12345御礼 蓉さまへ
蛍 火 上
「薬の処方を変えるよ」
最後に左の肩袖を通して襟の袷を整えて声のする方に顔をあげると、
すでに薬棚のある隣の室に移動している田坂俊介医師の広い背が見えた。
「飲みづらいかもしれないが、辛抱して飲めよ」
背中を向けたまま、それぞれに異なる薬の入った引き出しを、幾つか開けている。
「・・・田坂さん」
遠慮がちな総司の問い掛けに、田坂がようやく振り向いた。
動きを止めたまま黙って次の言葉を待っている。
「どこか蛍がたくさん見られるところ、知らないかな」
「蛍?」
呆れたような声音に、総司がはにかんだような笑みを浮かべた。
「蛍なんぞ、そこかしこで見られるだろうに」
「それがあまり見ることができなくて・・」
「その辺の川原に行けば、いやという程いる」
「近くでは邪魔をする人たちがいるから」
「ああ、一応新撰組の沖田だったな・・忘れていた」
総司の顔をつくづくと見て、田坂は言った。
室の中央に大人しく端座している若者が、京洛に名を知られている剣客ということを
ともすればすっかり忘れてしまう自分に、田坂は苦笑した。
「何を今頃そんな事を言い出すのかと思えば」
「すみません」
恐縮そうに言う総司は、
蛍を見たいと言った己の言動を、いささか恥じている風だった。
「別に詫びることは無いが・・蛍な」
呟いて、どこか思案するように田坂が腕を組んで沈黙した。
「あまり屯所から遠くでは無いほうが良いのだろう。こんな時期だからな」
それに総司は黙って頷いた。
この年の春先に新撰組参謀の伊東甲子太郎が、
もとより同士と募っていた者数名を率いて、
先に崩御した孝明天皇の御陵を守るという名分を掲げ、
手回し良く『御陵衛士』の名を拝領すると新撰組から分派した。
伊東の事実上の脱退による隊士の減少と、
この頃再び京で勢いを増してきた長州勢力弾圧の強化で
新撰組の内部は今猫の手も借りたい程に忙しい。
その中において新撰組の精鋭部隊でもある一番隊を任されている総司は
一時の気も抜けない日々を強いられている筈だ。
そういう時だからこそ、出かけるにしても、この若者の性格から言って、
屯所からそう遠くには行きたくはないだろう。
だがそれよりも田坂にはもう一つ、別の危惧があった。
総司の身体の中にある宿痾が、ここひと月程酷く進み方が激しくなっている。
労咳という病は一度罹患すれば、進行の緩急はあっても、
決して手を休める事無く、確実に患者の肉体を滅ぼしてゆく。
総司の身体はもう新撰組においての活動の限界に来ている。
近藤や土方にはすでにそれを伝えてある。
あとは終わりに向かうだけの残された時を、
いかに緩やかにできるかだけの選択しか残されてはいなかった。
今日処方する更に強い薬も、一体どれ程の効果が期待できるものか。
そうしてただ手をこまねいて見ている他できない無力な己を、
田坂は罵倒してやりたい思いでいる。
「屯所から少し離れるが・・・松尾という処を知っているか?」
その感傷を断ち切るかのように、
田坂は考え込んで組んでいた腕を解いて、総司に顔を向けた。
「松尾・・?」
「蛍の群集を見たいのだろう?」
「群集というのか・・とにかく蛍だらけの処に行きたいのです」
「また珍しい事を言うな。土方さんとか?」
からかうような問い掛けに、総司は頬に朱の色をのぼらせ、むきになって首を振った。
「隠さなくてもいいさ」
その仕草に、田坂が声を出して笑った。
「隠してなどいません。行くのは私ひとりです」
「まぁ、それはどうでもいいことさ。
その松尾だが、不動堂村からは離れているぞ。
桂川に沿っている。屯所からは北に上がるが、・・・そうだな、
道のりはここに来るものの倍位はあるかな。近くには大きな社もある。
だがあそこまで行けば、とりあえずは邪魔をするような無粋な人間はいないだろうな。
もっとも付けられていなければの話だが」
「付けられても構いません」
「ずいぶんと強引だな。蛍のどこがそんなに気に入ったのか・・」
確かに自分の言っていることは、
田坂にとっては突飛でもないことなのかもしれない。
それでも総司はただ笑みを浮かべるだけで、
その理由を話そうとはしなかった。
「田坂さん、今晩行ってみます。その松尾というところ・・地図を書いてもらえますか?」
「おい、ずいぶんとせっかちなことだな」
「さっき雨が上がったし、雨上がりには蛍が良く見られるって言っていたから」
「誰が?」
「島田さんが・・・。二番隊の伍長をしている人なのですが」
「ああ、あの身体の大きな人か」
田坂自身も背が高いが、島田魁はそれ以上に高く横幅もある。
主に総司の診療の為に幾度となく新撰組に出向いた事のある田坂にも、
その人物の姿は鮮明に記憶の中にある。
「夜露に濡れるのはあまり感心しないが・・・」
「でも、もしかしたら来年は見られないかもしれない」
田坂の言葉尻を取って、笑いながら総司がその後をつなげた。
「明日どうなるかが分からないのは、誰も同じことだろう」
薬棚の中のものを探す風に何気を装いながら背を向けて、
だがしかし、田坂は動揺を隠しきれない己を叱咤した。
あまりに思いがけないひと言だった。
確かにそれは有り得る事だった。
もう一度この季節を総司が迎えることができるのか、それは田坂自身にも分からない。
否、見ることができると言う約束の方が遥かに遠い。
総司の言った事は正しい。
総司は来年又、蛍を見ることができないであろう。
声はいつもの調子であったと思う。
自分の顔は強張らなかったはずだ。
背を向けたまま、田坂は今己が医者であることを激しく呪い、
或るいは医者であるからこそ、己を律することが出来たことを感謝した。
不動堂村の屯所はまだ新しい木の香りに包まれている。
ここに越してきたのが先月六月の半ば。未だ引越しの片付けも落ち着かない。
早々に夕餉を済ませると、総司は屯所の裏口から出ようとした。
雨さえ降っていなければ、この季節の日は長い。
まだまだ明るい空に励まされるように歩き出した寸座、
「総司」
聞きたがえるはずのない声に立ち止まり振り向いた。
やはりそこに土方が居た。
「どこに行く」
「すぐそこです」
「俺はどこに行くと聞いている」
「・・・・蛍を見に」
言いかけて思わず口を噤んだ。
屯所の移転以来、土方の毎日は多忙を極めている。
移転後すぐに新撰組の大半が幕府直参として取り立てられた。
それを追い風にして政治の表向きに走る局長近藤を補佐しながら、
土方は分派した伊東等の動きにも敏感であらねばならなかった。
そんな土方に、自分だけが蛍を見に行くなどと、言える筈もなかった。
「蛍?」
だがすべては遅かったようだ。
土方は一瞬怪訝な顔をして総司を見た。
「すみません・・すぐに戻ります」
言った途端にうな垂れた項(うなじ)が、傾きかけた日の中で何とも頼りなかった。
「俺も行こう」
その言葉に総司が弾かれたように顔を上げた。
「どうした。鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして」
「でも、土方さんは忙しいって・・・」
「もう今日は終わりだ。ゆくぞ」
言い終えたときには総司の前を通り過ぎて、先に歩き始めていた。
その背を総司は慌てて追った。
「ところでお前は一体どこまで行くつもりだったのだ。
まだこれほど明るければ蛍も光るまい」
「松尾というところです」
少しばかり息を切らせながら、足の早い土方に追いついて答えた。
「松尾?」
土方が呆れたように振り返った。
それをものともせずに、総司が小さく笑った。
「松尾です。今日田坂さんに教えてもらって・・・」
「松尾といえばここから一刻近くも歩くぞ。
何もそんなところまで行かなくともその辺りで十分だろう」
「蛍が、それこそ群れになって飛んでいて、
蛍だらけで他のものなど何一つ見えないくらいに
光を放っている処で無くては駄目なのです」
土方を見る総司の黒曜石に似た深い色の瞳が、穏やかそうに和みながら、
だが更にその奥に、密やかだが固い意志を秘めて揺らぎなかった。
こういう色を湛える時の総司は、決して己の信念を曲げない。
土方はひとつ息をついた。
「遠いぞ。途中で音を上げるなよ」
「大丈夫です。一刻位の道のり、すぐです」
この上なく嬉しそうに笑った顔が、
ふいに射した西日にさらわれて、
一瞬とけて無くなってしまいそうな錯覚に捉われ、
土方は思わず総司の腕を掴んだ。
「土方さん」
驚いたように瞳を瞠った顔は、すぐに何かに怯えるように硬く蒼ざめた。
「放して下さい」
次に言葉にした声音には、懇願とそして咎めるような響きが混じっていた。
ここは屯所の敷地内だ。日もまだある。
誰かに見られることを、総司は極端に恐れた。
「すまん」
我に返ったように腕を放した土方に、やっと安堵の吐息を漏らした。
「早く行かないと蛍がいなくなってしまう」
浮かべた笑みに、もう先ほどの緊張の色は無かった。
「ばか、蛍がいなくなるわけがないだろう」
共に並んで歩きながら、土方は横の想い人の稚気に触れて低く笑った。
「いえ、蛍が光るのは、ほんの四半刻(とき)くらいなのだそうです。
それも六ツから五ツ位の決まった間なのだそうです」
「お前いつからそんなに蛍に詳しくなった」
うんざりしたような土方の声に、総司が今度は声を立てて笑い始めた。
「笑っていては分からん」
「島田さんです。島田さんに昨日聞いて・・・」
「島田君もお前に絡まれてさぞ大変だったろうな」
「そんなことはありません。昨日屯所に蛍がいて・・。
一匹だけだったから、どこからか紛れ込んだのかな」
その時の情景を思い浮かべたのか、総司が少しだけ目を細めた。
「それを見ていたら島田さんがやって来て、いろいろ教えてくれたのです。
島田さんのお国元は大きな川や小さな川が沢山あって、
あちらこちらに水路が巡らされているから、
今頃の季節になると、どこに行っても蛍の群れが見られるのだそうです」
今日の総司は何時に無く饒舌だった。
それを微かに気に留めながらも、土方は総司の話を黙って聞いてやっている。
「蛍が一斉に舞うと、まるで光がその後を追うように交差して、
目が眩んでしまうほどで、自分が立っているところがどこなのか、
分からなくなってしまうこともあったそうです」
「それほどまででは無いにしても、日野でも似たような光景はあっただろうに」
「あったけれど・・・。でも、なんだか今それが見たくなってしまって」
歩きながら俯いた横顔が、薄い闇につつまれてきた夕景の中で、仄かに白かった。
土方の目に、それがひどく寂しそうに映った。
「お前の気まぐれには慣らされている」
楽しそうに話しながら、何故こんなにも哀しそうな顔をするのか、
漠然と己の胸に広がる不安なものを振り切るように、
土方は殊更抑揚の無い乾いた声で告げた。
日が全部沈んでも、まだその余韻だけが残る、闇との交差するこんな時は、
訳も無く人を落ち着かなくするのかもしれない。
日を隠したこれから向かう先の稜線に目をやりながら、
土方はそんなことを思って自分に言い訳をした。
それでも次に来る闇よりも、己の胸にある闇は更に深く濃い。
想い人に歩を合わせて並んで歩きながら、
土方は底の無い暗い淵に沈んで行く己の心を止められなかった。