天は地に雫をしたらせ
雫は地に染み入り溢れ
やがて地より流れいずる

行方も定めぬまま
時も定めぬまま
滾る想いのまま
留まることなく 
いずこへと流れいずる






                130002御礼  今井祐香さまへ





                    -niwatazumi- (壱)





「総司っ」 
深々と降る氷の礫(つぶて)が、辺りの風景を白一色の彩りへと籠もらせ、時折、その重さに耐え切れぬ枝が、垂(しず)り雪を落とす、唯それだけが音を為す静けさの中、不意に聞こえてきた少し高めの声音は、山南の足を止めるのに十分だった。

「どうして、聞いてはくれないのです」
「姉さんには分からないっ」
叫びにも似た声は、つい先程自分に向かい、弟が世話になっていると丁寧な礼を述べた、あの玲瓏な面差しの婦人のものなのだと。
そしてかの静かな物腰の主を、此処まで取り乱させ困らせているのは、どうやらその弟らしいと・・・
そうするつもりは無くとも、否応無しに耳に入って来る遣り取りを、冷たい外廊下に立ち尽くして聞く顔に、苦笑が浮ぶ。
だが実の姉とは言え、これ程までに激しい言葉を総司が迸らせる事は珍しい。
それも又、山南の動きを止めさせている原因のひとつだった。



 食客と云えば聞こえが良いが、居候を決め込んでいる試衛館の主近藤勇が、将軍警護の為に編成される浪士組に加わり京へ上ると決意したのは、今年に入って直ぐの事だった。
そして早二年の余になっていた近藤との付き合いで、その人柄に深く惹かれていた山南にとって、志を同じくし行動を共にするのは、ごく自然の成り行きだった。
しかしこの事は叉、別の意味で、山南自身に或る種の驚愕をもたらせた。
それは周りの者達を煽る熱い気概が、自分にとっては既に最たる要因では無くなっていると云う事実だった。
大志を抱きと、そんな思いも確かにありはした。
しかしそれは、ほんの一時の感情でしかなかった。
もしかしたら自分は、単に江戸と云うこの地から逃れたかっただけなのかもとしれぬと・・・
胸の底に鬱然と蔓延る靄(もや)に改めて己の本当を垣間見、そして自ら突き付けた今更ながらの真実に、山南は自嘲の念に囚われずにはいられなかった。
――旅立ちに向け、慌しく勢いづいて行く者達とは相反し、日々冷め行く自分を厭いながらも、周囲の昂ぶりに合わせて今日まで来たが、ただひとつ、そんな山南にも懸念している事があった。
それが今、耳にしている声の主である総司の、次第に深くなって行く憂い顔だった。

 試衛館で一番の年少者でもある総司は、同時に、この道場の師範代でもあったが、同い年の藤堂平助と並んでも、見た目の頼りなさ故に、告げられた者は始めその事実を偽りだと一笑にふす。
しかし繰り出される剣の鋭さ、かわす身の俊敏さを一度目にした途端、それがこの華奢な体躯の何処からいずるのかと、俄かには信じ難い衝撃に愕然とさせられる。
だがその天賦の才よりも、この若者の、自分を主張する術を置き忘れて来てしまったかのような不器用な一途さを、山南は慈しみ可愛がっていた。
そしてそんな総司の胸の裡に今翳りを落としているのが、姉光の頑なまでの反対らしいとは、上洛の一件を知るや即座に弟を止めて欲しいと近藤のもとを尋ねて来た、常に控えめなこの佳人からは考えられない、積極的な行動から推し量る事が出来た。
その際にも姉の言葉に抗う総司のあまりの激しさは、遂には近藤が厳しく叱責した程だったと永倉から聞き、珍しい事もあるものだと笑ったのはつい先日の事だった。
そして今日、天然理心流の強力な支援者である、この小野路村の郷士小島為政邸へ、最後の出稽古にやって来た山南と総司を待っていたのは、意外にも光その人の姿だった。

今一度、総司への説得を試みる為に、光が小島家まで出向いてきたのは分かる。
だが何故それ程までに、この姉は、弟の希(のぞみ)を阻もうとしているのか・・・
沖田家の唯一の男子と云う事を念頭に置いても、光の頑なまでの反対は、山南にも腑に落ちぬものがあった。
そしてそれは、何故か山南の胸の裡を、落ち着か無く騒がせるものでもあった。



「貴方の身体の事なのですよ」
一瞬己の思考に耽り我を忘れかけた山南を、再び現に戻したのは光の声だった。
「そんな事、分かっている」
段々に激しさを増して行く会話は、他人には聞かせたく無いものだろう。
そう察し、気付かれぬよう、音を殺して踵を返しかけたその寸座――。
「命を、削る事にもなりかねないのですよ」
声に籠もるあまりの必死と言葉の孕む深刻さが、山南の動きを止めた。
「京に行けないのならば、命など惜しく無いっ」
「総司っ」
悲愴な叫びが虚しく空(くう)を震わせた刹那、乱暴に開いた障子から飛び出して来た人影に、山南の眉根が寄った。
だが行く手を阻むように存在する姿に驚愕し、身を怯ませたのは総司の方だった。
しかし直ぐに、激しい狼狽に揺れる瞳の主は、山南に声を掛ける暇(いとま)も与えず小さく頭を下げると、其処に居たたまれないように足早に廊下を去って行った。
そして間を置かず弟の後を追って出てきた光も又、思いもかけぬ人の姿に息を呑み立ち竦んだ。

「申し訳ありません、聞くつもりは無かったのです」
頭(こうべ)を下げる山南に、光はまだ強張りを解く事が出来ず、細い線の面輪は蒼ざめ、流麗な線を描く唇は言葉を紡ごうとはしない。
「・・総司の身体の事を仰っていましたが、姉上殿には何か深いご懸念があるのでしょうか?」
だがその無言の拒絶に、山南は敢えて踏み込む。
「もし宜しければお伺いしたい」
更にいらえを促す強引さは、瞳を伏せ、視線を逸らせていた光の面を、否応無しに上げさせざるを得なかった。
「つまらぬ姉弟喧嘩をお聞かせしてしまい、申し訳ございません。・・ですが山南さまにご心配を頂くようなものでは無いのです」
やがて静かに語り始めた声音は、しかし心の裡にある動揺を未だ隠し切れずに硬い。
「ですが姉上殿は先程総司に、あいつの命に関わる事だと仰っておられました。京に上る事が、総司の身に何か災いになると、そう云う事なのでしょうか?」
だがその狼狽に見ぬ振りをして繰り出される言葉は鋭く、真実だけを求める。
「そんな大事を、近藤さんは知っているのですか?」
困惑の極みに追い詰められ、再び視線を逸らせてしまった佳人の様に心で詫びながらも、山南は追求の手を緩めない。
「教えて下さい。総司の身の脆さは、私も案じている事なのです」

それは偽りでは無かった。
選ばれた者だけに与えられた天凛を持つ年若い師範代は、同時に、見た目の造りを裏切る事無く、誰もが危惧する脆弱さをも有していた。
そしてその事は、総司が宗次郎と名乗っていた頃からの、山南の杞憂でもあった。

そんな山南の言葉にある真摯が届いたのか、漸く光が顔を上げた。
「私が、大げさなのでございます。以前あの子が麻疹に罹った時に、診て頂いたお医者様に、元々無理が効かぬ身体なのだと教えられてから、必要以上に神経質になってしまったようで・・・。いつかは近藤様にもお話をして、手元に返して頂きたいと思っておりました。それが京に上ると聞き、案ずる心だけが先走ってしまい・・・本当にお恥ずかしい事でございます」
時折躊躇いがちに言葉を途切らせるのは、それが全ての真実ではないと物語る証でもあった。
そして云い終えるや再び瞳を伏せてしまった光の面持ちからも、それは容易に察せられた。
弟の身体について、もっと他にも危惧するような事を云われたのだろ。
だがこれ以上は、この婦人の口から聞くのは無理と判じた山南が、問い詰めてしまった詫びのように、苦笑がてらの溜息をついた。
「あれで総司は、普段の素直さからは想像できぬような頑固を見せる事がある。ですが姉上殿のお気持ちは、あいつも良く分かっている筈です」
「だと良いのですが・・・。けれど命よりも大事だと言い切られれば、もう諦める他無いのでしょう」
自分に対する気遣いへの礼を、弟に良く似た面差しに浮べた寂しげな笑みに代えた光を、山南は言葉も無く見つめていた。




 終日、降り続けた雪は、夜になっても止む事は無く、地にあるもの全てを凍てつかせてしまう冷気は、廊下の板敷きを踏みしめる足の知覚も失くしてしまう。
それでも躊躇う心に負け、留めた視線の先にある室から仄かに漏れる灯かりを前に、総司は先程から其処を動けずにいる。
 昼間、姉の光との諍いを聞かれてしまった気まずさから、なるべく山南とは顔を合わせぬよう避けてきたが、宛がわれた室が同じならばもう逃げる訳には行かない。
だがようよう己を奮い立たせて踏み出そうとしたその足が、突然開けられた障子の隙から溢れ出た灯りの眩さに、怯むように止まった。

「何をしている、そんな処で突っ立っていないで早く入れ」
痺れを切らしたような急(せ)いた物言いは、此処にこうして自分が居た事が、山南にとっては疾うに承知の事だったと総司に知らしめる。
が、そうと分かれば、今度は耳朶まで一気に血が遡るような激しい羞恥に襲われる。
「又、風邪を引くぞ」
だがそんな総司の心中などお構いなしに、揶揄するような笑いが立ち尽くす身を促す。
しかも声の主は、伝える事だけを伝えると、後から入ってくるものと疑わず、障子を開けたまま再び室に籠もってしまった。
その強引さに、総司は諦めにも似た小さな息をつくと、凍てた廊下の先へと足を踏み出した。


「韶斎(しょうさい)先生の講義は、終わったのか?」
この家の主であり、近郷を束ねる寄場名主でもある小島家の当主為政の事を、山南は、親しい者だけには号で呼ぶ。
試衛館の食客になり、出稽古に訪れる機会を持ち互いを知るようになってから、この二人は、どちらかと云えば剣術よりも互いに造詣の深い国学漢学を語る相手として、他の者達とは違う形で親交を深めていた。
そして近藤も又自らはもとより、総司にも剣術だけでは無く、広く世の動きや勉学を学ばせようと、小野路村に出稽古に赴かせた折には、為政に、この愛弟子への学問の指導を乞うていた。
それは京に上る最後の出稽古であっても変わる事無く、夕餉を終えた後、総司は暫し為政の教えを受けていた。

「題は何だった?」
「最後だから餞別だと云われて、今日は講義は休みにして、干菓子をご馳走になりながら色々とお話を伺いました」
「ではお前にとっては、楽しい講義だったな」
よく火の熾った火鉢の際に座り込み、そして横に来るよう目線で促しながら笑う山南に、硬さを解けなかった総司の面輪にも、漸くつられるような笑みが浮かんだ。
「暖かい・・」
火箸を手繰り火を熾こしてやっている山南の傍らに端坐し、手を翳しながら呟いた頬はもうすっかり色を失くし、それが如何に長い事廊下に佇んでいたかを物語る。
そしてそれは同時に、昼間の出来事を、総司なりに重く胸に拘らせている証でもあった。
その愚行を敢えて叱らず、山南も暫し無言でいたが、やがて火の具合を見ていた手を止めると静かに口を開いた。

「明日は、姉上の処へ行くのだろう?」
和やかな会話の続きのような衒いの無い調子の一言だったが、しかし総司はその一瞬、山南がこれから話題にしようとしている意図を判じ身を硬くした。
「行かなければいけないよ、総司。行って姉上に謝って来い」
いらえを返さず沈黙の砦に籠もってしまった相手に、ゆっくりと視線を移しての物言いは、穏やかだが、否と拒む事を許さぬ厳しさを秘め強い。
「・・姉は」
だがその山南を見ず、唇だけを動かし言葉を紡いだ横顔が酷く硬い。
「山南さんに、何を云ったのでしょうか・・」
「お前の事を、無理の効かない身体なのだと、だから京へは遣りたくないのだと、姉上はそう話された。・・いや、私が無理に其処まで聞き出した」
淡々と告げる口調は、その分容赦無く総司の耳に届く。
「姉が大げさなのです、だから・・」
「総司」
振り向き、両の瞳でしかと山南を捉えての必死の訴えを、包むような静かな声が制した。
「お前もそうしなければならない事は、承知している筈だ」
呆然と凝視している瞳に向かい、告げる口調は柔らかい。
「この雪は明日も止むまい。・・これでは集まったとて、来る人間の数は知れている。稽古をつけるのは私一人で十分だ」
「でもそれでは・・」
「姉上を哀しませたまま、京に行くのか?」
諭す言葉は総司の裡に在る懊悩を直截についたらしく、たちまち視線は逸らされ、萎れた花のように、か細い項が垂れた。
「今日聞いた事は、私の胸の中だけに仕舞っておこう」
が、続けられた言葉が耳に届いた途端、伏せられていた面輪が、今度は弾かれたように上げられた。
「だが約束を果たすのは、お前が姉上に詫びてからだ」
「本当に・・本当に、近藤先生や、土方さんに、何も云わないでいてくれるのでしょうか・・」
詰めよらんばかりにして問う蒼い面輪に、見つめる山南の口元にも、仕方無しの苦笑が浮かぶ。
「もうひとつ、無理はしないと約束すればな」
「しますっ、約束します、だから・・」
「ならば明日は、姉上の処へ行くな?」
何時の間にか掴まれていた片袖が、総司が頷くたびに揺れる。
「おい、そんなに強く掴まれたら袖が千切れる。この襤褸着とて、一張羅だ」
此方が止めぬまで、細い首が折れてしまいそうに幾度も頷く相手への愛しさを、山南は、そんな言葉で揶揄して笑った。
 
だが今笑みを浮かべて自分を見詰めている山南の胸の裡に、もうひとつ重くのしかかっている憂慮を、安堵にいる総司は知らない。
何故これ程までに、総司が京に上る事に拘るのか――。
それはその理由を知り得るが故の、山南なりの憂慮だった。


 三年前の秋、試衛館を己の寓居と決め込んだ頃、総司はまだ宗次郎と云う少年だった。
が、その宗次郎の視線の追う先に、常に土方歳三と云う男の背が在るのを、山南の鋭敏な勘が気付くようになったのは、それから幾らも経ない内だった。
そして土方の言葉ひとつ、行動ひとつが、この不器用な少年の面輪に笑みを浮かべさせ、或いは翳りを落とすのだと知るまでに、そう時は要らなかった。
しかし宗次郎の、土方に対する、その感情の振幅が一際大きなったのは、何時の頃からだったのか。
少年の憧憬は、違(たが)いも無く、恋情のそれへと変わったのだと――。
そう判じ見守る日々の中で、やがて総司の片恋は、山南の目に、時に危ういとすら思うまでに、烈しさを増して行った。
浪士組への参加は、そんな時に齎された話だった。

土方が行くのならば、それに倣うのは、総司にとってごく当然の事なのだろう。
否、土方の在る処が自分の在る処と、総司は疾うに決めている。
そしてその意志は、誰にも翻す事は出来ない。
京に上る事が出来ぬのならば、命など要らぬと光へ言い放った言葉は、総司の心中を些かも偽ってはいない。
しかし土方一人を想う総司の、一途さ故の激しさと、激しさ故のひたむきさは、山南の、胸の深い処に仕舞い込んだ傷を疼かせる。

――嘗て。
一人の人間に、あの瞳と同じ真摯な眼差しを向けられ、そしてそれを拒み、相手の心を無残に打ち砕いたのは、自分だった。
その事を思い起こせば、今も胸を抉るような痛恨が山南を襲う。
或いはこの試衛館での何年かで、とうとう土方と云う男と反りが合わずに終わったのは、総司の想いに何時までも気付いてやらぬ相手の傲慢を、嘗ての己と重ね合わせて厭う所為なのかもしれないと・・・
思いもかけぬ処でその因果に行き当たった皮肉に、自嘲の苦い笑いを強いる他、もう山南は過去を葬り去る術を見つけられなかった。

 蒼が勝る白い頬に漸く血の色を透かせ、火に手を翳している邪気の無い横顔を見詰めながら、山南は上洛が決まってから此方、あまりに慌しく起伏した己の感情の綾を、今静かに鎮めようとしていた。





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 間借りしている郷士屋敷のある壬生までは、今足早に通り過ぎようとしているこの四条堀川からは、まだもう少し距離がある。

 四方を山で囲まれた王城の地は、天道の僅かな熱をも地に籠もらせてしまうのか、降りしきる雨に孕む湿り気が不快に肌に纏わりつく。
冬が終わったばかりの都は、花の季節に知らぬ振りをし、一足飛びに雨催いばかりの鬱陶しいそれへと変わってしまうのかと思えば、その狭間をついて、白いものがちらついてもおかしく無い底冷えの日が続く。
そんな寒暖の差が、ここ数日の気だるさに通じているのだと、己の身体の不調を、総司は無理矢理自分に言い訳し、足を急がせていた。
 

――十日程前に隊士全員に初めて支給された給金は、浪士組と云う組織の運営が、会津藩預かりの下で軌道に乗り始めた証でもあった。
与えられた金子をその日の内に使い果たしてしまった者、郷里の妻子へと送る者、それぞれに事情は違えど屯所内が湧き立つ中、総司だけは手付かずのままで置いておいたが、やはり思い至ったのは、姉光への送金だった。

京から江戸まで、通常の飛脚なら一月。
だが金子を送るのならば、少しでもその時を短くした方が万が一の難は少なかろうと、早飛脚にするよう教えたのは土方だった。
更に何時の間にか確かと評判の飛脚屋まで調べて来、其処に託すよう言い渡したのも又、土方その人だった。
そして非番の今日、云われるままに、総司は壬生からは幾分遠い四条河原町にあるその飛脚屋へと足を運び、今はその帰りだった。
しかし帰り着くまでは大丈夫かと思われた天候は、思ったよりも早くに崩れ、ぽつりぽつりと地を斑(まだら)に濡らし始めた滴は、直ぐに叩きつけるような激しいものとなり、纏っている衣を透け肌まで濡らしたのは瞬く間だった。

 もう濡れる処など無いと諦めたとは云え、雨を受けながらの帰路は自然と足が急ぐ。
近藤も土方も、今日は昼から会津藩が本陣を置く黒谷の金戒光明寺に出掛けている。
だがこんな様を見せれば、浪士組をより堅固な組織に造り上げる為に東奔西走している二人に、又要らぬ心配をさせてしまうだろう。
それを思えば、出来損ないの我が身が、総司には臍を噛む程に悔しく呪わしい。
その焦燥のままに、袴の裾から覗く細い足首が、驟雨をついて走り出した。


 雨滴は、下駄の鼻緒に水気を含ませ、それがきつく甲を押さえ付けてしまう所為で、いつもよりもずっと走りにくい。
思うにならぬ動きに焦れながら、それでも一時も休む事無く走り続けていたが、やがて辺りが見なれた情景に変わり、あと少し行けば壬生村の集落も近いと云う処まで来て、漸く総司の裡に安堵が広がった。
が、跳ねる泥をも厭わず泥濘(ぬかるみ)を蹴っていた足が、不意に止まった。
そしてそれと同時に、乱れた前髪から雫を滴(した)らせていた面輪に笑みが浮かび、荒い息だけを吐いていた唇が嬉しそうに開きかけた。
が、その動きは言葉を作る事は無く不自然な形で止められ、唇は微かな歪みを残したまま再び閉じられた。

 差している傘が邪魔をして顔貌までは分からないが、山南と並んで来るのは見知らぬ男だった。
浪士組や其れに関わる者ならば大体分かるが、遠く視線が捉えている姿形に覚えは無い。
だが咄嗟に民家と民家の隙に身を隠す行動を総司に取らせたのは、山南の面にある、普段の穏やかな風情とは凡そ掛け離れた険しさの所為だった。
相手は山南にとって、決して慕わしい者ではない。
否、出来れば避けたい存在なのかもしれない。
ならば誰かに見られるその事自体が、厭われる事なのかもしれないと――。
そんな思いが、山南の前に自分の姿を晒す事を、総司に躊躇わせた。


 二人が路地を曲がり姿が見えなくなっても、総司はそのまま動かずに居たが、やがて少しづつ気配が遠のいて行くのを感じると、漸く軒と軒の間から滑り出、往来へ身を置いた。
が、もう視界の中に慕う人の背は無く、降りしきる雨だけが、辺りを水膜の中に籠もらせる。
それでも総司は山南の消えた先へと視線を止めたまま、身じろぎもせずに佇んでいた。









きりリクの部屋  潦(弐)