潦 -niwatazumi- (四) 「聞いているのか?」 突然思考を遮った声の調子は、不満よりも、既に怒りがその大半を占めていた。 「・・えっ?」 強引に現に引き戻された面輪に、みるみる狼狽が広がる様を見ながら、土方は、呆れと諦めの両方を、これみよがしに吐いた息に混じらせた。 「話せと云ったのはお前だぞ」 「すみません・・」 責める声を叱咤と受け止め、伏せられてしまった瞳と共に詫びる調子が、どうにも心許ない。 「何を考えていた?」 「何・・って・・」 声の強さに促され、再び瞳を上げた途端、射竦められるような視線に捉われて、総司の裡に緊張の硬糸が走る。 土方と山南の不仲は、まだ周りにそう大きな波紋を投げ掛けてはいない。 が、試衛館での日々で、少しずつ出来て行った溝は、上洛してからより深くなりつつある。 それが総司の杞憂だった。 この二人がそうなるには、何か大きな理由があった訳では無い。 強いて云うのならば、それは互いの持って生まれた気質と、物の考え方の決定的な違いとでも位置づける他無い。 だがそれゆえに、その原因にまで遡って修復する手立てを見つける事も叉、難しいと云えた。 そして今、自ら乞うて語たらせていた声を遠くに聞きながら、その実、山南の事を考えていたなどと知ったら、土方の不機嫌は免れないだろう。 だからこそ、胸に秘める真実は、どんなに咎められようが告げるわけには行かない。 ――まだ、一刻経つのか経たぬのか。 茜色の陽に眩しげに目を細めながら、地蔵尊を見詰めていた山南の姿が脳裏を過る。 しかしほんの僅かなその時の経過が、もう二度と戻れぬ昔になってしまうのと同じように、土方と山南の関係がこれ以上こじれる事を恐れ、総司は閉ざす唇に力を籠めた。 「お前のぼんやりにいちいち癇癪を起こしていたら、こっちの身がもたん」 が、土方は土方で、こうなれば何を問うた処で口を噤み続けるであろう、凡そ外見とは似つかわぬ総司の頑固を知るだけに、うんざりと漏れた調子は、早諦めのひと色に染められていた。 「・・すみません。・・あの、辻斬りのこと・・」 それでも総司には、手厳しい叱責すら縋る寄る辺だったようで、切欠を逃すまいと慌てた声が、土方の言葉の後を追った。 「又最初から話せと云うのか、お前は」 しかしその必死も最後まで紡ぎ終えない内に、面倒を露わにした双眸が向けられるや、戸惑いに瞬きした瞳が再び伏せられ、更に細い首筋までもが項垂れてしまった。 だが土方とて、そんな心許ない風情を目の前で見せつけられれば、もう幾度目かの遣る瀬無い息をつかざるを得ない。 ――このまま放っておけば、いつまでたっても総司は顔を上げようとはしないだろう。 ならばこの根競べに負けるのは、やはり自分なのかと・・・ 「辻斬りが浪士組の名を騙ったのは、最初の一回きりだ」 勝ったためしの無い勝負に、又も負けを認めて語り始めた声が、せめて其処が忌々しさの当たり処のように、低くくぐもる。 しかしその素っ気無い物言いの声に、弾かれたように上げられた面輪には、正直に安堵の色が浮かんでいる。 そしてそれを見れば、土方も胸の裡で苦笑せざるを得ない。 「場所はこの坊城通りを北に上がり、四条通りをも抜けて暫く行った処だ。此処からもそう遠くは無い。尤もその短い距離を利用し、余計に壬生浪士組の仕業と印象付けた節もある」 「斬られたのは、何処かの御家中の方だと聞きました」 「丁度京都藩邸にやって来ていた、久世藩の藩士二人だ。明日国元へ帰ると云う段になり、島原で宴を張った帰りの出来事だったらしい。一人は、真っ向から袈裟懸けに斬られ絶命していた。多分己の身に何が起きたのか、それすら分からず冥土へ行っただろう。残る一人は重傷だが、今の処辛うじて息はしている。ご丁寧に、そいつに向かい、壬生浪士組の者だと名乗ってくれたそうだ」 淡々と、淀み無い調子ではあったが、この一件が土方にとって如何に頭の痛い問題となっているか・・・ 冷たいとすら映る怜悧な顔(かんばせ)は、感情と云うものを読み取らせる事を嫌うが、しかしその憂慮をすぐさま察し、総司は自分の胸の裡が重く沈むのを禁じ得無い。 「・・・けれど・・」 が、そんな自分を鼓舞するかのように、暫しの沈黙の後、深い色の瞳が躊躇いがちに土方へ向けられた。 「自分で名を名乗る辻斬りなんているのかな?そんな嘘など直ぐに分かってしまうと思う・・・。それにその後の二回は、斬り口から同じ人物の仕業だと山崎さんは云っていたけれど、浪士組とは名乗らなかった訳だし・・」 「辻斬りに名を使われて良い印象を持たれるのならば、幾らでも奨励してやる」 だが折角の意気も、端整な面を苦々しげに歪めて返ったいらえを前にしては、総司もその先を繋ぐ言葉を失う。 「最初の内は濡れ衣だと云えば、それもまかり通るだろう。だが番度続けば、浪士組とはそれなりの恨みを買う集団であると、周囲に悪い影響を及ぼしかねない」 土方の言葉が、暗に何を指しているのか――。 それは問わずとも知れた。 清川等と分派し、京に残り、会津藩お預かりとなり旗揚げした浪士組は、まだ好意のよりも、好奇で、或いは胡散臭さをあからさまにした目で、今後の成り行きを注視されている。 その中において、中心を為す芹沢鴨の狼藉は当初から目に余るものがあった。 土方はその悪しき風評と、今回の辻斬りの一件が重なり、唯一の盾である会津藩が、浪士組の存続を見限る事を恐れていた。 其れ程までに、まだ寄せ集めに過ぎない集団の土壌は脆い。 そしてその土方の憂いに、何の力にもなれない自分が、今総司には限りなく情けない。 「これで納得したか?」 しかしその思いを知らずして、端座している袴の膝辺りを強く掴み、瞳を伏せてしまった総司の様を見る土方の裡に、流石に己の辛らつさを咎めるものが湧いたのか、話の仕舞いを告げる物言いが、幾分柔らかなものになった。 その声に、慌てて上げられた面輪が咄嗟に頷きかけたが、それがふと止まり、深い色の瞳が、又しても土方を捉えた。 「でも・・」 「でも何だ」 が、それを見止めるや、土方の面に、今度こそ隠し様の無い面倒が走る。 その様に、一瞬怯みかけはしたが、しかし総司は語りを止めない。 「その辻斬り、ひとつも手がかりを残していかなかったのでしょうか」 「手がかり?」 「浪士組の名を騙った時に、声や云い方に特徴があったとか・・怪我を負った人が、何か覚えている事は無いのかな」 己の推量を語る声は、云っている側(そば)から小さくなる。 それは、そんな事は土方にとって、疾うに調べがついている筈だと承知しながらも、尚食い下がらずにはいられない、総司の弱気がさせるものだった。 「生憎本人は虫の息だ。話をするくらいならば、息のひとつも繋ぎたいだろうさ」 土方らしい容赦の無い切り捨てようであったが、しかしそれが、この男の焦燥と苛立ちの現れであると知れば、総司にはもう掛ける言葉を見つける事が出来ない。 が、その土方が、頬杖にしていた右の掌から不意に顎を離すと、総司を正面に捉えた。 「そんな事よりも、お前、今日山南と寺の境内にいたろう」 それは総司にとって、あまりに唐突すぎる問いだった。 一瞬何を問われているのか、それすら分からず、細い線の面輪が、不思議そうに土方に向けられた。 「夕方の事だ」 だが更に続けられた言葉に、淡い色の唇が、今度は驚きに色を失くした。 「何を話していた」 「・・山南さんの、江戸の時のご友人が京に来ていて、その方と山南さんが偶然一緒にいる処を見たものだから、誰だろうと思って聞いていたのです」 「友人?」 土方と山南の、今は微妙にある関係を思えば、出来るのならば隠しておきたかった事実を語る調子が、つい言い訳がましくなる。 「江戸の・・お玉が池の道場で、ご一緒だったそうなのです」 「集まりに遅れてやって来た理由が、江戸での知己と会っていた所為だと云っていたが、そいつの事か・・」 「でも山南さん、まさか京で遇えるとは思わなかったと、とても嬉しそうだった」 土方の顔に、決して機嫌の良いとは云い難い、否、むしろ忌々しげな色が浮かぶのを見ながら、総司の声が次第に必死になる。 だがそうして、山南の行動を庇えば庇う程、己の胸の裡に広がって行く、得も云えぬ不快感を土方が持て余しているのを、真摯な眼差しを向ける瞳の主は知らない。 「それで山南さんは・・・」 「山南の事はもういい」 その苛立ちのまま、言葉の続きをぴしゃりと遮った声には、総司の身をびくりと強張らせる険しさがあった。 だがそれは、土方にとって、己にも合点の行かない癇癪を封じ込めるぎりぎりの術だった。 云い放つや、叉文机に向かってしまった広い背を、狼狽と、そして困惑に揺れる深い色の瞳だけが、掛ける言葉を探しあぐねて呆然と見つめていた。 天道から真っ直ぐ注がれる陽に、木々が負ける事無く翠を煌かせる季節は意外に短い。 そして次にやって来る、梅雨を思わせる雨は、夜も明けやらぬ払暁から、まるで地に音を沈めるかのように密やかに降り始め、それに連座した訳でもあるまいが、昼近くだと云うのに屯所の中は妙に静まりかえっていた。 その、時すら刻むのを憚るような閑寂の中で、先ほどから総司は、柱に背を齎せるようにして膝を抱えて座り込み、同じ思考を繰り返していた。 ――山南が江戸での知己と云った人間は、しかし彼(か)の人にとって、決して懐かしく慕わしい存在では無い。 その事は、山南の様子からも容易に察せられた。 ならば何故、山南はあの人物に会う事を拒まないのだろうか・・・ 思えば思う程、解けぬ疑問は膨れ上がる。 そして何よりも、何故かその事が山南の災禍となる予感を、総司は持て余していた。 だが山南と土方の関係が、以前よりも悪しくなっている今、この胸の裡にある危惧を土方に打ち明ける事は出来ない。 案じながら眠れぬ一夜を過ごした頭は、重いばかりで、主の云う事などひとつも聞かず、愚かな堂々巡りに終始する。 その遣る瀬無さの持って行き場のように、小さな吐息を漏らした寸座、ふと感じた人の気配に、総司の瞳が障子へと向けられた。 その主が誰であるのか――。 足音だけで分かる程に聞きなれた其れに、齎せていた背を、総司は慌てて柱から離した。 音も立てずに開けた障子の向こうに、降る雨を背にして立つ人物は、始め室の薄暗さに慣れなかったのかつと目を細めたが、それも一瞬の事で、無造作に敷居を跨いだ。 「井上さんが、飯を食いに来いと云っていたぞ」 そう告げるよう頼まれて来たらしい一の顔には、それを面倒としている様子は無かったが、見上げている面輪にある翳りの方には視線を止めた。 「どうした?」 「・・どうした・・って?」 「浮かない顔を、しているからさ」 「そんな風に見えるのは、きっと一さんだけだ」 だが自分への気遣いを、浮かべた笑みで返そうとした途端、一の鋭い視線に捉われた総司のそれが、ぎこち無い形で止まった。 「どんなものだかな」 「本当に、何でもない。・・・早く行かないと、井上さんに叱られてしまう」 止めていた笑みを無理矢理作り、全てを見透かされてしまいそうな双眸から逃れるように立ち上がった総司を、やはり一は無言で見ている。 「・・さっき山南さんを尋ねて、浪人風の男が来た。じき戻るだろうと云ったら、夕刻出直して来ると帰って行った」 が、傍らを通り過ぎようとしたその寸座、不意に漏れた声が耳に届くや、驚きを露わにした面輪が、空(くう)を切るような俊敏さで一を振り仰いだ。 山南を尋ねて来た男――。 それは、確かに谷岡清一郎に違いなかった。 「お前の憂鬱の種は、もしかしたらそいつと山南さんか?」 近頃の山南への観察もあったのだろうが、谷岡と云う人物を一見したそれだけで、此処まで事態を推し量る一の勘の鋭さに畏怖さえ覚えながも、しかしその事を大きく凌駕して総司を突き動かしたのは、谷岡と直に言葉を交わしたいと思う一心だった。 「その人、今何処にっ?」 「まだそう遠くへは行っていないだろう」 いらえの戻る間すら焦れるようにして問う総司に、精悍な面が曇る。 「山南さんの個人の事だろう、ならば関わるな・・・おいっ、」 呼び止めるよりも早く身を翻した華奢な背を、つられて咄嗟に追おうとした一の足が、だが一瞬の躊躇ののち其処で止まった。 例え山南ひとりが抱える問題であっても、もしここで自分が介入すれば、それは否が応でも裾野を広くせざるを得ない。 ならば試衛館に居た頃から、身内のようにして来た総司だけに関わらせておいた方が、今はまだ良いのかもしれないと――。 それが一の選んだ結論だった。 そしてもうひとつそれを良しとしたのは、山南を訪ねて来た男の印象が、何故か一の裡に拘りを残すものとなって、重く存在しているからに他ならなかった。 山南にとってあの男は、決して好ましい相手ではない。 それは埒も無い勘と云われれば、確かにその通りだった。 しかしその事に端を発し、今飛び出して行った背の主が、要らぬ厄介に巻き込まれる事を一は憂えていた。 らしくも無い節介に呆れながらも、まるで己の胸の裡を映し出したかのように止まぬ雨を、一は鬱陶しげに見上げた。 屯所として借りている前川邸の門を出れば、道は東西に分かれ、西の側面は辻になっている。 そして総司は迷わず、その角を左へ曲がった。 傘も差さずに走る先には、壬生寺がある。 山南の留守を聞き、叉夕刻出直して来ると谷岡が云ったのならば、待つ時を潰すには、六地蔵の有るあの寺しかない。 ――証など何処にも無い揺るがぬ確信だけを頼りに、総司はひたすらに足を急がせる。 日頃隊士の鍛錬の場として使っている壬生寺の境内は、ひっそりと地を湿らす雨につつまれ、いつもの喧騒が嘘のような静まりを見せている。 その中を、煙る水霞が視界を邪魔するのに焦りながら、総司の瞳は、顔貌も知らず、唯一度見ただけの記憶を手繰り、求める人物の姿を探す。 やがて前髪から滴る雫を、手の甲で邪険に振り払った幾度目かに、伽藍に続く軒下に、雨を凌いで立つ人影を見つけるや、止まっていた足が、一気に泥濘を蹴って走り出した。 「あのっ・・」 無防備とも思える唐突さで掛けた声に、相手がゆっくと振り向いたのと、総司が正面に来たのとが同時だった。 「山南さんの、お知り合いの方でしょうか」 「如何にも」 息を切らせて問う若者に対する男の声には、あからさまな警戒がある。 「山南さんは、今日は帰っては来ません」 それは告げた総司自身をも驚かせた、滑るように唇を突いて出た偽りだった。 「帰って来ぬとはどう云う事だろうか。先ほどの話では、じき戻るとの事だった。それ故、叉時を置いて来ると伝えて来たのだが」 男の声は不審を露わにしていたが、それに怯む事無く、総司も相手から視線を逸らさない。 「急な用事で、屯所に戻るのは明日になると云う連絡が来たのですが、貴方に応対した者には知らされていなかったのです。それで私が、もしやまだ近くにいらっしゃるのでは無いかと思い、追って来ました」 「ならば手数を掛け申し訳なかったと、礼を云わねばならぬか・・」 雨雫が辺りの情景を朧にする、その鈍い色に紛れるかのように、応える男の声が低く笑った。 「貴方も、浪士組の人間なのだろうか」 幾つか言葉を交わした時は、それが束の間であっても相手に余裕を齎せたようで、構えから好奇へと変わった視線に、総司は頷くだけで是と応えた。 「山南とは親しい間柄とお見受けしたが、もしや江戸の頃からのお知り合いか?」 「私は牛込柳町にある、試衛館と云う道場の門弟でした。・・・山南さんとは、其処で知り合いました」 「ならば、私が江戸を去ってからの事か・・。道理でお顔を知らぬ筈、失礼をした。私は谷岡と申すが、山南とはお玉が池の千葉道場で一緒だった者。その後事情があって妻と二人で京に来たが、先日再びこの京で奴と出会い、あまりの奇遇に驚いた。それから埒も無い昔話を酒の肴にして、二人で現を抜かしている」 云いながら、谷岡の面に浮かべられた笑みは、目の前の、まだ少年の名残を十分に留めている、如何にも頼りない風情の相手に対する侮(あなど)りだった。 「私は沖田と云います。・・・もしも山南さんへの言付があれば、承っておきます」 だがその傲慢とも思える視線を、深い色の瞳は強く撥ね返し、真っ直ぐに谷岡を捉えた。 「いや・・・大した事では無いのだが・・」 意外な勝気に合い、濁した言葉尻は少しばかり迷う風であったが、しかし視線を逸らさない総司の無言に負けたかのように、谷岡は再び口を開いた。 「実は明後日は妻の命日になるのだが、私の妻の事は山南も良く知っているので、共に一献傾けながら思い出話しでも出来れば良い供養になると思い、今日はその誘いにやって来た」 「奥方さまの?」 「左様・・、もしや私と妻の事は、山南から何か聞いているのだろうか」 繰り返した面輪が、一瞬の内に硬いものになるのを見、谷岡の声が怪訝そうに問い返した。 「貴方の事は江戸でのご友人でいらしたとは話してくれましたが、奥方さまがお亡くなりになられたとは、聞いていませんでした」 「そうであったか・・・山南も、流石に其処までは話せなかったのであろう」 だが次の言葉が続けられた寸座、谷岡の双眸に浮かんだ、己の語りで相手が受けた衝撃を、まるで心地よいものかにするような満足げな色が、鋭敏になっていた総司の神経を爪弾いた。 しかし突如として胸の裡を覆い尽くした、重く、そして暗いこの塊が何であるのか・・・ 「さて・・・」 其の正体を掴めず、逡巡している総司の隙を突くようにして、谷岡は降りしきる雨へ視線を向けた。 「そう云う訳であれば、待っていたとてし方が無いか。・・ならば貴殿に山南への言付を頼みたいのだが」 そうしてゆっくりと戻された視線が、冷たいだけのものである事が、又しても感情の表を漣(さざなみ)立てたが、それを隠して総司は曖昧に頷いた。 「明後日の夕七ツ半、二条城北に伸びる、智恵光院通り沿いにある、宝台院と云う寺に来て欲しいと・・・。墓参りには少しばかり日が落ちるが、それが希恵・・妻の名だが、その希恵がこの世を去った時刻ゆえ、あいつと二人で顔を揃えれば喜ぶだろう」 「明後日夕七ツ半、智恵光院通り沿いの、宝台院ですね」 「左様、夕七ツ半に・・」 云い終えるや、畳んであった傘を一振りし、煙雨の中を歩み出した姿が視界から消え行くまで――。 一度も振り返らぬ背を、総司は身じろぎもせず、雨の中に佇み見詰めていた。 雨の所為ばかりでも無いのだろうが、重厚な造りの郷士屋敷の門を潜っても、人の声ひとつせぬ閑寂さが、総司の憂いを余計に重いものにする。 そんな心がそのまま形になったように、緩慢な歩みを刻んでいた足が、じき玄関と云う処にまで来て突然止まった。 そして――。 それと同時に見上げた瞳が、正面に立つ人の姿を捉えた途端、大きく見開かれた。 「山南の客は、帰ったのか」 低い声の主は、差す寸前だったらしい傘を叉畳んだ。 「・・・土方さん」 「この莫迦がっ。もう一度寝床に戻りたいのかっ」 もう叱咤と云うには追いつかない激しい口調の責める訳が、どうやら幾筋も前髪から雫を滴らせている自分の形(なり)にあるらしいと察した途端、驚きに瞠られたまま土方を捉えていた瞳が、萎れたように伏せられた。 「さっさと中に入れっ」 それを見ても土方の怒りは収まらないようで、背を向けた動きがひどく荒々しい。 「あのっ・・、土方さん、何処かへ出かけるのでは無いのですか?」 慌てて掛けた声に、だが広い背は、玄関の敷居を跨いでも、もういらえを返してはくれない。 そしてその尋常で無い憤りの様は、総司から、それ以上言葉を掛ける勇気を奪う。 が、その土方の手が、上がり框に足を掛けざま、床に叩きつけるようにして、乱暴に何かを置いた。 仄暗い屋内にあって、それが何であるのかが分からず、一瞬総司は瞳を細めたが、しかし直ぐに土方が日頃使っている手拭だと判じるや、戸惑いの中で動けずにいた足が、今度は強く先へと踏み出された。 白地に藍の輪を染めたそれは、何の変哲も無い手拭だったが、乾いた木綿は、触れた手指の雫をみるみる吸い取り、包むような温もりすら伝わせる。 その質感を逃すまいと、両の手で手拭を握り締めながら、総司の脳裏に、不意にひとつの思いが走る。 もしや。 もしや土方は、自分を探しに出かける処ではなかったのか――。 昼餉も取らず、何処に行くとも告げず、ただ焦るがままに飛び出した自分を探す為に、雨の中、傘を差そうとしていたのではと・・・ 都合の良い解釈だとは、重々承知している。 けれど今は、そう信じてみたかった。 その寸座、視界を霞ませるものが零れ落ちそうになるのを、慌てて瞬きをして堪えると、そんな自分を叱るように、総司は土方の消えた廊下の先へと面輪を向けた。 そうして暫くそのままでいたが、やがて探す姿を瞳に映し出す事は、もう叶わない希なのだと知ると、今一度手に握り締める木綿の布へと視線を落し、凍てた指先から滲んだ水輪が、少しずつ広がり行く様を、ぼんやりと見詰めていた。 |