潦 -niwatazumi-
(六)




 地を激しく叩き始めた雨風は、堅く閉じた雨戸の隙から忍び込み、手にしている蝋燭の焔を消さんばかりの勢いで横に薙ぐ。
やがて視界に捉えた室から、障子を通してぼんやりと灯が零れているのを目にした途端、総司の身の内に緊張ともともつかぬ硬さが走った。
だがそんな己を鼓舞して、更に先へと進もうとした寸座、思いもかけず内から障子が開き、その驚きに、白い喉が息を止めた。

「来たな」
衒いの無い笑みを浮かべて迎えた主の顔を、虚を突かれて狼狽に揺れる瞳が、返す言葉を見つけられずに凝視する。
「待っていた、お入り」
が、山南はその総司の動揺など歯牙にもかけず、短く告げるや、後はついて来るものと疑わず背を向けた。
それでも総司はまだ動けずにいたが、不審げに振り返った双眸に合うと、ようやっと後押しされるように、重い足を踏み出した。


 とても広いとは云い難い室に招き入れると、山南はその中央に胡座をかき、まだ敷居際に佇んでいる総司を見上げ、座るよう、視線だけで己の前を指した。

「こんな風な事が、前にもあったな」
「こんな風な事・・?」
端坐しながら反復した声が、霞む記憶の中から応えを見つけられない困惑に戸惑う。
「最後の出稽古でお前と二人、小野路村の小島さんの処に泊まった時の事だ」
まだ不可解げな総司の様子を見る山南の口調には、愉快そうな揶揄がある。
「昼間散々姉さんを困らせていた処を俺に見られたお前が、その夜、やはりこうして廊下に突っ立っていた。あの時も此方から声をかけねば、いつまでそうしているつもりだったのか・・」
過ぎた日の情景を、形にして脳裏に思い起こした途端堪えきれなくなったのか、穏やかな語り口が、含み笑いの其れへと変わった。
「困らせていただなんて・・」
からかわれたのだと・・・
漸く知った細い線の面輪が羞恥に染まり、次には少しばかりの不満を湛えた。
だが総司の裡から硬さが解ける、その一瞬を待っていたかのように、山南の双眸がゆっくりと細められた。

「昨日、谷岡が俺を訪ねて来たそうだな。お前が相手をしてくれたのだと、斎藤君が教えてくれた。・・・あいつと何を話した?」
それは――。
些かの構えも無く、そして浮かべた笑みも消さず、穏やかな声音もそのままで、それまでと何ひとつ変らぬ調子で質された問いだった。
が、その寸座、不意をつかれた総司の面輪が強張った。
「隠さなくてもいい。総司は隠れるのも下手だが、嘘をつくのも下手だな」
目の前で、気の毒な程に狼狽している不器用な者に送る眼差しは柔らかい。
「・・・もしや」
しかしふと何かに思いついたように、次を語る山南の声から笑いが引いた。
「希恵殿の最後を聞いたのか?」
「最後・・?」
突然の言葉は、又しても総司にとっては思いがけないもので、呟いた声が、意図を判じ得無い焦燥と訝しさに揺れた。
「聞かなかったのか?」
が、その総司を見、改めて問う口調が、動揺する心を慰撫するように、再び和らいだ。
「谷岡さんからは、希恵さんと仰る方は亡くなられたと、それだけを聞きました」
自分を見つめる山南の心中を、今確かに覆っているのであろう翳りを察しながら、或いはそれが、あの一瞬、谷岡が投げかけた視線の冷たさと繋がるのでは無いのかと・・・
不意に湧いた杞憂が、総司の胸の裡を重くする。
「そうか、聞かなかったのか・・」
頷く総司にいらえが返った時、山南の面には、自嘲ともとれる薄い笑みが浮かんでいた。

 あの時谷岡は、山南が、話さなかったのではなく、話せなかったのだと云う、険のある云いまわしをした。
だからその事は山南にとって、きっと触れられたくは無い過去なのだろう。
だがそれを知らなければ、土方が全てをかけて造り上げようとしている浪士組は、光りを見ること無く終(つい)を迎えてしまう。
山南の傷を抉る結果になると知りながら、それでも問わねばならぬ自分の惨酷さに目を瞑り、淡い色の唇が戦慄くように言葉を紡ぎかけた。
と、その刹那――。

「・・希恵殿が亡くなったのは、京について半年も経たぬ、こんな雨の日の事だったらしい」
問う声よりも一瞬早く語り始めた其れは、静かではあったが、乱暴に雨戸に打ちつける風雨の音にすら、阻む事を許さぬ峻厳さがあった。
「谷岡さんは、明日がご命日だと云っていました」
それを云うか云うまいか暫し迷った後に、やがて山南を真っ直ぐに捉えて告げた声が、総司の心裡そのもののように硬い。
「そう、明日が希恵殿の命日だと、私も聞いた。・・・誰にも祝されず、逃げるようにして二人で江戸を去ったものの、子を宿した身に、長旅と心労は過酷な負担しか与えず、京に着いて間もなく生まれた赤子は、産声も上げる事無く亡くなったそうだ。そしてその哀しさから逃れる為か、希恵殿は塞ぎがちになり、いつしか心までも現を離れるようになってしまった。そんなある日、所用で留守をした谷岡が戻った時、希恵殿は自ら喉を突いて出た血潮の中で倒れていたそうだ。・・・そして死にきれず、苦痛に身悶えていた彼女の息の緒を断ったのは自分の手だったと、谷岡は話した」

――総司に視線を止めていながら、その実、何処か遠い一点を見据えていた山南が、希恵の死に纏わる全てを語り終えた時、それまで驚愕に見開かれていた深い色の瞳が、言葉にすれば苦渋に終始するだけの真実を、今こうして引き摺り出させてしまった事への贖罪に伏せられた。

「谷岡は・・」
だが山南はこの事を切欠として、己の裡を雁字搦めにしていた荊(いばら)の縄手を解き放つかのように、語りを止めない。
「千葉道場に居る時から、流星と云う形を得意としていた・・・いや、奴は昔からそれひとつのみに執着し、拘っていた」
その瞬間、きつく唇を結んだ面輪が上げられた。
「そうだ、辻斬りと同じだ」
真実を突きつける事による総司の衝撃は、既に承知の上だったようで、山南は微かに頷くだけで、その動揺を受け止めた。
「・・・嘗て。希恵殿の心が自分に傾かないのは私の所為だと、あいつに立ち合いを挑まれた事がある」
「そんなっ、・・・それは山南さんの所為じゃない」
「いや、・・あいつは希恵殿の心に添わなかったその事よりも、それに気付きながら、知らぬ振りをし続けた私の傲慢さが許せなかったのだろう。希恵殿を本当に好いていたからこそ、己の想いよりも、相手への憐憫が先立ち、私を憎いと思ったのだろう」
淡々と語る声には、謂れの無い憎悪を押し付けられた事への憤りはない。
そして総司は、その山南を、息ひとつ漏らす微かな音をも忍ぶように、無言で見詰めている。

「確かに、私は傲慢だった。希恵殿の想いに応えるでも無く、かと云って拒むでもなく、自分が矢面に立つ事無く中途半端なまま、全てを相手一人に押しつけて来た。・・・私は、身軽でいたかった。いや、誰かを想い想われると云う、そんな事はただ重く面倒なだけだった」
低くなった声の調子に、総司が伏せかけていた瞳を上げた時、それを待っていたかのように山南の視線が絡んだ。
「・・・谷岡との最後の一本勝負で、やはり奴は流星を使った。そして勝負に敗れた奴が、希恵殿を伴って江戸を出奔したのはその日の内の事だった」
ゆっくりと語りを繋げて行く唇が、更に何を云わんとしているのか――。
その一瞬から逃れたい思いと、だが決して聞き逃してはならない覚悟とで、総司は次の言葉を待つ。
「谷岡が、辻斬りだ。・・奴が挑んでいるのは私だ」
穏やかに声の調子を戻しながら、凝視する瞳に宿る深い哀しみの色をいとおしげに見詰め、そしてそれを労わるように、山南は双眸を細めた。
「辻斬りが谷岡だと、いつしか気付くようになっても、私は奴を問い詰める事を躊躇していた。それは私自身が拭い切れない、奴への引け目だった。だが私は、もう二度と希恵殿の時と同じ蹉跌を踏むことは出来ない。知らぬ振りを続ける身勝手が、いずれ自分自身をも崩壊させる弱さと結び着くのならば、そして私個人への怨恨で浪士組が潰されるその前に、私は谷岡を斬らなければならない」

 静かな、だが厳然とした声が途切れた時、総司の耳に、再び激しく軒を打つ雨風の音が聞こえてきた。





 夜が更けるにつれて酷くなった雨は、翌暁、幾分勢いを劣らせたものの、まだ時折は、驟雨と云って良い程に強い降りとなる。
どうやら風は止んだらしいが、水の礫が強か地を叩く音が、室に籠もる空気までをも重くする。
その中にあって総司は、端座している前に置いた刀に視線を止めたまま、身じろぎしない。

 加州金沢住長兵衛藤原清光。
亡父の唯一の形見であるこの刀は、内弟子として試衛館に上がる時に、姉の光が、弟が元服するその日まで預かって欲しいと、近藤に託したものだった。
そして今まで腰に差しているだけだったこれを、初めて総司は、このものが世に送り出された本来の目的として使おうとしている。

 人を斬ると云う未知が、己の精神にどのような結果を与えようとも、微塵の恐れも無かった。
ただひたすらに土方の邪魔をする者を、許す訳には行かなかった。
そして山南に谷岡を斬らせる事も又、総司にとって、有ってはならない事だった。

希恵の死を、山南は自分の責だと決めつけている。
そして同じ蹉跌は踏めないのだと、その為に谷岡を斬るのだと云った。
だが山南は、嫉妬と云う凶器に痛めつけられた谷岡の本当の傷の深さを、まだ知り得ない。
希恵と云う女性に注いだ谷岡の恋情の業火は、もう山南を憎む事でしか鎮める事ができなかったのだと・・・
其処まで人を想った事の無い山南は、消し去る事の出来ない躊躇いを残したまま、谷岡を斬らざるを得ない。
が、そうなれば、今度こそ山南は、生涯に渡り煩悶の淵でもがき苦しまなければならない。
――谷岡と自分。
ひとりの人間への恋情で、我が身を燃やし尽くしてしまった人の像が、まるで併せ鏡を見るように、総司の脳裏に浮かぶ。
が、そんな感傷を吹っ切るように、総司は目の前に眠る白い刃へと手を伸ばした。
 
掴んだ清光は、いつもよりも重く、そして冷たかった。
だがそれが、不思議と心を落ちつかせる。
その鋼の凶器を、総司は今一度両の手で握り締めると、衣擦れの音ひとつさせず立ち上がった。





 天井に剥き出た太い梁が、雨湿りを吸い、煤けた黒を鈍く光らせる。
その玄関の上がり框まで来て、山南は人の気配に気付き振り向いた。
「出かけるのならば、同道します」
やがて真後ろまで来た影の主は、その様子に遠慮するでも無く、無造作に声を掛けた。
が、いらえも待たずして並び立った強引さは、あまり物事に興を示す事の無いこの若者にしては珍しく、それが山南に不審を抱かせた。
「同道とは?私を監視しておけとでも、土方君に云われたか?」
高い鼻梁が賢智な印象を与える面が苦い笑いを浮かべたが、それに一は是非を返すでも無く、正面から山南を捉えた。
「行かれる先は、知恵光院通りにある場所でしょうか」
「知恵光院通り?」
聞きなれぬ名に、怪訝そうに眉根を寄せた山南だったが、直ぐに何かに思い当ったらしく、鋭い視線を一に向けた。
「その寺の事、誰に聞いた?」
しかし一瞬にして相を変えた山南の様は、今度は一の面に険しい色を走らせた。
「寺かどうかは知りません。ただ知恵光院通りにはどう行くのかと、昨夜総司に聞かれました」
「・・総司に?」

――暫し。
互いの心裡に圧し掛かる憂慮が、降る雨の鬱陶しさと重なり合って、重い沈黙を作り出す。
が、その均衡を破ったのは、つと外に向けた、一の視線の動きだった。
そしてそれと同時に振り返った山南の視界に、足元の泥濘(ぬかるみ)を気にするようにして、此方にやって来る人影が映った。

 
 ゆっくりと歩を進めて玄関際まで来、漸く自分に視線を止めている二人の男達に気付くや、八木源之丞は、人懐こい笑みを浮かべた。
「よう降りますなぁ」
ここ前川家と同様、いずこから来た浪人達に、我が家を乗っ取られた不満もある筈だろうが、それを柔らかな京言葉がくるんで隠す。
尤も八木家は壬生狂言で筆頭宗家を勤める家柄でもあり、この源之丞は学識も深く、何かと話題も通じる事の多い山南とは、直ぐに親しい間柄になっていた。

「山南はんも、斉藤はんも、これからお出かけですやろか?さっき沖田はんもお出かけにならはって・・・この雨の中、みなさん難儀な事ですなぁ」
「総司が?いつ頃の事でしょうか?」
問う山南の声が、心裡そのもののように焦れるのを一は聞き逃さなかったが、それは相手には伝わらないようだった。
それが証しに、源之丞は笑みを消さずに続ける。
「そうですなぁ・・。かれこれ半刻程前の事ですやろか。丁度外から帰ってきた時に、沖田はんが出掛ける処で、其処の角で会いましたのや。その時に、知恵光院通りにある宝台院と云う寺を知らんかと聞かれましたのやけど、幸いな事に、丁度近くに私の親類があって、それでお役に立てましたのや。・・けど雨の中を行く沖田はんの細い背中を見ていたら、なんや無性に心配になりましたわ」
「斉藤君っ」
それが何故だか自分でも分からない心細さだったと、笑いかけたその言葉が終わらぬ内に、怒声ともつかぬ山南の叫びが語りを遮り、源之丞は驚愕に目を見開いた。
「土方君に伝えてくれっ、知恵光院通りにある宝台院に来るようにとっ。総司は其処で独りで辻斬りに挑むつもりだっ」
云うが早いか傘も差さずに飛び出した背が、みるみる視界から小さくなると、源之丞は、今度は慌てて暗い屋内へと視線を移したが、もうその先には一の姿も無い。


 あまりに慌しく目の前で繰り広げられた光景に、暫し呆気にとられて立ち尽くしていた源之丞だったが、やがて不意に胸の裡を暗くした、得も云えぬ不吉な痞えを持て余すかのように、雨を降らせる天を見遣った。










きりリクの部屋   潦(七)終章