潦 -niwatazumi-
(参)




 僅かな音にすら神経を張りあけたつもりが、この異常に研ぎ澄まされた勘の持ち主には、何の役にも立たなかったらしい。
その瞬間、薄っすらと開いた瞼の隙から覗いた瞳が、忍び込む外気に誘われるように、ゆっくりと此方へ向けられた。
が、目線だけを移して笑いかけはしたものの、起き上がる素振りが少しも無いのは、それだけ力が、もう身の内に残ってはいない証なのだろう。
それが土方を、憂慮させる。

「・・話し合い、終わったのですか?さっき永倉さんが寄ってくれた時に、浪士組の名を語る辻斬りが出たと云っていたけれど・・・」
枕元までやって来、ぞんざいに胡坐をかいた土方を見上げ、総司は急(せ)くように問う。
「辻斬り野郎には、名を使わせてやった礼はきっちり貰うさ」
素っ気無い物言いでいらえを返しながら手を伸ばし、白い額から取り上げた濡れ手ぬぐいは生温く、もう疾うに本来の役目を果たす代物では無くなっている。
更に掌を翳せば、出て行った時よりも遥かに高い熱が伝わる。
「・・・朝になったら、治るから」
一瞬、土方の端正な顔(かんばせ)が顰められたその事が、自分への叱咤の証と受け止めた総司の唇から、気弱な声音がぽつりと漏れた。
「山南が、来たのか?」
が、精一杯の言い訳に返ったのは、全く予期せぬものだった。
「山南さん・・?」
「来る前に此処に寄ったら、お前が身支度を整えていたから止めさせたと云っていた。・・莫迦めがっ」
強い口調の最後を括った一喝に、見上げていた面輪がみるみる萎れる。
「・・・浪士組は、今が大事な時だから、どんな事もちゃんと知っておきたかったのです・・・だから・・」
「その内、嫌と云う程教えてやる」
強引に言葉を遮る無愛想ないらえは、しかしそれこそが、横柄を装う土方なりの労わりなのだと知れば、総司の裡には情けない思いばかりが走る。

「・・土方さん・・?」
だが唇を噛みしめたその総司の心裡を知ってか知らずか、云い終えるや、土方は夜具の脇に横になると、肘枕に頭を乗せ目を閉じてしまった。
「・・俺の部屋では、面倒を持って来る奴等で、おちおち寝てもいられない」
「でもこんな処じゃ・・・」
畳の上にじかでは、仮眠にしも寝心地が悪かろうと・・・
そう云いかけた唇が、もしや一夜、自分の傍らに添うつもりなのではと、ふと気付いた途端、繋げる筈の言葉を失くして動きを止めた。
そうして改めて見てみれば、土方は堅く目を閉じ、もう何を問うても応える様子は無い。
しかも微かな寝息すら立て始めている。

暫し。
いらえをくれぬ主に、総司は瞬きすら忘れて瞳を向けていたが、やがて音をさせずに夜具を剥ぐと身を起こした。
瞬間、視界はぐるりと回ったが、それを慌てて目を瞑る事で遣り過ごすと、今度はゆっくりと瞼を開け、足元に掛けてあった綿入れを手に取り、土方の眠りを邪魔せぬよう、その広い背を覆った。
そうして・・・
微かな隙間風に揺らめく蝋燭の灯が、整い過ぎた面に落とす影を自在に操る様を、飽きもせず、ただ静かに見詰めていた。





 壬生と云う村を南北に貫く坊城通りの道幅は、決して広いものでは無い。
子供達が追い鬼でもすれば、それだけで一杯になってしまう。
が、見るものの彩りを、そのまま透けさせていた大気に浅黄が混じり始め、暮れ六つの鐘を聞く頃には、春も終わりだと云うのに、吹く風には、肌を嬲るような冷たさが忍ぶ。
そしてそれが合図のように、寺の境内から往来まで、我が物顔で走りまわっていた童達も次第に数を減らし、そうなれば残された寂しさが先立つのか、今までさんざん遊んでいた仲間の事などもう眼中に無いように、今度は父母の待つ家路へと足を急がせる。
その呆れる程に正直な移り気に苦笑しながら、しかし山南自身は、日の高い内から本堂の上り口に腰を据えたまま、一向動く気配は無い。
 やがて境内から人影が消えても、何処を見るともなしに視線を巡らせていたが、しかしそれも時に計れば僅かの事で、遂に根負けしたような小さな溜息が漏れた。
「そんな処に突っ立っていると、折角治った風邪がぶり返すぞ」
声にした途端、同じ本堂の脇の、丁度山南からは死角になる辺りで、微かに人の動く気配がした。
が、それでも躊躇が勝るのか、相手は中々その場を出ようとはしなかったが、作り出される沈黙の長さに促され、漸く姿を現した。

「ずっと其処にいたのか?」
後ろに佇む相手を、振り仰ぐような格好で問う顔には、苦い笑いを隠せない。
だが総司はいらえを返せず、その代わりのように瞳を伏せてしまった。
「総司は隠れるのが下手だな。鬼ごっこでも、一番に先に見つかるだろう?」
他愛も無い、たったそれだけの揶揄に何と応えて良いのか――。
「・・どうして、分かってしまったのかな」
そんな事にすら言葉を見つけられず、それでもようやっと上げられた面輪に、ぎこちないながらも笑みが浮かんだ。
そしてそれに勇気を得たのか、遠慮がちに山南の傍らまで来ると、総司は同じように腰を下ろした。

「何時から居た?」
「子供達と遊んでいたら、山南さんが門を入って来るのが見えたのです。その時すぐに声を掛けたのに、山南さんは気付かなくて・・」
それが総司には不思議だったらしく、言葉の最後は、その理由を問うように深い色の瞳が山南に向けられた。
「・・掛けられた声も耳に届かぬような難しい顔をして、一体何を考えていたか・・か?」
硬い面持ちでいらえを待つ、傍らの主に語りかける調子は柔らかい。
「そんなことは無いけれども・・・でも山南さん、何か真剣に考えているようだったから」
「それで総司はあそこから出るに出られなくなって困り果て、私の様子を伺っていた訳だ」
「・・すみません」
「謝る事は無かろう?」
「でも・・」
まるで酷く悪いことをしでかしてしまったかのように、慌てて言い訳する様が可笑しかったのか、引き締まった口元から楽しげな笑いが漏れた。
「山南さん、ずっとあのお地蔵さんを見ていたのですか?」
が、その笑い声に硬さを解(ほど)かれた心は、驚く程自然に、そして性急に、総司の裡に痞えていた小さな疑問を形に変える。
六つの地蔵尊に視線を向けて問う瞳からは、躊躇いが消え、その代わりのように、今度は堪え切れない好奇心が、流麗な線を描く唇から言葉を紡がせた。
「何だ、何もかもお見通しか」
「ずっと山南さんばかりを見ていたから」
半ば呆れながら破顔する相手に、総司も嬉しそうに頷く。
「あそこの地蔵、六つあるだろう?あれらひとつひとつに名前と役があるらしい」
「名前と役?」
「しかも地蔵菩薩と云うのは、地獄の入り口で責め苦を受けている者の身代わりになってくれると云う、慈悲深いものなのだそうだ」
「人の身代わりに、なってくれるのですか?」
驚いて瞠られた深い色の瞳に、頷く山南の双眸が和む。
「現世だけでは無く、来世までをも救ってくれると云うのだから、有り難い仏さ」
語り終えた時、六つの地蔵に止めていた山南の視線が、ふと何処か遠くを見るように細められたのに気付いたが、敢えてその事には知らぬ振りをして、総司は穏やかな相を成す石の面に眼差しを止めた。

「前に・・もうずっと小さな頃だけれど、日野の家の近くにもお地蔵様があって、良く姉が花を手向けていました。・・・試衛館に行く事になった時にも連れて行かれて、お地蔵様は子供を助けてくれる神様だから、しっかり手を合わせて祈らなければいけないと云われました」
「そうらしいな。賽の河原で迷子になって泣いている子供を救ってくれるとの云い伝えもあるらしい。総司の姉上も、お前を手放してしまう事に、ずいぶんと心細い思いをしたのだろう。だから例え迷信と分かっていても、微かな光りがあれば、其れに縋りたかったのかもしれないな」
穏やかな口調ではあったが、今山南が語った其れが、上洛を反対した姉光との諍いを聞かれてしまった、あの夜の出来事と重ねているのだと知った総司の面輪が、気まずそうに伏せられた。
「おいおい、お前を責めている訳ではないよ」
己の心を隠す術を知らず、押し黙ってしまった純朴さを揶揄しながら、しかし又、その不器用を慈しむかのような双眸が、総司に向けられた。
「あの綺麗な姉さんに、無事でいるとの文は書いたのか?」
そうして更に語り掛ける調子には、先程夕暮れの中で六地蔵を見ていた時の峻厳さはもう無い。
「この間貰った金子を、早飛脚で送ったのです。そうしたら同じように、早飛脚で返事が来ました」
それがあの、山南と見知らぬ人物を見た雨の日の出来事だったとは告げず、細い線で丹念に造作された、姉と良く似た面輪に笑みが浮かんだ。
「早飛脚で?・・返事がか?」
驚いたような物言いに、頷いた総司の笑い顔には屈託が無い。

――早飛脚には、江戸と上方との間を片道六日で走ると云うので、『六日きり』と云う別称がある。
が、その分費用もかかる。
然も無い内容の返信を、早飛脚に委ねる程に、姉は弟の便りを待ち焦がれていたのだろう。
だが偶然知ってしまった総司の身体への懸念を考えれば、その思いも決して一笑に付せるものでは無いと・・・
あの日、玲瓏な婦人の面を深く染めた憂いの色を、山南は思い起こさずにはいられない。

「・・文の他に、もう夏の着物とか、菓子まで色々と。・・・それに、一枚だけは貰うけれど、京で何かあったら困るだろうからと云って、残りの金子は全部返して寄越して・・。折角送ったのに」
その取り越し苦労が可笑しかったのか、邪気の無い笑い声が零れ落ちた。
「其れほど、姉上はお前の事を案じて、今か今かと文を待っていたのさ。笑ったりしたら罰が当たるぞ」
叱る声に素直に頷いたものの、その笑い顔に落ちた小さな翳りに、山南も、この若者の裡にある姉への想いを邪魔せぬよう、静かに視線を地蔵尊へ戻した。


「山南さん・・」
しかし沈黙の時はそう長くは続かず、遠慮がちな声が、今一度、山南の視線を総司へ向けさせた。
が、見る角度の所為か、それとも後ろから射し込む黄金(こがね)色の光が邪魔をする所為か、総司の表情が分からない。
ただその線の細さが、強烈な西の陽に消えてしまうような錯覚に、山南は目を細めた。
「・・先日、雨の日に一緒にいた人・・」
「江戸での知己と云った、あいつの事か?」
それを問う事自体が、総司にはかなり神経を使うものだったらしく、頷いた面輪がひどく硬い。
だがその実直さを愛しく思うのは、それが、もう自分には戻る事の許されない若さ故なのだと知る山南の目に、一瞬過去への憧憬にも似た柔らかな色が浮かんだ。
「今日もあの人と、会って来たのですか?」
「何故分かる?」
「境内に入ってきた時、山南さんはあの日と同じ顔をしていました」
「同じ顔?」
生真面目に、そして几帳面に返るいらえに、山南の目が愉快そうに笑う。
「怖くて、出来れば近づくのは御免だと思わんばかりの、それこそ土方君辺りにも負けぬ仏頂面だったか?」
「・・そんな事」
思いも掛けぬ人の名を出され、隠す術も間に合わず走った狼狽を、上ずる声があからさまにする。
「尤も、私と同類にされたと知れば、土方君から文句が出そうだがな」
だが言葉を見つけられず、益々困惑を極めて行く目の前の面輪を見ての、からかいの笑いは止まらない。
そんな自分の意地の悪さに、山南は暫し苦笑していたが、やがて止めた言葉からひとつ間を置くと、再び口を開いた。


「お玉が池の千葉道場玄武館の隣に、瑶地塾と云う漢学塾があった。東条一堂と云う高名な儒学者の塾で、朱子学を教えていた。北辰一刀流の教えが、しばしば精神性よりも合理性を重んじると云われるのは、その朱子学を学び、教えを養うことを奨励していたからさ。その所為か、北辰一刀流の者の中には、剣術よりも漢詩に巧みな奴すらいる」
突然に話の行方を変えられた意図が分からず、総司は黙したまま山南を見詰める。
「その瑶地塾の高弟で、広尾順敬と云う男がいた。・・・年の頃は私とそう変わらず、毎日板塀ひとつ挟んで顔を合わせている内に、まぁ気の合うと云うのもあったのだろうが、じきそいつの家に泊りがけで遊びに行くような親しい間柄になり、仕舞いには奴の家の居候と云っても良い程の間柄になった」
「・・山南さんが?」
まず相手の立場を考え、何よりも自分に厳しい、ある種孤高とも思える山南の過去に、そのような豪放な時代があったと云う事が、総司にとっては驚きだった。
「そんなに不思議なことか?」
「そんな事は無いけれど・・・でも試衛館にいる時の山南さんしか知らなかったから・・」
だから今語られた事実が、まるで知らない人間を見るかのような斬新な感があるのだと、深い色の瞳は正直に告げていた。
「山南さんは物静かで、自分の事を話す事はあまり無かったけれど、近藤先生は凄い人なのだと、いつも云っていました。・・だから藤堂さんだって、山南さんを追って試衛館に来たのだし・・」
「藤堂が来たのは、あれは私の所為じゃないよ。彼は彼なりにお玉ヶ池のような大道場ではなおざりにされて得られない何かを、試衛館で見つける事ができたのさ。だから藤堂が来たのは偶然だ」
「そうなのかな・・」
「そうさ。・・俺にとって試衛館は、始め、逃げ込む場所にしか過ぎなかったのだからな」
「・・逃げ込む・・場所?」
又しても予期せぬ言葉に、色を薄くした唇が、怪訝に言葉を紡ぐ。
そして其れに頷きながら、傾きかけた西の日が、視界に映るものの像を朧にするその苛烈な色を避けるべく、山南は、竹刀だこが皮膚を堅くした手を額に翳した。

「広尾家には、順敬よりふたつ下の、希恵殿と云う妹がいた。それが何の因果か、私のような人間に好意を寄せてくれるようになった」
その事が山南にとって決して懐かしい過去では無いのは、淡々と語る声とは相反し、遠くを見つめるている視線の強さから、総司にも判じられた。
「お前が先日見たのは、お玉が池の時の同輩で、やはり瑶地塾の門下生でもあった、谷岡精三郎と云う男だ。・・尤も奴の瑶地塾への入門は、広尾を通して希恵殿に近づくのが目当てだった」
「でもその希恵さんと云う方は、・・山南さんの事を・・」
「先の事など全く分からぬ、こんな風来坊、嫁など娶れるか。明日の飯の糧はどうしようかと、頭を悩まさなければならない人間だったのだぞ、私は」
苦笑しながらも、珍しく突き放したような山南の調子には、尽きぬ自嘲が籠もる。

「それでも私は強気だった、怖いものなどひとつも無かった。・・あの頃は、光とか希とか、そう云うものしか見えていなかったのかもしれないな。が、そんな時さ、少しずつ歯車が違い始めている事に気付いたのは。あれは・・・、もう吹く風の中に、ひやりと冷たいものが混じり始めた、秋の夜更けの事だった。もう皆が寝静まった頃、希恵殿が、私が居室にしていた蒲団部屋へとやって来た」
「・・夜更けに?」
若い女性(にょしょう)がひとり、家人が寝静まった頃合に男の元を訪ねるなど、何を目的としているか・・・
如何に世間に疎いと呆れられる総司にも、其れくらいの事は分かる。
だが紡ぐ声には、その先をどう問うて良いのか分からぬ戸惑いが走り、それ以上の言葉を見つけられない。
「・・そう、夜更けに独りで来た。そして私は障子の向こうに立ち尽くす希恵殿に、一度も声を掛ける事をしなかった」
「そんな・・」
「ずいぶんと、酷な仕打ちをしたものさ」
静かに語る山南の横顔に、一瞬、目晦ましのような強烈な陽が射した。
しかし山南は、微塵も動じない。
それは少しでも動けば、過去に引き摺られてしまう己の弱さに堰しているように、総司には思えた。

「・・私は希恵殿を愛しいとは思わなかった。無論、毎日顔を合わせ、言葉を交わし、笑い・・そう云う日々の中で、確かに彼女は他の女子(おなご)とは違う、親しく慕わしい存在には違い無かった。が、それだけだった。その頃私が胸に抱いていた、剣の道、報国の志は、色恋すら邪魔だと撥ねつけてしまう程に強かった。・・・しかし今にして思えば、そんなものは、己の持つ力など知らぬ、田舎者の大層な夢と傲慢に過ぎなかった。あの頃の私は、ただただ若いだけだったのさ」
「・・それで山南さんは、希恵さんとの事で、広尾さんと云う方の家にも、お玉が池の道場にも居づらくなって、試衛館に来たのですか?」
聞きにくい事を問うには勇気がいる。
だがここまで相手に真実を曝け出させてしまった以上、最後まで聞き通すのは、先に話しを振ってしまった者の責だと、総司は己を鼓舞する。
「その夜の事だけならば、私と希恵殿の二人の胸の裡に仕舞い込んでしまえば良い事だった。が、あてつけ・・と云うのもおこがましいが、その直後、希恵殿は自分に言い寄る谷岡と契りを結んでしまった。しかも幸か不幸か、彼女は身篭ってしまった。・・しかし元々谷岡は希恵殿の兄順敬にも、又広尾家の家人達にも良い印象を持たれてはおらず、生まれて来る子は、密かに親戚筋に貰われて行く手筈まで整えられていた。だが結ばれるのを反対された事は二人を頑なにし、遂にある夜、谷岡と希恵殿は江戸を出奔してしまった。・・・妹の想いを、何故受け止めてやってはくれなかったと、順敬は私を責めはしなかった。が、言葉にせずとも、互いの間に出来てしまった蟠(わだかまり)は、日々ぎこちなさを増して行く。その頃だったのさ、試衛館を訪れたのは。・・そしてお前とも会った」
振り返り、総司を見た山南の双眸に、語り終えた事によって、今漸く過去の重さから解き放たれたかのような、静かな色が浮かんだ。
だがそれが、沈む日の勢いを、暮れ方色の寂しさに変えつつある夕景と相俟って、総司の瞳には酷く寂しげに映った。

「・・・山南さんが初めてやって来て、近藤先生と手合わせをした後、そのまま食客になると決まった時、こんなに立派な人なのにと、吃驚した」
そんな感傷を吹っ切るかのように、遠くを見ながら呟いた声が、何処か可笑しげだった。
「吃驚?」
怪訝そうな声に、改めて山南を見た面輪が、小さく頷いた。
「それまで試衛館に来て住みこんでしまう人達は、原田さんとか、永倉さんとか・・、皆良い人達ばかりだったけれど、でも・・・」
名を連ねて行きながら、何を思ったか、形の良い唇から邪気の無い笑い声が零れ落ちた。
「灰汁の強い連中だと、そう、云いたいのか?」
頷く総司に促され、その面々を脳裏に思い浮かべてみれば、確かに山南も苦笑せざるを得ない。
「だから山南さんのように、お玉が池で免許を貰っていて、それで学問も修めていて・・・そんな人が試衛館などに何故来るのだろうと、不思議だった」
「それは生憎だったな。・・が、俺とて、手習いのさらいのように行儀の良い挨拶で出迎えてくれた、見るからに頼りない少年が、まさか其処の師範代とは想像もつかなかったぞ」
「土方さんは、私よりも入門が遅かったし、井上さんは最初から嫌だと云っていて・・・、それで順番で行ったらそうなってしまったのです。・・けれど私を師範代にした事で、近藤先生はずいぶんとご苦労をされたのです」
語りながら、最後に、残照の眩しさを凌ぐ振りをして、つと視線を逸らせた横顔には、隠せぬ苦渋が滲む。

 山南が試衛館を訪れた時に、最初に立ち合ったのは近藤だった。
本来ならば師範代が為すべきそれを、道場主である近藤自身が応じたのは、山南にとっても確かに腑に落ちない事柄ではあったが、その理由は、この場末の道場に住み込むことになって直ぐに分かった。
近藤は、総司を表に出したくはなかったのだ。
ある程度、人として、剣客としての人格と智慧を持ち、世間の風に惑わされる事無く、己の裁量で物事を判じ分けられるようになるまで――。
迷う事無く剣の道に精進させ、総司の類稀な才を、己の手で開花させようとしたのだ。
そしてそれが、近藤の、この愛弟子への思いの丈でもあった。
だが総司に其処まで察せよと云うのは無理からぬ話しで、本来ならば師範代である自分の役目を近藤に委ねて来てしまった事を、我が身の脆弱さ故と決めつけてしまったらしい。
途絶えがちに返ったいらえは、そんな情けない自分への、総司自身の憤りだった。


「だが最初に近藤さんと立ち合えた事は、私にとっては幸いだった。・・・あの時打ち込まれた胴への激しい衝撃は、今も体に覚えている。そしてその一撃は、私の中にあった自惚れを、見るも無残に打ち砕いてくれた」
そんな総司の裡を重く覆う憂いを断ち切るかのように、山南が、淡々とした、それでいて穏やかな語り口で、再び話を繋ぎ始めた。
「・・近藤先生の打ち込みで?」
「あの人の繰り出す剣は、躊躇う事を許さない。が、妙に人を安堵させる。お陰で、気がつけばこんな処にまでついて来てしまった・・・あの人こそ、本当に不思議な人さ」
そう云って笑った面に、紅から茜へ、そして侘び色へと彩を移した陽が当たり、高い鼻梁が、その反対側により濃い影を落とした。

しかし共に京に上って来たその事が、山南にとって良い事だったのか、それとも悪しき事だったのか・・・
そのどちらとも取れる笑みを浮かべた横顔を、総司は言葉も無く見つめていた。





きりリクの部屋   潦(四)