。
そのたびに艶やかな黒髪が、右へ左へ揺れてほつれる。
弓なりにしなった背骨に沿って、土方の唇が滑るように流れたとき、総司が一際身を硬くし、もう限界を疾うに超していたそれは、蹂躙者の手の内に包み込まれたまま、密かな欲情の証を解き放った。
力抜けた身体が前に屈んで沈み、意識が霞み行く中で、己の内も又土方の熱の迸りを受け、しとどに満たされるのを、総司は悦楽の余韻のように朧に感じていた。


激しい愛欲に翻弄され尽くした身体は、まだ忙(せわ)しい息を鎮めることも敵わず、全ての力を抜いてしどけなく横たわる。
丹念に清めてやる間も、為されるがまま総司は瞳を瞑り、言葉を紡ぐのすら辛そうに、荒い呼吸を繰り返していた。
細い下肢にこびりついた朱の色が、甘美な吐息と隣り合わせにあった想い人の苦痛をも知らしめ土方の胸を苛む。
だがそれは同時に喜びでもあった。
総司は生きて此処にいる。
ある筈の無い幻影を抱いているのだと嘲笑う天に、この朱の鮮やかさこそ、人の温もりを持つ者だけに与えられた血潮の色なのだと突きつけてやりたい。

「お前は生きて、此処にいるのだな?」
乱れた前髪が汗で額に貼り付いているのを、愛しげに指で絡ませ掻きあげ、うっすらと開いた瞳の奥を覗き込み問うと、唇だけが微かに動き笑みの形を作った。
躊躇いがちに延ばされた手を取って握り、それを己の首筋に回してやると、総司は必死に縋ろうと力を籠めてきた。
それが是とも否とも告げぬ想い人の、いつもの応えだった。



総司が初めてやって来たのは、松前を落として箱館に戻り、この星型の城に落ち着いた直後だった。
その日榎本政権は官僚以下の役職を入札という形で選出し、土方は陸軍奉行並、他に箱館の街の取締りも任命された。
だが松前陥落を内外に知らしめる箱館凱旋も、人選選出のこの入札も、土方にとってはずいぶん滑稽に思えるただの形式事に過ぎなかった。
他にやることは幾らでもある筈だった。
蝦夷の厳しい冬は、越す者にとっては辛く苦しく閉ざされた極寒の季節だ。
だが同時に攻撃する方の手も緩められる。
故に雪に覆われるこの時こそ、兵を鍛錬し、敵の襲撃などびくともしない要塞を造り上げねばならない。
勝つか負けるか・・・
全てはこの時期だけに掛かっている。

そんな苛立ちの中にいた夜更け、あてがわれてひとり居た部屋の外に、確かに人の気配を感じた。
だが構えるよりも早く、体は瞬時に木の扉に向かって動いていた。

それは予感だった。
我が身よりも大切で、誰よりも愛しい者の姿を、今一度眸に映したい、そう念じていた己の心が見せる幻でも十分だった。
天の気紛れでも、悪鬼のあざとい戯でも、何でもよかった。
だが逸る鼓動に震える手で扉に触れた時、もしもこの向こうに居る筈の想い人が、敢え無く闇に消えてしまったら・・・。
一瞬の戦慄の後、それに勝ったのは、求めて止まない総司への猛り狂う土方の恋情だった。



「あの時、俺は初めて神仏というものに感謝をしたのかもしれん」
まだ整わず苦しそうに漏れる息を、唇近くに触れる指で確かめながら、土方は腕にある愛しい者に語りかける。
「お前が此処にこうしているのを、俺は少しも不思議とは思わない。もうずっと一緒だ」
射抜くように見つめた眼差しは、其処に想い人の像を縫い止めるかのように強い。
だが総司は見つめ返す筈の視線を、ふいに逸らせた。
「どうして目を伏せる」
応えない総司に、土方の声が微かに苛立った。

又始まる・・・
土方は胸の裡で、毎夜毎夜の約束事のようになってしまった終(つい)の無い問答を、又も繰り返そうとしている己の愚かさに舌打ちした。
戻らぬ応えをどうしても引き出したくて、こうして責めるだけの言葉を、感情の迸る侭にぶつけているのだと言うことも知っている。
そして多分それが己の欲するものとは敵わぬ応えだからこそ、総司は言の葉に乗せて自分に告げるを躊躇っているのだと言うことも・・・・。
それでも箍(たが)を外してしまった激情は、もう簡単には止められない。
「どうして応えない」
なじる声音の裏に、是が非でも己の言葉にそうだと頷かせたい土方の焦りがある。


「・・・土方さんが、死ぬなと言った」
幾ばくかの沈黙の時を経て、やっと総司の唇がわななくように震えて、応えは戻った。
だから自分はこうして此処にいるのだと、見上げた瞳はそれだけを告げていた。
「死ぬなと言った・・・」
伸ばした両手を縋るように絡み付け、これ以上の問いかけは全て拒むとでも言う風に、そのまま土方の胸に顔を埋めた。

結わえを解かれた髪が総司の背を覆う。
それは江戸で見た時よりも、幾分伸び、何よりも生あるものの艶やかさを失ってはいない。
違えることは無い筈だ。
それが一時のものと刻みはすれ、別れには不釣合いな目映い陽光の中で、自分は総司の皮膚の肌理(きめ)ひとつをも忘れまいと、この両の眼(まなこ)に焼付けてきた。
例え髪の僅かな伸びとて、頬に宿す翳りの深さとて、あの時のままでなければ寸座に分かる。
だから今腕の中に抱く総司は生きて此処にいる。
そう信じろと、総司よりも己が自分に言い聞かせる。
それでもどうしても欲しいのは、もう総司は自分の手に在って、決して離れることは無いのだという証だった。
だがそんな己の心に、土方は再び堰をする。


「そうだな・・俺が言ったのだったな」
ゆっくりと耳元で囁いた声音が、想い人の動揺を慰撫するように柔らかだった。
そうでも言ってやらなければ、総司は伏せた面を決して上げはしないだろう。
しがみつくように隠した顔の頤を掬って、抗いを許さず上を向けさせると、黒曜の瞳は定まる処を知らずただ揺れ動く。
それが総司の心の有様そのものなのだと、土方は悟った。

「お前が何処から来るのか、何処に還って行くのか・・・確かにそんな事はどうでもいい」
偽りの語りは淀みない。
「・・・すまなかった」
いつもこうして怯えさせて、最後に遣る瀬無い後悔の念で詫びるのは自分だった。
「お前が居てくれれば、それで何も望むものなど無いものを・・・どうにも人というものは強欲に出来ている」
自嘲するように低く笑った土方を見て、総司の顔に漸く安堵の表情が広がった。
が、途端にそれが、咽るような小さな咳に変わった。
零れ落ちる咳は中々に止みそうにも無く、総司はついに寝台の上に身体を伏せてしまった。
無言で骨ばった背を摩ってやりながら、せめて一時も早く、総司がこの辛さから解かれる事を願う己の中に、だがこうして目の前で病に苦しむ姿を見れば、又してもこの手にある温もりは現のものだと安堵する自分がいる。
その両方の真実の思いを持て余しながら、漸く治まった咳の名残を大きく肩で息することで止めている総司の脇に手を沿えて仰向けにすると、苦悶で眦に溜まった雫を土方は唇で掬った。

「・・・もう帰らなければ」
唇が離れる余韻を追うように開いた瞳で見上げながら呟いた総司に、何処へとはもう土方も聞かない。


それは初めからの約束事のように、暗黙の内に決められた事だった。
やって来るときは足音もさせず、気配だけで気付けとばかりに扉の向こうに立っている。
或る夜は他愛も無い会話で終始し、また或る夜は忘我の淵を彷徨うが如く激しく互いを求め合って過ごし、そうして総司は次を約束せずに帰って行く。
何処から来てもいい、だが何処かに還るその足だけは、土方はこの言葉を聞く度に、どんな事をしても止めて置きたい激しい思いに駆られる。


「・・・いっそお前の足を切り取ってしまいたい。そうしたら俺の傍らから何処にも行けない」
残酷な言葉の内には、残される者の遣る瀬無い響がある。
「そんな事をされたら、もう二度と来る事ができなくなる」
返した応えに乗せた含み笑いは、だが何処かそうなる事を望んでいるかのように陶酔の色を帯びる。
「ずっと此処にいればいい」
「・・・そんなことはできない」
射るような激しい眸に、咄嗟に視線を外すのはいつも総司の方だった。
そうなれば何かに怯えるように、決して瞳を合わせようとはしなくなる。
それが土方の知った想い人の習い性だった。

暫く、別れを惜しむように言葉語らず、上と下とで隙無く肌を合わせ、刻む二つの鼓動をまるで一つのもののように感じていたが、ふいに総司の瞳が大きく見開かれた。
一瞬にして身体を強張らせた想い人が何を恐れているのか、土方は切ない程に承知している。
「誰かが来る・・」
まるで己の罪のように、形良く整った唇が震えた。
「心配するな」
だが包み込むように低く囁かれた言葉にすら落ち着けず、総司は咄嗟に身を捩って寝台を滑り降りようとした。
それを許さず、逃れようとする腕を勢いのまま掴み今一度己の胸に抱きかかえた時、遠くにあった足音が間際まで近づいて来た。
威嚇された小動物が全部の神経を逆立てるように、総司の身体が瞬時に硬直した。
慰撫するように後ろから抱きすくめて、土方も又息を詰めた。

規則正しい足音は遠慮なく、遂に扉の厚み一枚を隔てて響いた。
思わず瞑った瞳は、しかし扉の向こうの人物を映し出すこと無く、歩調を乱さぬままそれは通り過ぎた。
遠く去って行く気配を感じながら、張り詰めていたものが一度に弛緩するように、総司の背が土方に凭れかかった。
今の事で全ての力を使い果たしたのか、瞼はまだ慄きの名残を秘め固く閉じられている。


「もう誰も来ない」
流れる黒髪を指で退けて、首筋に唇を這わせると、漸く瞳が開かれるのが分かった。
「・・・もう行かなければ」
二度目に紡がれた言葉は、一度目の時よりも少しだけ哀しげにくぐもった。

胸の前で重なり合っていた土方の両腕に手を掛け暫くそうしていたが、やがてゆっくりとそれを外し総司は床に下り立った。
乱れて散らばっていた衣を拾うと、ひとつひとつを、それが自分の心の未練を断ち切る儀式だとでも告げるように振り向かずに身に付け、最後に襟元を正すと土方に向き直った。
その一部始終の所作を寝台に腰掛けたまま、土方は食い入るように見つめている。

「・・・紐を」
言って指を伸ばした先に、来た時に髪を束ねていた白に近い色の紐があった。
それは元結というのではなく、ただ単に一つに結わえる為の紐だった。
「明日来た時に返す」
掌に包み隠すようにして、意地悪く返した笑いに、総司の深い色の瞳が俄に翳った。
「・・・そんな約束などできない」
「約束などしなくてもいい。明日も明後日も・・・いつも此処に来るとそう言えば」
微かに首を振る仕草に合わせて背にある髪が、まるで主の心模様のように揺れ動く。

「どうしてできない?一言、一言だけ言えばいい。いつも俺の傍らにいると・・」
今度は先程よりも強く否と振るだけで、総司は沈黙の中から出ようとしない。
だが譲らぬ土方の様子に、やがて諦めと困惑が交互に綾成す瞳を伏せると、寝台の傍らまで進み出た。

「それを・・」
掌にある筈の紐を一度視線で指して、再び土方を見た。
「結ばなければ帰ることができない」
「帰るなと言っている」
「帰らなければもう此処に来る事は出来ない」
それは悲鳴のように短い叫びだった。
「どうして?」
逃げ場を与えない執拗な問いかけに、総司の瞳がみるみる暗く覆われる。
漆黒の闇よりも深い色の哀しみが、其処にあった。
それをあからさまに目の当たりにすれば、今日こそは逃がさぬと固く誓った筈の決意すら、砂上の楼閣よりも脆い。

「来い」
どうして良いものか、戸惑って佇んでいる手首を掴んで強く引くと、風に浮かび地に降り立っては姿を失くす粉雪のように、現ともつかぬ頼りない身体は容易く傾(かし)いだ。
「後ろを向け」
不思議そうにしながらも、言われるままに背を向けた総司の髪を取り、土方は持っていた紐でひとつに束ねて結び始めた。


この紐には覚えがある。
病床について結い上げる事が少なくなった総司が、ある日髪を結わえようとしたとき突然縛る筈の紐が切れてしまった。
寝込むようになって神経が過敏になっていたのか、災いが起きなければ良いと憂える総司に、自分の太刀に巻いてあった下げ緒を短く切って一時凌ぎに渡した。
その時、残った下げ緒も欲しいと、珍しく想い人は駄々をこねた。
あれは一体何時の頃だったのだろうか・・・
同じように天から白いものが舞い降りる季節だった。

刀の下げ緒では髪を結ぶには幅がありすぎ、また華奢な首筋には重すぎた。
だから総司は組まれ織られていたそれを一度解いて、幾分細く作り直したらしい。
そんなもので愛しい者の心の不安を取り除いてやることが出来るとは思わなかったが、気休めにと思って遣ったそれを、総司はその後も一時も離すことなく身につけていた。
江戸で、最後に見た時も確かにそれはこの黒髪に在った。


「まだこんなもので髪を結んでいたのか?」
懐古することで溺れそうになる感傷を振り切るように、土方は問うた。
いじらしいと、哀しい程に湧き上がる思いを辛うじて隠しながら、背後からの掛けた問いに想い人は邪気無く頷いた。
「これで良いのだろう?」
縛り終えて、急に剥き出しにされた襟足に触れた冷気に、一瞬首をすくめるようにしたが、すぐに総司は嬉しそうに振り向いた。
覆う髪がなくなり、丁寧に細工された小作りな面の輪郭が露になり、やがて其処に笑みが浮かんだ。
「明日も来い」

掴んだ腕を離さず命じる口調は、そのまま土方の懇願のように総司の耳には届く。
逆らう事は許されないのでは無く、できないのだと己にそう刻み込むように、見据えられた視線を逸らさず、総司はゆっくりと顎だけを引いて頷いた。




そう広くは無い筈の室でも、独り残されれば酷く殺風景なよそよそしい空気だけがある。
蜀台の焔が揺れる度に、床の木目を浮き上らせる灯りの輪を、広く狭く自在に動かす。
それをぼんやりと視界に入れながら、土方はもう元結など必要の無い短い髪を両手で掻きあげた。

明日も来い・・・
その言葉に総司は頷いた。
だがそれが何の確かな証になるのだろう。
夜が明け、日が昇り、天道が又地の向こうに隠れるまで。
一体どれ程焦れて自分は待てばいいのか・・・
そして本当にあの愛しい者の温もりに、今一度触れる事ができるのか。
思えば狂いそうに長い時を、又も自分は過ごさなければならない。

「畜生・・」
それはこんなにも不安に駆られる、情ない己への自嘲だった。
「・・・来い」
我知らず漏れた呟きは、姿無い想い人へ向けられた恋情の迸りだった。






「春になったら敵は時を待たずして、一斉に攻撃を仕掛けてくる」
「だろうな」
「松前を落とした位で浮かれている連中はおめでたい。毎夜毎夜過去の栄華に酔っている内に、あっという間に季節は変わる」
容赦の無い辛辣な言葉には、忌憚無い真実だけを籠めるということが、この大鳥圭介という人間の特質だと土方は知っている。
が、その大鳥がふいに足を止めた。

「あんたの事を言っているのではない」
喋っている内に、松前陥落の指揮を取り、事実成果を収めたのが隣りの人間であることに、漸く気付いたように土方に顔を向けた。
「嫌味でないのは分かっている」
「ならばいい」
抑揚無く応えた土方に、大鳥もまた安堵の表情を見せるでもなく、元のように歩き始めた。
「このままではいずれ蝦夷は敵の手に落ちる」
「確かにな」
「いや、もうそれは分かりきっている。・・・蝦夷共和国は夢だ」
先日総裁選入札で陸軍奉行と言う名を拝領した横の男は、いとも簡単に此処に集まった者達の希(のぞみ)と将来(さき)を言葉で摘み取る。
「では、あんたは何故此処に来た?」
歩みを止めず、今度は土方が問うた。

大鳥の意見は、他の誰にも聞かせる事は出来ない。
この目から鼻に抜けるような俊英は、多分自分ひとりに今打ち明けているのだろう。
そして更に半ばそれと同じ意見を自分が持ち、決して他に漏らさないと確信している。
その憎らしい程の自信を、少しばかり突いてやりたい思いに駆られた大人気なさを、土方は心裡で苦く笑った。

「世の中が騒がしいと己の力を試してみたくなる」
「それでは残念な事だったな。さっきあんたが言った通り、蝦夷共和国は夢で終わるだろう。・・・あんたの思惑は外れたようだ」
「試す場所は何処でも良かった」
「ほう」
予想の範疇を超えた応えに、土方の興が初めて動いた。
「官軍って奴等が気に入らなかっただけだ」
それが殊更どうでもあるまいと言う風に、大鳥は視線を動かしただけで土方を一瞥した。
そのまま振り向きもせず、身ひとつ前を行くこの男こそ希代の変わり者なのかもしれない。
そんな思いを抱いて改めて見る伸びた背筋は、意外に隙無く、大鳥が内に秘める剛なる気性を現しているようだった。


「ところであんたの処に、昨夜は客が来ていたようだな」
前を見たまま後ろを気にかける風でもなく、先程の話の流れのような口調で大鳥は問い掛けて来た。
「昨夜の足音はあんたか・・・」
それまで二人の間にあったある種の均衡を突然崩して、土方の声が突然低くなった。
後ろの人間が足を止めたのを怪訝に思ったのか、やっと大鳥が振り向いた。
「足音を聞かせては迷惑だったか?」
「迷惑だ」
間髪を置かずに戻った激しい応えに、大鳥が眉根を寄せた。

「・・・あんた、どうして俺の客に気付いた」
そんな表情など視界の内に無く、次に責め立てるように大鳥に浴びせられたのは、土方の脳裏に過ぎった新たな疑惑だった。

総司は全く気配を感じさせない。
辛うじて自分だけが、求めて止まない自分だからこそ、総司の存在を知りえる筈のものだった。
だから大鳥に知られる訳はない・・・

「気づいたものは気づいた。それを説明する事は難しい」
にべも無い応えだった。
だが土方の問いの根本にあったものは、昨夜自分の室に総司が居た事を大鳥が察した事柄ではなかった。
そんな事はどうでも良い。
土方の恐れたものは、知られた事によって総司が二度と自分の目の前に姿を現さなくなったら・・・
ただその事実だけだった。

「あんたの他に俺の客の事を知っている人間がいるのか」
突然とも言える土方の変貌に、少しばかりの事では不敵なまでの態度を崩さない大鳥も、流石に顔に浮かべた不審な色を隠さなかった。
「俺はあんたの部屋の先に行く必要があった。それ故結果的に知ったまでの事だ。が、そんな事がどうしてそれ程気に掛かる。何かあるのか?」
大鳥の好奇の思惑はそちらに動いたようだった。
「要らぬ世話だっ。もしこの事を他に漏らしたら、その首を貰う」
とても冗談とは思えぬ土方の憤慨を、大鳥はどう応えて良いものか暫し黙って見ていたが、やがて静かに口を開いた。

「物騒な応えだな、だがあんたの処にいた昨夜の客、多分俺は前にも会っている・・・きっとあの客だろう。ほっそりとした若い男だった。透き通るような肌の色は尋常ではなかったが・・もしかしたら病持ちか?」
淡々と語る最後は、自ら医術を専らとした過去を持つ者の鋭い観察だった。
だが大鳥の口から次々に繰り出される言葉に、土方の双眸が驚愕に見開かれた。
「・・・どこで」
砂地に続く日照りのように、乾いた喉が作った声が掠れた。
「総裁入札のあった夜だ。が、会ったのは外だった」
「外?」
「そうだ、外だった。あの日は夜になって雪になったのを覚えているか?」
無言で頷いた土方の胸に、忘れるはずの無いもうひとつの記憶が蘇る。

それは敢えて己の裡に封印し、決して解きはしないと誓った事柄だった。
否、最早そういう生易しい言い回しでは到底覆いきれるものではない激しい感情なのかもしれない。


昼、重い雪雲の間から、残酷なほどに綺麗な青空が時折覗いたあの日、江戸で総司を託した大垣の豪商松前屋治平衛は、土方の元にもたらせてはならない事実を告げにやって来た。
すでに遠く総司はこの世には亡いのだと。
だから自分は切り取ってしまったのだ。
脳裏から、過去から、まるで最初から全て無かったかのように。
そして今も、真実は土方の内に無い。


「深夜その雪も止んだ。・・・最初は何だか分からなかった。ただ影のように其処にあった。・・それが人だと分かるのには少しばかり時が要った。凍てついた分、月明かりが煩い程だったお陰で、顔貌(かおかたち)の判別は容易かった。・・・一度も見た事の無い顔だった。だが俺は立ち尽くしたままその場を動かず見ていた」
この男にしては珍しく、その場の情景をひとつひとつ確かに思い出すような、ゆっくりとした物言いだった。
だがそれにすら焦れて、土方は次の言葉を待つ。
「この建物を見て何やら思案気に佇んでいたが、俺の視線を感じたのか、驚いたように振り向いた表情が瞬時に強張った」

大鳥の言葉を耳にしながら土方は、舌打ちするでは届かない苛立ちの中にいる。
総司は最初から自分との関係を他人に知られる事を、何よりも恐れていた。
先を限られた身が、足手纏いだけにはなりなくないと繰り返し、そんな事は取るに足らないと幾ら説いても、それだけは首を横に振りつづけ聞き入れなかった。
その総司が姿を見られた相手に、尚且つ自分の処に来ている事を知られていると分かったら・・・
今土方を襲っているのは、二度と総司が姿を現さなくなるという確信と恐怖だった。

「つい声を掛けた」
「・・・声を掛けただと?」
そんな思惑など知らず、大鳥から明らかになる事実は、焦燥の極限まで土方を追い詰める。
「どうしたのだと。そうしたら相手は何も言わず黙ったまま俺を見ていた。それで俺は土方なら部屋にいる筈だと、更にそう告げた」
前に向けていた視線を、端正な顔を蒼く歪め黙したまま語らぬ土方に、大鳥は移した。

「俺の言葉に、相手はひどくうろたえた。だがもっと迷っていたのは、あんたの処へ行こうか行くまいか・・・決めかねている心のようだった」
「・・・どうしてそんな事が分かった」
余計な事をしてくれたと、目の前の男の胸倉を掴んで怒鳴りたい憤りを漸く堪えた、土方の性急な問いかけだった。
「俺が居る事にも気づかず、ずっと見ていた先があんたの部屋だった・・・だから分かった」
微かに浮かべた笑みに、滅多に感情を表に出さない大鳥にも、こんな風な表情をする事があったのかと思せる程、己を自嘲するような苦さが籠もっていた。

「そうだよ、俺もそれだけ相手を見ていたということさ。蒼い月明りの中に立っていた姿が、白い焔のようでもあり、舞って散る粉雪の儚さのようでもあり・・・・不思議な感覚だった。・・だが綺麗だと思った」
射すくめるような土方の双眸から視線を逸らせもせず、さらに大鳥は笑いかけた。
「どうやら・・見とれていたらしい」
最後の一言を告げると、あとはもう話す事は無いと言う風に、大鳥は愛想無く背を向けた。


去ってゆく男の姿が視界の中で小さくなって行くのを、すでにただの像としか結べず、土方は其処に立ち竦んだまま、ある種戦慄にも似た焦燥の中で両の手を爪が食い込むまで握り締めた。










                きりリクの部屋    月華に眠らず(下)