潦 -niwatazumi-
(五)




 降る雨は、地に染み入るだけでは飽き足らず、板敷きにまで湿り気を含ませ、ひんやりとした質感が素足に絡まる。
その廊下を、逸る心のまま急がせていた総司の足が、しかし目当てとする室を視界に捉えた途端、不意に勢いを失くして止まった。
――視線の先にある白い障子は、まるで行く手を阻む壁門のように、隙無く閉じられている。

 昼間、借りた手拭を濡らしてしまった詫びを云いに来た、ただそれだけの事なのに、止まったままの足が、次への一歩を踏み出せない。
直ぐ其処に土方が居ると云うその事が、どうしてこんなに自分を意気地の無い人間にしてしまうのか・・・
だがその理由を、総司は嫌と云う程知っている。
叱咤され、怒りをぶつけられただけならば、何の躊躇いも無くあの室の中へと声を掛ける事が出来る。
けれどあんな風に優しさを垣間見せられれば、例えそれが一時の気紛れでも、土方を求めてやまない心は一縷の光に縋ってしまう。
だからどんな風にして、土方の顔を見れば良いのか分からない。
この苦しいだけの恋慕を、もう堪える事など出来ないと駄々をこねる胸の裡が、錐で揉まれるように痛い。

 闇ばかりが辺りを覆う静けさの中、室から零れる薄明かりにすら怯む心を持て余し、総司は柱に背を齎せると、白い喉首を仰け反らせ、遣る瀬無い息をついた。
が、その寸座、宙に向けられていた面輪が、僅かばかり立てられた音に鋭く反応し、其方へと振り向いた。
そうして薄暗い廊下の先に据えた瞳が捉えたのは、はだかるようにして立つ、土方その人だった。
が、あまりに突然の出来事はひどく総司を狼狽させ、唇は紡ぐ言葉を失い、息を呑むようにして凝視していた瞳さえ、無言の責め苦に負け遂に伏せられてしまった。
しかし土方も又、一言も発せず佇んだままの総司に焦れる。
「入れっ」
暫し。
互いに沈黙の中で時を刻んでいたが、やがて痺れを切らして漏れた低い声は、持って行きようの無い苛立ちが、言葉に形(なり)を代えたものだった。



 緩慢な動きで敷居を跨ぎ、更にゆっくりと障子を閉めたのは、土方の背にある怒りにどう応じて良いのか分からない戸惑いがさせる、総司の弱気に他ならない。
「風呂には、入ったのか」
が、不機嫌ではあったものの、そんな心裡を見透かしたかのように、文机に向かい座しながら低い声が問うた。
「まだっ・・、誰かが使っていたから・・」
その寸座、発せられた語尾の韻が、空(くう)に呑まれるそれを逃さぬように、急(せ)いた声が先を追った。
掛けられる言葉を待っていたのだと――。
そんな隠せぬ慌て様が可笑しくもあり、叉愛しくもあり、背中を見せながら、土方は胸の裡で苦笑を禁じえない。
「お前が会っていたのが、山南の知己と云う奴か?」
相変わらず振り向く事はしないものの、問う調子には、先程までの険しさはもう無い。
が、和らいだ声音の優しさは、昼間の一件と相俟って、総司の胸に切なく迫る。
そしてそれはそのまま、土方に偽りを抱く総司自身を責め始める。
「・・谷岡さんと云うのです。山南さんが試衛館に来る前、お玉が池の道場でご一緒だったそうです」
やがて呵責の念に負け、ぽつりぽつりと語り始めた調子が、まだ揺れる心のままにぎこちない。
「けれど事情があって、その後直ぐに奥方さまと二人で京に上ったので、まさかこの京で叉山南さんに会えるとは思っていなかったと驚いていた」
広い背に向かい、掛ける言葉を探して話を繋げて行きながら、しかし希恵と云う女性に纏わる、山南と谷岡の間にある確執についてだけは、総司は口を噤んだ。

あの時、地蔵尊を見ながら、山南は己の来し方の中で、希恵との一件は苦い思い出なのだと話してくれた。
だがその死については、敢えて秘した。
何故山南は、そうしなければならなかったのか。
その事が谷岡と会っている時の、厳しい表情と何か関わりがあるのか。
そして更にそれは、今日、谷岡が自分を見た目の中にあった冷たさとも結びつきを持つものなのか――。

其処まで思った時、ふと感じた視線に、総司は慌てて顔を上げた。
知らぬ内に叉思考に籠もってしまっていたらしい自分を、何時の間にか体ごと此方を向けている土方が、射竦めるようにして見ている。

「すみませんっ・・あの・・」
今度こそ、罵倒されるだけでは追いつかないだろう失態に、唇を震わせる声が上ずる。
その総司を、土方は怒りとも諦めともつかぬ眼差しで暫し見つめていたが、やがてそれは後者の念に落ち着いたらしく、冷たいとすら思わせる程に整った形の唇が、ゆっくりと開かれた。
「谷岡と云う輩、お前にはどうにも気になる存在らしいな」
末弟のような存在と、一言で片付けてしまうには到底足りない、この不器用な者の一挙手一投足が、土方に、ある時は鎮め様の無い程に感情を波立たせ、ある時は限りない安寧を齎す。
だが何故か今の土方の裡を覆うのは、山南と、総司の唇が紡ぐたび、怒涛の如く膨らんで行く苛立ちだけだった。
「・・山南さん、その人と会うのが、気が進まないみたいなのです。だから・・」
「気が進まない?」
が、己でも持て余していた憤りが、総司の必死から思わず滑り出した一言に、堰をされたように止められた。
「どう云う事だ」
「分からない・・山南さんには、江戸での知り合いとしか聞いていないから。けれどきっと私の思い過ごしです」
その土方の変化に気付き、慌てて付け足した言い訳だったが、鋭い視線は、透いた偽りを許さない。
「そいつ、お玉が池と云ったな」
「お玉が池・・?」
不意に変った話の筋に、今度は虚を突かれた総司の不思議そうな声が返る。
「北辰一刀流だと云う事だ」
「北辰一刀流ならば山南さんもそうだけれど、藤堂さんだっているし・・」
文机に片肘を預け、それを頬杖にして浮かない顔を乗せて語る土方の意図が、総司には分からない。
「辻斬野郎も、北辰一刀流だ」
既に何かに思考を馳せているのか、面倒そうな声が短いいらえを寄越したが、しかしその一言で、深い色の瞳が驚愕に見開かれた。
「丁寧に、斬り口は全て同じだ。北辰一刀流の、流星と云う形らしい。下段から相手を狙うと見せかけて飛び上がり、上段から一太刀だ」
「・・・でも幾ら得意技でも、同じものばかりを使っていたら、調べて行くうちに誰なのか直ぐに分かってしまう。・・辻斬りをする人間が、そんな事をするのだろうか」
尽きない不審への応えを求める瞳が、瞬きもせず土方を凝視する。
「そう、したいのだろうさ」
それに一瞬間を置き、そしてゆっくりといらえを返した時、切れの鋭い三白眼が、微かに細められた。
「そう、したい?」
だが総司には、この稀有な策士の意図をまだ読み取れず、細い線で造作された面輪に困惑の色が浮かんだ。
「相手は浪士組と云うよりも、浪士組内部の人間に、個人的に恨みを抱く者だ。浪士組そのものへの恨みならば、何もひとつ技に固執する事は無い。・・・だからそれは、その人間にとって忘れ得ぬ技であり、辻斬り野郎にとっては、繰り返し見せつける事自体が、相手への挑戦なのだろう」
淡々と説きながらも、その推測は、土方の裡で既に確信となっているようで、語る口調は強い。
しかし其処まで推し量っておきながら、未だ濡れ衣を晴らす事が出来ない苛立ちに物憂げな顔を、為す術も無く見詰める総司だったが、不意に、その心裡を、天道の陽が暗雲に遮られたような翳りが覆った。

――それは言葉にして表せるものではない、奇妙な感覚だった。
しかし確かに、谷岡が山南への言付を託した際に見せた、冷たい、ある種残忍とも思える視線に囚われた時と同じものだと、身の内に走った戦慄が覚えている。
だがその寸座、もうひとつ、総司の脳裏を、雷(いかずち)のように過ぎった衝撃があった。
谷岡は、山南と同じ北辰一刀流だと――。
その事を教えた土方を咄嗟に見れば、胡坐に頬杖と云う、あまり褒められぬ格好のまま、微動だにせず何か思案に耽っている。
しかしそう云う時の土方は、自分の想像の範疇など大きく越えて、先の先を読んでいるのだと、総司は知っている。
或いは、理由付けまでは出来ぬまでも、辻斬りの正体を、既に谷岡へ絞っているのか・・・
瞬きも忘れたかのように、土方を凝視する深い色の瞳が、もしそうであるのならば、山南がこの一件にどのように関わっているのか・・・
その事へ思いを馳せ、大きく揺らぐ。
が、そんな総司の纏う気の、微かな変化に気付いたのか、黙考に籠もっていた土方が、つと視線を戻した。

「どうした」
突然の強い声に、動揺を隠す時を逸した面輪が、慌てて土方を見て何かを云いかけたが、それは言葉にはならず、僅かに唇を震わせるだけに終わった。
「何を驚いている」
だがその狼狽ぶりに、土方の眉根が寄る。
視線と云う縄手に捕らえられ、逃れる事を許されず、しかし胸の裡に秘めた憂慮だけは悟られまいとする必死が、益々総司の唇を堅く閉ざさせる。
「お前は・・」
又しても相対さなければならないその頑なさに手を焼き、思わず叱咤する口調になった寸座、しかし不意に障子に映った人影に、ふたりの視線が同時に其方へと向けられた。


「歳、いるのか」
声の主は、近藤だった。
形ばかりの伺いが終わらぬ内に、返事を待つ暇すら焦れるようなせっかちさで障子が開けられると、行灯の灯が、厳つい顔を映し出した。

「総司もいたのか?ならば悪い事をしたな」
自分が現れた事で、話しを中断させてしまったのかと思ったか、近藤がすまなそうに総司を見下ろした。
「違います、あの、私の方こそ大した用事では無かったのです」
それに慌てて首を振りながらも、珍しく浮かない調子の師の顔に、総司の胸の裡に憂いが広がる。
「偉いさん達は揃ったのか」
その師弟の様を見ながら、此方はあからさまに鬱陶しげな相を隠さない土方が、皮肉な笑みを浮かべた。
「皆揃っている。あとはお前だけだ」
だからこうして足を運んで呼びに来たのだと、近藤の声には不満があった。
どうやら芹沢を中心とする主だった人間達が、この夜もくだんの辻斬りについて対応策を練る手筈になっていたらしく、その集まりに、幾ら立っても顔を出さない土方に焦れ、近藤自らが呼びに来たらしかった。

「辻斬り野郎のお陰で、つまらん雁首揃えて談義とは、面倒な事だな」
「そう云うな、会津様も今回の事態は憂慮されている。例え濡れ衣だと分かっていても、それを着せられるまでの集団だと内外に印象が強まれば、まだこれと云った実績の無い俺達にとっては、その土台を揺るがせる問題になりかねない」
まるで他人事のように億劫そうに語る土方に、近藤の、生真面目をそのまま形に似せた太い眉根が寄せられた。
「分かっているさ、次あたりが勝負か・・」
立ち上がりざま、衒う風も無くついて出た一言だったが、その刹那、端正な横顔に一瞬走った鋭い色を、総司は見逃さなかった。

――近藤と土方にとって、清川と袂を別ち京に残り立ち上げたこの集団は、全身全霊を傾けた全てと云って過言ではなかった。
芹沢の横暴すら黙認している土方の姿勢も、後ろ盾となる会津藩との繋がりにおいて、今はその力が必要だと判ずるが故だとは、総司も承知している。
だがその近藤と土方が、命がけで造りあげようとしている浪士組を、例えそれが一個人の怨恨から端を発しているとは云え、崩壊の危機にまで追い詰める辻斬りは、総司にとっても、決して許してはならない存在だった。


「総司っ」
が、その強い念に捉われ現を離れかけた思考を、不意に掛かった低い声が引き戻した。
咄嗟に振り仰いだ其処に、呆れた体(てい)で見下ろしている、端正な顔があった。
「ぼんやりしている暇があったら、さっさと風呂に入って寝ろ」
云い置いて踵を返した土方は、既に敷居を跨ごうとしている。
「あのっ・・土方さん」
だがその身が廊下に出る寸座、躊躇いがちな声が先へ行こうとする動きを止めた。
が、振り向いた主を見るや、開かれかけた唇は、又も閉ざされかけてしまったが、しかしそれも束の間の事で、次の瞬間、己を鼓舞するかのように、深い色の瞳が土方を見上げた。
「・・今日は、すみませんでした」
紡がれた言葉が何を指しているのか・・・
怪訝そうな視線を向けた土方だったが、直ぐにそれが昼間の出来事だと思い当たるや、再び面輪を伏せてしまった総司を見る双眸が細められた。
「叱られたくなければ、今のように素直でいろ」
 揶揄するような笑いが交じる声に、今一度総司は瞳を上げたが、其処にもう求める姿は無く、更に遠くへ投げかけた視線が捉えたのは、振り向かない広い背だった。


 敷居際まで来て佇み、近藤の後に続く後姿が廊下を曲がり視界から消え去っても、暫し総司はその場を動かずにいたが、ふと気付いたように文机の前まで歩み寄ると、土方の座っていた其処に端座した。
 辛うじて残る温もりは、確かに土方の其れに違いなかった。
だが抑えきれない程に膨れ上がった恋慕は、こんな僅かな痕跡に触れるだけで、切なさと、苦しさを総司に齎す。
決して知られてはならない禁忌は、せめて我が身を賭して土方の夢の糧となる他、もう昇華させる術を知らない。
そしてその想いの果てに浮んだのは、谷岡精三郎の顔(かんばせ)だった。

土方は云った。
ひとつの技だけを見せ付けるのは、その事が辻斬りの、ある個人への怨恨と挑戦なのだと。
そして土方の中では、既にそれは、谷岡と山南の二人に関係するものだと、確かなものになっている。
しかし土方は、何故谷岡が其処まで山南へ憎悪の念を向けるのか、その理由までは知らない。
希恵と云う、今は亡き谷岡の妻の存在が、山南を苦しめている事も――。
塞いだ傷を再び自らの刃で裂かせ、苦悶の縄手で山南を過去に縛り付けたくはない。
だが土方の歩む先を邪魔する者は、例え誰であっても許しはしない。
だとしたら、今自分に出来る事は・・・

「・・・夕七ツ半・・宝台院」
いつの間にか軒を叩く程に強くなった雨音も耳に届かず、端座した膝の上に置いた両の掌を握りしめ、其処に力を籠めながら、己の身に刻み込むかのように、総司は静かに呟いた。





「山南さん」
談義を云うよりは、一方的に事の始末を押し付けた形で室を後にする芹沢達の後姿を、土方は、冷酷とも思える視線で送り出すや、今度は其れを山南へ移した。
「谷岡と云う人間、あんたとは江戸からの知己だと聞いたが・・」
探る風もなく、さらりと問う調子だったが、声にはこの男特有の、聞く者を落ち着かなくさせる凍てた響きがある。
「違いないが・・。奴とは試衛館に厄介になる以前、お玉が池の道場に通っていた頃の知り合いで、京に上って偶然再会した。それが何か?」
だが土方に応える山南は、穏やかな体(てい)を崩さない。
「今日もあんたを訪ねて来たが、留守だと知って帰ったそうだ」
「それは悪い事をした。今度会った時に詫びておこう」
苦く笑う山南に、しかし向けられた視線は鋭い。
「辻斬りだが・・」
そしてその低い笑いの消えやらぬ内に、再び土方の唇が動いた。
「あんたも知っての通り、斬り口は常に同じ・・・北辰一刀流の流星と云う形だ」
ゆっくりと細められた双眸にある怜悧な色を目の当たりにし、流石に山南の面にも険しさが走った。
だが相手の、その一瞬の変化を待っていたかのように、土方は続ける。
「辻斬りには、恨む相手がいるらしい。そして浪士組の名を騙る事で、その相手を困窮させ、尚且つ同じ形を繰り返す事で、自分の存在を知らしめようとしている。要するに、相手への挑戦だ」
「その恨まれ役と云うのが、私だと?」
先回りした問いは、まだ山南の裡にある余裕だった。
「誰とも云ってはいないさ。が、浪士組も名が売れ出した。各々の過去の厄介ごとは、早々に綺麗にしておいて貰いたい。特にそれが、核と成る人間は、だ」
抑揚のない語り口が、端整すぎる造作と相俟って、更に土方の顔(かんばせ)を冷たいものにする。
「ご忠告、胆に命じておこう」
そしてその不敵な視線を、山南も又、跳ね除けるようにして立ち上がると、静かに踵を返し、二度と振り返らず室を後にした。


「歳っ、云いすぎだ」
それまで無言で両者のやりとりを聞いていた近藤が、山南の姿が視界から消えるや、咎めるように土方を顧みた。
「足りない位さ」
が、それに動ずる風もなく、座していた足を胡坐に組み直しながら嘯く土方の面には、確かに濃い不満の色が残っている。
「だが辻斬りが、まだ山南さんの旧友と決まった訳では無かろう」
「いや、決まりだ」
結論を急ぐ挙句の無礼を責める、近藤らしい実直な意見だったが、しかしいらえは呆気無い程簡単に戻った。
「何故分る」
近藤は山南の人柄を敬愛している。
その山南の知己が、今自分達を窮地に立たせている辻斬りの正体で、更に、もしも山南がこの事実に疑いを持っていながら知らぬ振りを決めているのであれば、それは裏切りに他ならない。
それ故、事の真相を見極めずして是と断言する結論には、流石に問う調子が気色ばむ。
「勘だ」
「・・勘?」
だが詰め寄らんばかりの近藤に返ったのは、又しても唖然とするような応えだった。
「今は勘だが、直ぐに本物になる」
「・・しかし」
勢いを削がれれば、元々朴訥な人間だけに、近藤はそれ以上土方の思索について行けない。
「山南は谷岡と云う奴を疑いつつも、今ひとつ、踏み切れない何かに囚われていた。それは相手に対する、引け目のようなものだろう」
「引け目?山南さんが、その相手に何の引け目があるのだと云うのだ」
「それが分らないから、こうして追い詰めなけりゃならないのさ」
億劫そうに云い捨てた顔には、その口調とは裏腹に、己が振り出した石が、どのように碁盤を染めて行くのか、其れを見据える厳しさがあった。
「しかし追い詰めた処で、山南さん一人で、解決できるのか」
「して貰うさ。何時までも昔の感傷に浸って貰らわれていても困る。そう云う立場に、俺達はなったのさ。もう後には引けない」
「そうか・・」
一呼吸置いた近藤の強い視線が、前に進むが故に切り捨てなければならないものの大きさを改めて推し量るかのように、止まぬ雨に向けられた。

そして土方も又、闇の一点を見据えながら、山南を慮る余り、この一件に尋常で無い反応を見せ始めた総司が、これ以上深く係る事を避けさせる為にも、性急に当人を追い詰めねばならなかった己の事情を思い起し、胸の裡で自嘲した。
自分にとって総司とは、まだ掌中に囲っていなければ、どうにも安堵出来ない存在らしい。
そんならしくも無い己の甘さを、土方は、唇の端に浮かべた苦い笑みで誤魔化した。

「どうした?」
それを目ざとくみつけて、近藤が怪訝に問うた。
「いや」
短いいらえの調子は、それ以上の詮索を拒むものだったが、にも関わらず、まだ不審げに見る近藤の視線を交わし、土方はおもむろに立ち上がった。
「ここ、二、三日の内に、全てが終わるだろう」
だがその顛末がどのような結果を迎えるのか――。
それを見定めるように、端正な横顔が、障子の向こうの坪庭へと視線を移した。





「一さん、いますか」
雨湿りを嫌うのか、きっちりと閉じられた障子の外から、遠慮がちに掛けた声が終わるか終わらぬ内に、室の中で人の動く気配がし、直ぐに紙の帳(とばり)は開けられた。
「どうした?」
己の不審をつい先に言葉にしてしまったのは、蜀台に灯る火の映し出している笑みが、どうにもぎこちないからだった。
「もし知っていたら、教えて欲しい事があったのです」
そんな一の懸念を知ってか知らずか、問う声が小さいのは、中に居る、同室の人間への配慮からなのだろう。
その事を察した一が、後ろ手で障子を閉じた。
「何をだ?」
「一さん、智恵光院通りって知っているかな?」
「智恵光院通り?」
頷いた総司の瞳の中の蝋燭の焔が、微かな戯れの風に揺らめく。
「一さんは、私達が来るよりもずっと前に京に上って松吉さんのお店にいたから、地理には詳しいと思って・・」
真実を偽りにくるもうとする総司の声が、ひたと据えて動かぬ視線に見下ろされ、次第に覚束なくなる。
「智恵光院通りなら・・・。所司代下屋敷の北に、郡山藩の柳沢家の屋敷がある。其処を越えて更に北へと真っ直ぐに延びている通りだ」
「此処からは、そう離れてはいないのかな」
「遠くは無いが、近くも無いだろう」
安堵したように浮かべられた笑みに、一のいらえは慎重だった。
「そこへ、お前、何の用事だ」
「綺麗な干菓子を売っている店があると聞いて・・・それで姉に送ろうと思ったのです」
まるでその問いを予想していたかのように、滑らかについて出るいらえに、しかし一は無言で総司を見詰める。
「・・・一さん、夜番から帰ったばかりなのに、つまらない事で呼び出してしまって、すみませんでした」
やがてその視線から逃れるように、慌てて頭を下げると、総司はまだ沈黙を解かない相手に、薄い背を向けた。


――後ろを向けた身は、もう二度と振り返ろうとはしない。
だが己の胸の裡を、今酷く落ち着かなく騒がせる其れが、一体何処からいずるものなのか・・・
そのわけを求め、一は食い入るように、闇の向うに小さくなる総司の姿を見詰めていた。





きりリクの部屋   潦(六)